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「世界は現象論的見方を許す」
なぜだろうか?
まず言っておかなくてはならないことは,本書ではこれは経験事実として扱われている,ということである.したがって,一応,どうしてそうなっているかということを考えずにこの事実はフルに利用する,特にいわゆる人間原理(anthropic principle)と躊躇なく組み合わされる.現象論的理解が可能でないような世界で一般的な知的能力が意味をもつとは考えにくいから(このページの脚注4参照),われわれはこの世がそのような理解が可能な世界だからこそ発生できたのであり,したがって,必然的に,われわれが見る世界は現象論的見方をいろいろと許す世界である.
原子分子から成り立つような世界では,知的能力をもった生きものの大きさは原子のスケールからは少なくとも10^{-3}m/10^{-10}m = 10^7くらい大きくないといけない(第1章脚注20, p11).これは熱ゆらぎを十分小さいと見なせる大きさである.つまり,物理で言うcollective coordinatesでいろいろなことが記述できる世界である; 大数の法則のおかげでゆっくりと変化する現象が幅をきかせる世界である.このページの脚注4にあるように,世界のより安定な特徴をまずきちんと認識することが,生きものにとって有利であるにちがいない.たとえば「人生に影響を持つ」ある変数(たとえば気温)がそうそう変わらないということをきちんと認識している生きものと,それを認識してない生きものでは,投資すべき方向は違うだろう.そして後者が不利になることは自明である.こうして,知能は原子の世界から見るとcollective featuresを認識するように進化させられる.いいかえれば,現象論をまず認識するように進化する.現象論的に記述できる現象が豊富な世界の生きものほど知的になる.あるいは,世界の現象論的豊富さと見合った知能を持った生きものが究極的には生じうると言ってもいい.こうしてわれわれには世界のいろいろ(たぶん重要)な側面を現象論的に見ることが許される.どうして世界が現象論的見方をゆるすか,ということはこのように,自己無撞着的に説明することも可能であると思われる.