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鎮圧対象としての大衆の反乱
『大衆の反乱』が長々と引用されているが,われわれの責務はたぶん反乱の鎮圧である. 思うに,むかしむかし中央公論社は「自然」という雑誌を出していた.たとえば朝永先生の名著「スピンはめぐる」がはじめに連載され,Logergistのエッセイが連載された雑誌である.その300号記念(1971, 3月増刊号, 396pp)は仁科,湯川,朝永,坂田各氏の自然への寄稿の総集録で日本の物理学史資料としても貴重と思われる.廃刊になってひさしいが,あのような文化的香りもある自然科学の雑誌が消えたときが反乱が勝利した時だったのだ.
( 未完 )
次の引用はこれに関係している.(冒頭の数字は Testimonies 証 の中の番号)
III-960 「表音主義」を中心に据えた戦後の国語教育は,多分に心ある人たちの善意から生まれたものである.日本に生まれれば,どんな人間でも日本語を話すことはできる.ということは,どんなに教育を受ける機会を奪われたとしても,〈書き言葉〉というものを,〈話し言葉〉をそのまま書き表したものだとさえ規定すれば,人は文章を書けるようになる.つまり,「あいうえお」の五十音と最低限の漢字さえ覚えれば,国民すべてが文章を書けるようになる.〈書きことば〉を,国民すべてのもの―主婦はもちろんのこと,鋤をもった農民や,サイレンの音とともに工場入りする労働者のものにすることができる.それは,文化の否定どころか,文化を国民すべてのものにしようという文化の礼賛だとかれらは思っていたのであろう.
だが,文化とはそのようなものではない.
国語教育の理想をすべての国民が書けるところに設定したということ,国民全員を〈書く主体〉にしようとしたということ―それは,逆に言えば,国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるところに設定しなかったということである.ところが,文化とは,〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない.〈読まれるべき言葉〉がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが,それにもかかわらず,どの時代にも,引きつがれて〈読まれるべき言葉〉がある.そして,それを読みつぐのが文化なのである. [水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(筑摩書房 2008) p302]
これに関係している拙稿(岩波「科学」2000年11月号巻頭言,こ れは入試の模擬試験材料にもなっているようである; 全文は こちら )からの抜粋もあげておく.
大多数の人々のふだんの生活では,実験,観測が実際にできることは重要でない.初等的以上の計算が要ることもないだろう.だが, “したがって”いわゆる“ゆとりの教育”で一般の人々は必要な科学を身につけることができると短絡してはいけない.基礎的な実験,観測,計算などの修練を積むことは,科学を身につける効果的な道筋である.科学によって獲得された世界の見方は日常経験から容易に再発見できるようなものではないからだ.かなりの精進なしに人類文化の精華が継承されうると期待するのは安易にすぎよう.
源氏物語
原文を読むのに岩波日本古典文学大系の山岸徳平註の源氏物語全五巻は,かゆいところに手の届く脚注と文化的背景についての図入りの懇切な解説である補註によって初心者が読むのに最適である.著者は大学に入った夏休みに読み始めたが,桐壺では古語辞典を引く必要があった(高校の古文の成績はもちろん優秀であったが,その程度では原文を楽しめるという読み方は不可能) が,徹底的に単語帳を作って一巻を読むことで,そのあとはほとんど山岸本ならば楽しんだ読み方が可能だった.岩波の新日本古典文学大系の源氏物語全五巻は脚注を読むとこの分野の研究の進歩をみることができる(時には感激するほどの進歩がある).
原文を読んだ後では現代語訳はほぼ読むに耐えない(いかに,たとえば瀬戸内訳が無神経か例を引いて解説する予定.).一握りの例外があるだけだ.原文との違和感がない直訳に近い中井和子の「現代京ことば訳源氏物語」(全三巻, 大修館書店, 1991) は読むに値する.紫式部集や日記を読めばわかるように,紫式部という人は根は非常に活発な攻撃的な性格の人である.与謝野訳はきびきびとして,彼女がいま書けばこうなるだろうという意味での真の翻訳である.角川文庫で出まわっている『新新訳』の前身の『新訳』(これも手にはいるが著者はまともに読んでいない) に上田敏は次のように序文を寄せている:
源氏物語の文章は、当時の宮廷語、ことに貴婦人語にすこぶる近いものだろう。故事出典その他修辞上の装飾はずいぶん、仏書漢籍の影響も見えるが、文脈にいたっては、純然たる日本の女言葉である。—中略—源氏物語の文体は決して、浮華虚飾のものでない。軽率に一見すると、修飾の多すぎる文章かと誤解するが、それは当時の制度習慣、また宮廷生活の要求する言葉遣いのあることを斟酌しないからである。官位に付随する尊敬、煩瑣なる階級の差等、「御」とか、「せさせ給ふ」とかいう尊称語を除いてみれば、構成の型に囚われた文章よりも、この方が、よほど、今日の口語に近い語脈を伝えていて、抑揚頓挫などという規則には拘泥しない。自然のままの面白みが多いようだ。—中略—
したがってこの新訳は、みだりに古語を近代化して、一般の読者に近づきやすくする通俗の書といわんよりも、むしろ現代の詩人が、古の調べを今の節奏に移し合わせて、歌い出た新曲である。これはいわゆる童蒙のためにもなろうが、原文の妙を解し得る人々のためにも、一種の新刺激となって、すこぶる興味あり、かつ裨益する所多い作品である。音楽の喩えをを設けていわば、あたかも現代の完備した大風琴をもって、古代聖楽を奏するに比すべく、また言葉をかえていわば、昔名高かった麗人の面影を、その美しい娘の顔に発見するような懐かしさもある。美しい母の、さらに美しい娘O matre pulchra filia pulchrior (Hor. Carm. i 16) とまではいわぬ。もとより古文の現代化は免れ難い多少の犠牲は忍ばねばならぬ。しかしただ古い物ばかりが尊いとする人々の言をいれて、ひたすら品よくとのみ勉め、ついにこの物語に流れている情熱を棄てたなら、かえって原文の特色を失うにも到ろう。「吉祥天女を思ひがけむとすれば、法気づきて、くすしからむこそ侘びしかりぬべけれ」。予はたおやかな原文の調べが、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびとした遒頸の口語脈に変じたことを喜ぶ。この新訳は成功である。 [上田敏「与謝野晶子の新訳源氏物語序文」明治45 年1 月]
これ以上の推薦文はない.
本文がよくないとはいえ,北村季吟の『湖月抄』に宣長の『玉の小櫛』などの結果を加えた有川武彦校訂「源氏物語湖月抄増注」上中下(講談社学芸文庫314-6)は圧巻である(読み通してはいないが).少しめくっただけでも宣長のすごさがだれにでも実感できる.
現代語訳ではないがある意味の「真の」翻訳(映画化?)をめざしているのが橋本治「窯変源氏物語」である.
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