証 II 201-300
フッサール「イデーン」 竹田青嗣「現象学入門」 宮崎市定「中国史上」 小林道夫「デカルトの自然哲学」 間宮陽介「市場社会の思想史」 都城秋穂「科学革命とは何か」 地中海世界と古典文明 オリエント世界
201 過去に起こったことを正確に再現することが歴史記述であるならば、歴史記述からは深い理解も、一般性のある知識も得られない。ただ過去に起こったそのことだけがよく分かるだけであって、そのような理解は、それ以外の歴史事件の理解には、何の役にも立たない。歴史記述を役に立たせるには、もろもろの事件の共通性が何であるか明らかにせねばならず、そのためには重要でない細部は捨ててしまうという抽象化が必要である。 [森嶋道夫「思想としての近代経済学」 II-9 ウェーバー(1)— 合理的行動の社会学 p121]
202 ごく当たり前の自然的認識というものは、経験とともに始まり、そして経験のうちにあくまでもとどまる。われわれが「自然的」と呼ぶような理論的態度においては、可能的探究の全地平は、したがって一語でもって表示される。つまりそれは、世界である。 [フッサール「イデーンI-1」渡辺二郎訳 第一章純粋現象学への全般的序論 第一篇本質と本質認識 第一章事実と本質 第一節自然的認識と経験 p59]
203 経験主義的論証の原理的欠陥は、次の点に存する。すなわち、「事象そのもの」への還帰という根本要求が、経験による一切の認識の基礎づけという要求と、同一視され、もしくは混同されているということ、これである。 [フッサール「イデーンI-1」渡辺二郎訳 第一章純粋現象学への全般的序論 第一篇本質と本質認識 第二章自然主義的誤解 第一九節経験と、原的に与える働きをする作用とを、経験主義は同一視するということ p103]
204 以上からして、経験というものの代わりに、われわれは、もっと普遍的なものである「直観」というものを樹てる。 [フッサール「イデーンI-1」渡辺二郎訳 第一章純粋現象学への全般的序論 第一篇本質と本質認識 第二章自然主義的誤解 第二〇節懐疑主義としての経験主義 p106]
205 一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に(いわばその生身のありありとして現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。 [フッサール「イデーンI-1」渡辺二郎訳 第一章純粋現象学への全般的序論 第一篇本質と本質認識 第二章自然主義的誤解 第二四節一切の諸原理の、原理 p117]
206 経験主義の説く次のような主張を、ひとは真面目に受け取るべきであろうか。すなわち、基礎づけの役をする経験にこと欠くどころか、むしろ反対に、無限の量の経験がその際役に立っているのである、という主張がそれである。全人類がこれまで積み重ねてきたところの、否それどころか人類に先立つ動物種族さえもが積み重ねてきたところの全経験のうちに、幾何学上のまた算術上のもろもろの印象の途方もない宝が、集積されてきていて、かつまた物の見方という形式においてそれが統合されてきていて、こうした基底のうちから今われわれの幾何学的な諸洞察は、汲み出されているのである、と、経験主義は説くわけである。—けれども、それならば訊くが、そのように集積されてきたと称される宝も、もし何びともこれを学問的に観察したことがなくまた忠実に記録保存してこなかったとするならば、一体ひとは何を手がかりに、その宝のことを知るようになれるのであろうか。如実の経験ではなく、つまり当の経験の持つ本来的に経験的な機能と射程の点でこの上なく細心綿密に吟味された、如実の経験ではなくて、とうに久しく忘れ去られ、だからまったく仮説上のものであるような経験が、一体いつから学問の基礎に—それもおまけに、精密この上ない学問の基礎などに、なれたのであろうか。 [フッサール「イデーンI-1」渡辺二郎訳 第一章純粋現象学への全般的序論 第一篇本質と本質認識 第二章自然主義的誤解 第二五節自然研究者として実践しているときの実証主義者。実証主義者として反省しているときの自然研究者 p119-20]
207 あるがままの現実(客観)を“正しく”主観が認識すること。この現実と認識の「一致」を、ヨーロッパの哲学では伝統的に「真理」と呼んできたのである。ところが、実際は、現象学のいちばんの功績は、この伝統的な「真理」の概念がなぜ不可能な物であるかをはっきりさせたところにあるのだ。 [竹田青嗣「現学入門」現象学入門序説 p12]
208 現象学は、主観-客観の問題を“ 解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を“ 出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張している。 [竹田青嗣「現象学入門」現象学入門序説 p13]
209 意識と意識内容があるのではなく、意識とは必ずある対象についての意識(意識内容)である。 [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 1「近代哲学の根本問題」· · ·「主観と客観」 p17]
210 コンピュータがコードの「正しさ」を検証するためには、メタコード(コードを検証するための上位のコード)が必要である。ところが、コンピュータにメタコードをインプットしても、今度はこのメタコードの「正しさ」をコンピュータは判定できない。
人間の認識を一種の認識装置として考えるかぎり、認識の原理は今見たような事情に還元される。〈客〉とはここで、コードの「正しさ」を判定するためのオリジナルなものになるが、コンピュータ(人間)は原理的に一定のコード(認識装置)にしたがって考えるから、このコードの〈外〉に出てコンピュータの正しさを検証できないのである [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 1「近代哲学の根本問題」· · ·「主観と客観」 p19]
211 よく知られているように、デカルトはものごとを「正しく」認識するための確実な原理を打ち立てようとしたとされている。だがデカルトは、この「正しい」方法によって得られた認識が本当に〈真〉であるか否かは、人間には判定できないと考えていた。なぜなら彼は、人間の認識の〈真〉を保証するのは、「神の善意」だと言っているからである。 [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 2 近代の哲学者たち—デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ p25]
212 デカルトのこの「神の存在証明」は、もちろん現在私たちを納得させない。この証明の論理的な柱になっているのは、「完全なもの」は「不完全なもの」の原因となりうるが、その逆は成り立たないと言う考え方だ。 [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 2 近代の哲学者たち—デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ p26]
213 カントの認識論は、· · · 次の結論に達している
〈主観〉〈 客観〉のあいだの「一致」は論理的に存在しない。また、デカルトの考えに反して, 〈神〉の存在証明も人間には成しえない。さらに、凡そ人間は物事の「本質」の認識に達することができない。これは人間の純粋理性の能力の本来的な限界であるとされる。 [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 2 近代の哲学者たち—デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ p28]
214 ニーチェの考えは、〈主観/客観〉の二項の代わりにいわばカオス(混沌)とその解釈という二項を置く。彼は現実客観等というものはそもそも存在せず、ただ現実についてのさまざまな「解釈」だけがあるに過ぎないと言うのである。—中略—しかしこの考え方からは、なぜほとんどの人間に共有されるようなさまざまな“ 共通認識”我成立するのか、またなぜ議論による「納得」などが生じるのか、といったことの説明がつかなくなるのである。—中略—要するに全部解釈だという言い方は、客観という項目を大胆に取り払ったところに画期性があったのだが、この言い方だけでは、おおよそ認識なるものは存在せず、ただ思いなし(思い込み)だけがある、ということになるからである。 [竹田青嗣「現象学入門」第一章現象学の基本問題 2 近代の哲学者たち—デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ p32-3]
215 わたしたちは誰でもこの現実を確かな「現実」であり、自分は疑いなく「現実の世界」の中を生きていると思っている。しかしその確信がいくら強固なものであっても、今自分の見たり感じたりしている事柄がけっして夢でないという保証はどこにもない。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 1 発想の転換· · · デカルトの「夢」について p37]
216 デカルトは最後には「神」という客観の保証人を持ち出した。その理由は彼が根本では〈主観/客観〉図式にとらわれていたからだ。しかし方法的懐疑によって一切を疑ったとき、彼はその場面では、〈主観/客〉図式から考える限り問題は必ず円環すること、ただ主観の場所を徹底するところにのみ問題を解く糸口がある、ということを直観していたのだ。フッサールはそう考えた。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 1 発想の転換· · · デカルトの「夢」について p39]
217 たしかにわたしたちは「夢」と「現実」を区別する根拠をどこにも持っていない。ところが、にもかかわらず人間は、誰でも必ず心の底では「現実」の存在を確信している。どんな極端な懐疑論者も、走ってくるバスの前に飛び込んだりしないからだ。のみならずわたしたちは、じっさいには、「現実」と「夢」の区別を行っているのである。
というのは、もしわたしたちが単なるコンピュータならば、「夢と現実の違いは何か」という問いを設定することがそもそもできないからだ。—中略—じつはこの問いを立てる能力と、「夢と現実」を区別する能力とは別物ではないのだ。だから問題は、人間が考えるコンピュータとはとは違った仕方で存在していること、夢と現実とを区別するある原理を、〈主観〉の内側に(コードそれ自体の中に)内在させていることを明らかにする点にあることになる。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 1 発想の転換· · · デカルトの「夢」について p39]
218 問題なのは主-客の「一致」を確証することではなく(それは原理的に不可能であるから)これが現実であることは「疑えない」という確信(フッサールはこれを「妥当」と呼ぶ)がどのようにして生じるのか、という〈主観〉の中での確信の条件をつきとめることにある。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 2 「還元」の意味· · · 「確信」の生じる条件 p42]
219 この「疑えないもの」の確信は、単なる思い込み(ドクサ)であってはならない。〈主観〉の内から現れ、しかも〈主観〉の恣意的な思いなしを超えて、どうしても現実の実在〈主観〉を説きふせるもの、これだけが人間に「客観」が存在するという確信(妥当)を与えるのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 2 「還元」の意味· · · 「確信」の生じる条件 p42-3]
220 フッサールがデカルトから受けとった方法上の核心は二点ある。まずひとつは、〈主観/客観〉図式を取り払わなくてはならない以上、この問題の唯一可能で正当な始発点は、誰も自分のコードの「正しさ」を〈外側〉から検証できない、という前提からはじめること、つまり、あえて“ 独我論的主観”の立場からはじめるべきだ、ということ。もうひとつは、その前提から出発して、“ 独我論的主観”の内側だけで、「疑えなさ」(=「不可疑性」)が生じる根拠を求めることである。
現象学の場合、この“ 確信”あるいは「不可疑性」は特に三つのことについて言われる。ひとつは世界が実在するということの「不可疑性」、もうひとつは、自然の事物の実在の「不可疑性」、そしてさいごに〈他者〉 の実在の「不可疑性」である。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 2 「還元」の意味· · · 「確信」の生じる条件 p44]
221 フッサールの言う「諸原理の原理」は· · ·「原的に与える働きをする直観」である、と言うのだ。この「原的に与える働きをする直観」は、ふたつある。「知覚直観」および「本質直観」がそれだ。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 3 「諸原理の原理」· · · 確実なものの底 p47]
222 自然科学の方法では、〈知覚〉は、感官組織と神経組織の因果系列として“ 定義”されるだろう。ところが、この定義はいうまでもなく〈主観-客観〉図式を前提にしているのであり、客観から主観の成り立ちを“ 説明”するにすぎない。現象学では〈主観〉の立場を徹底するという前提がある以上こういう方法は取れない。[竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 4 知覚直観と本質直観(本質観取) p53]
223 〈知覚〉はたしかに自我のうちに生じたものでありながら、つねに自我を超えた非知のもの、“ 独我論的自我”の自由にならぬものとしてやってくる。この理由で、自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れるこの〈知覚〉こそ、自我に、自我ならざるものがたしかに〈外側〉に存在することを告げ知らせる唯一の根拠となるのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 4 知覚直観と本質直観(本質観取) p56]
224 〈主観〉は自己の外側にあるものの実在の「確実性」を、主-客の「一致」という仕方で得ているのでは全くない。〈主観〉はそれをただ自分の内部からのみ、なんらかの対象存在の「不可疑性」という仕方でだけ得ている [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 4 知覚直観と本質直観(本質観取) p57]
225 要するに現象学で言う「本質」とは、言葉の意味のことだと考えていい。
さて、事実(個物)と本質の区別において大事な点はいくつかある。
まずひとつは、どんな「経験的もしくは個別的直観」も「本質直観」(理念を観て取る働き)へと転化させられるということ。—中略—次に、どんな個的直観も本質直観へ転化されるのだが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立すること。—中略—さらに、これが重要だが、本質直観は「原理的に固有のまた新しい種類の直観なのでもある」。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 4 知覚直観と本質直観(本質観取) p59]
226 たとえば、あるひとが赤いリンゴを一瞥して、そこにリンゴがなんであるか、リンゴの種類、熟れ具合、その価値などの〈知〉的側面を“直観”するとき、この意味の直観は、意識の自由にかかわらず〈主観〉に現れる(自らを告げ知らせる)のであって、けっして意識の自発的作用としてリンゴに投げ与えられるものではない。—中略—わたしたちがふつう、ものは実在物だが、理念(=本質)は単なる心的抽象物と考えてしまう理由は明らかであって、それは、わたしたちが〈主観/客観〉 図式(まず客観物の世界が在る)を前提して事物のあるとないを考えようとするからなのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 4 知覚直観と本質直観(本質観取) p70-1]
227 問題の核心は、「一致」の確証はありえないのに、なぜ人間は客観の実在を疑いえないものとして受けとっているのかということに答える点にある。このとき可能な答え方はただひとつだけだ。人間は自己のうちに、自己の「外側に」あるものを確信せざるをえない条件を持っている。 [竹田青嗣「現象学入門」第二章現象学的「還元」について 5 まとめ p73]
228 「赤く」感じたが、じつは茶色だったとか、「丸い」と思ったがよく見ると「四角」だった、ということはありうる。しかし、「赤く」感じたと思ったのは間違いで、実はそのとき自分は「青く」感じていたということが明らかになった、などということはありえないのだ。
フッサールが《内在》と呼ぶのは《知覚》におけるこの“ 内在”的な感覚体験、人がそのように感じたという初源的な事実性のことである。 [竹田青嗣「現象学入門」第三章現象学の方法 6 《内在-超越》 原理 p93]
229 フッサールの《内在-超越》原理は、《知覚》経験をよく内省し直したすえに、そこに、原理上いつでも限りなく疑い得るような側面とそれについて疑うことができないような側面のあることを指摘しているのであって、認識を、構成された全体とその構成要素に分けているのではけっしてない。 [竹田青嗣「現象学入門」第三章現象学の方法 6 《内在-超越》 原理 p95]
230 人間の理性は限りなく疑う能力を持つが、また疑いの動機をも持っている。—中略—この動機はどこからやってくるのか· · · 人間が《超越》としての事物を疑いうるのは、《内在的知覚》への遡行が可能なときだけであり、それゆえに、この遡行の突き当たりとしての「明証性」ということこそ、原理的に人間の懐疑の能力と動機の限界なのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第三章現象学の方法 6 《内在-超越》 原理 p96-8]
231 現象学的な《自我》とは無意識、身体、他者へと《還元》されることはできず、むしろあらゆる《超越項》 を《還元》する動機それ自体であり、またさまざまな《超越項》の何であるかを確かめ規定する根拠それ自体なのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第三章現象学の方法 7 意味統一としての「経験」· · · 自我という極の意味 p100]
232 フッサールが「絶対的与件」とよぶのは、これが《意識》の根源現象だと言う意味はなく、ただ原理的にはこのレベルが、それ以上反省されえない(意識が自分自身についてその現象の因果を知りえない)限界だ、と言っているにすぎないのである。 [竹田青嗣「現象学入門」第三章現象学の方法 7 意味統一としての「経験」· · · 自我という極の意味 p103]
233 近代実証主義理念が覆い隠したのは、「定式化」された抽象の世界と具体的な生活世界の関係の逆転と言うことだ。—中略—近代的世界像における生活世界と理念世界の関係の逆転、この事態の根本原因は、近代的理性による世界把握の試みが、まず《主観-客観》図式を前提として出発したという点にある。 [竹田青嗣「現象学入門」第四章現象学の展開 1 近代的世界像の成立 p121-3]
234 《私》と《他人》がともに唯一の世界の中にあるという確信を持ちあっているその関係を、「間主観性」というのではけっしてない。そうではなく、「間主観性」とは、“ 他我が《私》と同じ《主観》として存在し、かつこの「他我」も《私》と同じく唯一同一の世界の存在を確信しているはずだ”という《私》の確信を意味する。 [竹田青嗣「現象学入門」第四章現象学の展開 1 近代的世界像の成立 p131-2]
235 It is a travesty of the truth to say ‘Thinking is an activity of our mind, as writing is an activity of the hand.’ [L. Wittgenstein, Philosophical Grammer edited by R. Rhees, transl by A. Kenney Blackwell, Oxford 1974, p106.]
236 確かに何れの世界においても、中世は中世なりに人智の進歩発達が見られた。その点においては中世は古代に優越する。併し、さればと言って中世暗黒時代説を全くの迷妄として捨て去ることができるであろうか。何となれば中世に入ってから、古代に育まれた幾多の進化現象が停頓し、退化逆行する場合が現れるのを、歴史事実として否定することができぬからである。例えば古代に盛んになりかけた貨幣経済の衰頽、自然物経済の再興の如きがこれである。更にこれに呼応するかの如く、古代において比較的自由になりかけた人間関係が、中世に入ると貴賎の階級が固定し、身分制社会が出現したような好ましからざる現象が生じたことが指摘され得る。中世という時代は、決して手放しで礼讃できるような進歩的な時代ではなかったのである。—中略—中世は中世なりの進歩が行われたとしても、経済的には退化し、悪化した時代であって、そこの中世の特色があったのである。 [宮崎市定「中国史上」総論 4中世とは何か p49-51]
237 中国の近世は宋代において殆んど完成に近い域に達しながら、それ以後は稍停滞の傾向を示すようになった。その根本的な原因は、経済上の好景気がそのままに永続しなかった為と見られる。経済現象は政治情勢と略平行するものであるが、北宋の末年において、中国社会は景気の頂点に達するかの観を呈すると共に、極めて危険な徴候を現し始めた。それは富の偏在による上層階級の奢侈生活、これに伴う政治の腐敗、地方人民の反抗機運の醸成などである。 [宮崎市定「中国史上」総論 5近世とは何か p76]
238 明に替わった清朝の下で、中国社会は徐々に経済態勢を建て直し、康煕帝を経て、雍正帝から乾隆帝の初期にかけて、経済もまた全盛期を迎える。併し乾隆帝の長い治世の後半になると、早くも景気は傾きを見せ始める。その根本原因は、銀塊の国外への流出であった。—中略—丁度、後漢末以後に現れたと同じような、貨幣の流出現象による不景気が再現したのである。—中略—不景気はまず企業を圧迫して、生産活動が停滞し、人口の増加に反比例して、就業の機会が減少し、顕在的、潜在的失業者が増加し、此等の失業者は闇商売を目的とする秘密結社に加入し、治安の紊乱を来して、世上が物騒となり、このことは益々生産活動を阻害するのであった。 [宮崎市定「中国史上」総論 5近世とは何か p77-8]
239 ここで注意すべき点は、政治の良否が経済の景気の波と一致する傾向があることである。これを宋代で言えば、北宋の初期は何れの時代にも増して政治が良好に運営されたと称せられるが、その裏には前代に見られない好景気の波があった。そこで考えなくてはならぬのは、好景気の時代には政治が効果を挙げ易く、少々の失敗もさして痕跡を残さないことである。そのような時代には、たとい暗愚な君主が在位しても、その欠点が取沙汰されることが少なくてすむ。これに反し不景気に際会すれば、政治上にどんなに努力しても、これを挽回することがむつかしく、大ていは失敗に失敗を重ねる結果となる。すると世論はその責任を君主、又は大臣に負わせて、その失徳、その無策を攻撃するようになる。そこで名君によって治世が生まれ、暗君によって乱世が始まるのが歴史の法則のように考えられてきたが、実は治世とは好景気のこと、乱世とは不景気の別名なることが多い。そして景気不景気は、そのときどきの君主個人の政策によって左右することがむつかしいから、古来の君主に対する伝統的な評価はあまり当てにならないと知るべきである。 [宮崎市定「中国史上」総論 5近世とは何か p78-9]
240 もしわれわれがデカルトの体系を体系として、しかもデカルト自身の意図に即して理解しようと望むならば、彼の形而上学を諸科学とりわけ自然学との関係のもとで検討することは不可欠であるように思われる。というのも、デカルトの主要著作のどれ一つをとっても、自然哲学に関係することなしに形而上学を展開しているものはないからである。されにデカルト自身、彼の哲学探求の過程で一度ならず、自分の自然学の基礎を構成しているのは自分の形而上学であると明言しているからである。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」序論 p2]
241 私は、デカルトがこの神の創造力ないし作出力(puissance efficiente) に、物質的事物の本質はわれわれ人間に生得的な数学的観念によって規定しうるとする考えの根拠を見いだしているということを確認する。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」序論 p5]
242 幾何学と数論とを統一しようとする考えは、異なる類の間で同じ操作が適用されてはならないという、アリストテレスの学問論の基本原則を廃棄することを意味する。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」I 「規則論」の過渡的思想 p17]
243 デカルトは常に、明晰判明な知識の真理性を神に基づけ、そのような知識は神を作者として持ち、神に依存しているのであって、その神は欺瞞者ではないということから、それは真であると確信してよいと結論づけるのである。一言でいえば、「あらゆる学知の確実性と真理性はただ真なる神の認識にのみ依存している」のである。こうして、明証性の規則は神の客観的地平の方から形而上学的に確立され、その客観的妥当性を得ることになる。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」III 自然学の基礎付けとしての「省察」 p76]
244 しばしば、デカルトは近代観念論の父と呼ばれる。しかし、デカルトの「省察」は、コギトの観念的見地から出発しながら、それを神の形而上学的見地によって退けるという存在論的展開を明確に示している [小林道夫「デカルトの自然哲学」III 自然学の基礎付けとしての「省察」 p77]
245 デカルトは、われわれが明晰判明に認識する数学的対象が物質的事物の本質を構成するものとして存在しうるということを、そのような対象をすべて創造し物質化しうる神に依拠することによって主張する。こうしてデカルトは、数学的対象を含めてあらゆるものの創造者としての神の存在が証明され、それとともに明証性の規則の客観妥当性が保証されたところで、物質的事物の本質は数学的に規定されるとする数学的物理学の可能性を根拠づける。このことはもちろん、アリストテレスの「性質の物理学」の決定的な排除を意味する。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」III 自然学の基礎付けとしての「省察」 p78]
246 デカルトは、感覚も誠実な神によって人間に付与されたからには、感覚によって得るものをすべて懐疑にかけるべきではなく、それにも何らかの真理が含まれると考える。[小林道夫「デカルトの自然哲学」III 自然学の基礎付けとしての「省察」 p80-1]
247 物質的事物の存在証明は以上のような仕方で展開されるのであるが、この証明の核心は、身体的操作能力の空間(延長)性と外的感覚能力の受動性の究明、それにそのような能力や事態に対する因果性の原理の適用である。これらの手続きだけが、知性作用のもとでは接近できない外在性の地平を開く。 [小林道夫「デカルトの自然哲学」III 自然学の基礎付けとしての「省察」 p82]
248 個人の自己利益の追求が社会的利益を損なうどころか、むしろそれを促進するという逆説的命題であった。「見えざる手」の比喩には市場社会のこの逆説的性格が圧縮して示されている。─中略─スミスの命題に含意されているのは、第一に、自己利益とはあくまでも自分自身にのみ関わりをもつところの利益だということ、第二に、自己利益の総和が社会的利益だというのは、恒等式というよりはむしろ因果関係を表す式だということ、である。自己愛が分業と交換を促し、結果として社会的利益を増進する。─中略─市場取引は自愛心と自愛心との取引であり、この取引が個人の利益、そしてその総体としての社会的利益を増進する。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第1章 経済学の誕生 p4-6]
249 同感とは哀れみや同情のような感情に基礎を置く同胞感情のことである。同感=同胞感情を社会の構成原理と考える「道徳感情論」の見解は、利己心や自愛心を社会の構成原理だと考える「国富論」の見解とは確かに違っているようにみえる。どうでもいい矛盾ではなく、スミスの全理論体系の根幹にかかわる矛盾—この矛盾ははたして調停されるのか。これがいわゆる「アダム・スミス問題」である。─中略─われわれはアダム・スミス問題に対して肯定的な回答を与えることができる。同感もまた、自愛心と同様に、大きな社会の構成原理たりうるのである。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第1章 経済学の誕生 p8-9]
250 「中立的な観察者」という概念は「道徳感情論」の鍵概念の一つである。行為の正しさをきめるのは行為者の主観ではないし、行為者を超越した神のような存在でもない。中立的な観察者がみるような見方で自分の行為をみよ、とスミスはいっている.中立的な観察者の見方で反省したとき、自分は行動の尺度を正確に守ったのだといえるなら、彼は自分の行為の適宜性を満足をもって反せいすることになる。「中立的な観察者」は「国富論」のにおける「見えざる手」に相当するといえるだろう。いずれも利己心を社会へと統合するもの—前者は社会的規範、個社は利己心を調整する(市場)社会のメカニズム—だからである。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第1章 経済学の誕生 p10-1]
251 ところが世の中には「体系の人」(man of system)とでもいうべき人たちがいる。彼らは、スミスとは対照的に社会が広がりその仕組みが複雑になればなるほど、社会の計画的統治が必要になると考える。自由はアナーキーの病巣だとみる。この体系の人に対して、スミスは次のように反駁を加えている。「体系の人は、反対に、自分では非常に賢明なつもりになりがちであり、かれは、自分の理想的統治計画の、想像上の美しさに魅惑されるため、そのどの部分からの偏差も、我慢できないことがしばしばである。· · · かれは、自分が、ひとつの大きな社会の様々な成員を、手がチェス盤の上の様々な駒を配置するのと同じく容易に、配置できると想像しているように思われる。かれは· · · 人間社会という大きなチェス盤のなかで、すべての単一の駒が、立法府がそれに押しつけたいと思うかもしれないものと全く違った、それ自身の運動原理をもつということを、全く考慮しないのである」(「道徳感情論」p468)。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第1章 経済学の誕生 p14-5]
252 スミスの楽観がリカードの悲観へと変化を遂げた背景には、資本主義社会の変化が横たわっている。─中略─経済の競争はスミスのように発展という観点からではなく、分配をめぐる争いという視点から捉えられている。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第2章 社会主義の思想p22-3]
253 古典派から現代に至る経済学の思想を一瞥して気づくのは、経済学がある一つの論点をめぐって波動を描きながら今日に至っている、ということである。その論点とは経済と国家の関わりに関するものである。一方には経済における国家の役割を極小化して経済を自由な競争に委ねよと説く思潮があり、他方には国家介入の必要性と不可避性を説き思潮がある。大まかな見取り図を描くと、今日に至るまで主流をなしているのは自由な競争のメリットを説く思潮であり、それに対する批判が異端の学説として周期的に出現するという格好になっている。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第3章 市場と国家 p31]
254 彼(ヴェブレン)は経済人なる概念を虚構の概念だと批判し、返す刀で経済学の「均衡」、「自然」、「正常」などという概念をも批判している。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第4章 市場社会の変貌 p80]
255 彼(マーシャル)は努めて株式会社の肯定的な面を取り出そうとしている。「強力な株式会社が内部の抗争にわざわいされず、直接にはもちろん間接にも投機的な株の売買操作に関与することもなく、競争相手をうちたおしたり強制的に合併したりしようとする戦略にふけったりしないならば」という条件を付けた上で、彼は、「その経営は長期的な視野に立って将来を考え、緩慢ではあるが遠大な方針を立てるのがふつうである」(「経済学原理」馬場啓之助訳第4分冊p136)と述べている。このマーシャルに対して、弟子のケインズは、株式会社が投機に走り、そのために視野が近視眼的になりがちなことを強調している。しかし、そのケインズも、現代の経済を歪めている貨幣欲が株式会社という半公的な組織の中で弱められるかもしれないという淡い期待を抱いていたのであった。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第9章 法人企業の変容 p104-5]
256 ケインズが有効需要不足を指摘し、そこから、古典派の自己調整的な市場という市場観を徹底的に批判した点は、ケインズ革命の核心のひとつをなすものと今日広く認められている。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第10章 ケインズ革命 p112]
257 合理的行動の基準はギャンブラーにも適用することができる。不確実性に直面する彼らの行動も、その不確実性がサイコロやルーレットの不確実性である限り、合理行動として分析可能である。すなわち、彼らの「危険」に対する態度を考慮しながら、期待効用の概念を導入して、その行動を一種の最大化行動として分析すればよい。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p120]
258 ケインズが自己の理論を従来の経済学(古典派、新古典派)の理論と鋭く対比させた一つの点は、まさしく不確実性の種類と意義をめぐってのものであった。彼は「雇用・利子及び貨幣の一般理論」刊行の翌年に発表した論文(「雇用の一般理論」)の中で、現実の経済はサイコロやルーレットの不確実性とは全く異質の不確実性の中で営まれていることを強く強調している。─中略─ちょうど万華鏡がわずかの動揺で絵模様ががらりと変えてしまうように、経済もちょっとした心理的動揺によってその根底を揺すぶられてしまう、とケインズはいっているのである。
ケインズが「不確実性(uncertainty)」という言葉で意味するのは、たんに絶対確実ではないという意味での不確実性(蓋然性)ではない。彼の考えでは「ルーレットの勝負は「不確実性」の問題には属さないし、富くじ、戦勝公債に対する見込みもまた同様である。あるいは寿命に対する期待もまたほとんど「不確実」なものではない。そして天候さえもやや「不確実な」ものであるにすぎない。私が使っているこの言葉の意味はヨーロッパ戦争の見込みとか、20年後の銅貨の価格や利子率とか、ある新発明の廃棄とか、1970年の社会組織内における個人的富の所有者の地位とかが「不確実」であるということである。これらの事柄に関しては何らかの確率を形成することができるという科学的基礎は何もない」 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p121]
259 見方を変えれば、この種の不確実性(=確率論的に統御できるもの)の下では人間だけに特有の行為は現れる余地がない、ということである。苦心して将来を占うこと、不確かな知識を補うものとしての人間の決断、不確実な社会であればこそ重みを増す個人的・社会的な慣行、こうした行為類型が経済学の表舞台に現れないのは当然のことであった。こうした人間固有の行為はケインズの考えるような不確実性を考慮したときに初めて出現するものである。─中略─従来の経済学は不確実性をいわば去勢し、そうすることによって人間行為の深い探求に乗り出すことを最初から断念していた。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p122-3]
260 技術革新を遂行するにしろ、新製品を開発するにしろ、あるいは設備投資を行ったり、さらに生産量を決める場合にも、企業は何とかして不確実な将来の解読に努めなければならない。つまり企業は期待を形成し、期待に基づいてことを起こさなければならない。企業活動をルーティン・ワークから区別するのはこの期待形成の活動だといってもいいすぎではないだろう。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p125]
261 長期期待はその性質上、乏しい知識をもとにして形成されなければならない。ケインズのいう「不確実」な状態とは期待を形成するさいに依拠すべき知識が極度に乏しい状態のことである。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p127]
262 所有と経営の分離が進み、証券市場が高度に組織化された今日では、何も危険の大きい設備投資に賭けなくても、利益を手にすることが可能である。たとえば企業は設備投資によってではなく、証券市場で他企業の株式を取得し、他企業を買収することによって設備投資の代わりをすることができる。また株式相場の上昇に乗じて新計画のための新規の株式を売り出し、安いコストで資金を調達することもできる。ただしこの場合には思いつきの計画のために不相応に多額の資金がつぎ込まれることになりやすい。
こうして現代の企業は真正な長期期待の下に起業者精神を発揮して投資活動を行うよりは、企業活動が証券市場という心理的な場の動向に左右されやすくなっている、とケインズはみるのである。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p127-8]
263 ケインズは頻度理論とはまったく別の確率の考え方を提示した。彼のいう確率とはサイコロの一定の目がでる確率はいくらかといった類の確率ではなく、ある命題(知識)のもつ確からしさに関するものである。大事な点は、ある命題の確からしさはその命題それ自体に内蔵するのではなく、別の前提命題や前提となる知識との相関関係でしか論じることができない、ということである。─中略─ケインズの確率概念は前提命題と結論命題のあいだの関係の確からしさのことである。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第11章 不確実性と「期待」 p129]
264 J.S. ミルの「経済学原理」においては、貨幣には交換を容易ならしめるだけのたんなる道具としての位置しか与えられていない。─中略─ミルにとって貨幣は経済の単なる潤滑油にすぎず、貨幣ほど重要でないものは他に存在しないのである。
同じことはワルラスの一般均衡体系についてもいえるのであって、そこにおいても貨幣は何ら重要な役割を演じていない。─中略─
ケインズは、これらの理論が成り立つ世界、すなわち貨幣が経済にとって中立的な世界は、不況や恐慌といった経済問題が最初から排除されている世界だと論じている。これに対して、現実の経済社会では不況も起これば恐慌も起こる。現実の経済では貨幣が人々の動機や決意に影響を及ぼし、そのことを通して貨幣は生産高や雇用量にっさようを及ぼす、とケインズは考えたのである。彼は貨幣が中立的でない現実の経済を「貨幣経済(monetary economy )」と呼んで、実物交換経済に対置させた。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p131-3]
265 市場経済の理論においては、財、商品、資産、貨幣などは、その異質性よりはむしろ同質性の方が強調される。それらは市場で取り引きされるものとして同列に立つのである。─中略─だが現実には貨幣d 円で小麦a キロを買えても、小麦a キロで貨幣d 円が買えるというわけでは必ずしもない。小麦を貨幣へ転換することはまさしく「命がけの飛躍」(マルクス)なのである。
現実の経済では財、資産、貨幣のあいだの関係は非対称的である。この日対照的な関係において貨幣は一等特別の地位を占めている。こうした所在のあいだの非対称性、あるいは現在と未来、家計と企業、流動性と固定性などといった様々な非対称性、断層、亀裂から成り立っているのがケインズの捉える貨幣経済である。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p133-4]
266 貨幣と通常の財の非対称性はもう少し別の側面からも観察することができる。貨幣吐剤かは取引を行う人間の意識においても対象ならざるものとして捉えられているのである。
第一に、安い買い物ならともかく、高い品物を購入しようとするさい、買おうか買うまいかと迷いを覚えるのは、貨幣と品物が価格面でたとえ等価であっても、意識の中では必ずしもそうは考えられていないことの証拠である。─中略─
一万円の品物と一万円札一枚は、両者が等価な場合でも、「流動性(liquidity)」に相違がある。流動性とは処分力、決済力、要するに等価の他のものを自由に購入することのできる力のことである。一万円札をもっていれば、等価のものなら何でも購入できるのに対して、一万円相当の品物をもっていても、それと引換えに一万円札はもとより、他の様々な財貨を購入することさえ容易ではない。─中略─
財が使用価値や交換価値という次元の他に、流動性という第三の次元をもっているっことは、ケインズ以前にカール・メンガーによって強調されていた。彼は商人が商う財(商品)の流動性鋸とを「販売可能性(Absatzf¨ahigkeit)」という名で呼び、その重要な意義について注意を促している。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p135-6]
267 流動性としての貨幣の存在理由は、それが不確実性に対処するための手段になるという点にある。─中略─完全予見、市場の完全組織化の下では貨幣はたんなる交換の媒体になるだけである。
流動性としての貨幣がその本領を発揮するのは人々が不確実性に直面し、物品の購入にさいして迷いが生じるときである。すなわち将来に暗雲が立ちこめ、先がよく見通せないとき、人は貨幣を保持することによって決断を先延ばしすることができるのである。
流動性としての貨幣は事態を特定の状態に固定化せずに白紙のままにしておくための手段である。─中略─
貨幣は他の諸財がもっているような使用価値を持ってはいない。が、あえてしよう価値という言葉を用いるならば、貨幣の使用価値はそれを持つことによって事態を流動的に、すなわち白紙のままにしておくことができる、ということにあるといえるだろう。
ちなみに、ケインズは利子率を、貨幣のこのような使用価値を手放すことに対する報酬だと考えた。「利子率は特定期間流動性を手放すことに対する報酬であ(り)· · · それは常に貨幣所有者が貨幣に対する彼らの流動的支配力を手放す事を欲しない度合いを示す尺度である」(「一般理論」p165)。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p138-9]
268 流動性としての貨幣は、不確実性が強いときには、投資を回避し時期を待つための手段、あるいは逃避口となる。いい換えれば貨幣は不活動の手段、企業が企業活動を休止する逃避所となる。
これは貨幣経済における貨幣のディレンマである。というのは、貨幣はもともと取引活動を促し、経済を活性化させるための手段として存在理由をもっていたのに経済がいざ不況になると、今度は経済活動を休止させるための手段になってしまうからである。─中略─
もっとも現代の経済においては、企業が設備投資を手控えるからといって、資金がまったく不活動のまま眠ってしまうわけではない。企業は設備の代わりに株式や債権などの金融資産、あるいは土地や建物などの実物資産を購入することができる。─中略─ことに証券市場は今日ではきわめてよく整備されている。たんに市場の運営に関するルールが整備されているというだけでなく、日々相場が公にされ、その相場にしたがって証券を自由に売買できるという意味においてもそうである。こうして株式その他の証券類は流動性を高め、貨幣を保持することの代替的もしくは補完的な手段となる。
このことは従来の「企業」活動のなかに「投機」の活動が侵入するだけでなく企業活動を蝕んでいく、というのがケインズの時代認識であった。[間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p140-1]
269 企業の活動に対置される投機の活動とは「市場の心理を予測する活動」のことである。経済社会の遠大な将来に目をやるよりは、市場の群集心理を推し測り、日々の相場に一喜一憂して証券の売買を行うのが投機の活動である。ケインズはこの投機の活動が次第に企業の活動を侵蝕しつつあるとみたのである [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p141]
270 証券市場の流動化(組織化)は、証券保有のリスクを軽減する一方で、投機の活動を促すことになった。日々の相場に基づいて証券を自由に売買することができるという便宜は、同時に相場の変動に乗じて利益を得るという投機の活動に便宜を与えることになったのである。─中略─
つての投機が未組織の市場を利用した投機だとしたら、今日の投機は組織的な市場の動揺を利用した投機だと言っていいかもしれない。冒険的な投機と違って、この種の投機は地球の果て、遠い先の将来を推し測るのではなく、市場の群集心理とその揺れを近視眼的に捉えて利益を得ようとする傾向をもっている。
このようなと右記の活動が貨幣経済の脇役から主役の地位に昇りつめようとしている、というのがケインズの目に映った現状であった。このような現状を捉えて、彼は「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんの害も与えないだろう。しかし企業が投機の渦巻きのなかの泡沫となると、事態は重大である」(「一般理論」p157)との危惧を表明している。彼の危惧が杞憂でなかったことは、今日のバブル経済の現実をみれば分かるだろう。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第12章 貨幣について p142-3]
271 1920年代から1930年代にかけて繰り広げられたいわゆる社会主義経済(計画経済)論争の過程で、計画経済の思想、それにともなって反計画の思想が同時に深まりを見せた。─中略─1920年に、みーぜすは「社会主義国家における経済計算」という論文を発表し、経済計算の問題が、社会主義経済の中心問題であると論じた。─中略─論争の中心点は、市場をもたない社会主義経済でも、合理的な資源配分の基礎となる経済計算が可能かどうか、ということであった。価格のないところでは、貨幣計算は不可能だから、合理的資源配分はできない· · · とミーゼスは批判したのである。─中略─ミーゼスの主張は· · · ポーランドの社会主義経済学者O・ランゲによって、あっさりと反論されてしまった。
─中略─
ハイエクやロビンズのいうように数百万の方程式を解く必要はない。なぜなら(計画)当局はたんに、需要量と供給量をチェックし、供給を需要が超過している場合には価格を引き上げ、逆の場合には価格を引き下げ、均衡価格が見つかるまで、改訂を繰り返せばいいからである。こうして、社会主義経済でも市場経済と同様な試行錯誤過程によって、効率的な資源配分を達成する事が可能であることをランゲは示した。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第13章 市場と計画 p144-8]
272 ハイエクは、ランゲのプロセスは論理的には可能であっても、現実的には不可能だと、反論した。─中略─計画当局が価格を改定し、試行錯誤によって均衡に達するという人工的プロセスは、静態的な経済においては論理的に可能だとしても、不断に変化する現実の経済においてはほとんど不可能だ、ということである。─中略─ハイエクは、ランゲの想定する経済と現実の市場経済との違いは「各隊、各兵が、特別の指揮と本部の正確な遠隔指令によるのでなければ動き得ない戦闘部隊と、各隊と各兵がかれらに与えられたすべての機会を利用して動く軍隊との違いと同じようなものである」(「個人主義と経済秩序」p248)と述べている。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第13章 市場と計画 p150]
273 ハイエクは、計画経済と市場経済との本質的な相違を知識の活用という点に求めた。有用な知識は、標準的な形で確実に得られるようなものではなく、むしろある特定の時と場合の情況に応じて変化する、不確実な種類の知識である。─中略─市場とは、社会の隅々に分散している、特殊な状況の下でしか得られないような知識を発見し、普及し、淘汰する場のことにほかならない。 [間宮陽介「市場社会の思想史—自由をどう解釈するか」 第13章 市場と計画 p150-1]
274 本来は「市場主義」に馴染まないような問題にまで「市場主義」の適用によって乗り切ろうというのは、優れて現代的な特徴である。 [根井雅弘「21世紀の経済学」 序 p4]
275 ここでまず強調したかったのは、ケインズがいみじくもいったように、「人類の政治問題は、三つのもの—経済効率、社会公正、個人の自由—を組み合わせる点にある」ということである。
ケインズの真意は、おそらく、経済改革を進める場合にも、市場主義のようにただひたすら経済的効率を追い求めるのではなく、他の座標軸とのバランスを常に考慮に入れるべきだということにあるに違いないが、もしそうなら、改革は勢い急進的というよりは漸進的なものにならざるを得ないだろう。だが、つねに非現実的な急進主義を唱えるよりも、それが真の改革へのもっとも確実な道であることをケインズは知っていたのではないか。 [根井雅弘「21世紀の経済学」 社会主義の崩壊 p47]
276 なぜセンは合理的「経済人」に対してこれほど厳しいのか。それは、人間の行動を観察する場合、彼が「共感」と「コミットメント」と呼ぶ二つの道徳感情を無視することができないからである。 [根井雅弘「21世紀の経済学」 多様な資本主義 p83]
277 「市場主義」の欠陥が次第に明らかとなった現在、日本人としての私たちは「市場」の外にあって実は「市場」を支えている「制度」(伝統、慣習、法など)や「価値観」(倫理、エートス、人間関係の大切さなど)などの重要性を再認識すべきではないだろうか。 [根井雅弘「21世紀の経済学」 経済学はどこへ行く p152]
278 1960年代に、地球物理学にプレートテクトニクスという地球表層部の性質と運動についての新しい理論が始まったが、それは1970年代のうちに地質学に波及して、地球物理学と地質学の全体にわたる革命を起こした。これによって、地球物理と地質学の融合が実現し、その二つを結びつけた地球科学ができた。このプレートテクトニクス革命は、地球の科学的研究の歴史の上で最大の事件であった· · ·。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 序章 地球科学、ことに地質学についての予備的解説 p7]
279 でき上がった科学を分析したり、鑑賞したり、利用したりするのでなくて、科学の研究を自分で進めるという立場から見た場合には、科学的研究のいちばん大切な性質の一つは、研究のライフサイクル現象である。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 序章 地球科学、ことに地質学についての予備的解説 p10]
280 現在と同じ考えにも、現在とは違う考えにも、大した証拠が発見されていなかった時代には、どちらを支持するかは偶然であって、現在と同じ考えを支持していた人の方が、それだけ偉かったとはいえない。過去のそれぞれの時代の状況のもとでは、現在と違う考えにも意義があった場合がよくある。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 1 思弁的な地球観から経験科学へ p17]
281 そのころ神秘主義的なヘルメス思想と新プラトン主義が広まっていた。そのために生物と無生物との間にはっきりとした境界はないと考えられ、生物とよく似た形をした化石も、地中の非生物的な造形力によってつくられたものとされ、従ってそれを岩石や鉱物と区別する理由はなかった。古い地質学史では、化石の生物起源を当時の人が否定したのを、単に昔の人の無知のせいにするのが普通であったが、実際には単純に無知のせいではなかった。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 1 思弁的な地球観から経験科学へ p21]
282 当時(=19世紀前半)の地質学が、自然観や世界観を変革した点と、その結果として一般大衆まで魅惑した点と、両方から見て、それはまさに地質学の黄金時代であった。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 2 地質学の形成とその黄金時代 p68]
283 キュヴィエ自身の激変説は非宗教的で科学的な学説であった。カタストロフィズムを日本には天変地異説と訳す人がある。ライエルに対する反対者のなかには、神秘的な天変地異を考えた人もあったが、そうではなくて、非宗教的で合理的な人も多かった。従って、カタストロフィズム全体を天変地異説とよぶことは公正ではない。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 3 ライエルの斉一説的地球観の意味 p73]
284 ライエルの斉一説の重要さは、それによって聖書地質学や神秘的な天変地異説を打倒したことにある、と書いてある本がある。イギリスについては、これは本当である。しかし、イギリスでは啓蒙思想の普及がわるく、聖書地質学が1830年頃まで栄えていたために、そうなったにすぎない。啓蒙思想の普及したフランスの科学者の間では、聖書地質学や神秘的な天変地異説はライエルより100年も前に滅びていた。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 3 ライエルの斉一説的地球観の意味 p80]
285 このように斉一説は、その支持者たちを20年も時代遅れにさせた。過程の斉一性の主張は、ある程度までは地質学を科学として成り立たせるために必要な方法論的過程であるが、ライエルのようにそれを絶対的な原理にしてしまって、それに反することを絶対に認めないという頑固な態度をとると、その原理が新しいドグマになって、学問の進歩にとって有害になった。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 3 ライエルの斉一説的地球観の意味 p85]
286 自然科学の進歩の前線になった国は時代とともに変遷したが、それぞれの時代に自然科学全体について世界の進歩の中心になっていた国は、同時に地質学でも世界の進歩の中心になっていた。科学全体の進歩の中心になっていた国と、地質学の進歩の中心になっていた国とが、いつでもほぼ一致したことは、自然科学の諸分野の盛衰が共通な社会的原因によって起こっていたことを暗示している。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 4 社会は自然科学にどんな影響を与えるか p112]
287 デモクラティアdemokratia、すなわち民衆の支配—彼らの政治体制を、アテネ市民たちはこのように呼んだ。民衆demos とは、市民団全体を意味する語である。成年男子市民全員が平等の参政権をもち重要決定は彼らの全体集会である民会ekklesia や、抽選で選ばれた数千人の陪審員が構成する民衆裁判所heliaia が下し、大多数の役人もまた抽選で選ばれるという、世界史上希有なほどに発展したアテネの直接民主政は、前508年のクレイステネスの改革以来1992年で2500周年を迎えた人類のデモクラシーの歩みの、まさに第一歩である。その世界史的意義は、それが制度的外形のみならず実際の運営においても、かなりの程度徹底した政治的平等を実現し、そしてそれを二世紀ちかくの間維持しえたということに見いだされるだろう。
アテネ民主政が、形骸化することも、また安易なポピュリズムに流され、民衆にかつがれた独裁者によって葬り去られることなしに、これだけ長く存続した秘密は何か。
その少なくとも一つの理由は、全市民に政治参加への道が保証されている一方で、政治を担う公職者(政治家や役人)にきわめて厳しい責任が求められ、彼らの公的責任を追及するための諸制度が異常とも思われるほどに発達していたことに求められると思われる。 [橋場弦「民主政の罪と罰—美徳から犯罪へ—」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p191-2]
288 執務審査の、とくに会計検査官がかかわる部分は、このように前450-430年代に重要な進展を遂げた。この時代が、アテネ民主政史上もっとも傑出した政治家ペリクレスが国家のリーダーシップを握っていた時期と重なることは、重要である。─中略─ペリクレスが企画し、おそらくその指導下で民主的に運営手続きを整えていったアテネの公共事業は、このように会計検査制度の整備という副産物を生み出したのである。 [橋場弦「民主政の罪と罰—美徳から犯罪へ—」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p199-200]
289 ペリクレスの政治生活初期における最大の政敵が貴族派の首領キモンであり、彼がキモンに意識的に対抗したことはよく知られている(アリストテレス『アテナイ人の国制』27 章3-4 節)。キモンは財力にものをいわせて気前よく貧民に施しをし、公共施設を寄付するなどして巧みに民衆の歓心を買った。そして彼らとの間に一種のパトロネジ関係を築くことで、前460年代には連年将軍選挙に当選し、海外遠征に成功しては蓄財して権力地盤を固めた。賄賂をいっさい取らず、きわめて清廉であるとの評判の高かったペリクレスとは対照的な将軍である。キモンの行動は、贈与を美徳と考える貴族政以来の伝統的な価値観に支えられていた。ペリクレスの政治プログラムは、キモンに代表されるこの古い価値観に挑むところから始まる。その本質を一口でいえば、公と私の領域の境界を明確に設定することであった
私的な金が公の領域に影響力を及ぼすことが贈収賄だとすれば、公金が私の領域に紛れ込むのは公金横領である。ペリクレス的な新しい倫理観に従えば、キモンが私財を派手にばらまくのも一種の露骨な買収行為ということになろう。ペリクレスの意図は、執務審査に代表される公職者弾劾制度を立ち上げてみせることで、公私の境界を互いに侵犯するこれらの行為を犯罪として位置づけ、それらに対して司法的制裁を用意することにあったのではないか。[橋場弦「民主政の罪と罰—美徳から犯罪へ—」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p201]
290 一般に教科書的記述では、しばしばアテネ民主政はペリクレスの死(前429年)後、扇動政治家(デマゴーグ)に操られる衆愚政治と堕し、衰退したとされる。だが一見そのように見える前420年台以降の状況の背後で、ペリクレスが立ち上げた公職者弾劾制度は、その進化の歩みを止めることはけっしてなかったのである。
─中略─
民主政は、政治の混迷と格闘する中から、深い次元でより完成されたシステムを模索していたといえる。その努力は、ペロポネソス戦争の敗戦、民主政の二度にわたる転覆、そして前403/2年におけるその再建と再編成をへて、ようやく実を結んだとみなすべきであろう。
この時代に民主政が衆愚政に堕したといういい方は、だからけっして適当とは思われない。アテネ民衆は、ペリクレスというカリスマ性をもった指導者を喪ったあとも、彼が種蒔いた民主政の理念の実現を放棄しなかった。公職者の責任をより広く厳しく追及しようとする彼らの強い意志の中に、このことは読み取られるだろう。そもそも衆愚政ochlocracy という用語自体、民主政に対するある偏った価値観を含むもので、本質的には何かをそしるためのレッテルである。衆愚(ochlos あるいはmob)といったときには、すでに何らかの価値判断がそこに働いている。ちなみに現在、研究者がアテネ民主政を記述する際に、少なくとも地の文章でこの語を使うことはめったにないといってよい。 [橋場弦「民主政の罪と罰—美徳から犯罪へ—」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p202,206-7]
291「贈り物」を意味するギリシア語ドーラdora は、本来麗しいニュアンスを含むものであった、だが本稿で見たとおり、ペリクレス以来の公職者弾劾制度の発展とともに、それは「賄賂」という唾棄すべき犯罪行為をも意味するようになる。民主政とは、贈与をめぐる伝統的価値観との対決を不可避的にもたらすものであった。民主政がその理想を全うするためには、美徳であったものに犯罪の烙印を押すことが、ぜひとも必要だったのである。 [橋場弦「民主政の罪と罰—美徳から犯罪へ—」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p207]
292 アテネ民主政がそれなりの成功を収めた以上、それを支えた人々が共通にもっていた信条や行動規範は、少なくとも彼らが支えた政体に適合的な形に組み上げられていたはずであろう。そのような精神態度はどこでどのように育まれてきたのだろうか。この点を調べてみるならば、あまりにも多種多様な民主主義国家の存在に戸惑いを覚えているわれわれが、改めて民主主義なるものを顧みる際の一助になりうるのではないだろうか。 [中村純「舞台の上の民主政」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p212]
293 デュエムは、物理学上の理論を観察や実験によって決定的に(最終的に)否定することは不可能だと言うことを強調した。一つの理論の予言が、もし観察や実験に合わないならば、その理論を少し変化させたり、何かの補助的なぁていを付け加えて修正すれば、たいていは観察や実験と調和するようにすることができる。
─中略─
科学史によく、論争の勝敗を決めた決定的な実験というものが書いてあるが、そのときの論争の経過を詳しく辿ってみれば、そのような実験に対してでも、もし反論しようと思えば、反論がまったくできなかったわけではない。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 4 観察は理論に依存する p141]
294 ポパーの反証主義には強い否定的性格があったが、ラカトシュの洗練された反証主義にはそれがなくなった。意味のある批判や否定は困難であることがわかり、肯定的・建設的な漸進が重要であることがわかった。科学の進歩のために最も重要なことは、従来の説を否定しようと努力することではなくて、新しいよい説を唱えることである。反証はそのように歴史的性格をもつことが明らかになった。 [都城秋穂「科学革命とは何か」 4 観察は理論に依存する p158]
295 クーンの説が社会科学界で異常な興味を持ってみられた主な原因は次の点にあったといわれている。自然科学は厳密な論理と実験によって、客観的で確実な学問体系を作り、それはすべての人によって受け入れられているのだと、それまで社会学者たちは常識的に考えていた。そしてそれに較べて、社会科学が客観的な確実な学問でないということに劣等感を感じていた。ところがクーンの本を読んだ社会科学者たちは、自然科学も本質的には社会科学と同じであって、その学説は客観的でも確実でもなく、単に科学者共同体によって受け入れられているというにすぎないことを知って、たいへん喜んだ。 [都城秋穂「科学革命とは何か」7 パラダイム説と科学的研究プログラム説 p176]
296 ツキディデスは、アルキビアデスについて「かれは公職にあって戦略指導に無二の才能を示しながら、その私的な性癖が個々の市民の憎悪を買うこととなり、そのために、市民が他の指導者らに国事を委ねるに至るや、はや幾何の月日を経る暇もなくして国家は壊滅に陥ったのである」(『戦史』6巻15章)と評価している。ペロポネソス戦争中のアテネにとって彼の軍事的能力は貴重なものであったに違いない。しかし、市民間の徹底した平等を推進してきたアテネ市民にとって過度の有能さを示す人物は、陶片追放の制度が端的に示しているように、必ずしも望ましい同胞ではなかった。その辺りの事情をアリストファネスは『蛙』という作品で、アテネ市民はアルキビアデスを「愛し、憎み、しかも自分のものにしておきたいと願っている」あるいは「国内に獅子を飼うべからず、されど育て上げられたるそのときには、その意にしたがうべし」(1425行以下)といった台詞に託して鮮やかに表現している。 [中村純「舞台の上の民主政」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p222-3]
297 古典劇の競演は市民にポリスが直面している問題の所在を教え、それぞれに解決策を提示し、市民に優劣の判断を仰ぐという側面をもっていたと考えてよい。民会における議論のように、直接、政治課題に対処したわけではなくとも、劇場は─中略─市民に必要とされる様々な判断のイメージトレーニングの場として機能していたと言えるのではあるまいか。 [中村純「舞台の上の民主政」 岩波講座世界歴史4地中海世界と古典文明 p228]
298 要約すれば、ファラオに期待された機能とはマアト(=宇宙的秩序)の維持である。規則的なナイルの増水は、ファラオが自然との友好の維持に成功していることを氏と人に確信させ、強力な王権を確立するのを容認させた。 [屋形禎亮「古代エジプト」 岩波講座世界歴史2オリエント世界 p33]
299 新王国時代になると、職業軍人の必要性が認識されたが、伝統的な官僚重視のため軍人は軽視され、軍隊の重要な地位は軍隊勤務の官僚(武官)に握られた。そのためエジプト人の中に固有の軍人層は育たず、外人(とくにリビア人)傭兵に頼る結果となった。やがて彼らの権力奪取によって末期王朝時代が開かれ、文明の衰退がはじまる。 [屋形禎亮「古代エジプト」 岩波講座世界歴史2オリエント世界 p37](ただし、「末期王朝時代のエジプトが衰退の一途を辿ったのは、前1200年頃のヒッタイト王国の滅亡を契機にオリエント世界が鉄器時代に入ったのに対し、エジプトは鉄資源をもたなかったことが最大の理由であろう。」とこの論文末尾p59-60 にある。)
300 エジプトは、明らかに文字の概念はメソポタミアから学んだにもかかわらず、エジプト語の属する、セム・ハム語の特性に合わせて、母音を無視し、子音のみを表記することとした。このため表音文字中に単子音文字が含まれる結果となる。この単子音文字のみの使用により、シナイ文字をへていわゆるフェニキアの「アルファベット」が誕生することになる。相対的に孤立した環境が、文字の概念の受容に際して、子音のみ表記という着想を可能にしたのである。 [屋形禎亮「古代エジプト」 岩波講座世界歴史2オリエント世界 p40]