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「応用数学の模範」に関して
志村五郎氏は次のことを指摘している:
III- 109 ここに数学史上の面白い現象がある.Fourier はJacobi よりは三十歳以上年長であって,お互いどんな数学をやっているかは承知していたが,共に,よく理解してはいなかったらしい.F はJacobi やAbel が楕円関数などに興味を持って,Fourier の立場からはより重要な熱伝導のような物理学に有用なFourier 級数を研究しないことを残念に思っていた.一方J は数学の目的はF の言うような実用性にあるのではなく.数学それ自体にあるのであって.いわゆる「人間精神の名誉」のためのものであるとした.Poisson はFourier よりは十歳以上若く,彼らの関係は私はよく知らないが,Fourier がPoisson の結果を知っていたことはまず確実であろう.しかしそれがJacobi のテータの変換公式であることは知らなかったと思われる.一方,そのころJacobi はまだ若くてテータ関数の一般論を構成していなかったであろうが,もし彼がPoisson のテクニクを知ったとしたら,それはJacobi をしてテータ関数の性格に眼を開かしめるものがあったのではないか.そこに歴史の偶然性と皮肉がある.彼らの数学は一つの興味深い公式によって表される点で接していたのであるが,彼等はそのことを知らず,Fourier 級数のPoisson 和公式がJacobi の考えていたようなものを含めた「純粋数学」ではなはだ重要であることを理解したのは次の世代の人たちであった. [志村五郎[数学をいかに使うか」(ちくま学芸文庫. 2010) p122]
脚注65 に引用してあるHintikka の批判 は次の通り:
The most respectable prima facie reason that I can see to cultivate incomplete axiomatic set theory is to think of it as an approximation to the real thing, an approximation which can be made closer and closer by the addition of new axioms. This way of thinking nevertheless involves a serious mistake. There cannot exist a complete first-order axiom system for set theory, anyway. Hence the focus of attention should be on the principles of looking for new axioms rather than the justification of any particular candidates. For instance, the idea that set-theoretical axioms can be compared with each other in terms of the “naturalness” of their consequences is theoretically very shallow.
マーラー 4番 の初演は3番の前の年である.マーラーはシベリウスに向かって「 交響曲は世界のようなものでなければなりません。それはすべてを抱擁せねばいけません。 」といったという.別のところで「 《交響曲》ということばは、わたしにとっては、自分の思いどおりになるあらゆる技法上の手段によって、一つの世界を築くことを意味しています。 」と.
世紀末ウィーン