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冒涜行為
微積分抜きに古典力学を教えることは人間文化に対する冒涜である.
通念ではもちろんこうはまったく思われていない.なぜか? 力学は初等的に教えられるが,微積分は高級であり難しいと思われているからであろう.これは二重三重に誤解が重なっているように見える.力学はそんなに易しいか?微積分はそんなに難しいか.「教育」に重点を置く方々はこういうことを真剣に考えるべきである. (未完)
小説と文体
ここでは,正しい道具立てをつかうことが本質的である,ということで文体の話が出てきたのである.
これに関してもう少し深刻な問題もある.本書ははじめの十年間くらいは日本語と英語を行ったり来たりして書かれてきたが最後の段階で編集者の岸氏とやりとりを始めてから日本語だけで仕上げられた.そのあとで,暫定的英訳を作ったが,訳は容易ではなかった.英訳が難しいような文章をこの手の本に書くのはいかがなものであるかという疑念が頭をよぎらなかったわけではない.しかし,難しい話,深刻な話は,翻訳困難な部分がないとすればそれはまた問題ではないのか.
次の引用を読まれたい:
III-945 実際,〈学問〉と〈文学〉が分かれたことによってよりはっきりと見えてきたのは,この世の〈真理〉には二つの種類があることにほかならない.読むという行為から考えると,それは,〈テキストブック〉を読めばすむ〈真理〉を代表するのが〈学問の真理〉なら,〈テキスト〉そのものを読まねばならない〈真理〉を代表するのが,〈文学の真理〉である.—中略—〈学問の真理〉の最たるものは数式で埋められた〈テキストブック〉である. [水村美苗「日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で」(筑摩書房2008) p152]
III-946 〈テキスト〉に見いだされる〈真理〉とは,同じようなことを言い表すのに,無限の可能性があるなかから,この文章の形—この言い回し,この言葉の順番,この名詞,形容詞,動詞でなくては,この〈真理〉は存在しないという類いの〈真理〉である.
まさに,「真理は文体に宿る」のである. [水村美苗「日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で」(筑摩書房 2008) p153]
III-955 日本文学の善し悪しが本当にわかるのは,日本語の〈読まれるべき言葉〉を読んできた人間だけに許された特権である.
強調するが,いくらグローバルな〈文化商品〉が存在しようと.真にグローバルな文学など存在しえない.グローバルな〈文化商品〉とは,本当の意味で言葉を必要としないもの—本当の意味で翻訳を必要としないものでしかありえない. [水村美苗「日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で」(筑摩書房 2008) p264]
数学として理想的には水村氏が言うことは本当かもしれない.しかし,われわれの数学は,特にそれが世界の探究に使われるとき,そんなに完成された数学でもないし,また使い方も純粋に形式化できるようなものではない場合が(数理物理のように現実との間にワンクッションがあれば別だろうが)ほとんどである.われわれが形式化できない世界を数学を利用して理解しようとする限り,そして実物を使うことを最小限にとどめようとする限り,翻訳不可能な部分は残るのである.そして,それはどうでもいい部分とは限らない.
日本語で科学をするということには積極的な意味があっていいのだ.