証 III 101-200
小林秀雄全集 徒然草 イデーン 玉葉和歌集 式子内親王集 藤原俊成「長秋詠藻」 藤原定家「拾遺愚草」 風雅和歌集
1101 芸術を愛する人々は、美というものを定義しようとも証明しようともしない、愛してさえいれば、そんな必要がないからではなく、愛していることが美の定義も証明も不可能だとはつまり教えてくれているからである。 [小林秀雄「アランの『芸術論』」(1941.6) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p94]
1102 彼の作品の複雑さに目を見張って兎や角言う人は、彼の作品という複雑な和音が、単音に聞えてくるまで我慢の続かぬ人だけである。
自分が信じた或る名状し難い、極めて単純な真理を一生を通じ、あらゆる事に処して守り了せようとした。その為に彼がめぐらさねばならなかった異常な工夫、それが、彼の作の異常さに他ならない。 [小林秀雄「川端康成」(1941.7) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p104]
1103 嘘をつくなという掟がある訳ではないとしても、嘘をつく時は必度自信のない時だという事は知って置く方がよい。 [小林秀雄「道徳について」小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p113]
1104 空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曳いて。そうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、という事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであろう。そういうふとした思い付きが、まるで藍色の僕の頭に真っ白な水脈を曳く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作って拡がったのだ。そしてそういう光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかった筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去った彼らの心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映ったに相違ない。彼らは、恐らく生涯それを忘れる事が出来まい。そんな風に想像することが、何故だか僕には楽しかった。太陽は輝き、海は青い、いつもそうだ、戦の時も平和の時も、そう念ずる様に思い、それが強く思索している事の様に思われた。 [小林秀雄「戦争と平和」(1942.2) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p115]
1105 「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。 [小林秀雄「當麻」(1942.4) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p115]
1106 知り尽くした材料を以てする感傷と空想を交えぬ営々たる労働、これは又大詩人の仕事の原理でもある。『ガリア戦記』という創作余談が、詩の様に僕を動かすのに不思議はない。 [小林秀雄「シイザアの『ガリア戦記』について」(1943.4) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p177]
1107 赤人は富士山を見て、言語に絶する「言絶えて」珍しく面白き富士山の美しさを見た。到底言葉で言い現すことは出来ぬ。だが、これを言葉にしなければならぬ。そこに詩人の本當の技巧がある。苦しみがある。そういう苦しみを通じないと、詩人は決して存在に肉迫することは出来ぬ。従って言葉とならぬ。 [小林秀「文学者の提携について」(1943.8) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p209]
1108 抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術に於ける形式の必然性の意味でもある。 [小林秀雄「モオツァルト」(1946.7) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p226]
1109 ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。—中略—而も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺していない。
これは、不平家には難しい、殆ど解き得ぬ真理であるが、不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが、環境と闘い環境に打勝つという言葉も殆ど理解されてはいない。ベエトオヴェンは己れと戦い己れに打勝ったのである。言葉を代えて言えば、強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。不足な相手と戦えるわけがない。好もしい敵と戦って勝たぬ理由はない。命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。 [小林秀雄「モオツァルト」(1946.7) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p249]
1110 モオツァルトは、何を狙ったのだろうか。恐らく、何も狙いはしなかった。現代の芸術家、のみならず多くの思想家さえ毒している目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった。 [小林秀雄「モオツァルト」(1946.7) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p250]
1111 独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。 [小林秀雄「モオツァルト」(1946.7) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p251]
1112 現代の知識人達は、もはや「善悪の彼岸」という様な思想には驚かぬ。何故かというと、道徳の歴史的社会的相対性という考えが、彼らの衰弱した懐疑が眠る柔らかい枕となって了ったからである。 [小林秀雄「「罪と罰」について」(1948.10) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p110]
1113 人間は脆弱な葦が考える様に、まさしくその様に、考えなくてはならぬ。これがパスカルの言葉の真意である。 [小林秀雄「「罪と罰」について」(1948.10) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p113]
1114 歴史観という言葉は、或る立場からする歴史の批判或いは解釈という意味に専ら使われているが、観という言葉には、もともと或る立場に立って、或る立場に頼ってものを見るという事を強く否定する意味合いがある、現実の一切のカテゴリカルな限定を否定して、現実そのものと共鳴共感するという意味合いがある、という事は既にお話しした通りです。 [小林秀雄「私の人生観」(1949.7) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p163]
1115 物を作らぬ人にだけ美は観念なのである。 [小林秀雄「私の人生観」(1949.7) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p178]
1116 詩人は専門語など勝手に発明しやしない。日常の言語を使う。 [小林秀雄「私の人生観」(1949.7) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p181]
1117 例えば、平和だとか、人道だとか、自由だとかいう観念は、万人の望む普遍的な観念である。併し、それが観念である限り、人々を沈黙させ共感させる力はない。だから、人々はそこから喋り始める。誰も彼もが合理的に喋っている積りなのだが、もともと厳密に出来あがってはおらぬ定理から出発したのだから、曖昧な系が幾つも幾つも生ずる。つまり、平和という観念は、遂に論戦を生まざるを得ない。そんな道を辿るということが、一体、人間が思索するという事なのか。 [小林秀雄「私の人生観」(1949.7) 小林秀雄全集7巻(新潮社、1955)p182]
1118 すでに自分で勉強したことを講義で聴くのはよい復習になったが、知らないことをはじめて講義で聴いても結局自分でゆっくり適当な本を読んでみなければ分からなかった。 [小林昭七「小学校から大学卒業まで」 数学の楽しみ9(日本評論社、1998) p10]
1119 21 の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、林業、金融など)が民営移管されたか、ほとんどが外国資本に売却された。・・・「国家公務員」は1985 年の8万5000 人から1996 年の3万4000 人に減少した。」その結果「富の分極化の進行は速く、1984 年と1996 年の間に、収入の最上位を占める5%は国民所得の配分を25 %増やしたし、上位10 %は15 %増やした。一方、下層の80 %においては所得は減っており、割合からいうと所得水準が低いほど減り方は大きい。 [大井玄・大塚柳太郎「ニュ-ジ-ランドの行政改革と高等教育および科学研究への影響 予備調査報告」[辻下氏34-5]]
1120 孟軻氏の言に曰く、「食前方丈、侍妾数百人、吾志を得るとも為ず」と。軻や道行はれず、言ふこと聴かれず、縦令此の楽しみを得んと欲するも、能はざるなり。故に斯の言あるのみ。 [成島柳北「柳橋新誌 初編」新日本古典文学大系本p350]
1121 心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。さる六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
平静十一年七月十二日 江藤淳 [江藤淳「遺言」 文芸春秋創刊八十周年新年特別号p266]
1122 まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで [尾上菊五郎(六代目) 「辞世」 文芸春秋創刊八十周年新年特別号p301]
1123 あの世にも粋な年増がゐるかしら [三遊亭一朝「辞世」 文芸春秋創刊八十周年新年特別号p306]
1124 十河信二ら新幹線の開発に携わった旧満鉄関係者からすると、満鉄のエースナンバーである列車ナンバー1と2の「ひかり」の名を、東海道新幹線で復活させることは悲願でもありました。ちなみに満鉄の列車ナンバー3,4は「のぞみ」でした。 [西木正明+福田和也「石原莞爾と里見甫の満州」 文芸春秋創刊八十周年新年特別号P200 西木の発言]
1125 今日となっては、学問の自律的価値なぞ解り切った事だ、と誰も言うが、解り切った事になった代わり、これに無上の喜びを感ずる事も出来なくなったことには気付かない。学問をする喜びが感じられないところに、学問に自律的価値があるかないかというような問題は無意味になるということには、もっと気が付かない。 [小林秀雄「ヒューマニズム」 考えるヒント2 P87]
1126 I’m against patents on things that any student should be expected to discover. — Algorithms are inherently mathematical things that should be as unpatentable as the value of π. [D Knuth, “All questions answered” Notices AMS 49 318 (2002)]
127 ケリーとスタルスキーによれば、協力的な人びとの方は、自分たちとおなじ協力的な人びとだけでなく、競争的な人びともいるということを現実として認めている。だが、競争的な人びとのほうは、自分たち以外の人びとも実際にはすべて競争的だと信じ込んでいるのである。 [A. Kohn, 「競争社会をこえて」(山本啓、真水康樹訳 法政大学出版局 1994 原著1986, 1992)p50]
128 In fact, you can learn to be an expert connoisseur of music without being able to play a note on any instrument. Of course, music would come to a halt if nobody ever learned to play it. But if everybody grew up thinking that music was synonymous with playing it, think how relatively impoverished many lives would be. Couldn’t we learn to think of science in the same way? [R. Dawkins, Unweaving the rainbow (Mariner Books, 1998), p 36]
129 私の超越論的諸現象の領野のうちにおいては、私は、もはや人間という自我として理論的に妥当することはなく、かつまた、私にとって存在するものとして妥当している世界の内部の実在的客体であることも、もはややめている。そうではなく、そこでは、私は、専ら、この世界に対する主観として定立されるのであり、また世界そのものの方も、私にとってかくかくしかじかに意識されたものとして定立され、つまり、私にとってかくかくしかじかに現出し、信じられ、述定的に判定せられ、評価され等々するものとして定立されるのである。したがってその結果、世界の存在確実性そのものも、また同時に、「現象」に属することになり、その点は、私の意識仕方やその「内容」のそのほかの諸様態が、現象に属するのと、何ら異ならないのである。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p22 渡辺二郎訳(みすず書房)]
130 哲学は、ひとえにただ、超越論的現象学的態度(=おのれ自身の主観性へと立ち戻って省察してみること—引用者)における学としてのみ、開始しうるし、かつまた爾後の一切の哲学的営為においても、成果を上げることが出来るのである。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p25 渡辺二郎訳(みすず書房)]
131 私は以前と同様にその後も相変わらず、通常の哲学的実在論のどんな形態をもみな、原理的に背理と見なしているし、また、実在論が種々の理由を挙げて自ら反対し「反駁して」いるところのどんな観念論をもみな、やはり等しく、原理的に背理であると見なしている。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p29渡辺二郎訳(みすず書房)]
132 現象論的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確にいえば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を解明することにあるのである。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p32 渡辺二郎訳(みすず書房)]
133 世界が存在するということ、世界が、絶えず全般的な合致へと合流してゆく連続的な経験において、存在する全体宇宙として与えられているということ、このことは、完全に疑いを容れない。けれども、生と実証哲学とを支えるこの不可疑性を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれでまた全く別種の事柄であろう。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p32 渡辺二郎訳(みすず書房)]
134 次のように信ずる人、すなわち、通常の意味での経験の豊かな底地や、或いは精密諸科学の「確固たる諸成果」や、或いは実験的もしくは生理学的心理学や、或いはどのようであれともかく改良された論理学および数学等を、引き合いに出して、そこに哲学上の前提を見出せると思い込んでいるような人、そのような人は、本書を迎え入れる受容力をあまり多く持ちえないであろう。 [フッサール「イデーンI」 あとがき p45 渡辺二郎訳(みすず書房)]
135 定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、されにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。 [スピノザ「エチカ」 第二部(畠中尚志訳 岩波文庫1951)p152]
136 散歩は近代になって西洋人が持ち込んだと大佛次郎はいう。その散歩を深めてゆき、都市散策、さらに都市彷徨として、文学作品に結集させていったのは日本では荷風が最初だろう。都市をあるくこと、群集を楽しむことが「ひとつの芸術」になりうることを、荷風はボードレールを通して知ったのである。 [川本三郎「孤独という隠れ家の発見—永井荷風のフランス体験」(図書2001-12) p16]
137 群集があふれている筈の都市を歩きながらも、荷風は終始、ひとりである。むしろ、ひとりであることの豊な孤独を味わうためにこそ、町から町へと歩いている。 [川本三郎「孤独という隠れ家の発見—永井荷風のフランス体験」(図書2001-12) p17]
138 有力な抵抗は、大規模な国家の偉大な王が行うとは限らないのである。むしろヨーロッパ列強に打撃を与えたのは、王や国家をもたない無頭制の小社会の方だった。彼らは機動性に富み、小規模なゲリラ戦を得意としていた。なによりもヨーロッパ人にとって困ったのは、交渉すべき相手が見つからなかったことだ。統一的な政治権力の不在は、社会全体としての降伏を不可能にしたし、平定後の協力勢力の不在は、彼らに駐屯の出費を強いた。一人が降伏しても、それはその他の集団が降伏したことにはならなかったからだ。したがって、ナイジェリアのベヌエ河谷に住むティブ、イボといった国家なき社会の占領は、イギリスにとって他地域に比べて圧倒的に高価なものについてしまった。 [宮本正興、松田素二編「新書アフリカ史」第13章(松田素二)(講談社現代新書1997) p403-4]
139 しかし事実に即してみるとこの国家(=明治国家)は、経済的には長い列島社会の歴史の中で蓄積されてきた高度な手工業の技術、生産方法、あるいは商業・信用経済の極度の発達した実態を継承し、また高いレベルの読み書き算盤の能力を持つ一般人民の広大な基盤に支えられて、はじめて存立、発展しえたのであり、もとよりすべてが「一新」されたわけでは決してなかった。
—中略—
また現在まで用いられつづけている商業上の実用的な用語—市場、取引、相場、手形、切手、株式、寄付、大引などの言葉には翻訳語がまったくなく、古代・中世にまで遡る在来の語であるという事実からも、同じことを読みとることができる。この分野では欧米のシステムにただちに応ずるだけの実態を、日本の社会は達成していたのである。 [網野喜彦「日本社会の歴史(下)」(岩波新書、1997) p150-1]
140 昔より、賢き人の富めるはまれなり。 [「徒然草」第18 段]
141 おりにふれば、何かあはれならざらむ。 [「徒然草」第21 段]
142 雪の面白降りたりし朝、人のがり言ふべきことありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返り事に、「此雪、いかゞ見る」と、一筆のせ給はぬほどのひがひがしからむ人の仰せらるゝこと、聞き入べきかは。返ゝくちおしきみ心なり」と言ひたりしこそ、おかしかりしか。 [「徒然草」第31 段]
143 「久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらむと、わが怠り思い知られて言の葉なき心ちするに、女の方より、「仕丁やある、ひとり」など言ひおこせたる、ありがたくうれし。さる心さましたる人ぞよき」と人の申侍し、さもあるべきことなり。 [「徒然草」第36 段]
144 ある人、法然上人に、「念仏の時、眠りにおかされて、行を怠り侍こと、いかゞして此障りを除き侍らん」と申ければ、「目の覚めたらむほど念仏したまへ」と答えへられける、いと尊かりけり。
又、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
又、「疑いながらも念仏すれば往生す」と言はれけり。これも又尊し。 [「徒然草」第39 段]
145 今後物理学が物質科学から離れてその守備範囲を広げるにあたっても、これまでに蓄積されてきた財産から汲み取るものは大きいと思う。これをぬかして流行ばかり追いかけても底の浅い学問しか出てこないであろう。 [川崎恭治「非平衡と相転移」(朝倉書店, 2000) p4-5.
146 「道心あらば住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後の世を願はむにかたかるべきかは」と言ふは、更に後の世知らぬ人なり。げには、此世をはかなみ、かならず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからむ。心は縁に引かれて移る物なれば、閑かならでは、道は行じがたし。 [「徒然草」第58 段]
147 狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人也。驥を学ぶは驥のたぐひなり。舜を学は舜の輩也。偽ても賢を学ばむを賢といふべし。 [「徒然草」第85 段]
148 たゞ迷ひをあるじとして、かれ(=女)に従ふ時、やさしくもおもしろくも覚ゆべきことなり。 [「徒然草」第107 段]
149 食は人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし。 [「徒然草」第122 段]
150 京に住む人、急ぎて東山に用ありて、すでに行着きたりとも、西山に行て其益勝るべきことを思ひたらば、門より帰りて、西へ行べきなり。「こゝまで着きぬれば、此事をば先言ひてん、日を指さぬことなれば、西山のことは、帰りて又こそ思ひ立ため」と思ふゆへに、一時の懈怠、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。 [「徒然草」第188 段]
151 今日は其事をなさむと思へど、あらぬ急ぎ先出で来てまぎれ暮し、待つ人は障りて、頼めぬ人は来り、頼みたる方のことは違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつることは事無くて、安かるべきことはいと心ぐるし。日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年のうちもかくのごとし。一生の間も又しかなり。
かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、をのづから違はぬこともあれば、いよいよ物は定がたし。不定と心えぬるのみ、まことにて違はず。 [「徒然草」第189 段]
152 神仏にも、人のまうでぬ日、夜、まいりたる、よし。 [「徒然草」第192 段]
153 慈鎮和尚、一芸ある者をば下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、此信濃入道を扶持し給けり。 [「徒然草」第226 段]
154 虚空、よく物を容る。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心というものの無きにやあらむ。心に主あらましかば、胸の内にそこばくのことは入来たらざらまし。 [「徒然草」第235 段]
155 梅の花かうばしき夜のおぼろ月にたゝずみ、御垣が原の露分け出でん在明の空も、我身のさまにしのばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。 [「徒然草」第240 段]
156 八になりし年、父に問云、「仏はいかなる物にか候らん」と言ふ。父が言はく、「仏には、人のなりたるなり」と。又問ふ、「人は何として仏になり候やらむ」と。父又、「仏の教へ候ける」と。又問ふ、「教へ候ける仏をば、何が教へ候ける」と。又答、「それも又、先の仏の教へによりてなり給ふなり」。又問、「その教へ始めける第一の仏は、いかなる仏に候ける」と言ふ時、「空よりや降りけん、土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と諸人に語りて興じき。[「徒然草」第243 段]
157 常不軽菩薩のあらゆる人々を未来の仏として尊敬するという実践(が)「法華経」の核心である。 [菅野博史「法華経入門」(岩波新書2001)p216]
158 昭和44年、はじめて一冊の本をかいた。思いで深い「式子内親王」である。それからもう二十年以上も歳月が流れた。
その後、式子内親王については、その屈折した恋の歌の対象として法然上人が浮かび上がるということもあって、私の若い日の式子内親王像はその後半生の内面考察に修正を加えねばならない点を含んでいるといえるが、このたびは書きおろした日のままのかたちでちくま学芸文庫に入ることとなった。 [馬場あき子「式子内親王」あとがき (筑摩学芸文庫1992) p265]
159 未だ知りて行はざる者有らず。知りて行ざるは、只是未だ知らざるなり。—中略—好色を見るは知に属し、好色を好むは行に属す。只かの好色を見る時、已に自ら好み了ぬ。是見了りて後、又この心を立て去きて好むにあらず。悪臭を聞ぐは知に属し、悪臭を悪むは行に属す。只かの悪臭を聞ぐ時、已に自ら悪み了ぬ。是聞ぎ了りて後、又別にこの心を立て去きて悪むにあらず。
見好色属知、好好色属行。只見那好色時、已自好了。不是見了後、又立箇心去好。聞悪臭属知、悪悪臭属行。只聞那悪臭時、已自悪了。不是聞了後、別立箇心去。 [伝習録巻上(近藤康信著、明治書院1971)p37-8]
160 精は是一の功、博は是約の功。 [伝習録巻上(近藤康信著、明治書院1971)p43]
161
18 長閑にもやがてなりゆく景色かな 昨日の日影けふの春雨(院御製)(院=伏見院)
28 花おそき外山の春の朝ぼらけ かすめるほかは又いろもなし(二品法親王覚助)
29 さえかへり山風あるゝ常盤木に 降りもたまらぬ春の沫雪(前大納言為家)
91 山もとの霞のそこのうすみどりあけて柳の色になりぬる(従二位兼行) [玉葉和歌集 巻一春歌上]
162
173 年をへて変らず匂ふ花なれば 見る春毎にめづらしきかな(院中務内待)
186 八重匂ふ花を昔の志るべにて 見ぬ世を志たふ奈良の古郷(前大僧正範憲)
193 春の夜の明けゆく空は 桜さく山の端よりぞ白みそめける(三条入道左大臣)
196 山本の鳥の声より明けそめて 花もむらむら色ぞ見え行く(永福門院)
197 あはれ暫しこの時過ぎてながめばや 花の軒端のにほふ曙(従三位為子)
209 雲にうつる日影の色もうすくなりぬ 花の光の夕ばへの空(藤原為顕)
210 目にちかき庭の桜のひと木のみ霞みのこれる 夕ぐれの色(九条左大臣女)
240 我身世にふるともなしの詠めして 幾春風に花の散るらむ(定家)
248 降りくらす雨静かなる庭の面に 散りてかたよる花の白波(前関白太政大臣)
259 長閑なる入相の鐘は響きくれて 音せぬ風に花ぞ散りくる(前参議清雅) [玉葉和歌集 巻二春歌下]
163
306 月影のもるかと見えて 夏木立志げれる庭に咲ける卯の花(前中納言経親) [玉葉和歌集 巻三夏歌]
164
455 秋浅き日影に夏はのこれども 暮るゝまがきは萩のうは風(前大僧正慈鎮)
499 なびきかへる花の末より露ちりて 萩の葉白き庭の秋かぜ(院御製)
500 かずかずに月の光もうつりけり ありあけの庭の露の玉萩(入道前太政大臣)
509 志をりつる風は籬に志づまりて 小萩が上に雨そゝぐなり(永福門院)
541 吹き志をり四方の草木のうら葉見えて 風に白める秋の曙(永福門院内待=裏葉の内待)
628 宵のまの村雲つたひ影見えて山の端めぐる秋のいなづま(院御製) [玉葉和歌集 巻四秋歌上]
165
634 窓あけて山のはみゆる 閨の内に枕そばだて月をまつかな(信実朝臣)
640 雲はらふ外山の峯の秋風に まきの葉なびき出づる月かげ(従三位範宗)
681 世を祈る我がたつ杣のみねはれて 心よりすむ秋のよの月(前大僧正源恵)
687 海のはて空のかぎりも 秋の夜の月の光の内にぞありける(従二位家隆)
688 人もみぬ由なき山の末までに すむらむ月の影をこそ思へ(西行法師)
689 こしかたはみな面影にうかびきぬ 行末てらせ秋の夜の月(前中納言定家)
697 何となく過ぎこし秋の数ごとに のちみる月の哀とぞなる(前中納言定家)
700 心すむかぎりなりけり いそのかみ古き都のありあけの月(前大僧正慈鎮)
707 身はかくてさすがある世の思出に また此秋も月をみる哉(従二位隆博)
708 庭白くさえたる月もやゝ更けて 西の垣ねぞ影になりゆく(従二位兼行)
721 小倉山みやこの空はあけはてゝ たかき梢にのこる月影(前大納言為家) [玉葉和歌集 巻五秋歌下]
166
938 早き瀬は猶もながれて 山川の岩間によどむ水ぞこほれる(権中納言公雄)
941 唯ひとへ上は氷れる川の面に ぬれぬ木の葉そ風に流るゝ(九条左大臣女)
951 今朝みれば遠山志ろし 都まで風のおくらぬ夜はのはつ雪(中務卿宗尊親王)
976 志たをれの竹の音さへたえはてぬ 余りに積る雪の日数に(民部卿為世)
977 暁につもりやまさる そともなる竹の雪をれ声つづくなり(藤原行房)
1037 年くれて我世ふけゆく 風の音に心のうちのすさまじきかな(紫式部) [玉葉和歌集 巻六冬歌]
167
春は先づ著く見ゆるは 音羽山峰の雪より出る日の色
色つぼむ梅の木の間の夕月夜 春の光を見えそむる哉
跡絶えて幾重も霞め 長く我が世を宇治山の奥の麓に
花はいさそこはかとなく見渡せば 霞ぞかをる春の曙
儚くて過にし方を数れば 花に物思ふ春ぞへにける(以上、春)
詠れば月は絶行く 庭の面にはつかに残る蛍ばかりぞ
さらずとて暫し忍ばむ昔かは 宿しもわかでかをる橘(以上、夏)
夕霧も心の底に結びつゝ 我が身一つの秋ぞ更け行く
それながら昔にもあらぬ月影に いとど詠を賤の苧環(以上、秋)
今日迄も流石に争で過ぬらむ 有ましかばと人を云つゝ
見しことも見ぬ行末も 仮初の枕に浮ぶまぼろしの内
浮雲の風にまかする大空の 行へも知らぬ果ぞ悲しき
始なき夢を夢とも知ずして 此終にや覚果てぬべき(以上、雑)
山深み春とも知らぬ松の戸に たえだえ懸る雪の玉水
袖のうへに垣根の梅は音づれて 枕にきゆる転寝の夢
詠つる今日は昔になりぬとも 軒ばの梅よ我を忘るな
夢の内も移ろふ花に風ふけば 静心なき春のうたゝね
花は散て其色となく詠むれば 虚しき空に春雨ぞふる(以上、春)
五月雨の雲は一つに閉果てゝ ぬき乱れたる軒の玉水
かへりこぬ昔を今と思ひねの 夢の枕に匂ふたちばな(以上、夏)
荒暮す冬の空哉 かき曇りみぞれ横ぎりかぜきほひつつ(冬)
暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる 長きねぶりを思ふ枕に(鳥)
このよには忘れぬ春のおもかげよ 朧月夜の花の光に
今朝見つる花の梢やいかならむ 春雨薫る夕暮れのそら
我宿に孰れの峯の花ならむ 堰入るゝ瀧と落てくる哉
帰るより過ぎぬる空に雲消て いかに詠めむ春の行かた(以上、春)
待ちまちて夢かうつつか 時鳥ただひとこえの曙のそら(夏)
きほひつつ先だつ露を数へても 浅茅が末を尚頼む哉
年ふれどまだ春知らぬ谷の内の 朽木の本の花を待哉(以上、雑) [式子内親王集]
168 なぜか、式子は秋の歌が拙い。というより類型的にうたうことしかできなかったと言った方がよい。 [馬場あき子「式子内親王」 (筑摩学芸文庫1992) p178]
169
29 庭の面の苔路のうへに 唐錦しとねにしける常夏の花
30 いつとても惜しくやは非ぬ 年月を御禊に捨る夏の暮哉
48 夢さめむ後の世迄の思出に 語るばかりも澄める月哉
110 埋木となり果てぬれど 山桜惜む心はくちずもある哉
123 神山にひき残さるゝ葵草 時にあはでも過しつるかな [藤原俊成「長秋詠藻」上]
170
1386 契りしをよもと頼まぬ此夕べ まつとはなしに志づ心なき(掌侍遠子)
1394 今の間もいかにか思ひなりぬると 待つ宵しもぞ静心なき(朔平門院)
1408 頼めねば人やはうきと思ひなせど 今宵も遂にまた明けに鳧(永福門院)
1444 別れ路の名残の空に月はあれど 出つる人の影は止まらず(永福門院内待)
1455 嘆侘び空しく明けし空よりも 勝りてなどか今朝は悲しき(常磐井入道前太政大臣)
1456 思へども猶あやしきは 逢ふ事のなかりし昔なに思ひけむ(天暦御製)
1468 中空にひとり有明の月をみて 残る隈なく身をぞしりぬる(和泉式部) [玉葉和歌集 巻十恋歌二]
171
1578 何ごとのかはるとなしに 変り行く人の心のあはれ世の中(遊亀門院)
1590 見てしもに勝る現の思ひかな それと計りのうたゝ寝の夢(入道前太政大臣女) [玉葉和歌集 巻十一恋歌三]
172
512 むかし思ふ草の庵のよるの雨に 涙なそへそやま時鳥
513 雨そゝぐはな立花よ 風過ぎてやま郭公雲に鳴くらむ
534 世の中を背きて見れど 秋の月同じ空にぞ猶廻りける [藤原俊成「長秋詠藻」下]
173
1679 うき人にうしと思はれむ人もがな 思ひ知せて思知られむ(登蓮法師)
1682 はかなさはある同じ世も頼まれず 只目の前のさらぬ別れに(安嘉門院四條) [玉葉和歌集 巻十二恋歌四]
175
1728 その頃は頼まず聞きし言の葉も うき今ならば情ならまし(左大臣)
1741 せめてさらば今一たびの契ありて いはばや積る恋も恨も(従三位為子)
1748 聞もせず我もきかれじ 今は只独りひとりが世になくもがな(従三位頼政)
1771 頼むべき方もなければ 同世にあるは有るぞと思ひてぞふる(和泉式部)
1777 夕暮れの空こそ今は哀れなれ まちもまたれし時ぞと思へば(章義門院小兵衛督)
1778 折々はつらき心もみしかども 絶果つべしと思ひやはせし(関白前太政大臣)
1788 あらましの今一度を待得ても 思ひしことのえやは晴るくる(永福門院内待) [玉葉和歌集 巻十三恋歌五]
176
1847 嬉しさも匂ひも袖にあまりけり 我がため折れる梅の初花(信生法師)
1850 梅が香はみし世の春のなごりにて 苔の袂にかすむ月かげ(中務卿宗尊親王)
1866 我はたゞ君をぞ惜しむ 風を痛み散りなむ花は又も咲きなむ(花園左大臣)
1868 春の花眺むるまゝの心にて いく程もなき世をすぐさばや(前大僧正慈鎮)
1889 年をへて花のみやこの春にあひぬ 風を心に任せてしがな(平泰時朝臣)
1891 見し世さへ忘る計に里はあれて 花も老木の春やふりぬる(法印猷圓)
1892 ふる郷の老い木の櫻きて見れば 花にむかしの春ぞのこれる(藤原基頼)
1898 住む人も宿もかはれる庭の面に みし世を残す花の色かな(諄子内親王)
1918 あらずなる浮世のはてに 時鳥争で鳴く音の変らざるらむ(建礼門院右京大夫)
2003 枯れわたる尾花がすゑの秋風に 日影もよわき野べの夕暮れ(読人志らず)
2006 夕日さす峯のときは木その色の秋ならぬしも秋は寂しき(読人志らず)
2009 今朝のまの霧より奥や時雨つる 晴行く跡の山ぞ色こき(法印仲覚)
2027 しぐれつる雪は程なく峯こえて 山の此方に残るこがらし(法印信雅)
2028 秋風と契りし人はかへりこず 葛のうら葉の霜がるゝまで(中務卿宗尊親王) [玉葉和歌集 巻十四雑歌一]
177 行列力学を見たヒルベルトは、固有値が物理量として出てくる背後には微分方程式があると考えた方がよいとハイゼンベルクに述べたと伝えられていますが、数学をあまり重要視していなかったハイゼンベルクはヒルベルトの忠告を無視しました。 [上野健爾「なぜ数学を学ぶのか」数学の楽しみ24 p134]
178
2082 浦遠くならべる松の木のまより 夕日うつれる波の遠かた(従三位為子)
2087 浪の上に映る夕日の影はあれど 遠つこ島は色くれにけり(前大納言為兼)
2117 月のいる枕の山は明けそめて 軒端をわたるあかつきの雲(院御製)
2145 降りそそぐ軒端の雨の夕暮に 露こまかなるささがにの糸(前中納言資信女)
2151 月をこそ詠めなれしか 星の夜の深き哀れをこよひしりぬる(建礼門院右京大夫)
2143 音もなく夜は更けすぎて 遠近の里の犬こそ声あはすなれ(従三位為子) [玉葉和歌集 巻十五雑歌二]
179
597 松蔭に咲ける菫は 藤の花散敷く庭と見えもする哉
602 夏も尚心はつきぬ 紫陽花のよひらの露に月も澄けり [藤原俊成「長秋詠藻」下]
180
59 今もこれ過ぎても春の面影は 花みる道のはなの色々(初学百首、養和元年四月)
70 菖蒲草かをる軒端の夕風に 聞くここちする時鳥かな(二見浦百首、文治二年) [藤原定家「拾遺愚草」上]
181 探検家一人一人のプロフィールを見ると、そこには新鮮な文明批判や旺盛な知的好奇心をもった魅力的な個性がある。しかし彼らの存在は、一九世紀のヨーロッパを特徴づける近代国民国家の成立と膨張の自己運動によって規定されていた。彼らの動機は五つのC によってまとめられる。すなわち、好奇心(Curiosity)、文明化(Civilization)、キリスト教化(Christianization)、商業(Commerce)、そして最後に植民地化(Colonialization)である。 [宮本正興、松田素二編「新書アフリカ史」第1 0 章(松田素二)(講談社現代新書1997) p285]
182 植民地主義が人道に反するものとして国際的に否定されるようになったのは、第二次世界大戦のことであり、それまでは、人道主義・博愛主義と植民地主義は相容れる存在として認められてきた。もちろん、ヨーロッパ列強は自らの植民地主義を正当化するため、それなりのもっともらしい論理を用意した。社会進化論や白人優越主義から発展して、「未開野蛮」で「自己発展の能力に欠ける」アフリカ人を教化し文明開化させることとアフリカの潜在的な富を開発することは、先進的なヨーロッパ諸国の責務であると主張したのである。 [宮本正興、松田素二編「新書アフリカ史」第1 1 章(松田素二)(講談社現代新書1997) p315]
183
2290 雲のうへの物思ふ春は 墨染にかすむ空さへ哀れなるかな(紫式部)
2296 散り残る花だにあるを 君がなど此春ばかり止らざりけむ(土御門内大臣)
2302 いかにいひいかにとはむと思ふまに 心も盡て春も暮にき(皇太后宮大夫俊成)
2324 孰れの日いかなる山の麓にて もゆる烟とならむとすらむ(選子内親王)
2328 先だつを哀れ哀れといひいひて とまる人なき道ぞ悲しき(従三位親子)
2371 思ひきや三とせの秋を過しきてけふ又袖に露かけむとは(従二位行子)
2376 年へてもさめずかなしき夏の夜の 夢に夢そふ秋の露けさ(従三位為子)
2422 惜むべき人は短きたまの緒に うき身ひとつの長き夜の夢(前中納言定家) [玉葉和歌集 巻十七雑歌四]
184
58 長き日に遊ぶいとゆふ 静にて 空にぞ見ゆる花の盛りは
07 さ筵や待つ夜の秋の風ふけて 月を片敷く宇治の橋姫
18 月影は秋より奥の霜おきて 木深く見ゆる山の常盤木
12 見る夢は荻の葉風に途絶えして 思ひもあへぬ閨の月影
25 明けば又秋の半も過ぎぬべし 傾く月の惜しきのみかは
35 四方の空一つ光に磨れて ならぶ物なき秋の夜の月 [藤原定家「拾遺愚草」上花月百首 建久元年秋左大将家]
185
02 夕立のくもまの日影はれそめて 山の此方を渡る白鷺 [藤原定家「拾遺愚草」上十題百首 建久元年冬左大将家]
186
2479 稚けなし老いて弱りぬ 盛にはまぎらはしくて遂に暮しつ(高辯上人)
2480 なれみるもいつまでかはと哀なり わが世ふけゆく行末の月(従三位為子)
2493 今はとて影をかくさむ夕べにも 我をばおくれ 山のはの月(式子内親王)
2532 世の中を思ふも苦し 思はじと思ふも身には思ひなりけり(本院侍従)
2557 こし方の夢現をぞわきかぬる 老のねぶりのさむるよなよな(法印公禅)
2562 すまばやとよそに思ひし 古への心には似ぬ山のおくかな(前大僧正道昭)
2582 春の花秋の紅葉を見しともの なかばは苔のしたにくちぬる(権中納言俊忠)
2584 みし程の昔をだにも 語るべき友もなき世になりにける哉(藤原則俊朝臣)
2586 思出る昔は遠くなりはてゝ まつ方近き身をいかにせむ(二條院参河内待)
2595 われさりて後に忍ばむ人なくば 飛びて帰りね たか島の石(高辯上人)
2597 こし方を一夜のほどゝみる夢は さめてぞ遠き昔なりける(藤原秀茂) [玉葉和歌集 巻十八雑歌五]
187
5 山の端を出づる朝日の霞むより 春の光は世に満ちにけり(後西園寺入道前太政大臣)
23 深く立つ霞のうちにほのめきて 朝日籠れるはるのやまの端(九條左大臣女)
24 出づる日の移ろふ峯は空晴れて 松よりしたの山ぞ霞める(前中納言為相)
27 沈み果つる入日のきはにあらはれぬ 霞める山の猶奥の山(前大納言為兼)
28 長閑なるかすみの空のゆふづく日 傾ぶく末に薄き山の端(従二位為子)
42 つくづくと永き春日に 鶯の同じ音をのみ聞きくらすかな(徽安門院)
50 春の色は花とも言はじ 霞よりこぼれて匂ふうぐひすの声(後京極摂政前太政大臣)
52 梅の花にほふ春べの朝戸あけに いつしか聞きつ鶯のこゑ(藤原為基朝臣) [風雅和歌集 巻一春歌上]
188
87 はつかなる柳の糸の浅みどり 乱れぬほどの春かぜぞ吹く(権大納言公宗母)
104 見るまゝに軒の雫はまされども 音には立てぬ庭のはる雨(従三位親子)
120 春日影世は長閑にて それとなく囀りかはす鳥のこえごえ(儀子内親王)
189 花の上に志ばし移ろふ夕附日 入るともなしに影きえに鳧(永福門院) [風雅和歌集 巻二春歌中]
189
224 梢よりよこぎる花を吹きたてゝ 山本わたる春のゆふかぜ(従二位為子)
238 つくづくと雨ふる庭のにはたづみ 散りて波よる花の泡沫(前中納言静雅)
239 吹きよする風にまかせて 池水の汀にあまる花の志らなみ(藤原為顕)
248 雨しぼるやよひの山の木がくれに 残るともなき花の色哉(後伏見院御歌)
284 春もはやあらしの末に吹きよせて 岩根の苔に花ぞ残れる(進子内親王) [風雅和歌集 巻三春歌下]
190 猛訓練による兵員の練度の極限までの追究は、必勝の信念という精神主義とあいまって軍事技術の軽視につながった。 [戸部良一ほか「失敗の本質—日本軍の組織論的研究」(中公文庫1991、原書1984)p290]
191
336 樗さく梢に雨はやゝはれて 軒のあやめにのこるたまみづ(前大納言経親)
362 大井河鵜船はそれとみえわかで 山もと廻るかがり火の影(中務卿宗尊親王)
368 水鶏鳴く森一むらは木ぐらくて 月に晴たる野べの遠方(前大納言実明女)
372 茂りあふ庭の梢を吹き分けて 風に洩りくる月のすずしさ(前関白右大臣)
381 月や出づる星の光の変るかな 涼しきかぜの夕やみのそら(伏見院御歌)
382 すずみつる数多の宿も静まりて夜更けて白き道のべの月(伏見院御歌)
383 星多み晴たる空は色濃くて 吹くとしもなき風ぞ涼しき(従二位為子)
393 山ふかみ雪消えなばと思ひしに 又道絶ゆるやどの夏ぐさ(如願法師)
401 降りよわる雨を残して風はやみ よそになり行く夕立の雲(徽安門院小宰相)
402 夕立の雲吹きおくるおひ風に 木末のつゆぞまた雨と降る(宣光門院新右衛門督)
406 降るほどは志ばしとだえて 村雨の過ぐる梢の蝉のもろ声(藤原為守女) [風雅和歌集 巻四夏歌]
192
461 更けぬなり 星合の空に月は入りて 秋風動く庭のともし火(太上天皇)
468 真萩散る庭の秋風身にしみて 夕日の影ぞかべに消え行く(永福門院)
474 庭の面に夕べの風は吹きみちて 高き薄のすゑぞみだるゝ(伏見院御歌)
477 招きやむ尾花が末も静にて 風吹きとまるくれぞさびしき(従三位親子) [風雅和歌集 巻五秋歌上]
193 日本軍は結果よりもプロセスや動機を評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とかやる気が評価された。このような指向が、作戦結果の客観的評価とその事実や経験の蓄積を制約し、官僚制組織のなかでの下剋上を許していった。 [戸部良一ほか「失敗の本質—日本軍の組織論的研究」(中公文庫1991、原書1984)p381]
194
529 雲遠き夕日の跡の山際に 行くとも見えぬかりのひとつら(院御製)
538 窓白き寝覚の月の入りがたに こゑもさやかに渡る雁がね(徽安門院一條)
563 稲づまの暫しもとめぬ光にも 草葉のつゆの数は見えけり(藤原為秀朝臣)
572 吹分くる竹のあなたに月みえて 籬は暗きあきかぜのおと(祝子内親王) [風雅和歌集 巻六秋歌中]
195 『梁塵秘抄』を自らの手で編集したことにも窺えるように、自分から進んで実践するという点が、これまでの天皇と違うところであった。そこからこの時代にこれまでにはない新たな文化の芽が生まれたのである。 [五味文彦「藤原定家の時代—中世文化の空間—」(岩波新書、1991)p171]
196
635 一志きり嵐は過ぎて 桐の葉の志づかに落つる夕ぐれの庭(照訓門院権大納言)
670 朝霧の晴れ行く遠の山もとに もみぢまじれる竹の一むら(前大納言実明女)
714 月も見ず風も音せぬ窓のうちに あきをおくりてむかふ燈(後伏見院御歌) [風雅和歌集 巻七秋歌下]
197
774 鐘の音にあくるか空とおきて見れば 霜夜の月ぞ庭静なる(後伏見院御歌)
775 有明の月と霜との色のうちに 覚えず空もしらみ初めぬる(左近中将忠季)
776 吹き冴ゆる嵐のつての二声に 又はきこえぬあかつきの鐘(前大納言為兼)
826 降りおもる軒端の松は音もせで よそなる谷に雪をれの声(従二位兼行)
841 うづもるゝ草木に風の音はやみて 雪志づかなる夕暮の庭(前中納言重資) [風雅和歌集 巻八冬歌]
198
896 逢坂の関は明けぬと出でぬれど 道猶くらしすぎの下かげ(藤原頼成)
899 我のみと夜深く越ゆる深山路に さきだつ人の声ぞ聞ゆる(藤原朝定) [風雅和歌集 巻九旅歌]
199 次に申したいことは、今迄述べた徹底ということと深いところでは関連があるのですが、一見これと矛盾したように思われるかも知れません。それはこういう事です。―――私たちは例えば、物理学の研究という仕事について、自分の生涯の30年あるいは40年をこれに投ずるとする。日常的には、個人的な出来事を含めて仕事以外の様々のことに時を費やすことは事実ですが、大きくいえば自分のエネルギーの90%は専門の仕事に捧げていることになろうかと思います。―――そこで、ある日、専門外の人が、我々に向かって「君は何のためにそれだけの精力を投じて物理学の研究をするのか?」と尋ねられたとしたら、諸君はどう答えますか?私自身、何度かそういうことを自問して、この問いに答えがないというのはいかにも情けないことだと思うようになりました。 この問題に対する私の答えは―――問題意識をもって学問せよ―――と言うことです。これは何も科学の領域に限定しなくてもよいのですが、自分が一生かかって追求したいという問題意識があって、物理学の研究というのはそれを追求し、また表現するための素材なのではないか。長いといっても30年余りの期間に具体的に手がけられる問題は数が知れている訳ですが、にも拘わらずそこに自分の生活の殆ど全てを注入して悔いないということは、ある意味を物理学を超えた基本的問題意識があって、物理の研究はそれを考えるための素材、あるいは舞台であると思うのですが、諸君はどう思われますか。そういう問題意識があってはじめて、職業的・技術的な労力というものと、これにたずさわる人間の生き甲斐との間に呼吸が通うのではあるまいか。―――たとえ手にしうる素材は有限であっても、メタファーとしての問題意識は大きくもつべきだと私は思います。同じような言い方をすれば、人間の一生は有限ですが、それは一人の人間の一生よりも大きな問題を学ぶための素材であるという面があるように思います。 [富田和久「物理とともに30年」、物性研究47、631(1986)殆ど掉尾]
200 明治時代の英学の巨人・斎藤秀三郎は、一度も海外に出たことがないにもかかわらず、自らが創立した正則英語学校に英米人を雇い入れるときは、その英語力を自分で試験したと言われている。 [斎藤兆史「日本人の英語」 図書2002-2 p27]