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通奏低音

学問重要な応用は医学や工学 などいわゆる応用であるよりも,人のの考え方を変えることにあると第1章で述べた.本章でもこ意味応用がいつも念頭にある.こテーマと直接関係していなくても次ような問題意識がいつもそ底を流れている.

第一に,非線形生み出す尺度干渉ゆえに世界はわれわれスケール現象で閉じてないにも関わらず,現象論的見方を許す,それがわれわれに知性を持つことを許した世界からくりである.世界がそようなもであるだから,ルネサンス以来合理的思考尊重をやめる理由などありはしない.ルネサンスという言葉からわかるように,そ昔に合理的思考はあった(西欧ではヘレニズム文化として)が,それは中世的宗教原理主義的社会に取って代わられて停滞する.イスラーム社会*でも社会的閉塞状況到来は中世化とでも言う現象を引き起こしてきた.経済的停滞が洋東西を問わず同じ様な精神状況を作り出すということは留意すべき事実ようである.経済的停滞と中世化は切りはなせるか,それともこれは不可分なか?

第二は,合理的精神にはそれ自身限界について醒めた意識が必要であるということである.情動 =「生に根差した価値体系による重み付け」なしに自然知能は働くことは出来ない(というよりも情動はそ主要素である).これを認識していなかったことをデカルト誤りであるととらえる向きもあるが,こ認識はデカルト精神と矛盾するもではなくデカルト的合理主義補完というべきである.デカルトは物心二元論的だと非難されることもあるがそれほど単純ではない.「 しばしば,デカルトは近代観念論父と呼ばれる.しかし,デカルト「省察」は,コギト観念的見地から出発しながら,それを神形而上学的見地によって退けるという存在論的展開を明確に示している. (小林道夫「デカルト自然哲学」 III 自然学基礎付けとして「省察」p77] ).ここで「神形而上学的見地」とは今風にいえば「自然摂理」あるいは「外界」ことであろう.フッサールがデカルト徹底化として現象論的還元を考えたというも故なしとしない.言葉で言えること,あるいは数学的に定式化できることはわれわれに理解できることあるいは知っていること小部分に過ぎないという認識は「博物学」を実践する際きわめて重要である.ともすれば論理的で「切れる」生物学者は意外と単純な論理実証主義的態度をとったり,現時点で曖昧さなしに定義できない概念を無意味としたりするようであるが,数学や物理学ような明確化がつとにされている分野ならともかく,対象について理解がほとんどない分野ではあまり生産的な態度ではないだろう.

第三は.複雑系特徴から目をそらす方向に推し進められてきたとしか思えない今まで研究方向を正し,複雑系理解がわれわれ文明や社会に持つ意味を正確に認識すべきだということである.「複雑系」はダーウィン過程によって生成する系あるいはそような系によって構成された系であり,短時間過程で生成することは一般にあり得ない.したがって,伝統は枢要である.反動ならざる保守だけが複雑な系を維持しうる.

*イスラーム世界停滞について

III-493 うわべから見ると、アラブ世界は輝かしい勝利を得たところである。西洋が絶え間ない侵略によってイスラム進出を押さえこもうとしたにせよ、結果はまさに逆であった。中東フランク諸国家は、二世紀にわたる植民地化あとで、根を引き抜かれてしまったばかりか、ムスリムはみごとに立ち直って、オスマン・トルコもと、ヨーロッパそのの征服に出かける。1435 年にはコンスタンティノープルが彼ら手中に帰したし、1529 年には、そ騎兵たちはウィーン城壁もとに陣を張ったもだ。

 われわれは、こことを、うわべに過ぎないとみる。歴史をひもといてみれば、ひとつ確認された事実が明らかになるからだ。すなわち、十字軍時代において、アラブ世界はスペインからイラクまで、依然として、知的および物質的に、こ世で最も進んだ文明担い手だった。しかしそ後、世界中心は決定的に西へ移る。そこに何か因果関係があるだろうか。十字軍は、やがて世界を支配していく西欧に、飛躍しるしを与え、アラブ文明に弔鐘を鳴らしただと、われわれは確言するまで行っていいだろうか。

 間違っているとは言えないが、こような判断は、ある程度修正を必要とする。アラブは十字軍以前から、ある種「疾患」に悩んでいて、これはフランク実在によって明らかとなり、たぶん悪化もしたが、ともあれフランクがつくったもではまったくない。

 予言者民は9世紀以来。みずから運命を制御できなくなっていた。指導者たちはほとんど異国人である。· · · フランクがやって来たとき、彼らはすでに足もとがおかしく、過去遺産で生きることに満足していた。だから、こ新たな侵略者に対して、ほとんど面でまだ明らかに先進的であったにせよ、彼ら衰退は始まっていたである。  [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p447-8]

III-494 アラブ第二「疾患」は、第一と関係がないわけではないが、安定した法制を組み立てることができなかったことである。フランクは中東にやって来たあと、文字どおり国家をつくることに成功している。エルサレムでは、継承問題は概して大過なく済んでいる。王国枢密院が王政治を有効に監督し。聖職者は権力争い中で公認された役割を担う。

 これに対して、ムスリム国家では、こようなことがまったくない。ど国も君主死におびえていたから、どんな跡目相続も内乱を引き起こす。東アラブでは、裁判過程こそフランクより合理的であったが,領主専制権力はいかなる歯止めもない。こ結果、商業都市発達は、思想進化ともども、遅れて行かざるを得なくなる。

 十字軍時代を通じて、アラブは西洋から来る思想に心を開こうとはしなかった。そして、たぶんこことこそ、彼らが犠牲者となった侵略最も不幸な結果なだ。  [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p448-51]

III-495 西ヨーロッパにとって、十字軍時代が真経済的・文化的革命糸口であったに対し、オリエントにおいては、これら聖戦は衰退と反開化主義長い世紀に通じてしまう。四方から攻められて、ムスリム世界は縮み上がり、過度に敏感に、守勢的に、狭量に、非生産的になるだが、こような態度は世界的規模発展がつづくにつれて一層ひどくなり、発展から疎外されていると思いこむ。

 以来、進歩とは相手側になる。近代化も他人だ。西洋象徴である近代化を拒絶して、そ文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというか。それとも反対に、自分アイデンティティを失う危険を冒しても、近代化道を断固として歩むべきか。イランも、トルコも、またアラブ世界も、こジレンマ解決に成功していない。そために今日でも,上から西洋化という局面と、全く排外的で極端な教条主義という局面と間に、しばしば急激な交代が続いて見られるである。  [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p452]

「複雑系の研究」

今日(8/14, 2009) たまたま次のような田崎さんの発言(?)を目にした(黒木の何でも掲示板1/28と1/30,1999,まったく遅れていて申し訳ない).著者がこのごろやっていることにぴったりなので(許可なく)引用する(sourceは こちら ).

 多少文脈から離れた引用だが,複雑系の研究では

長い長い黙した研究の時を過ごす覚悟、そして、その沈黙の模索から二度と戻って来ない覚悟が必要なんじゃないかと思います

科学終焉(未完)

Futuyma Science's Greatest Challenge

BioSc  57 1 (2007)

For even as people appreciate technology, they widely distrust science, as is clear when scientists challenge beliefs or speak ``an inconvenient truth'' (as Al Gore puts it). Among contemporary issues, evolution, global climate change, and the disastrous effects of unchecked population growth are the most conspicuous examples. More than half of Americans do not accept the most important unifying principle in the life sciences; politicians disparage a virtually unanimous scientific consensus on climate change; and the religious right ensures that even contraception is a politically risky topic. Some scientific conclusions are discomfiting, but can a pragmatic people not see that a scientific consensus is more trustworthy than the pronouncements of an industry-sponsored naysayer or a president untrained in biology or physics?

 The biggest challenge to biology and to science is not to achieve deeper understanding of genomes or ecosystems or black holes that understanding is coming along just fine. The challenge that matters now is to make sure that science is taken seriously.

もちろん、現実に行われている「複雑系研究」は、上で言った「触れる」段階の手前の下調べ、本格的探検の前の航空写真撮影の段階だと理解している。 無謀に砂漠に向かって歩き出してのたれ死にするよりは、先ず航空写真を撮っておくのは正しいと思う。 けれど、航空写真を撮り続けるだけの家業になって、誰も足で歩いて探検しなくなったら、これは困る。

 まさにその通り.そこで遠隔探査はやめにして(砂漠のたとえは嫌いなので, フンボルトもダーウィンもあこがれた)熱帯雨林にとにかく踏み込む(のたれ死なら熱帯雨林でも出来るのだ),というのがIntegrative Natural Historyである.しかし,「複雑系研究」は砂漠と熱帯雨林を取り違えたような所があるから,上の引用中の「砂漠」というのは的確なたとえかもしれない.

だから,学生にはもう岸に沿っては泳がないからついてくるな,といっているのです.こういう研究はまったく「いまめかしく」ない.