626
自由の人間的な側面と権威主義とを分析するとき,われわれは社会過程のうちに,心理的要素がいかに活発に働いているかという,一般的問題を考えないわけにいかなくなる. [ E. フロム「自由からの逃走」 第一章]
627
固定した人間性というものはないとしても,われわれは人間性を無限に可塑的なものと考えたり,みずから動的な心理的運動を発展させることなしに,どのような外的条件にも適応できるものをみたりすることはできない. [E. フロム「自由からの逃走」 第一章]
628
他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感をもとめるか、どちらかだということである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第二章]
629
人間の生物学的弱さが、人間文化の条件である。 [E. フロム「自由からの逃走」第二章]
630
自由な行為としての反逆は理性のはじまりである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第二章]
631
個人に安定感をあたえていた第一次的な絆がひとたび断ちきられるやいなや、そして個人がかれのそとに完全に分離した全体としての世界と直面するやいなや、無力感と孤独感とのたえがたい状態にうちかつために、二つの道がひらかれる。一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事において、かれの感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる。こうしてかれは、独立と個人的自我の統一とをすてることなしに、再び人間と自然とかれ自身と、一つになることができる。かれのためにひらかれているもう一つの道は、かれを後退させ、自由をすてさせる。そして個人的自我と世界とのあいだに生じた分裂を消滅させることによって、かれの孤独感にうちかとうと努力する。この第二の道は、かれを世界と再び結びつけるとしても、個人として解放されるまえに、かれが世界と関係していたようなぐあいにはけっしていかない。なぜなら、分離しているという事実を動かすことはできないからである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
632
マゾヒズム的傾向は、しばしば単純に病的で非合理的だと感じられている。しかしその傾向は合理化されることがいっそう多い。マゾヒズム的な依存は愛とか忠誠とかと思われ、劣等感は実際の欠点の適切な表現と思われ、なやみはすべて変化しない環境のせいだと思われる。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
633
かれ(= サディズム的人間)はあらゆるものをあたえるかもわからない---ただ一つのことをのぞいて,すなわち自由独立の権利をのぞいて.この状態はとくに両親と子どもとの関係にみられる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
634
マゾヒズム的努力のさまざまな形はけっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである、 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
635
マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
636
心理学的には、この二つの傾向(=サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向)は一つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れることである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
637
たしかに人を支配できる力は,純粋に物質的な意味ではよりすぐれた強さである.もし私が人を殺す力をもっているならば,私はかれより「強い」のである.しかし心理学的な意味では,力への欲望は強さにではなく,弱さに根ざしている.それは自我がひとりで生きていくことが不可能であることを示している.それは真実の強さがかけているときに,二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みである. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
638
個人が能力ある程度に応じて、すなわち、自我の自由と統一性との基礎の上でかれの潜在的な能力を実現できる程度に応じて、かれは支配する必要はなくなり、したがって権力のあくなき追求といったことはなくなる。支配という意味における力は能力の逆である、ちょうど性的サディズムが性的愛情の逆であるように。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
639
人間の自然的傾向を克服し,個人の内部の一面,すなわちかれの自然を,他の面,すなわちかれの理性,意志,良心などによって決定的に支配することは,自由の本質であると考えられていた.ところが,よく分析してみると,良心は,外的権威とおなじように冷酷な支配者であること,また人間の良心によってあたえられる秩序の内容は,けっきょく個人的な自我の要求によってよりも,倫理的規範の威厳をよそおった社会的要求によって左右されやすいものであるということが明らかになった. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
640
われわれの観察できるかぎりでは,あらゆる神経症の核心は,人間の正常な成長のばあいと同じように,自由と独立とを求める戦いにある.正常なひとびとの多くは,この戦いを,完全な自己放棄のうちに終わらせる.こうして,かれらはうまく適応し,正常であると認められるようになる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]
641 じっさいどんなものでも、破壊性を糊塗する合理化に役立たなかったものはない。愛、義務、良心、愛国心などが、これまで他人や自己を破壊するためのカムフラージュとして利用されてきたし、現在も利用されている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
642
孤独になった無力な人間は,その感覚的,感情的,また知的なさまざまの能力を十分に実現することができない.かれはこれらの能力を実現するための条件である内的な安定性と自発性とをかいている.この内的な障害は,宗教改革の時代から,中産階級の宗教や道徳のなかに一貫してみられるような,快楽や幸福についての文化的タブーによって増大する. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
643
個人のうちに観られる破壊性の程度は,生命の伸張が押さえつけられる程度に比例するように思われる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
644
破壊性は生きられない生命の爆発である. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
645
中産階級は、その敵意を、主として道徳的公憤によそおって表現していた。それは生活をたのしむ力のある人間にたいする、はげしい羨望を合理化したものだった。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
646
各個人も自分は「自分」であり、かれの思想、感情、願望は「かれのもの」であると真剣に思いこんでいる。たしかにわれわれのあいだには、本当の個人もいるが、しかしたいていのばあい、この信念は一つの幻想である。しかも、この信念は、このような事情の原因である諸条件を撤去することを妨げるものであるから、危険な幻想である。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
647
われわれの思考や感情や意志の内容が外部から導入されたものであり,純粋なものではないという事実は非常に顕著であって,純粋な固有の精神的行為が例外で,にせの'行為が原則であると思われるほどである. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
648
思考についてと同じく、感情についても、自分自身のうちに発する純粋な感情と、自分ではそう思いこんでいても、じっさいには自分のものではないにせの感情とを区別しなければならない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
649
多くのひとびとは、なにかをするときに、外的な力によって明らかに強制せれないかぎり、かれらの決断は自分自身の決断であり、なにかを求めるとき、求めるのは自分であると確信している。しかしこれは、われわれ自分自身についてもっているひとつの大きな幻想である。われわれの決断の大部分は、じっさいには、われわれ自身のものではなく、外部からわれわれに示唆されるものである。決断を下したのは自分であると信ずることはできても、じっさいには孤独の恐ろしさや、われわれの生命、自由、安楽にたいする、より直接的な脅威にかりたてられて、他人の期待に歩調を合わせているにすぎない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
650
「独創的な」決断は、個人的な決断を土台としているように思われている社会では、比較的にかえってまれであるように思われる。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
651
自己の喪失とにせの自己の代置は,個人を激しい不安の状態になげこむ.かれは本質的には,他人の期待の反映であり,ある程度自己の同一性を失っているので,かれには懐疑がつきまとう.このような同一性の喪失から生まれてくる恐怖を克服するために,かれは順応することを強いられ,他人によってたえず認められ,承認されることによって,自己の同一性を求めようとする.かれはかれがなにものであるかを知らないが,もしかれが他人の期待通りに行動すれば,すくなくとも他人はそれを知ることになろう.そしてもし他人が知っているならば,かれらの言葉をかりるならば,かれも知っていることに成るであろう. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章 2]
652
われわれの意見では、政治的経済的要因を強調するあまり、心理的要因を排除してしまうような説明も---あるいはその逆も---いずれも正しくない。ナチズムは心理的な問題ではあるが、心理的要因それ自身は社会的経済的要因によって形成されたものと理解されなければならない。またナチズムは経済的政治的問題であるが、それがすべてのひとびとをとらえたことは、心理的地盤において理解されなければならない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第六章]
653
ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は,心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる.そしてこの状態は,次の章で指摘されるように,現代における個人の特徴であり,それは民主的な国々においてさえも例外はない. [E. フロム「自由からの逃走」 第六章]
654
思想を表現する権利は、われわれが自分の思想を持つことができるばあいにおいてだけ意味がある。外的権威からの自由は,われわれが自分の個性を確立することが内的な心理的条件があってはじめて,恒久的成果となる. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1] (旧1213)
655
われわれの社会においては、感情は一般に元気を失っている。どのような創造的思考も---他のどのような創造的活動と同じように--- 感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的な」とは、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。この基準を受け入れたため、個人は非常に弱くなった。かれの思考は貧困になり平板になった。他方感情は完全に抹殺することはできないので、パースナリティの知的な側面からまったく離れて存在しなければならなくなった。その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような安直でうわっつらな感傷性におちいっている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
656
われわれの現代は単純に死を否定し、そのことによって、生の根本的な一つの面を否定している。死や苦悩の自覚が、生へのもっとも強力な刺激の一つとなり、人類の連帯性の基礎となり、また歓喜や熱情がはげしさや深さをもつためにかくことのできない経験となることを認めるかわりに、個人はそれを抑圧することを強いられている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
657
私はこんにち用いられている教育方法で、じっさいには独創的な思考を妨害しているいくつかのものを簡単にあげてみよう。その一つは、事実についての知識の強調、あるいはむしろ情報の強調というべきものである。より多くの事実を知れば知るほど、真実の知識に到達するという悲しむべき迷信がひろがっている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
658
個人の最大の強さは、かれのパースナリティの一貫性の最大量にもとづくものであるが、それは自分自身にたいする理解の最大量にもとづいているということである。「汝みずからを知れ」ということばは、人間の強さと幸福をめざす根本的命令の一つである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
659
個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について、また心理的、経済的、政治的、道徳的な問題について、巨大なわれわれの文化は一つの特徴をもっている---すなわち問題をぼかすことである。その煙幕の一つに、問題があまりに複雑で普通の個人には把握できないという主張がある。事実はその反対に個人生活、社会生活の根本問題は、たいてい非常に単純であり、だれもがそれを理解することを期待できるように思われる。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
670
大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の追求している目標が、かれら自身の欲しているものであるかどうかということを考えない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
671
はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
672
近代史が経過するうちに、社会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明からさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
673
かれ(=近代人)は個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。すなわちかれは他人とは「ことなろう」と願う。また「ことなっている」ものほど、かれがほめたたえるものはない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
675
もしわれわれがいわゆる「正常な」人間の経済的要求だけをみるならば,またもし一般に自動人形化した人間の無意識的な苦悩をみおとすならば,われわれはわれわれの文化をその人間的基盤からおびやかしている危険をみぬくことに失敗するであろう.すなわち,もし興奮を約束し,個人の生活に意味と秩序をと確実に与えると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば,どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受け入れようとする危険である. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 1]
676
自発的活動は,人間が自我の統一を犠牲にすることなしに,孤独を克服する一つの道である.というのは,ひとは自我の自発的な実現において,かれ自身を新しく外界に---人間,自然,自分自身に---結びつけるから.愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである.しかしその愛とは,自我を相手のうちに解消するものでもなく,相手を所有してしまうことでもなく,相手を自発的に肯定し,個人的自我の確保のうえに足って,個人を他者と結びつけるような愛である.愛のダイナミックな性質は正にこの両極性のうちにある.すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ,合一を導き---しかも個性は排除されないのである.仕事もいま一つの構成要素である.しかしその仕事とは,孤独と逃れるための強迫的な活動としての仕事ではなく,また自然との関係において,一方では自然の支配であり,一方では人間の手でつくり出したものにたいする崇拝や隷属であったりするような仕事でもなく.創造的行為において,人間が自然と一つとなるような,創造としての仕事である. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
677
自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾していない.人間は生まれつき平等であるという命題の意味は,人間はすべて同じ根本的な人間性をあたえられ,人間的存在の根本的運命を分有し,すべて同じように,自由と幸福を求める譲渡すべからざる要求をもっているということである.さらに,人間の関係は連帯性の関係であって,支配-服従の関係ではないことを意味する.平等の概念はすべての人間が類似しているということを意味しない. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
678
人間は自分自身よりも高いいかなるものにも従属してはならないということは,理想の尊厳を否定しはしない.反対に,それは理想をもっとも強く肯定することである. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
679
われわれはどの食糧が衛生的でどれがそうでないか,必ずしも知っていない.しかもなおわれわれは,毒を識別する方法はなにもないとは結論しない.同じように,もしのぞむならば,精神生活にとってなにが有害であるかを知ることができる. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
680
今日の文化的政治的危機は個人主義が多すぎるということではなく,個人主義が空虚な殻になってしまったということに原因がある. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
681
集中と分散との結合というこの問題を解決することが、社会の主要な仕事のひとつである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
682
デモクラシーは,人間精神のなしうる,一つの最強の信念,生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を,ひとびとにしみこませることができるときのみ,ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろう. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章 2]
683
私有財産制は、少なくとも堕落した世界では必要な制度である。物品が共有であるときよりも、私有であるときのほうが、人間はより多く働き、争うこともよりすくない。しかしそれは人間の弱さを認めるものとして許されるべきもので、けっしてそれ自身、望ましいものとして賞賛さるべきものではない。もし人間の性質が高められるものであれば、共産主義者社会こそ理想のものである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章 1]
684
普通指導者の性格構造は、かれの主張を受けいれるひとびとの特殊な性格構造を、より端的にはっきりとあらわしていることが多い。指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきりと率直にのべているのである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章 1] (旧1233)
685
人間は、たとえ主観的には誠実であっても、無意識的には、かれが信じているのとはちがった動機で動かされていることが多い。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章 1]
686
愛は、もともとある特定な対象によって「惹きおこされる」ものではない。それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを、現実化するにすぎない。憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章 1]
687
利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第四章]
698
もし生計を立てるために,自分の知識と能力にたよるだけで充分であるのならば,その人の自己尊重は自分の能力に相応のもの,即ち自己の使用価値に応じたものとなろう.しかしながら,成功は人が如何にうまく自己のパースナリティを売りつけるかによるところが大きいのであるから,人は自己を商品として,或いはむしろ,売り手であると同時に売るべき商品として体験する.人はその生活と幸福には関心を持たず,売りものとなることに関心を持つのである. [ E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
699
小学校から大学院に至る迄の学習の目標は,主として市場の目的にとって役立つ知識を,できるだけかき集めることにある.学生達は余り多くのことを学ばなければならないので,考えるための時間とエネルギーは殆ど残らない. [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
700
人はだれでも愛する能力をもっているが,その実現はもっとも困難な仕事の一つである. [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
701
いくつかの基本的要素が、あらゆる形の生産的愛の特徴としてあげられるだろう。それは注意、責任、尊厳および知識である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
certain basic elements may be said to be characteristic of all forms of productive love. These are {¥em care, responsibility, respect}, and {¥em knowledge}. p98 [E. Fromm, Man for himself --- an enquiry into the psychology of ethics---(Routledge & Kagan Paul Ltd. 1950).]
702
人は労するものに対して愛をもち、愛する者のために労するのである。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
One loves that for which one labors, and one labors for that which one loves. p99
703
責任とは外から課せられる義務なのではなく、私が当為を感ずる私自身の関心事に対する、私の反応である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
Responsibility is not a duty imposed upon one from the outside, but is my response to a request which I feel to be my concern. p99
704
人間に対する愛は個人に対する愛と切り離すことができない.一人の人を生産的に愛することは,その人の人間的核心に即ち人類の代表としてのその人に関心をもつことである. [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
705
あらゆる人間が助けを必要とし,互いに頼りあっている.人間の団結ということは,夫々の個人が自己を展開するための必要条件なのである.注意と責任とは愛の構成要素であるが,愛する人に対する尊敬と,愛する人についての知識とがなかったならば,愛は支配と所有へ転落する. [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
706
客観的であることは、観察の対象となる事物を尊重する時にはじめて可能なのである。このような尊重は、愛に関して述べた尊厳と本質的に異なるものではない。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
To be objective is possible only if we respect the things we observe; that is, if we ca capable of seeing them in their uniqueness and their interconnectedness. This respect is not essentially different from the respect we discussed in connection with love; inasmuch as I want to understand something I must be able to see it as it exists according to its own nature; while this is true with regard to all objects of thought, it constitutes a special problem for the study of human nature. p104
707
客観性は超然性を意味せず、尊重を意味するのである。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
{¥em Objectivity does not mean detachment, it means respect;p105
708
強迫的な活動は怠惰の反対ではなく、その補足語なのである。その二つのものに対立するのは生産性である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章 2]
Compulsive activity is not the opposite of laziness but its complement; the opposite of both is productiveness. p106-7
709
他者への愛と自分自身に対する愛とは二者択一的なものではなく、逆に凡て他者を愛することのできる人達の中には、自分自身を愛するという態度が見られるだろう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 1]
Love of others and love of ourselves are not alternatives. On the contrary, an attitude to love toward themselves will be found in all those who are capable to loving others. p129
710
もし彼が,他人だけしか愛し得ないとすれば,彼は全く愛することのできぬ人である. [E. フロム「人間における自由」 第四章 1]
711
利己的な人は,他者を愛することができない,というのは事実であるが,しかし同時に彼は自分自身をも愛することができないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章 1]
712
現代文化の欠陥は、その個人主義の原理や、道徳的善は自己関心の追究なりとする考えにあるのではなく、その自らの利益の誤った解釈にあるのであり、人々が各々の自己関心に心を奪われすぎているという事実にあるのではなく、逆に人々が各々の真の自己の関心に十分心をくばらないという事実にあるのであり、また人があまりに利己的であるということにではなく、人が自らを真に愛してはいないということにあるのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 1]
The failure of modern culture lies not in its principle of individualism, not in the idea that moral virtue is the same as the pursuit of self-interest, but in the deterioration of the meaning of self-interest; not in the fact that people are {¥em too much concerned with their self-interest}, but that they are {¥em not concerned enough with the interest of their real self; not in the fact that they are too selfish, but that they do not love themselves. p139
714
彼(=近代人)は自分が自分の利益のために行動していると信じているが、実際には金とか成功とかが、彼の最大の関心事なのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 1]
He (modern man) believes that he is acting in behalf of his interest when actually his paramount concern is money and success. p135
715
人が恐れるような権威の存在は,絶えずこの内面化された権威,即ち良心を絶えず育んでゆく源泉である.もし権威が実際に存在しなかったならば,即ち,もし人が権威者を恐れる理由がなければ,権威主義的良心は弱まり威力を失うであろう. [E. フロム「人間における自由」 第四章 2A]
716
疚しくない心とは(外部の並びに内面化された)権威を喜ばせているという意識であり、疚しい心とはそれを喜ばせていないという意識である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2A]
Good conscience is consciousness of pleasing the (external and internalized) authority; guilty conscience is the consciousness of displeasing it. p146
717
子供の意志を弱くする一番有効な方法は、その罪意識を喚び起こすことである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2A]
The most effective method for weakening the child's will is to arouse his sense of guilt. p155
718
もし人が権威主義の網を破り抜けることに成功しなければ、逃走しようとする空しい努力は罪を深めるだけのことで、疚しくない心は新たな服従によってしか、恢復されないのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2A]
If one has not succeeded in breaking out of the authoritarian net, the unsuccessful attempt to escape is proof of guilt, and only by renewed submission can the good conscience be regained. p158
719
人道主義的良心は、われわれがそれを喜ばせようと熱中したり、それを喜ばせぬことを恐れたりするようなひとつの権威の、内面化された声といったものではない。それはわれわれ自身の声であり、凡ての人間のうちに存在するものであり、外部からの制裁や報償から独立したものである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
Humanistic conscience is not the jnternalized voice of an authority whom we are eager to please and afraid of displeasing; it is our own voice, present in every human being and independent of external sanctions and rewards. p158
720
もし愛が、その愛する人のうちにあるもろもろの可能性を肯定し、そしてその人の独自性を配慮し尊敬すること、と定義され得るならば、人道主義的良心とはまさしく、われわれ自身に対するわれわれの愛に満ちた配慮の声であるということができよう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
If love can be defined as the affirmation of the potentialities and the care for, and the respect of, the uniqueness of the loved person, humanistic conscience can be justly called the voice of our living care for ourselves. p159
721
われわれの良心の声を聴くためには、われわれはわれわれ自身に耳を傾けることができなくてはならないが、このことこそ正に、現代文化における大部分の人にとって為し難いことなのである。われわれは凡ゆる人に耳を傾けるが、ただわれわれ自身にはそうしないのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
However, learning to understand the communications of one's conscience is exceedingly difficult, mainly for two reasons. In order to listen to the voice of our conscience, we must be able to listen to ourselves, and this is exactly what most people in our culture have difficulties in doing. We listen to every voice and to everybody but not to ourselves. p161
722
自分自身に耳を傾けることがそれ程難しいという理由は、このことが現代人に殆どないもう一つの能力、即ち自分独りでいるという能力、を必要とするからである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
Listening to ourselves is so difficult because this art requires another ability, rare in modern man: that of being alone with oneself. p161
723
老年期においてパースナリティが衰退するということは、一つの病的兆候である。それは生産的に生きてこなかった証拠である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
The decay of the personality in old age is a symptom: it is the proof of the failure of having lived productively. p163
724
人間は生来仲間に受け入れられることを欲するものである。しかし、近代人は凡ての人に受け入れられることを欲するので、思考や感情や行為において文化様式から離れることを恐れるのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
man naturally wants to be accepted by his fellows; but modern man wants to be accepted by everybody and therefore is afraid to deviate, in thinking, feeling, and acting, from the cultural pattern. p164
725
ねむりとは、人がその良心の声を沈黙せしめることのできない唯一の場合である、といい得よう。然しその悲劇は、われわれが自らの良心の声を聴く時には眠っていて行為することができず、われわれが行為することができる時には夢の中で知ったことを忘れている、ということに存する。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
Sleep is often the only occasion in which man cannot silence his conscience; but the tragedy of it is that when we do hear our conscience speak in sleep we cannot act, and that, when able to act, we forget what we knew in our dream.. p164
726
人間を超越した権力は人間に対して、決して道徳的な要求をなすことはできない。人が自分の生命を得るか失うかは、その人自身の責任である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 2B]
No power transcending man can make a moral claim upon him. Man is responsible to himself for gaining or losing his life. p170
727
権威主義的倫理は単純だという強みを持っている。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
Authoritarian ethics has the advantage of simplicity. p172
728
不合理な欲望はあくことをしらない. [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
729
実に貪欲は、しばしば臆断されているような、人間のもっている動物性に由来するものではなく、人間の精神又は想像に由来する。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
Greed, indeed, is not, as is so often assumed, rooted in man's animal nature but in his mind and imagination. p186
730
現代生活のもっとも著しい心理学的様相の一つは目的のための手段である諸活動がますます目的の一を奪ってゆくに反し,目的自体は影のように,また架空の存在になってゆくという事実である. [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
731
われわれは,人類が未だかって持ったことの無いような,すばらしい道具や手段を持っているのであるが,「それらは何のためにあるのか」ということを,止まって反省しようとはしないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
732
教育とは小児が自分の持っている可能性を実現する手助けをすることである.教育の反対が操縦であって,それは様々の可能性の成長を信じないことから来るのであり$¥cdots$ [E. フロム「人間における自由」 第四章 3A]
733
不合理な信仰が,一人の権力者とか或いは大多数のものとかが,そういう,との理由だけで,あるものを真理として受け入れるということであるのに対し,合理的信仰は,自分自身の生産的な観察と思考とに基く,独立した確信から発するものである. [E. フロム「人間における自由」 第四章 4]
734
多くの人達にとって,権力はあらゆるものの中で,最も現実的なものであるように見えるのだが,人間の歴史は,それが人間のなし遂げたあらゆるものの中で最も不安定なものであることを証明している. [E. フロム「人間における自由」 第四章 4]
735
合理的信仰は,われわれ自身の生産的な体験に基くものである故に,何ものも人間の体験を越えるものは,決してその対象とはならないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章 4]
736
自由や民主主義の理念も、それが個人の生産的体験に基かずに、このような理念を信ずることを強いるいろいろな団体や国家などによって提出されたものであるときには、必ず不合理的信仰に堕落していくのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 4]
The idea of freedom or democracy deteriorate into nothing but irrational faith one they are not based upon the productive experience of each individual but are presented to him by parties or states which force him to believe in these ideas. p210
737
生か死かの選択は実に倫理における根本的な択一である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 5]
The choice of life and death is indeed the basic alternative of ethics. p214
738
近代社会においては勤勉が最高の徳の地位に迄高められたのであるが、それは近代の産業組織が、その最も重要な生産力の一つとしての労働を強いることを必要としたからである。一つの特殊社会の運用にとって最も役立つものは、その社会の倫理組織の中に組み入れられるようになる。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 6]
In modern society, industry has been elevated to the position of one of the highest virtues because the modern industrial system needed the drive to work as one of its most important productive forces. The qualities which rank highly in the operation of a particular society become part of its ethical systems. p214
739
倫理思想家の任務は、人間の良心の声を支持し、強め、そして発展の特殊な時期にある社会にとって善であるか、悪であるかということには無関係に、人間にとって善であるもの、或は悪であるものを認識することに存する。彼は「荒野に呼ばわる」者の一人であろうが、しかしもしこの呼び声が生きて存続し、そして一歩も譲らぬならば、ただその時のみ荒野は沃土に変ずるであろう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章 6]
It is the obligation of the students of the science of man not to seek for ` harmonious' solutions, glossing over this contradictions, but to see it sharply. It is the task of the ethical thinker to sustain and strengthen the voice of human conscience, to recognize what is good or what is bad for man, regardless of whether it is good or bat for society at a special period of its evolution. He may be the one whose ``crieth in the wilderness,'' but only if this voice remains alive and uncompromising will the wilderness change into fertile land. p244
740
人道主義的倫理は、もし人が生きているのならばその人は何が許されているかを知っているという立場をとる。 [E. フロム「人間における自由」 第5章 ]
humanistic ethics takes the position that {¥em if man is alive he knows what is allowed};
741
現代は過渡期である。中世期は15世紀に終わっているのではない。また近代がその後直ちに始まったのでもない。終わりと初めとが400年以上も続いた過程を含んでいる---人間の寿命で計らずに、歴史という場面で計ればそれは全く一時に過ぎない。現代は終わりであると共に可能性を孕んだ初めである。 [E. フロム「人間における自由」 第5章 ]
Our period is a period of transition. The Middle Ages did not end in the fifteenth century, and the modern era did not begin immediately afterward. End and beginning imply a process which has lasted over four hundred years--- a very short time indeed if we measure it in historical terms and not in terms of our life span. Our period is an end and a beginning pregnant with possibilities. p290
761
外的世界と自分自身を区別しえてはじめて、つまり、外的世界が対象となってはじめて、わたしはそれを把握しうるし自分の世界としてふたたびこれとひとつになりうるのである。 [ E. フロム「疑惑と行動」 6病める個人と病める社会]
762
自己の思考と選択の自由を、かくも誇っている人間は、事実は、上や背後から糸によってあやつられているあやつり人形に過ぎないのであって、自由の意識ではわからない力によって動かされているのである。自分の自由意志にしたがって行動しているのだという幻想を持つために、人間は合理化を発明した。それによって人間は、自分は合理的道徳的理由によって選択し、その義務を果たしているのだと錯覚しているのである。 [E. フロム「疑惑と行動」 9社会的無意識]
763
わたしは信ずる --- 人間の基本的二者択一は生と死の問題にほかならない。すべての行為はこの選択を意味している。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
764
人間の使命とは,自由を拡大し,死へと導かれる条件に対抗して,生に向かう条件を強化することである.ここでいう,生と死とは,生物学的なものではなく,存在し世界にかかわりあうその情況である.生とは,つねに変化しつねに新しく生まれることを意味し,死とは,成長の途絶,化石化,反復を意味する.だが,大多数のひとびとの不幸は,選択を行わないことにある.彼らは生きていないし死んでもいない.生は重荷となり.無意味なものとなり,多忙さがこのようなあいまいな状態にあるために生じる責苦から,そのひとを守る手段となる. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
765
わたしは信ずる --- 人生も歴史も個人の人生に意味をあたえ,その苦悩を正当化するような究極的な意味を持っていない.人間存在につきまとう矛盾と弱さを考えると,ひとが《絶対的》なものをもとめるのはしごくもっともだとおもえる.なぜなら,それが人間に確実さという幻想をあたえ,葛藤や疑惑や責任から,そのひとをときはなつからである.しかし,いかなる神学的,哲学的,史学的衣裳をまとったどのような神も,人間を救ったり,裁いたりすることはできない.ただ人間のみが人生の目的をみだし,この目標を実現するための方法をみだしうるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
766
わたしは信ずる --- われわれは同胞のために決断してやっても、そのひとを救うことはできない。ひとが他者のためにおこないうることは、真実と愛情をもって、しかも感傷や幻想におちいらずに、二者択一を彼の前に示してやることのみである。真の二者択一に直面すれば,そのひとの隠れたエネルギーのすべてが目覚め,そのひとは死に抗して生を選びうるようになる.しかし,もし,その人が生を選びえないときに,他者がそのひとに生のいぶきをあたえようとしても,それは不可能である. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
767
私は信ずる --- 善を選びこれに達するためには,二つの方法がある.第一の方法は,道徳的戒律を重んじ,それにしたがうことである. この道は効果的かもしれないが,しかし,数千年の歴史を通じて十戒の要請を守りえたのはほんの少数のひとびとであったことを考慮する必要がある.つまり権威あるひとびとによる命令として戒律がしめされたとき,むしろ多くのひとびとは罪に走ってしまったのであった.第二の道は善や正義をおこなうときに感じる充実感に目覚めることである.この充実感は,功利主義者や,フロイト派のいう意味での快楽ではない.それは生の高揚感であって,そこで自分の力と自己の存在が再認識されるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
768
私は信ずる --- 人間性はすべてのひとにあらわれている.われわれは,知能,健康,才能などの面では異なっているが,それにもかかわらずひとつなのである.われわれがすべて聖者であり,座人であり,成人であり,幼児でもあるが,しかし,なんぴとも他者の長上でも,審判者でもありえない.われわれはすべて仏陀とともに覚醒したのであり,キリストとともに十字架の責苦を受けたのであり,ジンギスカンやスターリンや,ヒットラーとともに殺戮し,略奪したのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
769
わたしは信ずる---人間の成長とはつねに誕生しつづけ、つねに覚醒することである。ふつう、われわれは半眠状態にあって、自分の仕事をなしうる程度に目覚めているだけである。つまり、生命的存在にとって唯一の務めとして、生きぬくために十分なほど覚醒しているわけではない。人類の偉大な哲学者とは、なかば惰眠をむさぼっていた人間を、目覚めさせたひとびとであった。そして、人間性に対する大いなる敵とは、人間性を眠らしめたひとびとなのであって、その眠りが神の礼拝のためであったか、金力の崇拝のためであったかは問題ではない。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
770
わたしは信ずる---われわれを自己破壊から救いうる可能性のある唯一の力は、理性である。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
771
わたしは信ずる---真実を認識することは本来、知能の問題なのではなく、人物の問題である。そのもっとも重大な要素は「否」といいうる勇気である。つまり、権力の命令や大衆の意見に服従せず、眠ることをやめて人間となり、覚醒によって絶望感と空虚感を捨てることなのである。イブとプロメテウスは人類を自由にするという「罪」をおかした二人の偉大な反逆者であった.しかも意味深い「否」をいいうる能力は,同時に意味深い「諾」をいいうる能力でもある.神に対する「諾」は,カイザルに対する「否」であり,人間に対する「諾」は,人間を奴隷化し,搾取し,打ちのめす者に対する「否」あおである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
772
二者択一は「資本主義」と「共産主義」の間にあるのではなく、「官僚主義」と「ヒューマニズム」の間にある。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
773
わたしは信ずる --- 個人的、社会的生活にあるもっとも悲惨な誤りのひとつは、常套的な二者択一にとらわれて考えることである。「赤より死を」、「疎外的工業文明か、個人主義的前工業的社会か」、「再軍備か無力か」というような例がこの二者択一を示している。きまり文句の致命的束縛から自由になり、人間性と理性の声に耳をかたむけさえすれば、つねに他の新しい可能性の存在することが明らかになる。「必要悪」の原理は絶望の原理である。多くの場合、それは、もっと大きな悪が勝利をしめるまでの期間を引き延ばすに過ぎない。正当で人道的なことを敢えて行う勇気を持ち、人間性と心理の声の力を信ずることが、いわゆる機会主義的な現実主義よりも、もっと現実的なのである。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
774
わたしは信ずる --- 人間は自己を奴隷化し麻痺させるような幻想を乗り越えねばならない.つまり,幻想を必要としない世界をつくり出すために,自己内外の現実に目覚めねばならない,幻想の連鎖が破られたとき,はじめて自由と独立がえられるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]
790
私が「正統フロイト派」でないことは確かである。事実60年間に変わらないいかなる理論も、まさにこの事実によって、もはやその創始者のオリジナルな理論と同じものではない。すなわち、それは古びた繰返しであり、繰返しであることによって実際には変形しているのである。 [ フロム「悪について」 はしがき ]
I am certainly not an ``orthodox Freudian.'' In fact any theory which does not change within sixty years is, by this very fact, no longer the same as the original theory of the master; it is a fossilized repetition, and by being a repetition it is actually a deformation. [E. Fromm, The heart of man --- Its genius for good and evil---(Harper ¥& Row, Publ., New York 1964) p14]
818
復讐の動因は,集団または個人の持つその強さと生産性とに反比例する. [E.¥ フロム「悪について」 2 p24]
819
要するに生に対する愛好は、品位ある生活の基本的な物質条件が脅かされないという意味の《保障》と、誰ひとりとして他人の目的を果たす手段とはなりえないという意味の《正義》と、人はそれぞれ積極的に社会の責任ある一員となる可能性をもつという意味の《自由》とが存在する社会で最も発達するのである。 [E. フロム「悪について」 3 p60]
Summing up, love for life will develop mot in a society where there is security in the sense that the basic material conditions for a dignified life are not threatened, {¥em justice in the sense that nobody can be an end for the purpose of another, and {¥em freedom in the sense that each man has the possibility to be an active and responsible member of society. p52-3
820
自己のナルチシズムを克服することは人間の目的である。 [E. フロム「悪について」 4 p113]
It is the goal of man to overcome one's narcissism. p88
823
かれは禁煙を「決心した」が、翌日は実に気分が爽快だが、翌々日は気分がひじょうに悪く、三日目には「非社交的」と思われたくないと考え、その次の日にはタバコ白書の真偽を疑い、そしてやめる「決心」はしていたのに喫煙をつづけてしまう。この種の決定は思いつき、計画、幻想以外の何ものでもない。すなわち真の選択がなされるまでは、ほとんどあるいは全く真実であるとはいえない---決定を必要とするのはいつも具体的な行為である。
---喫煙の娯みを失うより二十年寿命が短くなってもよいと信じる場合、一見選択に関する問題はないようにみえる。しかしそれは隠蔽されているにすぎない。かれの意識にのぼる考えは、たとえそれを試みても勝ち味はないという感じを合理化しているにすぎない。---選択の問題は理性の支持をうける行為と、非合理的な熱情にうごかされる行為のいずれかを選択するという問題である。---自由とは非合理的な熱情の内なる声に反抗して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力にほかならない。 [E. フロム「悪について」 6 p177-8]
He has ``decided'' to stop smoking, yet the next day he feels in too good a mood, the day after in too bad a mood, the third day he does not want to appear ``asocial,'' the following day he doubts that the health reports are correct, and so he continues smoking, although he had ``decided'' to stop. All these decisions are nothing but ideas, plans, fantasies; they have little or no reality until the real choice is made. ... It is always the concrete act which requires a decision.
... It is the choice between an action which is dictated by reason as against an action which is dictated by irrational passion. Freedom is nothing other than the capacity to follow the voice of reason, of health, of well being, of conscience, against the voices of irrational passion. p130-1
824
悪しきことを捨て良きことを選択する決定的要因は《意識する》にある。すなわち
(1)善ないしは悪を構成するものを意識すること、
(2)具体的状況において、いずれの行動が望む目的に達するにふさわしい手段であるかを意識し
(3)外面に表出した願望の背後に存在する力を意識すること、(すなわち無意識の欲望を発見すること)
(4)いずれを選択できるかの現実的可能性を意識すること、
(5)選択の結果を意識すること、
(6)自分の熱情に逆行する行為から必然的に生ずる欲求不満の苦痛に絶える準備をともなわなければ意味のないということを意識すること、
(7)無意識的な力をかくす合理化を自覚する必要がある、
もう一つ重要な意識が必要である。それは
(8)真の選択がいつ行われるかを識り、択一しうる真の可能性は何かを意識することである。 [E. フロム「悪について」 6 p179-81]
the decisive factor in choosing the better rather than the worse lies in {¥em awareness}. (1) awareness of what constitutes good or evil; (2) which action in the concrete situation is an appropriate means to the desired end. (3) awareness of the force behind the apparent wish; that means the discovery of {¥em unconscious desires; (4) awareness of the real possibilities between which one can choose; (5) awareness of the consequences of the one choice as against the other; (6) awareness of the fact that awareness as such is not effective unless it is accompanied by the {¥em will to act, but the readiness to suffer the pain of frustration that necessarily results from an action contrary to one's passion. p132-3
825
「自由」という事実があるわけではない。選択が行われる過程において、自己を自由にするという行為が存在するだけである。 [E. フロム「悪について」 6 p184]
Freedom is not a constant attribute which we either ``have'' or ``have not.'' In fact, there is no such thing as ``freedom'' expect as a word and an abstract concept. There is only on reality: the {¥em act of freeing ourselves in the process of making choices. p136
826
われわれは,不屈の精神と意識性とを持ちうれば,選択のための択一を所有する.自由の獲得は困難である,多くの人間が失敗するのはそのためである. [E. フロム「悪について」 6 p197]
827
もし人が生に無関心になれば、その人は善を選択しうる希望はもはやないのである。 [E. フロム「悪について」 6 p205]
If man becomes indifferent to life there is no longer any hope that he can choose the good. p150
828
伝統的な思考の価値を軽んじる若い世代のために、私は最もラディカルな発展でさえ、過去との連続を持たなければならないし、人間精神の最高の達成を捨て去ることによって進歩することはできない---そして若いだけがすべてではない!---という私の所信を強調しておこう。 [E. フロム「希望の革命」 はしがき p8]
843
受動的に待つことが絶望と無力の偽装である一方、これと正反対の偽装---スローガン作りや冒険主義、現実の無視、通すことのできないことを無理に押し通そうとするやり方---をする別な形の絶望がある。 [ E. フロム「希望の革命」 第2章 p22]
844
弱い希望しかもたない人の落ちつくところは太平楽が暴力である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p24]
845
それ(=信念)はまだ証明されてないことを信じることであり、真の可能性を知ることであり、はらまれているものに気づくことである。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p29]
846
信念は希望と同じように、未来の予言ではなく、未来をはらむ現在の洞察である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p29]
847
不屈の精神とは世間が《イエス》という答えを望んでいる時に《ノー》と言う能力である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p32]
848
あらゆる瞬間がより良い、あるいはより悪い方向へ向かう決定的瞬間である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p34]
849
もし人が希望の挫折を経験しなかったら,どうして彼の希望が強固な抑えることのできないものとなりえよう. [E. フロム「希望の革命」 第2章 p39]
850
論理的思考は、それが単に論理的であるにとどまるなら、合理的とは言えない。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p68]
851
理性の源泉は、合理的な思考と感情の融合である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章 p68]
852
人間がその歴史において自分の中に生み出したあらゆる感情のうち,ひたすら人間的であるという性質の純度において,思いやりにまさるものはおそらくないだろう。 [E. フロム「希望の革命」 第4章 p122]
855
夢が現代文明の審判の中で辿った道はいっそう悪かった.まるっきり意味のないもので,大人が注意するに値しないものと考えられた.そしてその大人たちは,機械建造などという重要なことに忙しく,自分たちが征服したり操縦したりすることのできる事柄の現実性だけしか見なかったために,「現実的」と自ら称したのである.彼らは,自動車の型を呼ぶ言葉は一つ一つもってはいるが,最も多種多様な感情経験を表現するには,ただ「愛」という一語しか知らないリアリストだったのだ. [ E. フロム「夢の精神分析 」 序論p14]
856
夢も神話もともに、われわれ自身からわれわれ自身に送る重要な通信である。そこに書かれていることばを理解しないならば、われわれが外界を操ることに忙殺されていない時に知っており、かつ自分自身に語っている多くのことを見逃すことになるのである。 [E. フロム「夢の精神分析」 序論 p16]