I 601-800 

武谷三男 エピクロス 老子 荀子 E. フロム「自由からの逃走」「人間における自由」「疑惑と行動」 トゥーキュディデース 「戦史」 M. ミード「男性と女性」 ヴァン・デル・ポスト「狩猟民の心」 「風姿花伝」 王維

601 最高のレジャーは科学である。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 科学者と平和運動 p121]

602 戦争で科学が進むというのはいかに現在の社会が戦争でなければ科学をよう進めないかという点に問題があります。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 科学者と平和運動 p121]

603 学問にとって最も重要なことは、一つ一つの論文ではない。これは氷山の一角にすぎない。一つの国における学問の業績の裏には、表面に見えない存在が必要である。特に日本のように、地理的に孤立しているところではなおさらである。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 哀惜・畑中武夫さん p269]

604 学問を進めるには戦略(strategy)と戦術(tactics)という二つが必要であって,方法論は前者にあたる,従来は戦略にあたる方法論が無視されてきたが,それでは研究の目標,手の打ち方がわからなくなる. [武谷三男「現代の理論的諸問題」 素粒子論グループの組織と方法 p358]

605  だいたい目先の実験に合わないとか反しているということは問題でないのであって,実験自身にも先入見があり,見つかるべきものが,すぐ実験にひっかかるとはかぎらないのである. [武谷三男「現代の理論的諸問題」 素粒子論グループの組織と方法 p368]

606 また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識は、この生にたいして限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。 [ エピクロス 「メノイケウス宛の手紙」(2) I]

607 欲望について迷うことのない省察が得られれば、それによって、われわれは、あらゆる撰択と忌避とを、身体の健康と心境の平静とへ帰着させることができる。けだし、身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。 [エピクロス「メノイケウス宛の手紙」(2) I]

608 かりに道楽者どもの快をひき起こすものが,天界・気象界の事象だの,死だの,死にともなう苦しみについての精神のいだく恐怖を解消してくれ,さらに,欲望の限度を教えてくれるとすれば,われわれは,決して,かれらに対して非難すべきものをもたないであろう. [エピクロス「メノイケウス宛の手紙」「主要教説」10] 

609 欠乏による苦しみがひとたび除き去られると、肉体の快はもはや増大することなく、その後は、ただ(質的に)多様化するのみである。 [エピクロス「主要教説」18]

610  もし君がいっさいの感覚と争うならば、君は、君が偽であると主張するところの感覚をすら、何に帰着させて偽であると決定するのか、その基準さえもたないことになろう。 [エピクロス「主要教説」23]

611 われわれは自然を強制すべきではなく、自然に服従すべきである、そして、自然に服従する道は、必然的な欲望を満たし、自然的な欲望も、害にならないかぎり、これを満たし、害になる欲望はこれをきびしく却けることにある。 [エピクロス「断片 その1「エピクロスの勧め」から」21]

613 最大善については、それが生じると、われわれがそれを楽しむとは、同時である。 [エピクロス「断片 そ1「エピクロス勧め」から」42]

614 われわれは、旅の途上にあるかぎりは、これまでの道よりも、これからの道をより善いものとするように、努むべきである。そして、旅の終わりに達したときには、いつもとかわらず明朗快活であるべきである。  [エピクロス「断片 その1「エピクロスの勧め」から」48]

615 質素にも限度がある。 [エピクロス「断片 その1「エピクロスの勧め」から」63]

616 もしわたしが味覚の快を遠ざけ,性愛の快を遠ざけ,聴覚の快を遠ざけ,さらにまた形姿によって視覚に起こる快なる感動を遠ざけるならば,何を善いものと考えてよいか,このわたしにはわからない. [エピクロス「断片 その3 I 「生活目的について」から 10]

617 美とか,諸徳とかその他この種のものは,もしそれらが快を与えるならば,尊重されるべきである.だが,もし快を与えないならば,それらにわかれを告ぐべきである. [エピクロス「断片 その3 I 「生活目的について」から 12]

618 肉体が嘆き叫べば霊魂も嘆き叫ぶということは、自然学的な説明のつかないことではない、と考えたまえ。飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これらが肉体の叫びである。これらの叫びを抑えることは、霊魂にとって、難しいことである。のみならず、霊魂それ自身が日毎に自己充足をえるようになっているからといって、霊魂に訴える自然の声を無視し去ることは、霊魂にとって、危険なことである。 [エピクロス「断片 その3 I 受取人不明の手紙から 44]

619 われわれは、肉体を、大きな悪の原因として責めないようにしようではないか。また、さまざまの難儀を環境のせいにしないようにしようではないか。 [エピクロス「断片 III 出所不明の断片 63]

620 明日を最も必要としないものが、最も快く明日に立ち向かう。 [エピクロス「断片 III 出所不明の断片 78]

621 人類の目的(快)をかち得ている人は、だれもそこにいないときにも、いつもと同じように、善い人である。 [エピクロス「断片 III 出所不明の断片 83]

622 社会的なものと動物的なものとの分裂はかならず猥褻感を生む. [ボーヴォワール「第二の性」 (II)  第1]

623 魚不可脱於淵。 [老子 三十六章]

624 明主は要を好むも闇主は詳を好む。 [荀子 王覇篇]

625 性的な各瞬間を正当化するものはその全体の態度である。一つ一つ分析すればいとわしいものに見える行為も肉体が本来もっている色情的威力によって変貌させられるときには、まことに自然なものに思える。その反対に、もし人が肉体と行為をばらばらの意味のない要素に分解しだすやいなや、それらの要素は、不潔で、猥褻なものとなる。 [ボーヴォワール 「第二の性」I 第三章]

626 自由の人間的な側面と権威主義とを分析するとき,われわれは社会過程のうちに,心理的要素がいかに活発に働いているかという,一般的問題を考えないわけにいかなくなる. [ E. フロム「自由からの逃走」  第一章]

627 固定した人間性というものはないとしても,われわれは人間性を無限に可塑的なものと考えたり,みずから動的な心理的運動を発展させることなしに,どのような外的条件にも適応できるものをみたりすることはできない. [E. フロム「自由からの逃走」 第一章]

628 他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感をもとめるか、どちらかだということである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第二章]

629 人間の生物学的弱さが、人間文化の条件である。 [E. フロム「自由からの逃走」第二章]

630 自由な行為としての反逆は理性のはじまりである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第二章]

631 個人に安定感をあたえていた第一次的な絆がひとたび断ちきられるやいなや、そして個人がかれのそとに完全に分離した全体としての世界と直面するやいなや、無力感と孤独感とのたえがたい状態にうちかつために、二つの道がひらかれる。一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事において、かれの感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる。こうしてかれは、独立と個人的自我の統一とをすてることなしに、再び人間と自然とかれ自身と、一つになることができる。かれのためにひらかれているもう一つの道は、かれを後退させ、自由をすてさせる。そして個人的自我と世界とのあいだに生じた分裂を消滅させることによって、かれの孤独感にうちかとうと努力する。この第二の道は、かれを世界と再び結びつけるとしても、個人として解放されるまえに、かれが世界と関係していたようなぐあいにはけっしていかない。なぜなら、分離しているという事実を動かすことはできないからである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

632 マゾヒズム的傾向は、しばしば単純に病的で非合理的だと感じられている。しかしその傾向は合理化されることがいっそう多い。マゾヒズム的な依存は愛とか忠誠とかと思われ、劣等感は実際の欠点の適切な表現と思われ、なやみはすべて変化しない環境のせいだと思われる。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

633 かれ(= サディズム的人間)はあらゆるものをあたえるかもわからない---ただ一つのことをのぞいて,すなわち自由独立の権利をのぞいて.この状態はとくに両親と子どもとの関係にみられる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

634 マゾヒズム的努力のさまざまな形はけっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである、 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

635 マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

636 心理学的には、この二つの傾向(=サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向)は一つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れることである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

637 たしかに人を支配できる力は,純粋に物質的な意味ではよりすぐれた強さである.もし私が人を殺す力をもっているならば,私はかれより「強い」のである.しかし心理学的な意味では,力への欲望は強さにではなく,弱さに根ざしている.それは自我がひとりで生きていくことが不可能であることを示している.それは真実の強さがかけているときに,二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みである. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

638 個人が能力ある程度に応じて、すなわち、自我の自由と統一性との基礎の上でかれの潜在的な能力を実現できる程度に応じて、かれは支配する必要はなくなり、したがって権力のあくなき追求といったことはなくなる。支配という意味における力は能力の逆である、ちょうど性的サディズムが性的愛情の逆であるように。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

639 人間の自然的傾向を克服し,個人の内部の一面,すなわちかれの自然を,他の面,すなわちかれの理性,意志,良心などによって決定的に支配することは,自由の本質であると考えられていた.ところが,よく分析してみると,良心は,外的権威とおなじように冷酷な支配者であること,また人間の良心によってあたえられる秩序の内容は,けっきょく個人的な自我の要求によってよりも,倫理的規範の威厳をよそおった社会的要求によって左右されやすいものであるということが明らかになった. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

640 われわれの観察できるかぎりでは,あらゆる神経症の核心は,人間の正常な成長のばあいと同じように,自由と独立とを求める戦いにある.正常なひとびとの多くは,この戦いを,完全な自己放棄のうちに終わらせる.こうして,かれらはうまく適応し,正常であると認められるようになる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章]

641 じっさいどんなものでも、破壊性を糊塗する合理化に役立たなかったものはない。愛、義務、良心、愛国心などが、これまで他人や自己を破壊するためのカムフラージュとして利用されてきたし、現在も利用されている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

642 孤独になった無力な人間は,その感覚的,感情的,また知的なさまざまの能力を十分に実現することができない.かれはこれらの能力を実現するための条件である内的な安定性と自発性とをかいている.この内的な障害は,宗教改革の時代から,中産階級の宗教や道徳のなかに一貫してみられるような,快楽や幸福についての文化的タブーによって増大する. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

643 個人のうちに観られる破壊性の程度は,生命の伸張が押さえつけられる程度に比例するように思われる. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

644 破壊性は生きられない生命の爆発である. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

645 中産階級は、その敵意を、主として道徳的公憤によそおって表現していた。それは生活をたのしむ力のある人間にたいする、はげしい羨望を合理化したものだった。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

646 各個人も自分は「自分」であり、かれの思想、感情、願望は「かれのもの」であると真剣に思いこんでいる。たしかにわれわれのあいだには、本当の個人もいるが、しかしたいていのばあい、この信念は一つの幻想である。しかも、この信念は、このような事情の原因である諸条件を撤去することを妨げるものであるから、危険な幻想である。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

647 われわれの思考や感情や意志の内容が外部から導入されたものであり,純粋なものではないという事実は非常に顕著であって,純粋な固有の精神的行為が例外で,にせの'行為が原則であると思われるほどである. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

648 思考についてと同じく、感情についても、自分自身のうちに発する純粋な感情と、自分ではそう思いこんでいても、じっさいには自分のものではないにせの感情とを区別しなければならない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2] 

649 多くのひとびとは、なにかをするときに、外的な力によって明らかに強制せれないかぎり、かれらの決断は自分自身の決断であり、なにかを求めるとき、求めるのは自分であると確信している。しかしこれは、われわれ自分自身についてもっているひとつの大きな幻想である。われわれの決断の大部分は、じっさいには、われわれ自身のものではなく、外部からわれわれに示唆されるものである。決断を下したのは自分であると信ずることはできても、じっさいには孤独の恐ろしさや、われわれの生命、自由、安楽にたいする、より直接的な脅威にかりたてられて、他人の期待に歩調を合わせているにすぎない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

650 「独創的な」決断は、個人的な決断を土台としているように思われている社会では、比較的にかえってまれであるように思われる。  [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

651 自己の喪失とにせの自己の代置は,個人を激しい不安の状態になげこむ.かれは本質的には,他人の期待の反映であり,ある程度自己の同一性を失っているので,かれには懐疑がつきまとう.このような同一性の喪失から生まれてくる恐怖を克服するために,かれは順応することを強いられ,他人によってたえず認められ,承認されることによって,自己の同一性を求めようとする.かれはかれがなにものであるかを知らないが,もしかれが他人の期待通りに行動すれば,すくなくとも他人はそれを知ることになろう.そしてもし他人が知っているならば,かれらの言葉をかりるならば,かれも知っていることに成るであろう. [E. フロム「自由からの逃走」 第五章  2]

652 われわれの意見では、政治的経済的要因を強調するあまり、心理的要因を排除してしまうような説明も---あるいはその逆も---いずれも正しくない。ナチズムは心理的な問題ではあるが、心理的要因それ自身は社会的経済的要因によって形成されたものと理解されなければならない。またナチズムは経済的政治的問題であるが、それがすべてのひとびとをとらえたことは、心理的地盤において理解されなければならない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第六章]

653 ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は,心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる.そしてこの状態は,次の章で指摘されるように,現代における個人の特徴であり,それは民主的な国々においてさえも例外はない. [E. フロム「自由からの逃走」 第六章]

654 思想を表現する権利は、われわれが自分の思想を持つことができるばあいにおいてだけ意味がある。外的権威からの自由は,われわれが自分の個性を確立することが内的な心理的条件があってはじめて,恒久的成果となる. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]  (旧1213) 

655 われわれの社会においては、感情は一般に元気を失っている。どのような創造的思考も---他のどのような創造的活動と同じように--- 感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的な」とは、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。この基準を受け入れたため、個人は非常に弱くなった。かれの思考は貧困になり平板になった。他方感情は完全に抹殺することはできないので、パースナリティの知的な側面からまったく離れて存在しなければならなくなった。その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような安直でうわっつらな感傷性におちいっている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

656 われわれの現代は単純に死を否定し、そのことによって、生の根本的な一つの面を否定している。死や苦悩の自覚が、生へのもっとも強力な刺激の一つとなり、人類の連帯性の基礎となり、また歓喜や熱情がはげしさや深さをもつためにかくことのできない経験となることを認めるかわりに、個人はそれを抑圧することを強いられている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

657 私はこんにち用いられている教育方法で、じっさいには独創的な思考を妨害しているいくつかのものを簡単にあげてみよう。その一つは、事実についての知識の強調、あるいはむしろ情報の強調というべきものである。より多くの事実を知れば知るほど、真実の知識に到達するという悲しむべき迷信がひろがっている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

658 個人の最大の強さは、かれのパースナリティの一貫性の最大量にもとづくものであるが、それは自分自身にたいする理解の最大量にもとづいているということである。「汝みずからを知れ」ということばは、人間の強さと幸福をめざす根本的命令の一つである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

659 個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について、また心理的、経済的、政治的、道徳的な問題について、巨大なわれわれの文化は一つの特徴をもっている---すなわち問題をぼかすことである。その煙幕の一つに、問題があまりに複雑で普通の個人には把握できないという主張がある。事実はその反対に個人生活、社会生活の根本問題は、たいてい非常に単純であり、だれもがそれを理解することを期待できるように思われる。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

670 大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の追求している目標が、かれら自身の欲しているものであるかどうかということを考えない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

671 はげしい活動はしばしばその活動を自分で決定した証拠であると誤解されている。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

672 近代史が経過するうちに、社会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明からさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

673 かれ(=近代人)は個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。すなわちかれは他人とは「ことなろう」と願う。また「ことなっている」ものほど、かれがほめたたえるものはない。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

674 人は自分が病気であるかどうかを知るために医者である必要はないし、また靴のきつさぐあいを知るために靴屋である必要もない。私は「現実」とは本当にはなんであるかを知らない。しかし、幻影を見る時、わたしはそれが幻影であるということがわかるのである。 [D. J. ブーァスティン「幻影の時代」 原著者序文]

675 もしわれわれがいわゆる「正常な」人間の経済的要求だけをみるならば,またもし一般に自動人形化した人間の無意識的な苦悩をみおとすならば,われわれはわれわれの文化をその人間的基盤からおびやかしている危険をみぬくことに失敗するであろう.すなわち,もし興奮を約束し,個人の生活に意味と秩序をと確実に与えると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば,どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受け入れようとする危険である. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  1]

676 自発的活動は,人間が自我の統一を犠牲にすることなしに,孤独を克服する一つの道である.というのは,ひとは自我の自発的な実現において,かれ自身を新しく外界に---人間,自然,自分自身に---結びつけるから.愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである.しかしその愛とは,自我を相手のうちに解消するものでもなく,相手を所有してしまうことでもなく,相手を自発的に肯定し,個人的自我の確保のうえに足って,個人を他者と結びつけるような愛である.愛のダイナミックな性質は正にこの両極性のうちにある.すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ,合一を導き---しかも個性は排除されないのである.仕事もいま一つの構成要素である.しかしその仕事とは,孤独と逃れるための強迫的な活動としての仕事ではなく,また自然との関係において,一方では自然の支配であり,一方では人間の手でつくり出したものにたいする崇拝や隷属であったりするような仕事でもなく.創造的行為において,人間が自然と一つとなるような,創造としての仕事である. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

677 自我の独自性はけっして平等の原理と矛盾していない.人間は生まれつき平等であるという命題の意味は,人間はすべて同じ根本的な人間性をあたえられ,人下的存在の根本的運命を分有し,すべて同じように,自由と幸福を求める譲渡すべからざる要求をもっているということである.さらに,人間の関係は連帯性の関係であって,支配-服従の関係ではないことを意味する.平等の概念はすべての人間が類似しているということを意味しない. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

678 人間は自分自身よりも高いいかなるものにも従属してはならないということは,理想の尊厳を否定しはしない.反対に,それは理想をもっとも強く肯定することである. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

679 われわれはどの食糧が衛生的でどれがそうでないか,必ずしも知っていない.しかもなおわれわれは,毒を識別する方法はなにもないとは結論しない.同じように,もしのぞむならば,精神生活にとってなにが有害であるかを知ることができる. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

680 今日の文化的政治的危機は個人主義が多すぎるということではなく,個人主義が空虚な殻になってしまったということに原因がある. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

681 集中と分散との結合というこの問題を解決することが、社会の主要な仕事のひとつである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

682 デモクラシーは,人間精神のなしうる,一つの最強の信念,生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を,ひとびとにしみこませることができるときのみ,ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろう. [E. フロム「自由からの逃走」 第七章  2]

683 私有財産制は、少なくとも堕落した世界では必要な制度である。物品が共有であるときよりも、私有であるときのほうが、人間はより多く働き、争うこともよりすくない。しかしそれは人間の弱さを認めるものとして許されるべきもので、けっしてそれ自身、望ましいものとして賞賛さるべきものではない。もし人間の性質が高められるものであれば、共産主義者社会こそ理想のものである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章  1]

684 普通指導者の性格構造は、かれの主張を受けいれるひとびとの特殊な性格構造を、より端的にはっきりとあらわしていることが多い。指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきりと率直にのべているのである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章  1]  (旧1233) 

685 人間は、たとえ主観的には誠実であっても、無意識的には、かれが信じているのとはちがった動機で動かされていることが多い。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章  1]

686 愛は、もともとある特定な対象によって「惹きおこされる」ものではない。それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを、現実化するにすぎない。憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。 [E. フロム「自由からの逃走」 第三章  1]

687 利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。 [E. フロム「自由からの逃走」 第四章]

688 私たちは哺乳類であり、男性の哺乳類と女性の哺乳類であるがゆえに、あらゆる限界があり、私たちはそれを知り、それに用意し、私たちの習慣の中にその限界をとりいれねばならない。 [M. ミード「男性と女性」第一部  序説1]

689 災害の暴威が過度につのると,人間は己れがどうなるかを推し測ることができなくなって,神聖とか清浄などという一さい宗教感情をかえりみなくなる. [トゥーキュディデース 「戦史」巻2 [54] ]

690 人間は自分の経験にもとづいて、過去の伝承をすら改めようとするのだ。 [トゥーキュディデース 「戦史」巻2 [54] ]

691 英雄は大きな人物である。有名人は大きな名前である。 [D. J. ブーァスティン「幻影の時代」 (2) 4]

692 英雄が人格という偉大で単純な特徴によっておたがいに同化し合うのに対して、有名人は主として個性の些細な表現によって分化する。 [D. J. ブーァスティン「幻影の時代」 (2) 4]

693 最も人気のある本というものは、短期的に見れば、われわれがすでに知っていることを最も効果的に告げてくれるもののようである。 [D. J. ブーァスティン「幻影の時代」 (4) 8]

694 俳優が「芸能人」になるとき、ドラマは娯楽にすぎない。 [D. J. ブーァスティン「幻影の時代」 (4) 9]

695 人類学者はつねに全社会を背景として仕事をするようになった。現代の複雑化した社会で主として研究者がするように、人類学者は幼児の行動だけを専門にしたり、広告主のやりかたや、住居のあり方の詳細だけを専門にしたりすることはしない。そういうわけで人類学者は、現地研究することによって、他の人間行動の研究家たちが、たいてい一緒にして考えることに習慣ずけられていないようなたくさんの事柄を、一緒にして考えることを学ぶのである。 [M. ミード「男性と女性」第一部  序説2]

696 素人の、「すべて人類社会は本来」というのと、人類学者の「これまでに、人類社会に知れているところの」というのとでは、そのあいだに、世界じゅういたるところで、探検家や宣教師や、現代の科学者が、カンテラやたき火の灯りをたよりになしとげた、詳細にわたる、骨身をけずった、数えきれぬ程の研究が厳として存在しているのである。 [M. ミード「男性と女性」第一部  序説2]

697 (=人類学者)は,住民を改良し,改宗させ,統治し,貿易し,自分の国に帰依させ,あるいは治療するものではない.彼はただ理解したいだけである.そして,理解することによって,人類の限度と可能性についての私たちの知識を加えてゆくことを欲するだけである. [M. ミード「男性と女性」第一部  序説2]

698 もし生計を立てるために,自分の知識と能力にたよるだけで充分であるのならば,その人の自己尊重は自分の能力に相応のもの,即ち自己の使用価値に応じたものとなろう.しかしながら,成功は人が如何にうまく自己のパースナリティを売りつけるかによるところが大きいのであるから,人は自己を商品として,或いはむしろ,売り手であると同時に売るべき商品として体験する.人はその生活と幸福には関心を持たず,売りものとなることに関心を持つのである. [ E. フロム「人間における自由」  第三章  2]

699 小学校から大学院に至る迄の学習の目標は,主として市場の目的にとって役立つ知識を,できるだけかき集めることにある.学生達は余り多くのことを学ばなければならないので,考えるための時間とエネルギーは殆ど残らない. [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

700 人はだれでも愛する能力をもっているが,その実現はもっとも困難な仕事の一つである. [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

701 いくつかの基本的要素が、あらゆる形の生産的愛の特徴としてあげられるだろう。それは注意、責任、尊厳および知識である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

certain basic elements may be said to be characteristic of all forms of productive love. These are {¥em care, responsibility, respect}, and {¥em knowledge}. p98 [E. Fromm, Man for himself --- an enquiry into the psychology of ethics---(Routledge & Kagan Paul Ltd. 1950).]

702 人は労するものに対して愛をもち、愛する者のために労するのである。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

One loves that for which one labors, and one labors for that which one loves. p99 

703 責任とは外から課せられる義務なのではなく、私が当為を感ずる私自身の関心事に対する、私の反応である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

Responsibility is not a duty imposed upon one from the outside, but is my response to a request which I feel to be my concern. p99 

704 人間に対する愛は個人に対する愛と切り離すことができない.一人の人を生産的に愛することは,その人の人間的核心に即ち人類の代表としてのその人に関心をもつことである. [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

705 あらゆる人間が助けを必要とし,互いに頼りあっている.人間の団結ということは,夫々の個人が自己を展開するための必要条件なのである.注意と責任とは愛の構成要素であるが,愛する人に対する尊敬と,愛する人についての知識とがなかったならば,愛は支配と所有へ転落する. [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

706 客観的であることは、観察の対象となる事物を尊重する時にはじめて可能なのである。このような尊重は、愛に関して述べた尊厳と本質的に異なるものではない。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

To be objective is possible only if we respect the things we observe; that is, if we ca capable of seeing them in their uniqueness and their interconnectedness. This respect is not essentially different from the respect we discussed in connection with love; inasmuch as I want to understand something I must be able to see it as it exists according to its own nature; while this is true with regard to all objects of thought, it constitutes a special problem for the study of human nature. p104 

707 客観性は超然性を意味せず、尊重を意味するのである。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

{¥em Objectivity does not mean detachment, it means respect;p105 

708 強迫的な活動は怠惰の反対ではなく、その補足語なのである。その二つのものに対立するのは生産性である。 [E. フロム「人間における自由」 第三章  2]

Compulsive activity is not the opposite of laziness but its complement; the opposite of both is productiveness. p106-7 

709 他者への愛と自分自身に対する愛とは二者択一的なものではなく、逆に凡て他者を愛することのできる人達の中には、自分自身を愛するという態度が見られるだろう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  1]

Love of others and love of ourselves are not alternatives. On the contrary, an attitude to love toward themselves will be found in all those who are capable to loving others. p129 

710 もし彼が,他人だけしか愛し得ないとすれば,彼は全く愛することのできぬ人である. [E. フロム「人間における自由」 第四章  1]

711 利己的な人は,他者を愛することができない,というのは事実であるが,しかし同時に彼は自分自身をも愛することができないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章  1]

712 現代文化の欠陥は、その個人主義の原理や、道徳的善は自己関心の追究なりとする考えにあるのではなく、その自らの利益の誤った解釈にあるのであり、人々が各々の自己関心に心を奪われすぎているという事実にあるのではなく、逆に人々が各々の真の自己の関心に十分心をくばらないという事実にあるのであり、また人があまりに利己的であるということにではなく、人が自らを真に愛してはいないということにあるのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  1]

The failure of modern culture lies not in its principle of individualism, not in the idea that moral virtue is the same as the pursuit of self-interest, but in the deterioration of the meaning of self-interest; not in the fact that people are {¥em too much concerned with their self-interest}, but that they are {¥em not concerned enough with the interest of their real self; not in the fact that they are too selfish, but that they do not love themselves. p139 

713 自由とは主観的な言葉であって、決して客観的に解せられるべきではない。もしこれを客観的に見ようとすれば、どうしても矛盾だらけになってしまう。 [鈴木大拙「禅仏教に関する講演」 ]

714 彼(=近代人)は自分が自分の利益のために行動していると信じているが、実際には金とか成功とかが、彼の最大の関心事なのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  1]

He (modern man) believes that he is acting in behalf of his interest when actually his paramount concern is money and success. p135 

715 人が恐れるような権威の存在は,絶えずこの内面化された権威,即ち良心を絶えず育んでゆく源泉である.もし権威が実際に存在しなかったならば,即ち,もし人が権威者を恐れる理由がなければ,権威主義的良心は弱まり威力を失うであろう. [E. フロム「人間における自由」 第四章  2A]

716 疚しくない心とは(外部の並びに内面化された)権威を喜ばせているという意識であり、疚しい心とはそれを喜ばせていないという意識である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2A]

Good conscience is consciousness of pleasing the (external and internalized) authority; guilty conscience is the consciousness of displeasing it. p146 

717 子供の意志を弱くする一番有効な方法は、その罪意識を喚び起こすことである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2A]

The most effective method for weakening the child's will is to arouse his sense of guilt. p155 

718 もし人が権威主義の網を破り抜けることに成功しなければ、逃走しようとする空しい努力は罪を深めるだけのことで、疚しくない心は新たな服従によってしか、恢復されないのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2A]

If one has not succeeded in breaking out of the authoritarian net, the unsuccessful attempt to escape is proof of guilt, and only by renewed submission can the good conscience be regained. p158 

719 人道主義的良心は、われわれがそれを喜ばせようと熱中したり、それを喜ばせぬことを恐れたりするようなひとつの権威の、内面化された声といったものではない。それはわれわれ自身の声であり、凡ての人間のうちに存在するものであり、外部からの制裁や報償から独立したものである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

Humanistic conscience is not the jnternalized voice of an authority whom we are eager to please and afraid of displeasing; it is our own voice, present in every human being and independent of external sanctions and rewards. p158 

720 もし愛が、その愛する人のうちにあるもろもろの可能性を肯定し、そしてその人の独自性を配慮し尊敬すること、と定義され得るならば、人道主義的良心とはまさしく、われわれ自身に対するわれわれの愛に満ちた配慮の声であるということができよう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

If love can be defined as the affirmation of the potentialities and the care for, and the respect of, the uniqueness of the loved person, humanistic conscience can be justly called the voice of our living care for ourselves. p159 

721 われわれの良心の声を聴くためには、われわれはわれわれ自身に耳を傾けることができなくてはならないが、このことこそ正に、現代文化における大部分の人にとって為し難いことなのである。われわれは凡ゆる人に耳を傾けるが、ただわれわれ自身にはそうしないのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

However, learning to understand the communications of one's conscience is exceedingly difficult, mainly for two reasons. In order to listen to the voice of our conscience, we must be able to listen to ourselves, and this is exactly what most people in our culture have difficulties in doing. We listen to every voice and to everybody but not to ourselves. p161 

722 自分自身に耳を傾けることがそれ程難しいという理由は、このことが現代人に殆どないもう一つの能力、即ち自分独りでいるという能力、を必要とするからである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

Listening to ourselves is so difficult because this art requires another ability, rare in modern man: that of being alone with oneself. p161 

723 老年期においてパースナリティが衰退するということは、一つの病的兆候である。それは生産的に生きてこなかった証拠である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

The decay of the personality in old age is a symptom: it is the proof of the failure of having lived productively. p163 

724 人間は生来仲間に受け入れられることを欲するものである。しかし、近代人は凡ての人に受け入れられることを欲するので、思考や感情や行為において文化様式から離れることを恐れるのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

man naturally wants to be accepted by his fellows; but modern man wants to be accepted by everybody and therefore is afraid to deviate, in thinking, feeling, and acting, from the cultural pattern. p164 

725 ねむりとは、人がその良心の声を沈黙せしめることのできない唯一の場合である、といい得よう。然しその悲劇は、われわれが自らの良心の声を聴く時には眠っていて行為することができず、われわれが行為することができる時には夢の中で知ったことを忘れている、ということに存する。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

Sleep is often the only occasion in which man cannot silence his conscience; but the tragedy of it is that when we do hear our conscience speak in sleep we cannot act, and that, when able to act, we forget what we knew in our dream.. p164 

726 人間を超越した権力は人間に対して、決して道徳的な要求をなすことはできない。人が自分の生命を得るか失うかは、その人自身の責任である。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  2B]

No power transcending man can make a moral claim upon him. Man is responsible to himself for gaining or losing his life. p170 

727 権威主義的倫理は単純だという強みを持っている。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

Authoritarian ethics has the advantage of simplicity. p172 

728 不合理な欲望はあくことをしらない. [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

729 実に貪欲は、しばしば臆断されているような、人間のもっている動物性に由来するものではなく、人間の精神又は想像に由来する。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

Greed, indeed, is not, as is so often assumed, rooted in man's animal nature but in his mind and imagination. p186 

730 現代生活のもっとも著しい心理学的様相の一つは目的のための手段である諸活動がますます目的の一を奪ってゆくに反し,目的自体は影のように,また架空の存在になってゆくという事実である. [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

731 われわれは,人類が未だかって持ったことの無いような,すばらしい道具や手段を持っているのであるが,「それらは何のためにあるのか」ということを,止まって反省しようとはしないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

732 教育とは小児が自分の持っている可能性を実現する手助けをすることである.教育の反対が操縦であって,それは様々の可能性の成長を信じないことから来るのであり$¥cdots$ [E. フロム「人間における自由」 第四章  3A]

733 不合理な信仰が,一人の権力者とか或いは大多数のものとかが,そういう,との理由だけで,あるものを真理として受け入れるということであるのに対し,合理的信仰は,自分自身の生産的な観察と思考とに基く,独立した確信から発するものである. [E. フロム「人間における自由」 第四章  4]

734 多くの人達にとって,権力はあらゆるものの中で,最も現実的なものであるように見えるのだが,人間の歴史は,それが人間のなし遂げたあらゆるものの中で最も不安定なものであることを証明している. [E. フロム「人間における自由」 第四章  4]

735 合理的信仰は,われわれ自身の生産的な体験に基くものである故に,何ものも人間の体験を越えるものは,決してその対象とはならないのである. [E. フロム「人間における自由」 第四章  4]

736 自由や民主主義の理念も、それが個人の生産的体験に基かずに、このような理念を信ずることを強いるいろいろな団体や国家などによって提出されたものであるときには、必ず不合理的信仰に堕落していくのである。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  4]

The idea of freedom or democracy deteriorate into nothing but irrational faith one they are not based upon the productive experience of each individual but are presented to him by parties or states which force him to believe in these ideas. p210 

737 生か死かの選択は実に倫理における根本的な択一である  [E. フロム「人間における自由」 第四章  5]

The choice of life and death is indeed the basic alternative of ethics. p214 

738 近代社会においては勤勉が最高の徳の地位に迄高められたのであるが、それは近代の産業組織が、その最も重要な生産力の一つとしての労働を強いることを必要としたからである。一つの特殊社会の運用にとって最も役立つものは、その社会の倫理組織の中に組み入れられるようになる。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  6]

In modern society, industry has been elevated to the position of one of the highest virtues because the modern industrial system needed the drive to work as one of its most important productive forces. The qualities which rank highly in the operation of a particular society become part of its ethical systems. p214 

739 倫理思想家の任務は、人間の良心の声を支持し、強め、そして発展の特殊な時期にある社会にとって善であるか、悪であるかということには無関係に、人間にとって善であるもの、或は悪であるものを認識することに存する。彼は「荒野に呼ばわる」者の一人であろうが、しかしもしこの呼び声が生きて存続し、そして一歩も譲らぬならば、ただその時のみ荒野は沃土に変ずるであろう。 [E. フロム「人間における自由」 第四章  6]

It is the obligation of the students of the science of man not to seek for ` harmonious' solutions, glossing over this contradictions, but to see it sharply. It is the task of the ethical thinker to sustain and strengthen the voice of human conscience, to recognize what is good or what is bad for man, regardless of whether it is good or bat for society at a special period of its evolution. He may be the one whose ``crieth in the wilderness,'' but only if this voice remains alive and uncompromising will the wilderness change into fertile land. p244 

740 人道主義的倫理は、もし人が生きているのならばその人は何が許されているかを知っているという立場をとる。 [E. フロム「人間における自由」 第5章  ]

humanistic ethics takes the position that {¥em if man is alive he knows what is allowed}; 

741 現代は過渡期である。中世期は15世紀に終わっているのではない。また近代がその後直ちに始まったのでもない。終わりと初めとが400年以上も続いた過程を含んでいる---人間の寿命で計らずに、歴史という場面で計ればそれは全く一時に過ぎない。現代は終わりであると共に可能性を孕んだ初めである。 [E. フロム「人間における自由」 第5章  ]

Our period is a period of transition. The Middle Ages did not end in the fifteenth century, and the modern era did not begin immediately afterward. End and beginning imply a process which has lasted over four hundred years--- a very short time indeed if we measure it in historical terms and not in terms of our life span. Our period is an end and a beginning pregnant with possibilities. p290 

742 もし私たちが、歴史上の、この最も困難な時代の試練や障害物を克服するための推進力を用意するとしたら、人間は未来の見透しによってささえられねばならないが、その見透しは大へん望みのあるものであって、それに向かっての旅をつづけるには、どんな犠牲を払っても大きすぎることのないものでなければならない。その未来の図のなかで、男女が自分の肉体に対して気楽になれ、自分自身の性とその反対の性の関係において気楽になれる度合いがどれほどのものであるか、ということが極度に重要なことである。 [M. ミード「男性と女性」第二部  4]

743 世間の数ある富貴の家では、あの緑窓の風月、綉閣の烟霞(たたずまい)もすっかり蕩児と浮かれ女によって汚されているんですよ。それにもまして残念なのは、むかしからおおぜいの軽薄な道楽息子が、そろいもそろって「色は好むがこれに淫(おぼ)れぬ」、などとお体裁を作ってみたり、または「情を本位としてこれに淫れぬ」と称して得々としていることなの、あんなのはみんな非を飾りたて、醜をかくさんがためのいいわけですものね。色を好むということ自体が淫ですし、情を知るとなればなおさらのこと淫というものですよ。 [曹雪芹「紅楼夢」 第五回 警幻仙姑のことば]

744  われわれはまず人間を自然から切り離し、人間の至上の君臨を確立することから始めた。そのようにすれば、われわれは人間の性格の中でもっとも否定しえぬもの、つまり人間はまず生ける存在であるという事実を消し去ることができると信じた。そして、この生ける存在という共通の特性に盲目になることによって、あらゆる種類の悪弊をはびこらせたのです。  [C. レヴィ・ストロース「人類学の創始者ルソー」 ]

745 むしろ、己の安否を恐れる市民こそポリスに益するところが大でありえよう。自分を救うことを願って、国事の安泰を求めるからだ。 [トゥーキュディデース 「戦史」巻6 [9] ニーキアースの演説より]

746 むかし、むかし、と彼は話してくれた、最初の人間のなかの狩人が、蘆がしげり花が咲き、深い水辺に鳥のなく土地へいった。ひょうたんに飲料水を入れようとひざまづいた時、目の前の光り輝く水面の静かな鏡のなかに、いままで見たこともない巨大な白い鳥が映っていた。驚いて顔をあげてみたが、すでに鳥は、深い森---「夜の森」---の黒い頂を越えて飛びさっていた。その時から彼の心はあの鳥を捕らえようという不断の憧れでいっぱいになった。 

 家畜も妻も子も仲間もすててあの鳥をさがしに森の奥深く入って行き森の向こうへ出て、広大な世界の中へと入って行った。しかしどこでも鳥の噂にしかぶつからなかった。遂に年老いて死も間近に迫った時、彼の故郷からはるか北のアフリカの中央部の大きな白い山に行けばあの鳥はみつかるという話をきいた。その山を見つけて登り始めた。何日も登ったある夕方、山の白い頂のへりに出た。しかし鳥の影すらなかった。彼は死期の近いことを悟った。力尽きたと思った彼は、子供のように「おお!お母さん!おお!」と泣きながら倒れ伏した。その時、ひとつの声がこれに答えていった、「ごらんよ!おお!ごらんよ!」見上げるとアフリカの一日のいま終わろうとする赤い空に、一枚の白い羽毛がゆっくりと彼の方に落ちてくるのが見えた。彼は手をさしのべてそれを掴んだ。夜がやってきた時、彼は羽毛を手にもったまま、満足して死んだ。 [ ヴァン・デル・ポスト「狩猟民の心」 第三部 マンティス伝説]

747 ヨーロッパ人は未開人との相違に気付いて思いあがり,影響を受けるのは未開人の方だけで,優越感を持つ自分の方は影響を受けないですむと信じがちである.しかし実際にはこのような重大な事件においては一方交通などないのである.外部世界の原始的なるものとの出会いは,文明世界内部の原始的なものを刺激する. [ヴァン・デル・ポスト「狩猟民の心」第三部 暁の心]

748 人は自ら軽蔑したり拒否したものによって更新されるのである。 [ヴァン・デル・ポスト「狩猟民の心」第三部 美しいおおかもしか]

749 ひとりの男とひとりの女がいっしょにいれば、それをかこむ文明はくずれさるのである。いくつかの社会体系においては、個人の実際上完全な自発性が許されているこの分野だけである。そこでは、性の世界こそが、個人主義の最後のそしてつつましいかくれがになる。おそらくはこのためだあろう、全体主義的な思想は、その信条のいかんにかかわらず、文学からも性を追いだそうとする。 [シュレデール「人間の生物学」 第8章]

750 ヒトが深刻に社会化されていることは明白な事実である.けれども,そもそも何が社会化されているのだろう? 生物学的なものがである.即ち,そこでは,生物学的なものが,チャンネル化され,抑圧されあるいは単に偽装されているのである. [シュレデール「人間の生物学」 第8章]

751 人間はたえず批判的努力をしつづけることはできないし.あらゆる瞬間に合理的態度をとることは不可能である.この困難の原因はわれわれの生物学的なしくみの中にあるのであって,たえずそれを克服している人々は,意識的に無理してわが身をムチうつことによって,その特権---言うなれば痛ましい特権---を維持しているのだ. [シュレデール「人間の生物学」 第9章]

752 注目すべきことは、知識に内在する価値というものを、人々が認めるのは稀だということである。人々は、演劇、その他、なんら知的活動を要しない種々の娯楽が$¥la¥la$何の役に立つのか$¥ra¥ra$などととうことはない。ところが研究者に向かっては、その研究が$¥la¥la$何の役に立つのか$¥ra¥ra$とたずねるのがつねである。要するに、現代文明は全体としてまだまだ非合理的、ドグマ的、感覚的であり、逃避が切望されているのである。 [シュレデール「人間の生物学」 第9章]

753 まずなにより生産の増大を求めるような社会では、生き身の人間としての要請は、たとえ本人にとってはたしかに生活条件がよくなっているにしても、やはり副次的な問題に過ぎない。 [シュレデール「人間の生物学」 第10章]

754 脳の変化を伴わずとも,新しい思考形式を採用することによって,人間は《もっと知能的》になれるのである.実験的態度は,形而上学的な姿勢よい《もっと知能的》である.というのは,実験的態度が数々の新たな問題の解決を教えるのに.形而上学者は少なくとも20世紀この方,袋小路から抜け出すことを拒んでいる. [シュレデール「人間の生物学」 第10章]

755 より良き発展のためには,事物をそれがあるがままにながめ,生物学には冷酷な真理があることを理解せねばならない. [シュレデール「人間の生物学」 第10章]

756 この藝とは、衆人愛敬をもて、一座建立の壽福とせり。故に、餘り及ばぬ風體のみなれば、また、諸人の褒美缺けたり。このため、能に初心を忘れずして、時に応じ、所によりて、愚かなる眼にもげにもと思ふやうに能をせん事、これ、壽福なり。よくよく、この風俗の極めを見るに、貴所、山寺、田舎、遠国、所社の祭禮に至るまで、おしなべて、譏りを得ざらんを、壽福の達人の為手とは申すべきか。されば、いかなる上手なりとも、衆人愛敬缺けたる所あらんを、壽福増長の為手とは申し難し。 [世阿弥「風姿花伝」第五 奥儀讃歎云]

757 たとひ,天下に許されを得たるのほどの為手も,力なき因果にて,萬一,少し廃るる時分ありとも,田舎,遠国の褒美の花失せずば,ふっと道の絶ゆる事あるべからず.道絶えずば,また,天下の時に會ふ事あるべし. [世阿弥「風姿花伝」第五 奥儀讃歎云]

758 道のための嗜みには、壽福増長あるべし。壽福のための嗜みは道まさに廃るべし。 [世阿弥「風姿花伝」第五 奥儀讃歎云]

759 力なく、この道は見所を本とする業なれば、その當世々々の風儀にて、幽玄を翫ぶ見物衆の前にては、強き方をば、少し、物まねに外るるとも、幽玄の方へは遣らせ給ふべし。 [世阿弥「風姿花伝」第六 花修云]

760 鬼ばかりをよくせん者は、鬼の面白き所をも知るまじき。 [世阿弥「風姿花伝」第七 別紙口傳]

761 外的世界と自分自身を区別しえてはじめて、つまり、外的世界が対象となってはじめて、わたしはそれを把握しうるし自分の世界としてふたたびこれとひとつになりうるのである。 [ E. フロム「疑惑と行動」  6病める個人と病める社会]

762 自己の思考と選択の自由を、かくも誇っている人間は、事実は、上や背後から糸によってあやつられているあやつり人形に過ぎないのであって、自由の意識ではわからない力によって動かされているのである。自分の自由意志にしたがって行動しているのだという幻想を持つために、人間は合理化を発明した。それによって人間は、自分は合理的道徳的理由によって選択し、その義務を果たしているのだと錯覚しているのである。 [E. フロム「疑惑と行動」 9社会的無意識]

763 わたしは信ずる --- 人間の基本的二者択一は生と死の問題にほかならない。すべての行為はこの選択を意味している。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

764 人間の使命とは,自由を拡大し,死へと導かれる条件に対抗して,生に向かう条件を強化することである.ここでいう,生と死とは,生物学的なものではなく,存在し世界にかかわりあうその情況である.生とは,つねに変化しつねに新しく生まれることを意味し,死とは,成長の途絶,化石化,反復を意味する.だが,大多数のひとびとの不幸は,選択を行わないことにある.彼らは生きていないし死んでもいない.生は重荷となり.無意味なものとなり,多忙さがこのようなあいまいな状態にあるために生じる責苦から,そのひとを守る手段となる. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

765 わたしは信ずる --- 人生も歴史も個人の人生に意味をあたえ,その苦悩を正当化するような究極的な意味を持っていない.人間存在につきまとう矛盾と弱さを考えると,ひとが《絶対的》なものをもとめるのはしごくもっともだとおもえる.なぜなら,それが人間に確実さという幻想をあたえ,葛藤や疑惑や責任から,そのひとをときはなつからである.しかし,いかなる神学的,哲学的,史学的衣裳wpもとったとのような神も,人間を救ったり,裁いたりすることはできない.ただ人間のみが人生の目的をみだし,この目標を実現するための方法をみだしうるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

766 わたしは信ずる --- われわれは同胞のために決断してやっても、そのひとを救うことはできない。ひとが他者のためにおこないうることは、真実と愛情をもって、しかも感傷や幻想におちいらずに、二者択一を彼の前に示してやることのみである。真の二者択一に直面すれば,そのひとの隠れたエネルギーのすべてが目覚め,そのひとは死に抗して生を選びうるようになる.かし,もし,その人が生を選びえないときに,他者がそのひとに生のいぶきをあたえようとしても,それは不可能である. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

767 私は信ずる --- 善を選びこれに達するためには,二つの方法がある.第一の方法は,道徳的戒律を重んじ,それにしたがうことである. この道は効果的かもしれないが,しかし,数千年の歴史を通じて十戒の要請を守りえたのはほんの少数のひとびとであったことを考慮する必要がある.つまり権威あるひとびとによる命令として戒律がしめされたとき,むしろ多くのひとびとは罪に走ってしまったのであった.第二の道は善や正義をおこなうときに感じる充実感に目覚めることである.この充実感は,功利主義者や,フロイト派のいう意味での快楽ではない.それは生の高揚感であって,そこで自分の力と自己の存在が再認識されるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

768 私は信ずる --- 人間性はすべてのひとにあらわれている.われわれは,知能,健康,才能などの面では異なっているが,それにもかかわらずひとつなのである.われわれがすべて聖者であり,座人であり,成人であり,幼児でもあるが,しかし,なんぴとも他者の長上でも,審判者でもありえない.われわれはすべて仏陀とともに覚醒したのであり,キリストとともに十字架の責苦を受けたのであり,ジンギスカンやスターリンや,ヒットラーとともに殺戮し,略奪したのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

769 わたしは信ずる---人間の成長とはつねに誕生しつづけ、つねに覚醒することである。ふつう、われわれは半眠状態にあって、自分の仕事をなしうる程度に目覚めているだけである。つまり、生命的存在にとって唯一の務めとして、生きぬくために十分なほど覚醒しているわけではない。人類の偉大な哲学者とは、なかば惰眠をむさぼっていた人間を、目覚めさせたひとびとであった。そして、人間性に対する大いなる敵とは、人間性を眠らしめたひとびとなのであって、その眠りが神の礼拝のためであったか、金力の崇拝のためであったかは問題ではない。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

770 わたしは信ずる---われわれを自己破壊から救いうる可能性のある唯一の力は、理性である。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

771 わたしは信ずる---真実を認識することは本来、知能の問題なのではなく、人物の問題である。そのもっとも重大な要素は「否」といいうる勇気である。つまり、権力の命令や大衆の意見に服従せず、眠ることをやめて人間となり、覚醒によって絶望感と空虚感を捨てることなのである。イブとプロメテウスは人類を自由にするという「罪」をおかした二人の偉大な反逆者であった.しかも意味深い「否」をいいうる能力は,同時に意味深い「諾」をいいうる能力でもある.神に対する「諾」は,カイザルに対する「否」であり,人間に対する「諾」は,人間を奴隷化し,搾取し,打ちのめす者に対する「否」あおである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

772 二者択一は「資本主義」と「共産主義」の間にあるのではなく、「官僚主義」と「ヒューマニズム」の間にある。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

773 わたしは信ずる --- 個人的、社会的生活にあるもっとも悲惨な誤りのひとつは、常套的な二者択一にとらわれて考えることである。「赤より死を」、「疎外的工業文明か、個人主義的前工業的社会か」、「再軍備か無力か」というような例がこの二者択一を示している。きまり文句の致命的束縛から自由になり、人間性と理性の声に耳をかたむけさえすれば、つねに他の新しい可能性の存在することが明らかになる。「必要悪」の原理は絶望の原理である。多くの場合、それは、もっと大きな悪が勝利をしめるまでの期間を引き延ばすに過ぎない。正当で人道的なことを敢えて行う勇気を持ち、人間性と心理の声の力を信ずることが、いわゆる機会主義的な現実主義よりも、もっと現実的なのである。 [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

774 わたしは信ずる --- 人間は自己を奴隷化し麻痺させるような幻想を乗り越えねばならない.つまり,幻想を必要としない世界をつくり出すために,自己内外の現実に目覚めねばならない,幻想の連鎖が破られたとき,はじめて自由と独立がえられるのである. [E. フロム「疑惑と行動」 12わが信条 credo]

775 教育と読書,特に社会科学の教養が,より自由主義的な立場の人間をつくるということについては,すでにいくつかの実例がある. [H.¥ キャントリル「社会運動の心理学」 第一章] 

776 人間が、その心臓の鼓動にじっと聞きいることに心をひかれている時代には、より複雑な女性の生物的な型が芸術家や神秘家や聖人のモデルになっていた。人類がそれにかわって外部の社会で行い、改造し、建設し、発明できることに心を移したとき、すべての人間、動物、鉱物の自然性は、それに従うべき手がかりではなく、むしろ取り去らねばならない制限条件となった。 [M. ミード「男性と女性」第三部  社会の諸問題 8仕事とあそびのリズム]

777 人間は苦心して人間であることを学んできた.人間はその社会的発明を無数の小さな変遷をこえて維持してきた.それが維持できたのは,ひとつには人間が小集団として孤立化し,川,山,海,異なった言語,敵意ある境界の監視などで隔てられていたために,ちょうど他人がかかってすぐ死んでしまった流行病や,しだいに衰えて死んでしまった栄養失調からのがれた人のように,ある集団が苦心してあがなった知恵は,他の小集団は馬鹿にするようなものであっても,いつも大事にしていたことによる. [M. ミード「男性と女性」第三部  社会の諸問題 9 父親は社会の発明である]

778 精密な定義がなかったならそれについて何かを知っているとは言えないのです。 [ファインマン「物理法則はいかにして発見されたか」7新しい法則を求めて ]

779 何がありそうか、何がありそうでないか、これだけ言うのが科学的なことなので、ことごとに可能か不可能かを証明することではありません。 [ファインマン「物理法則はいかにして発見されたか」7新しい法則を求めて ]

780 初め根を種うる時は、只管栽培潅漑して、枝想をなすこと勿れ、葉想を作すこと勿れ、花想を作すこと勿れ、実想をなすこと勿れ。懸想するも何の益かあらん。但だ栽培の功を忘れずんば、枝葉花実有る没(な)きを怕(おそ)れんや。 [ 王陽明「伝習録」 ]

781 其の数頃の源無きの塘水と為らんよりは,数尺の源有るの井水の生意窮まらさるものと為らんには若かず. [王陽明「伝習録」上]

782 根有れば方に生ず。根無ければ便ち死す。根無くんば何によってか芽を抽(めぶ)かん。父子兄弟の愛は、便ち是れ人心の生意発端の処にして、木の芽を抽くが如し。此よりして民に仁し物を愛す。便ち是れ幹を発し枝を生ずるなり。 [王陽明「伝習録」上]

783 曰く、好色を好むが如くし、悪臭を悪すが如くするは、安ぞ意に非ざるを得んと。曰く、卻って是れ誠意にして、是れ私意にあらず。誠意は只だ是れ天理に循ふのみ。 [王陽明「伝習録」上]

784 名は実と対す。実を務むるの心重きこと一分なれば、則ち名を務むるの心軽きこと一分なり。全く是れ実を務むるの心なければ、即ち全く名を務る心無し。 [王陽明「伝習録」上]

785 先生曰く、涵養を専らとするものは、日に其の足らざるを見る。識見を専らにする者は日に其の余り有るを見る。日に足らざるものは日に余り有り、日に余り有る者は日に足らず、と。 [王陽明「伝習録」上]

786 よしいかほど御身の武勇がすぐれてゐたとて、神の授けるところに過ぎない。 [ホメーロス「イーリアス」第一書 (170) アガメムノーン]

787 頭の多いは良くないこと、頭梁は一人で沢山である。 [ホメーロス「イーリアス」第二書 (200) オデュセウス]

788 熱情とは、意見を懐いている人に合理的な確信の欠けていることを示す尺度である。  [ラッセル「懐疑論集」序説 懐疑主義の価値について]

789 信念が証拠に基礎を置く程度は、この信念を懐いている人達のおもっているよりずっと小さなものである。 [ラッセル「懐疑論集」序説 懐疑主義の価値について]

790 私が「正統フロイト派」でないことは確かである。事実60年間に変わらないいかなる理論も、まさにこの事実によって、もはやその創始者のオリジナルな理論と同じものではない。すなわち、それは古びた繰返しであり、繰返しであることによって実際には変形しているのである。 [ フロム「悪について」  はしがき ]

I am certainly not an ``orthodox Freudian.'' In fact any theory which does not change within sixty years is, by this very fact, no longer the same as the original theory of the master; it is a fossilized repetition, and by being a repetition it is actually a deformation.  [E. Fromm,  The heart of man --- Its genius for good and evil---(Harper ¥& Row, Publ., New York 1964) p14]

791 己に違うは詎(なん)ぞ迷いにあらざらんや。 [陶潜「飲酒二十首 その九」]

792 世上乱逆、追討雖満耳不注之、紅旗征戎非吾事。  [藤原定家「明月記」]

793 人間桂花落 夜静春山空 月出驚山鳥 時鳴春澗中。 [王維「鳥鳴澗」]

794 木末芙蓉花 山中発紅萼 澗戸寂無人 紛紛開且落。 [王維「辛夷塢」]

795 寂寞掩柴扉 蒼茫対落暉。 [王維「山居即事」より]

796 万壑樹参天 千山響杜鵑。 [王維「送梓州李使君」より]

797 空山新雨後 天気晩来秋。 [王維「山居秋瞑」より]

798 悠然遠山暮 独向白雲帰。 [王維「帰(車=罔)川作」より]

799

 幽蘭露 如啼眼 

 無物結同心 煙花不堪剪 

 草如茵 松如蓋 

 風為裳 水為珮 

 油壁車 久相待 

 冷翠燭 労光彩 

 西陵下 風雨晦。 [李賀「蘇小小歌」]

800 秋野明 秋風白 [李賀「南山田中行」より]