p243
観察記録の深み補足
M. Gelfand, ``We Do Not Choose Mathematics as Our Profession, It Chooses Us:
Interview with Yuri Manin
Notices AMS 56 1268 (2009)
で彼は次のようにいっている:.
Here I take a position that sets me apart from many good colleagues. I’ve heard many arguments
against me on this subject. I must explain to you how I imagine mathematics. I am an emotional
Platonist (not a rational one: there are no rational arguments in favor of Platonism). Somehow or
other, for me mathematical research is a discovery, not an invention. I imagine for myself a great
castle, or something like that, and you gradually start seeing its contours through the deep mist,
and begin to investigate something. How you formulate what it is you’ve seen depends on your
type of thinking and on the scale of what you have seen, and on the social circumstances around you, and so on.
この記事は推薦できる.
京極為兼の歌論 ( 未完 )
たぶん観察の結果としての文学の深さがこれにも見られるように思う.京極為兼(1254-1332)京極派の中心人物(今谷明「京極為兼」(ミネルヴァ書房, 2003)参照).この派の歌集玉葉,風雅は万葉,古今,新古今とならぶ(とまで言いたくなければ,それにすぐ次ぐ).[著者のhomepageに公開されている抜き書き帳には大量な抜き書きがある]
以下は岩佐美代子「宮廷の春秋」(岩波,1998)p174からの孫引きである:
『為兼卿和歌抄』に次のようにあるという(脱字を[ ]の中にこの本にしたがって埋める)
花にても月にても,夜の明け日の暮るゝ気色にても,そ[の]事にむきてはその事になりかへり,その真(まこと)をあらはし,その有様を思ひとめ,それにつきて我が心の働くやうをも,心に深くあづけて,心に詞をま[か]するに,興あり面白き事,色をのみ添ふるは,心をやるばかりなるは,人の弄(いろ)ひ,あながちに憎むべきにもあらぬ事なり.言葉にて心を詠まむとすると,心のまゝに詞の匂ひゆくとは,かはれる所あるにこそ.
岩佐氏の解説(上の引用にすぐつづいて):
この一文の前半は,唯識のユの字も言っていませんけれど,まさに唯識説で説く基本的な心(識)の働き,「五遍行の心所」(ごへんぎょうのしんじょ= 触(そく)・作意(さい)・受・想・思)が「心王」(心の主体)と「相応」(結合)して,正しい認識を成立させる道程であり,後半は,そこから自然に生まれ出た詞は技巧・無技巧を超越した真の歌であるという宣言です.---花でも月でも,朝夕の景色でも,詠もうと思ったら(触)その対象になり切って(作意)その真実の姿を見極め(受),その印象を心に刻み込んだ上で(想),それに対して起こる自然な感動を(思),心の奥底(心王)に深くゆだねて(相応),その心の底からおのずからと出て来る詞のままにうたえばよい.そのような手続きを経て独自の表現や面白い技巧が生れ,我ながら満足する作品となった時は,他人があれこれ批判するのは全く無用の事だ.既成の言葉で風流がった心を詠もうとする在来の歌人の手法と,心の真実の表現として美しい詞が自由に匂い出る我々の詠法とは,全く異なっているのだ---.
源氏物語の性格について
以下で指摘されているようなことは近代の小説ではあたりまえであるともいえようが,しかし,源氏物語では規模が違う.つまり,全体の有機的連関のスケールと緊密さが「観察文学」ならではの深みに到達しているからほとんど比肩するものはないといえるのではなかろうか.
II-370 まず、この場面まで藤壺の容姿が一度も描写されていなかったことを確認してください。しかし、彼女とこの少女が似ているというのですから童であることを示す「眉のわたりうちけぶり」はともかく、「額つき、髪ざし」が藤壺もまた可愛かったことがここから読みとれます。のちに〈時間の循環〉という問題をあつかうさいにさらに展開するはずですが、源氏物語では後で描かれる描写が前で描かれたことを規定するという循環構造が何度も出現します。藤壺の具体的な美しさがあとから登場するこの少女によって規定されてくるのです。 [三谷邦明「入門源氏物語」 重奏する藤壺事件 p76]
II-371 こうして、「瘧病」は、字義どおりの病気とともに、一回目の読みである夕顔の死を契機とする病であり、伊勢物語の引用することでの滑稽さであり、二回目の読みによって生じる藤壺ゆえの病気であって、意味は多義的に響き一義的には決定できないのです。さまざまな意味がせめぎ合い物語に深さを与えるのです。源氏物語を読むという行為はこの多義的な意味不決定性をどのくらい現象させることができるかという賭けだといってよいでしょう。
源氏物語を読むことのむずかしさと楽しさはここにあります。 [三谷邦明「入門源氏物語」 重奏する藤壺事件 p89-90]
II-372 源氏物語を読むことの愉楽は、このように背反するものが出会い、きしみ、混在し、意味の不決定が現象したときなのであって、多義的・多層的・多視点・多距離的なものを凝視したとき、源氏物語は真の姿をあらわすのです。 [三谷邦明「入門源氏物語」 重奏する藤壺事件 p128]
したがって,宣長のような「近代的読み方」はかなりに作品を読みそこなうことになりかねないのだ.
II-373 源氏物語批評史の流れのなかで、画期的だったのは、本居宣長の『玉小櫛』だとだれもが認めるでしょう。この画期的な作業は、しかし、同時に源氏物語研究に弊害をもたらしました。というのは、源氏物語研究では宣長以前の注釈を中心とした批評や研究を「古注」とよぶのですが、本居宣長は古注の最良のものを犠牲にして、自己の学説を樹立したからです。本居宣長は「もののあはれを知る」ことによって、源氏物語のひいては日本古典文学のすべてを理解することが可能だと主張しました。これは近世の発言であるにもかかわらず、〈近代的〉主体・自我を宣言したものだといってよいでしょう。つまり、源氏物語という作品の意味は「もののあはれ」という一義的な意味に決定され、多義的な読みを禁じてしまったからです。─中略─中世の古注は秘伝主義や諸説混淆主義的な傾向に満ち、それなりに批判されなければならないのですが、宣長は「もののあはれ」という、近代的主体の論理によって古注の多視点的な最良のものを見失ってしまったのです。 [三谷邦明「入門源氏物語」 須磨流離と六条院 p131-2]
II-374 たぶん、源氏物語の真の姿は、テクストの〈表層〉を読むと同時に、その表層が覆い隠している〈深層〉つまり、〈退去〉と〈流謫〉のあいだで、源氏物語は多義的に戯れているのであって、多義的な言語世界を一義的なものに閉じこめてはならないのです。それゆえ、光源氏の須磨流離は藤壺事件と朧月夜事件のどちらが原因かという従来の論争も、源氏物語を多義的な言語宇宙としてとらえる視点からみると滑稽なのです。─中略─準拠・典拠・引歌・引詩の〈引用〉は、〈読み〉の問題であり、古注がさまざまな説を並記するのも当然であり、それを多義的に響きあわせることで、源氏物語の言語宇宙は、筋書き的な表層には発見できない
〈深さ〉を獲得することができるのです。 [三谷邦明「入門源氏物語」 須磨流離と六条院 p137-9]
II-562 源氏物語は主題性を追求するために、初期物語的な、それからそれへの論理を放棄し、ヨーロッパにおいて十七、八世紀に成立する小説の論理を、十一世紀の最初期に確立してしまうのです。この奇蹟といってもいい、なぜの論理は、現在、源氏物語を読むための基礎的な方法でもあります。 [三谷邦明「入門源氏物語」 〈方法〉から冒頭場面を読む p025]
II-581 『源氏物語』は、もっとも大事なこと、もっとも秘密なことは語らない。─中略─おそるべき真相をあらわに表現せず、読者の想像に任せ、読者の主体的な「読み」によって補完させ、膨らませ、裏付けさせることで、『源氏物語』は、それ以前の物語と比べると飛躍的に豊かな物語世界を開拓する。─中略─『源氏物語』は実際に「語られた」世界よりも、はるかに豊饒で、奥行きのある世界が、語られざる背後に広がっていることを体感させる物語となっているのである。
[三田村雅子「源氏物語―物語空間を読む」筑摩書房1997, p0065-066]
そして,この奥行きのある世界は作品が書かれる前からかなりの程度作者の想像の世界に確固として存在していた世界であったにちがいない.
ついでながら,平家追討の令旨を出した以仁王のたぶん二つ上の姉,式子内親王,の生き方は宇治の大君に範をとることだったという説は説得力がある.
II-376 いまだ若年にして非力な前斎院の正義感は、それらの悲運にある血縁の人々の中で、さらにいっそういじましく挫ける以外に育ちようはなかったといえる。式子にできるただひとつのことは、これらの悲運な後見人たちのただ中に、ひたすら、うるわしく存在すること、ただそれだけである。 [馬場あき子「式子内親王」第2部式子内親王の歌について 宇治の大君に通う式子の心情 p129]
II-377 式子の歌には「源氏物語」が宇治大君について描写する時に、しばしば特色的な形容として使った「ほのか」という語がひじょうに多く出てくる。そして、「ほのか」であることは、式子の美意識を支配した主要素の一つであった。 [馬場あき子「式子内親王」第2部式子内親王の歌について 宇治の大君に通う式子の心情 p130]
II-378 老いゆく内親王、老いゆく前斎院にとって、それでもなお世に存在せねばならぬとすれば、せめて美しく、存在する以外に何があったろう。生きながら形骸化してゆく、その希薄な存在感の中で、式子が大君の生き方を切に具現しようとした努力は、むしろ悲壮で美しかったというべきかもしれぬ。 [馬場あき子「式子内親王」第2部式子内親王の歌について 宇治の大君に通う式子の心情 p131]
言語表現の難しさについて
「言語の表現能力の限界に悩まされる」話がこのあたりに書いてあるが,表現すべきものを構想する方がもちろん格段に難しい.「あらかじめ考えたことを, 言語でどう表現しようかと工夫しているだけ」と書いた所以である.堀口大学が
非言語的判断
「 暗 黙知の作動は、身体のすべてに依存しますので、も ちろんのこと、これまで大量にたくわえられた知識に依存する、と私は解釈しています。それを「知的枠組」と特定することはありませんが。」これは買いかぶりなんではないだろうか.Tacit knowingはあくまでknowingであってknowledgeではないのではないか.
「 内面化」という言葉が如実に示すように,すでに内面にあるものの軽視,がポラニーの特徴であること歴然.という上に書いたコメントにたいして「知るという過程は、一回一回完結するものではなく、目の前にある何かを、一回一回内面化するのではありません。内面化過程が不断に生じているのを、このように記述しているのであり、既に内面にあるものを前提にして、新たな内面化が生じているのだと私は理解しています。」これも買いかぶりのように見える.すでに内面にあるものが生得的であるという意識がきわめて希薄であるように見える.
詩を思わぬ日はままあるが、翻訳のペンを動かさない日は極めて稀だ。理由は詩を思うはつらく、翻訳を進めるのは楽しいからだ 。
と「翻訳こぼれ話」という随筆の中に書いているが、このあたりの事情を表現しえて妙である.
「何が言語で表現できないかということは,多大な努力の後にはじめて認識されることなのであって....」と脚注33に書いたが,努力だけですむと思うのはたぶん安易にすぎる.これは何も言語表現に限った話ではなく,文化や科学の進歩について重要なことは努力ではすまないことのなかにあるのだろう[努力を信仰することは自己組織化で複雑な系ができると考えることと共通な点がある.ともに何かをただ積み重ねれば質的に違うことが生じると思っている点である].このことを痛感させる本は 最所フミ編著「英語類義語活用辞典」 (ちくま学芸文庫 2003; 原著1984)である.だいたいの所は感じている類義語の違いにずばりと的確な言語表現を与えている.それは並みの人にできることではない.だれでも知っていることを言語化するというのは大きな文化的寄与である.
言語を使って分析的に考えるよりも総合的に非言語的に判断する方が正確である,あるいはより有利な判断である場合が多いらしい
[A. Dijksterhuis, M. W. Bos, L. F. Nordgren, and R. B. van Baaren, “On making the right choice: the deliberation-without-attention effect,” Science 311 , 1005 (2006)].
暗示的認識
より一般的に,明示的認識と暗示的認識とは別々でありうること,つまり,あることを認識していることを意識していなくても,「体」は認識している(たとえば皮膚導電率は変わる) ことがある,というのは示唆的であろう.大昔から知られていることだが,たとえば,D. E. Haydn and M. B. Lewis, “Capgras delusion: a window on face recognition,” Trends in Cognitive Sci. 5 , 149 (2001) 参照.「身に随ふは心なりけり」(紫式部集).
「 身に随ふは心なりけり」
この言明の核心部分は,「下位」と思われるものが実はより主体的であり支配的であるが,あたかも「上位」が支配しているように見えるに過ぎないことに思いを致した時の感慨であろう.
自由意志のようなものは実際には錯覚である可能性は極めて高い.自由意志の幻影は生きものに生きる意欲を与えるゆえに極めて有効に生存に寄与する.たとえば,次の論文参照.
Ruud Custers and Henk Aarts
The Unconscious Will: How the Pursuit of Goals Operates Outside of Conscious Awareness
Science 329 47 (2010).
We are likely to say, if asked, that the decision to act produced the actions themselves. Recent discoveries, however, challenge this causal status of conscious will. Actions are initiated even though we are unconscious of the goals to be attained or their motivating effect on our behavior.
10/1, 2010追加
Anthony R. Cashmore
Reply to Hinsen: Free will, vitalism, and distinguishing cause from effect
PNAS 107 E150 (2010)
Many biologists are more than willing to question religion, yet relatively few show similar skepticism concerning the question of free will (even Dawkins). Biologists are fooled by correlation between thought processes and behavior, mistaking correlation as causality. The reality is that in this instance, the process of evolution has conned us into believing in free will.
Why then do we continue to base our judicial system on a belief in the existence
of free will?
聖書原理主義 は根本的に言葉のみに頼るという誤謬を犯している,つまり,神といえどもその「知」の全容を言葉で表現はできない(できるとすればそれは神知を貶めるものである) から聖書に頼っているばかりでは神の真意を誤解しうるわけだ.ガリレオは神の「なぜ御労作=宇宙から始めず御言葉=聖書から始めなければならないのか」と第二次裁判の直前(1633 年) に知人に書き送っているそうである(山本,前掲p109).
Logos-Davarおよび宗教の根源的邪悪さについて
結局,読者は次のように感じるのではなかろうか.自然知能の軽視,言語の過大評価,一神教的世界観,世界の複雑性の軽視などは同根である,と.人間の不幸の原因のかなりの部分がここに根をもつように見える.
アメリカ合衆国の大統領で偏狭なキリスト教信者であったG. W. Bush (Bush the Torturer)についてJoe Kleinが TIME December 8, 2008のp27に書いた「The Lamest Duck. Bush's disappearing act during the economic crisis is a fitting coda to a failed presidency」という題の論評は,世界の原理主義的単純化(と言う知的倫理的倨傲)をあますところなく批判した,全文読む価値のある論評である.それはつぎのように締めくくられている:
This is a presidency that has wobbled between those two poles---overweening arrogance and paralytic incompetence.---中略---
In the end, though, it will not be the creative paralysis that defines Bush. It will be his intellectual laziness, at home and abroad. Bush never understood, or care about, the delicate balance between freedom and regulation that was necessary to make markets work. He never understood, or care about, the delicate balance between freedom and equity that was necessary to maintain the strong middle class required for both prosperity and democracy. He never considered the complexities of the cultures he was invading. He never understood that faith, unaccompanied by rigorous skepticism, is a recipe for myopia and foolishness. He is less than President now, and that is appropriate. He was never very much of one.
[ついでながら下で引用する R. Dawkinsの God Delusion には
The born-again George W. Bush is typical of today’s religious ascendancy. He, and they are stalwart defenders of human life, as long as it is embryonic life (or terminally ill life) ― even to the point of preventing medical research that would certainly save many lives. ]
神の敷いた路線+自己組織化で世界を説明しようとすることは,上の引用で批判されているように,intellectual lazinessなのである.
しかし,上の論評には宗教の過大評価(誤解)が見られる.まともな懐疑主義のもとで従来通りの一神教が成り立つはずもない.われわれはともすれば原理主義や狂信だけが善くなく宗教そのものはそんなものではないと思いたがるが,それは一神教の本質の誤解によるのである.信者にいい人がいるのは狂信者ではないからであるが,それはその人が幸いにもほどほどの信者だからに過ぎないということなのだ.(番号は 証I 中の引用番号)
I-389 あらゆる事物は、人間のために存在するのであって、事物自身のために存在するのではない。敬虔なキリスト教的自然科学者のようにこの教説を高慢として特色づける人は、キリスト教そのものを高慢として宣言する人である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」第十一章]
I-393 エホバはすべての他の民を排除してイスラエル民族の我欲を人格化したもの以外の何物でもない。エホバは絶対的不寛容である。これが一神論の秘密である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」第十二章]
I-426 あることが行われるということは、そう行為することが善であり且つ正しいから起こるのではなく、そう行為することが神によって命令されているから起こるのである。内容それ自体はどうでもよい。神が命ずることは何であっても正しいのである。もしこれらの命令が理性や倫理学と一致するならば、そのときはこのことは幸福である。しかし、この幸福は啓示の概念にとって偶然である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」第二十二章]
I-428 必然的に時間性と有限性とのあらゆる条件のもとで編まれた歴史的な書物に、絶対的普遍的に妥当する永遠な言葉の意義をもたせる信仰の必然的な帰結および働きは、迷信と詭弁である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」第二十二章]
III-913 ヨーロッパには『自由と平等』と言うような,近代のとても美しい理念があり,その理念は一応普遍的でなければならないわけですが,そこにはイスラムは入らないのじゃないかということを,ヨーロッパ人は感覚的にわかっている.しかし,それを言うと,「差別」「非寛容」とされてしまうから言わない.
―中略―
ヨーロッパの人々が,イスラム教徒を好きか嫌いかは別にして,ある種の根本的倫理を共有していない,と受け止めていることをよく感じます.人間主義が定着した世界においては,ある絶対的な規範が神によって人間の外部から与えられている,と信じてそこからすべての論理と倫理を組み立てる人々とは, 一人の人間として同じ平面でお互いに語り合うことができない,ということろに行き着いてしまう. [塩野七生× 池内恵「『パクス・ロマーナ』が壊れるとはどういうことなのか」波2009/1, p5 池内]
R. Dawkins, God Delusion (Houghton Mifflin Company 2006) (抜粋集 GodDel.pdf パスワードはGodDel)そのp306に最も重要なメッセージが書いてある.次の通り(「信教の自由は人類の敵である」と言っていいかもしれない):
The take home message is that we should blame religion itself , not religious extremism
― as though that were some kind of terrible perversion of real, decent religion. Voltaire
got it right long ago: ‘Those who can make you believe absurdities can make you commit atrocities.’ So did Bertrand Russel: ‘Many people would sooner die than think. in fact, they do.’
As long as we accept the principle that religious faith must be respected simply because it is religious faith, it is hard to withhold respect from the faith of Osama bin Laden and the suicide bombers.
そして「信じることはいいことだ」という邪悪な教えを拒否しなくてはならない:
More generally (and this applies to Christianity no less than to Islam), what is really pernicious is the practice of teaching children that faith itself is a virtue. Faith is an evil
precisely because it requires no justification and brooks no argument. Teaching children that unquestioned faith is a virtue primes them ― given certain other ingredients that are not hard to come by ― to grow up into potentially lethal weapon for future jihads or crusades.
同書に引用されているがWeinbergは次のように言ったという.
Religion is an insult to human dignity. With or without it, you’d have good people doing good things and evil people doing evil things. But for good people to do evil things, it takes religion.
栂尾の明恵上人は次のようにおっしゃった; 正しい人であれば信仰はいらないのだ,と.
I-1168 人は我が祈りの為とて、経、陀羅尼の一巻をも読まず、焼香礼拝の一度をもせずとも、心身正しくして、有るべき様にだに振舞はば、一切の諸天善神も是を護り給へり。六借しくこせめかんよりも、何もせずして、只正しくしてぞ在るべき。 [栂尾明恵上人遺訓]
Logos
このあたりに関係した講演(1990)のあとでVulpiani氏からギリシア語では「言葉」はlogosでありそれは「言葉」のみならず「理性」をも意味することを指摘された.言葉と理性が同一視されたということに誤りの深刻さが現れている.「魂の内において魂が自分を相手に声を出さずに行う対話---まさにこれがわれわれにとって思考と呼ばれるようになったのだ」とプラトンは述べ,そのゆえに彼は「対話篇」という形式に固執したのであった.ここには自然知能についての典型的な人文主義的誤謬が見られる.
岩波哲学思想辞典によれば,logosは語源上は「拾い集める」を意味するlegeinから来ている.バラバラに散らばった事実を筋目・秩序にしたがって取りまとめることで,その結果,「理由」,「原因」,「説明」,「理性」,「秩序」,「意味」,「根拠」,「比例」などなどを意味することとなった.その核心には言語があるのでロゴスは言葉を意味することとなった.
ポラニーの「暗黙知」
ポランニー「暗黙知の次元」(ちくまの文庫本)I, IIについて.なかなか平静に読める本ではない.理由は議論が中途半端なうえにどうもいろいろ基本的認識に問題があるからだ. ポラニーの暗黙知は「暗黙に知っている知識」という意味ではなく,暗黙の裡に知識を得ること,その過程をさす. そういう過程の存在に注意を喚起するのはいいが,それを可能にする確固たる枠組みの存在にあまり思いが至っていない. 著者が思考過程に関してまったくふれないこともたぶんこれと整合しているように思われる.
「暗黙知」に関してはまったく内省が足りない.
(1) ポラニーは「指し示すことで実物定義ができると考えている」(たとえばp020).
何が指し示されているのかわかるというのは大変なことだ,すでに世界の構造についての大量の知識がなくてはいけない,という反省がない.要するに認知の前提である大量の40億年の経験への配慮がない.それはつぎのことにもあらわれている.「宇宙の断片を内化し,その結果,宇宙が包括的存在に満たされていく」と書くことからわかるように断片の統合に彼は重きを置く.しかし,統合の仕方は無数にあるということが見落とされている.
(2) 「ゲシュタルト心理学との関連: 関知している個々の特徴を,それが何とは特定できないままに,統合しているのだ」(p021)
ここで彼は何がprimitiveであるかがまったくわかっていない.簡単な神経系を持った動物にもゲシュタルト心理学が通用することからわかるとおり,抽象的な概念や認知が根源的でそれは統合されて生じるものではないのである.本末転倒で,この認識間違いで彼の議論は意味に乏しいものになってしまっている.
要するに彼のいう暗黙知はたいしたことではない.しかし,彼の「創発」概念はまともである.
p067 「より高位層の活動を,そのすぐ下位層に当たる諸要素を統括する規則によっては,説明できない.音声学から語彙を導くことは不可能なのだ.」
p072 「上位レベルの組織原理によって下位レベルの諸要素に及ぼされる制御を,「境界制御の原理」(the principle of marginal control)と呼んでもよかろう.」
彼は暗黙知と関連させた間違った議論で正しい結論に至ったわけだが,これだけなら取り立てて言うほどのことはないし,ポラニーよりも昔からエントロピーに関連した熱力学構造などで言われてきたことである.彼は物理化学者だから承知していたはずであり,そうすると,暗黙知と結びつけたところが彼の独創ということなのだろうが,残念ながら完璧に的を外していたわけだ.
著者(大野)はいかなるときに創発が可能になり,それがどういう原理にもとづくのかというところまで踏み込みたい.それは自己組織的対称性の自滅とそれで生じる集団座標の制御可能性であり,それを制御するのが「基本条件」であり,これは進化過程でしか生じないものであると考えているのは,本章にあるとおり.
以下いくつかの言明についてのコメント.
p026で「暗黙知の基本的構造がある.それは常に二つの事態を,いや二種類の事態を必要としている.」というが条件反射の条件付けの条件と実際の刺激のようなものを意味しているに過ぎない.
p040にある「私たちは近位項と遠位項という暗黙知を構成する二つの条件を識別して,さらに,近位項から遠位項へと注目が移動し,その結果,目下の注目の対象たる「統一性を持った存在」へと「個々の諸要素」が統合されていく」本末転倒.
p044}「もしも暗黙的思考が知全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら,個人的な知識要素を全て駆逐しようとする近代科学の理想は,結局のところ,全ての知識の破壊を目指すことになるだろう.」という言明は彼の40億年の経験への配慮の欠如と整合している.もしこれに配慮していれば,科学をなりたたせるものこそ暗黙的思考であると言ったはずだ.これは外界の存在とその効果がわれわれを作っていることを忘れた典型的人文科学的誤謬である.
p050 「かくして私たちは主要な結論に到達したことになる.すなわち,暗黙知によっては,以下の諸点が明らかにされるのだ.(1) 問題を妥当と認識する.(2) その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して.科学者が問題を追及する.(3) 最後に到達された発見について.いまだ定かならぬ暗示=含意を妥当に予期する.
こうした曖昧な関与の仕方は,内在化に基づくいかなる認識行為にも,必ず含まれているものだ.」
ここに書いてあることを正しく誤解することは可能.しかし,暗黙知で得られる知識が個々のexplicitな知を「目下の注目の対象たる「統一性を持った存在」へと」統合していくと読むのが意図されたことだろう.しかし統合するのは暗黙知で得られた知識によるのではなく,すでに大量にある系統学的学習の結果ある知識なのだ.すでにある知的枠組みへの軽視は歴然.
II. 創発
p056「私たちが暗黙知を働かせる事項には,問題や虫の知らせ,人相学や各種の技能,道具と探り棒や表示言語の使用が含まれていたが,そのリストはずっと拡張されて,五感で知覚される外界の対象の単純な認識までも含まれるようになった.そしてこの知覚の構造こそ,その他の事項すべてを解明する鍵となるものだ.私たちの身体は対象の知覚に関与しており,その結果,外界の事物すべての認識に関与することになる.さらに言えば,外界の事物の個々の諸要素はまとめられて相応の存在へと統合されるのだが.そうした何組もの諸要素を身体に同化させることによって,私たちは自らの身体を世界に向かって拡張しつづけていくのだ.このとき私たちは,外界の諸要素を内面化して,その意味を首尾一貫した存在のうちに把捉しようとする.かくして私たちは,いくつもの存在に満ち,ある解釈を施された宇宙を,知的な意味でも実践的な意味でも,形成することになる.」
を読むと「内面化」という言葉が如実に示すように,すでに内面にあるものの軽視,がポラニーの特徴であること歴然.
ポラニーは言語化されないあるいは明示的に記述できない知識獲得の過程を暗黙知(tacit knowing)とよんだ.「人は言葉にできるより多くのことを知ることができる(p25)」このおかげでモンタージュ写真はうまく機能し,言葉で指し示せないものも認識できあるいは人に伝えることができる.かなり鋭い指摘ではあるが,よく読むと次のようなことが書かれている.「私たちが言葉が意味するものを伝えたいと思うとき,相手側の知的努力によって埋めるしかないギャップが生じてしまうものなのだ.(p20) 」あるいは「宇宙の断片を内化し,その結果,宇宙が包括的存在に満たされていく」,「外界の諸要素を内面化して,その意味を首尾一貫した存在のうちに把捉しようとする(p56)」などが暗黙知の説明として述べられていることからはかなり深刻な問題がのぞく.ポラニーは暗黙知の獲得過程で得られた断片的諸要素は知的努力で埋められると考え,包括的存在についての知識が枠組みとしてすでにわれわれになくてはならないことを軽視あるいは忘却している.宇宙の断片を内化してもそれをどうくみ上げるかはまったく白紙の状態では決まらない.さらに,ここにはポラニーによるというのではない一般的な認識の間違いもある.それは抽象的包括的なものは具体から「抽象されなくてはならない」という先入観である.もちろん抽象的なことを言葉で述べるのは大変である.それは「人は言葉にできるより多くのことを知ることができる」どころか多くのことを考えることができるからだ.系統発生的に考えて抽象概念の認識は当然具象的概念の認識に先んじる.したがって,抽象概念が具象概念を統御するというポラニーの考えは正しいがそれは創発的に作り上げられるものではないのである.「知覚可能な諸性質が観察できたとしても,そのあとどのようにして永遠なる対象の存在を推論していくのだろう?(p56)」と問いながらそれが追求されていない.
ポラニーの論法は「暗黙知の過程」こそ下位のレベルの諸々の要素を意味ある全体に統合する創発過程の卑近な例であり,高次なレベルの出現はすべからくかくの如きものである,ということである.「私たちは,身体的過程が知覚に関与するときの関与の仕方を解明することによって,人間のもっとも高等な創造性を含む,全ての思考の身体的根拠を明らかにすることができるだろう.(p36)」残念ながらもっとも重要な要素を見落としているからこの論法は通用しない.
以上のようなコメントにたいして東大東洋文化研究所の安富氏は「日本語訳で読んでいることに問題の一端がある」ことを指摘された.この当否はチェックしていない.以下,彼には無断でやりとりの一部要約を掲示する
「ポ ラニーは、創発的進化を可能にしたダイナミクスと、同 等のものが、暗黙知において作動している、と考えているように思います。 そのダイナミクスはどこから来るのかは、サッパリわからないのですが、もしかしたらポラニーは、「神」を想定しているのかもしれません。欧米では神学者の間で(のみ?)評判が高いらしいことを考えると、そうなのかもしれません。」創発的進化のダイナミクス,特にダーウィン過程の基本は,何もないところから(長時間かけて)生じる,であるのにたいして,「暗黙知」はそういうものではなく大量にある前提(足場と言っていい)にもとづくプロセスであり,根本的に違う.
大野が言うように 「 抽象的な概念や認知が根源的」とすると、 新しい概念や認知はどこから生じることになるのでしょうか?」私見では,抽象的なものとらえ方というものは極めて根源的にわれわれの内部にあるものである.新しい概念や認知というのは,それを「意識化」し「言語化する」所に生じるように見えるだけなのだろう.