II-163 はじめのうち、私の講義する概説は、当然のことながら、先輩諸賢の高説の請売であった.それにしても、従来の研究が堆積した山脈の最高の稜線を辿ろうとする努力だけはしてみようとした.しかしそれにも拘わらず、私にはどこか納得できない不満や疑問の点が続出して、それらの問題を解明するためには、結局自分自身が個別に研究を重ねていくより外に途がない、という結論に到達した.これは概説が単なる纏め仕事ではなく、基本的な研究の一種であるという事実の発見を意味したのである. 」(宮崎市定「中国史上」はしがきpiii).
「 ほんとうは東西両洋の歴史は、それを深く研究すればするほど、おどろくほどの類似性をその根底にもつことを発見するものなのである.歴史の研究は何よりも、従来なおざりにされてきた、この種の平行現象の探求からはじめなければならない. 」[宮崎市定『大唐帝国―中国の中世―』, 中公文庫, 1988)p16.]
ついでながら,宮崎市定「中国史上下」は本を書こうとする人必読の本に見える.
II-178 私はなるべく私の記憶だけを頼って、この書中に書き込む題材を選んだ。もし私の記憶からまったく忘れ去ってしまったような事実ならば、それは忘れられるだけの価値しかない事実だ、と判断する自信が私にはある。 [宮崎市定「中国史下」むすび p587-8]
II-179 私は概説書とは、例えばこのように書けるものだ、という例を示したつもりである。私は物を書くのに精進潔斎して机に向い、苦吟渋思して筆を動かすという態度を取らない。私は楽しみながら筆を走らせるのが、最上の著述の態度だと考えている。著者が自身で感興を持つのでなければ、読者が面白いと思って読む筈がない。読者の百人のうち、たとえ一人でもいい、学問を面白いと思って読んでくれるなら、学者の冥利これに尽きる話ではあるまいか。 [宮崎市定「中国史下」むすび p589]
もちろん著者はこの本を幾度か熟読した.読んだからと言って書くものが「学者冥利に尽きる」ようなものにならないのは不徳と無学の致すところである.
II-610 1922年、歴史学研究の志を抱いて上洛し、京都大学文学部に入学してから数えて、早くも50年目を迎えた。人力車にゆられて人通りの少ない早朝の京都市内を通り抜け、鹿ヶ谷ぞいの浄土寺なる下宿にはじめて到着したのは、何やら昨日今日の出来事のように感ぜられる。その後、下宿をうつし、寓居をかえ、外国に往復し、軍役に奔走させられ、学業を治め、学生に講義し、気がついてわが身をふりかえれば、目下の寓居は50年前の下宿と目睫の間にある。わずか100メートルほどの土地を動いてここへ辿りつくだけのことに、かくも長い歳月を要したかと、自ら顧みて苦笑を禁じ得ない。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文
庫1986)はしがき p11]