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フッサールと進化論
現象論的還元は経験外のものを除去するというのだが,何が経験外か内省するための足場はなくてはならないのであり,結局生活世界にその基礎を求めるというようなことにならざるをえない.客観的に明確に意味がつけられる現象論的還元とは系統発生的学習で獲得された能力による判断のレベルにまでもどるということに帰着せざるを得ないだろう.フッサールは進化論的認識論を邪道だとみていたが,晩年の思想まで視野にいれると,彼の論理を突き詰めていけば,結局彼はこの立場に追い込まれていたと思われる.
指向性のもと
認識批判がありとあらゆる認識の種類や形式にあてはまる認識の本質を解明しようとする学問だとすれば、それは、いかなる自然的学問も利用することができない。自然的学問の成果や存在確定をたよりとすることなく、それを疑問視しつづけなければならないのだ。認識批判にとって、すべての学問は学問現象にすぎない。 [E フッサール「現象学の理念」長谷川宏訳 五つの講義の思考の歩みp9]
世界が存在するということ、世界が、絶えず全般的な合致へと合流してゆく連続的な経験において、存在する全体宇宙として与えられているということ、このことは、完全に疑いを容れない。けれども、生と実証哲学とを支えるこの不可疑性を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれでまた全く別種の事柄であろう。 [フッサール「イデーンI」あとがき p32 渡辺二郎訳(みすず書房)]