I 401-600 

「キリスト教の本質」 荀子 ボーヴォワール「第二の性」 荘子内篇 管子 ソフォクレス マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」 ジンメル「断想」 維摩経 フォイヤー「精神分析と倫理」 武谷三男 宝積経

409 キリスト教徒は人間を自然とのあらゆる共同から引き離し,そしてそのことによって上品な敏感さという極端におちいった. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十七章]

The world passes away, but man, nay, the individual, personal man, is eternal. If the Christians severed man from all community with Nature, and hence fell into the extreme of an arrogant fastidiousness, which stigmatised the remotest comparison of man with the brutes as an impious violation of human dignity; the heathens, on the other hand, fell into the opposite extreme, into that spirit of depreciation which abolishes the distinction between man and the brute, or even, as was the case, for example, with Celsus, the opponent of Christianity, degrades man beneath the brute.

401 この世界を去りてのち、われはこれ(=ブラフマン)と合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。 [チャーンドーギア ウパニシャド 3.14 シャーンディリアの教義]

402 実にそれよりこれらの生類生じ、生まれてはそれによりて生き、死してはそれに帰入するもの、そを知らんと欲せ。そは梵なり。 [タイッティリーヤ 3.1]

403 梵我の本質の完全一致を認める以上、解脱後に個人的区別は消滅しなければならない。果たしてヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。---しかし余りに高尚な哲理は俗耳に入りがたく、死後にも個別の存在の接続を要望する民衆の宗教心を満足させえない。 [辻直四郎 「インド文明の曙」 第十章 p172]

404 法治主義政治家の基盤は,こうした貴族自身でありながら貴族政治の弊害にあきたらず,その渦中からの脱出を賢明な識見によって図ろうとする君子政治家の下にはぐくまれてきたのである. [小野沢精一「東洋思想」4 法家思想 p128]

405 子産は,伸びてきている庶民勢力の事実をそのまま認めながら,それを在来的立場にとらわれずに,現実的に処理することによって,国家の安定と国力の充実をリードしていったのである. [小野沢精一「東洋思想」4 法家思想 p130]

406 信仰は奇跡に対する信仰であり、信仰と奇跡とは絶対的に不可分である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十四章]

faith is the belief in miracle; faith and miracle are absolutely inseparable.

407 主観的な人間は論理学や物理学が与える退屈な法則にしたがうのではなくて、空想の恣意にしたがうのである。それ故に主観的な人間は事象における気に入らない部分は放棄するが、しかし気に入る部分は確保する。こうして彼にはおそらく純潔でけがれない乙女は気に入る。そして彼にはおそらくまた母も気に入る。けれども彼の気に入る母は、ただなんらの重荷にもなやまされない母・すでに小児を腕にだいている母だけである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十五章]

he subjective man is not guided by the wearisome laws of logic and physics, but by the self-will of the imagination; hence he drops what is disagreeable in a fact, and holds fast alone what is agreeable. Thus the idea of the pure, holy Virgin pleases him; still he is also pleased with the idea of the Mother, but only of the Mother who already carries the infant on her arms.[Feuerbach Essence of Christianity]

408 宗教改革の文化的影響の多くが---われわれの特殊な観点からおそらくその大部分といってよい---改革者たちの事業から生じた予期されない、いや全然意図されなかった結果であり、しばしば彼ら自身の念頭にあったものとは遥かにかけはなれた、或いはむしろ正反対のものであったということをあらかじめ確認しておかねばならない。 [ M.ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 第一章 ルッターの職業観念--研究の課題]

410 行為へ移行しない精神的自由・感性的に確証されない精神的自由とは何であろうか。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十八章]

But Christianity, it is contended, demanded only a spiritual freedom. True; but what is that spiritual freedom which does not pass into action, which does not attest itself in practice? 

411 人間の不死に対する信仰は人間の神性に対する信仰である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

The belief in the immortality of man is the belief in the divinity of man, and the belief in God is the belief in pure personality, released from all limits, and consequently eo ipso immortal.

412 不死を拒否する人は神を拒否する。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

If I am not immortal, I believe in no God; he who denies immortality denies God.

413 例えば物質的な実際の肉体をもたないでまたは性の区別をもたないで生存(実存)することができる---信仰はこう考えるのだ--- ことを疑うとしよう。その場合は人びとはまたやがて彼岸の実存一般を疑うのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

Where it is once doubted that the images of immortality are real, that it is possible to exist as faith conceives, for example, without a material, real body, and without difference of sex; there the future existence in general is soon a matter of doubt. With the image falls the thing, simply because the image is the thing itself.

414 彼岸とは制限や害悪として現れるものから開放された此岸以外の何ものでもない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

415 私は私に徹底的に気に入らない家を取りこわしはするが、しかし美化しはしない。彼岸に対する信仰は現世を放棄するが、しかし現世の本質は放棄しない。単にあるがままの現世が私の気に入らないにすぎないのである。喜びは彼岸を信ずる人にも気に入る。---喜びが無常なものであることが彼の気に入らないのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

A house which absolutely displeases me I cause to be pulled down, not to be embellished. To the believer in a future life joy is agreeable – who can fail to be conscious that joy is something positive? – but it is disagreeable to him that here joy is followed by opposite sensations, that it is transitory. Hence he places joy in the future life also, but as eternal, uninterrupted, divine joy (and the future life is therefore called the world of joy), such as he here conceives it in God; for God is nothing, but eternal, uninterrupted joy, posited as a subject.

416 人間は宗教の始めであり、宗教の中点であり、終わりである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十九章]

The beginning, middle and end of religion is MAN.

417 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける,信ずる人は浄福であり,(宗教を)信じない人は不幸であり見捨てられており,罰されている.したがって宗教は,理性に訴えないで心情に訴え,また幸福欲に訴え,恐怖と希望との激情に訴える. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十章]

Religion annexes to its doctrines a curse and a blessing, damnation and salvation. Blessed is he that believeth, cursed is he that believeth not. Thus it appeals not to reason, but to feeling, to the desire of happiness, to the passions of hope and fear. 

418 宗教はただ偶然を神の恣意の中へ移すだけである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十章]

Religion denies, repudiates chance, making everything dependent on God, explaining, everything by means of him; but this denial is only apparent; it merely gives chance the name of the divine sovereignty.

419 神とは理論の欠如を補う概念である.神は説明することができないものの説明であり,しかもこの説明は何物も説明しない. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十章]

The idea of God is the explanation of the inexplicable, – which explains nothing because it is supposed to explain everything, without distinction; he is the night of theory, a night, however, in which everything is clear to religious feeling because in it the measure of darkness, the discriminating light of the understanding is extinct; he is the ignorance which solves all doubt by repressing it, which knows everything because it knows nothing definite, because all things which impress the intellect disappear before religion, lose their individuality, in the eyes of divine power are nothing. Darkness is the mother of religion.

420 神は理論の夜である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十章]

421 神はすべての疑いを解く無知である.なぜかといえばその無知はすべての疑いを打ちくだくからである. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十章]

422 巨大な社会機構に対して個人の抵抗が,無限小になろうとしている現在,個人が,その持ち場に固執するのは,ひとつの有力は抵抗の方法である. [松田道雄「誰がやけどをさせたのか!」 世界 1967/5]

423 ダムは造られるだろう.しかし私は権利闘争を通じて,公権が私権をおしつぶして行く,残酷物語を歴史として残したい. [室原知行]

424 社会に完全な経済的平等が実現され,風俗が妻や恋人である女性に,一部の男性に独占されている特権を利用することを許さぬかぎり,受身のかたちで成功する夢は女の中につづけられ,そして彼女自身の自己完成は抑制されるだろう. [ボーヴォワール「第二の性」 I 第二章]

425 どうして反革命ということができるか.誤りを犯すと,人はすぐ反革命という.あまりに簡単に過ぎはしないか.---中略--- (劉少奇)がみんなひっかぶっているのだ.革命のために彼はなにもいわないのだ.彼は党の利益のためになにもいわない.私はやはりこれが正しいと思う.しかし,彼は私に対してもなにもいわない. [王光美 4/14人民大学紅衛兵組織大字報 朝日新聞4/15夕刊]

426 あることが行われるということは、そう行為することが善であり且つ正しいから起こるのではなく、そう行為することが神によって命令されているから起こるのである。内容それ自体はどうでもよい。 神が命ずることは何であっても正しいのである。もしこれらの命令が理性や倫理学と一致するならば、そのときはこのことは幸福である。しかし、この幸福は啓示の概念にとって偶然である。  [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十二章]

What is done is done not because it is good and right, but because it is commanded by God. The inherent quality of the deed is indifferent; whatever God commands is right. If these commands are in accordance with reason, with ethics, it is well; but so far as the idea of revelation is concerned, it is accidental. 

427 啓示に対する信仰はまた人間のなかにある最も神的な感覚---真理に対する感覚、真理に対する感情---をも毒する、そうだ、殺してしまう。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十二章]

But the belief in revelation not only injures the moral sense and taste, – the aesthetics of virtue; it poisons, nay it destroys, the divinest feeling in man – the sense of truth, the perception and sentiment of truth.

428 必然的に時間性と有限性とのあらゆる条件のもとで編まれた歴史的な書物に、絶対的普遍的に妥当する永遠な言葉の意義をもたせる信仰の必然的な帰結および働きは、迷信と詭弁である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十二章]

Hence the belief in revelation is, at least for those of a subsequent age, belief in a written revelation; but the necessary consequence of a faith in which an historical book, necessarily subject to all the conditions of a temporal, finite production, is regarded as an eternal, absolute, universally authoritative word, is – superstition and sophistry.

429 世尊よ、もしも、わたくしの仏国土に、地獄の墜ちたる者や、動物界に生まれる者や、餓鬼の境地に陥る者や、アスラの種類となる者があるようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。 [「大無量寿経」 7.1]

430 君子は一に結ぶなり。 [荀子「勧学篇」]

431 学なる者は固より学んでこれを一にする(専一に学ぶ)者なり。一ひは出一ひは入るは塗巷の人なり。 [荀子「勧学篇」]

432 身は労するも心の安ければこれを為し、利は少なきも義の多ければこれを為す。 [荀子「脩身篇」]

433 道は邇し(ちかし)と雖も行かざれば至らず、事は小なりと雖も為さざれば成らず。  [荀子「脩身篇」]

434 

 もしも(わたくしの)国土がそのようでないならば, 

  多くの貧しい者に,多くの財が与えられないならば, 

  苦しみに陥った人を幸福になし得ないならば, 

  わたくしは,人々の中の宝石のごとき王とはなりませんように. [浄土三部経 「大無量寿経」 92]

435 君子は能あるも亦た好く不能なるも亦た好し。小人は能あるも亦た醜く(あしく)不能なるも亦た醜し。 [荀子「不苟篇」]

436 君子は能あれば則ち人も焉れに学ぶを栄び(よろこび)、不能なれば則ち人もこれに告ぐるを楽しむ  [荀子「不苟篇」]

437 君子,心を養うには,誠より善きは莫し. [荀子「不苟篇」]

438 公は明を生じ、偏は闇を生ず。 [荀子「不苟篇」]

439 人間の視野が制限されていればいるほど、そしてまた人間が歴史や自然や哲学について知っていることが少なければ少ないほど、それだけますます緊密に人間は自分の宗教に依拠しているのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十三章]

440 文化は地上の天国を実現しようという目的以外のどんな目的ももっていない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十三章]

441 神がどうして(世界を)創造したかという疑問は、神が世界を創造したということに対する間接の疑問である。人間はこの疑問を抱いて無神論や唯物論や自然主義に到達した。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二十三章]

442 材(才)性知能は君子も小人も(同)一なり。 [荀子「栄辱篇」]

443 人の生まれつきは固より小人なり,師なく法なければ則ち唯利を見るのみ. [荀子「栄辱篇」]

444 陋なる者は天下の公患なり.人の大殃大害なり.故に仁者は好んで人に告げ示すと曰えり. [荀子「栄辱篇」]

445 哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである.問題は世界を変えることにあるのに. [マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」]

446 男性の天職は行動である.生産し,たたかい,創造し,進歩し,世界の全体性と未来の無限の中に自己を超越して行かなければならない.ところが,伝統的な結婚は女に男と共に自己を超越するようにはさせはしない.結婚は女を内在の中に閉じこめる.だから,女は安定した生活を樹立するということ以外に何一つ目的とすることはできない. [ ボーヴォワール「第二の性」 II 第一章]

447 男が家庭のことなどにあまり興味をもたぬのは,彼は全体的な世界に接触しているからであり,企画の中に自己を確かめることができるからである.一方女はその結婚生活の中に閉じこめられている.彼女の大切な仕事はこの牢獄を一つの王国に変えることだ. [ボーヴォワール「第二の性」 II 第一章]

448 娘時代は全地上を自分の国と思っていた。森は自分のものだった。今や、彼女はせまい場所におしこめられている。自然界はジェラニウムの植木鉢一つの大きさにちぢまってしまった。 [ボーヴォワール 「第二の性」II 第一章]

449 君子の己れを度るには則ち縄を以い,人に接わるには則ちゆだめ(木偏に世)を用う. [荀子「非相篇」]

450 信なるを信ずるは信なり。疑わしきを疑うも亦た信なり。 [荀子「非十二子篇」]

451 知らざれば則ち問い能くせざれば則ち学び能くすと雖も必ず譲り、然る後に徳ありと為す。 [荀子「非十二子篇」]

452 機械とか技術が悪いのではない.悪いのは技術万能主義である.ところが不幸にして,技術万能主義は機械文明にとって本質的必然的なものであって,われわれはそれから逃れる方法をもたない. [矢内原伊作「サルトル」 現代の人間観念と芸術観念 p153]

453 機械文明は人間の労働の必要を少なくし,物質的余裕と時間的余暇を人に与えるだろうが,その余裕と余暇を人はどう利用したらよいか分からない.なぜなら安楽の追求が機械文明の性格であり,人は苦労して創造するよりも与えられるものを享受しようとするからである. [矢内原伊作「サルトル」 現代の人間観念と芸術観念 p155]

454 機械時代の人間観念は,人間は機械のごとく働き,動物のごとく享楽すべきものだということかもしれない. [矢内原伊作「サルトル」 現代の人間観念と芸術観念 p156]

455 君子は(わが身の)脩まらざることを恥ずるも汗(けが)さるることを恥じず、信ならざることを恥ずるも信ぜられざることを恥じず、能くせざることを恥ずるも用いられざることを恥じず。是の故に誉れに誘われず誹りに恐れず、道に率(したが)い端然として己れを正し物に傾側せられず、夫れ是を誠の君子と謂う。 [荀子「非十二子篇」]

456 人有り、勢は人の上に在らざるに而も人の下と為ることを羞れば、是れ姦人の心なり  [荀子「仲尼篇」]

457 子供を母に、妻を夫にまかせることは地上に専制政治を培うものである。 [ボーヴォワール 「第二の性」II 第一章]

458 アーナンダよ、かの《幸あるところという世界に生まれた求道者たちには、他人のうちの誰かという想いがなく、自分のものという想い がない。わたしがという想いがない。争いもなく、論争もなく、紛争もない。 [浄土三部経「大無量寿経」38]

459 人はこの愛欲の世間にひとりで生まれ,ひとりで死に,ひとりで去り,ひとりで来るのだ. [浄土三部経「大無量寿経」38]

460 右を見、左を見ている中に終りがやってくるのだ。---中略---世間はあわただしく、頼りとするものはなにもない。 [浄土三部経「大無量寿経」38]

461 定理が真であると自分で満足できればそれから証明にかかればよい.  [G. Polya]

462 短期間では効果の上がらない,技術的に難しい問題にとりかかろうとする人は,ますます少なくなろうとしている.この状態は,どんどんたくさんの論文を出版して人に認められようとする科学者の欲求で説明できる. [ Ian Morris 「科学は真に科学的か?」 自然 22}(6) p43]

463 この厳密な検証の理想が,つねに達成されているがどうかを疑って見る必要がある.科学者の態度や,科学者にかかる何らかの圧力が,肯定的証拠ばかり安易に受け入れさせようとしているのではないか. [Ian Morris 「科学は真に科学的か?」自然 22}(6) p43]

464 批判的な否定的なテストは、独創的人物だけによってなされ、追随者たちによってなされるものではないから、 後から付け加えられる多量の肯定的証拠というものは、本当は確証するものではなく錯覚に近いものである。  [Ian Morris 「科学は真に科学的か?」自然 22}(6) p43]

465 鷦鷯(みそさざい)は深林に巣くうも一枝を用うるにすぎず、偃鼠(もぐら)は河に飲むも腹を満たすにすぎず。 [ 荘子内篇 「逍遥遊」]

466 あに唯り形骸にのみ聾と盲とあらんや、夫れ知にも亦これあり。 [荘子内篇「逍遥遊」]

467 天地は一指なり、万物は一馬なり。 [荘子内篇「斉物論」]

468 悪(なに)をか然りとする、然るを然りとす。悪をか然らずとする、然らざるを然ずとす。物は固(もと)より然る所有り、物は固より可なる所有り。物として然らざるは無し。物として可ならざるは無し。 [荘子内篇「斉物論」]

469 政治や社会の現実の愚劣さに失望して逃避するとすれば、これはわれわれ自身が愚劣さに破れたことである。われわれ自身が愚劣さをいつまでも保持する手伝いをするという愚劣さに陥っていることである。われわれは、どの分野かで---中略---そのどの分野かで、現実の愚劣さと闘う外に、愚劣さからのがれる方法はない。 [向坂逸郎「マルクス伝」第6章パリp124]

470 ゲリラ隊員は真の十字軍兵士として自分を完成させるためには、過失のない徳行と、厳格な自制を発揮しなければならない。すなわち、苦行者にならなければならないのだ。 [E. ゲバラ「ゲリラ戦」 2ゲリラ隊]

471 わたしは,才能も力ももち合わせていないだだの女にすぎません.しかし,私の生まれた国の状態を考えますとこうするよりほかなかったのです.「ベトナムの自由と幸福を守る」というあなたのいい分は,すでに古くさく,そらぞらしいものとなっています.あなたがた紳士は,いかに多くの爆弾をおとし,ベトナム人の命と勇気をうちくだいたことでしょう.それでも,あなたは幸福と自由を口にします.心の中では,ほとんどのベトナム人はアメリカがベトナムに戦争を持込んだことに愛想をつかしていることを,あなたはご存じないのでしょうか. あなたが戦争をエスカレートさせればさせるほど,ベトナムの人命,財産,経済全般をメチャメチャにしているのです.もう一度ベトナム人の歴史を考えて下さい.お願いです.ベトナム人の気持ちになってかんがえてください.---以下略.[ニャト・チ「ジョンソン大統領への手紙」5/21, 1967 朝日新聞朝刊]¥footnote{ニャト・チ,女子学生,5/16サイゴンのある尼寺で焼身自殺 仏名 ニャト・チ・マイ.ジョンソン大統領あての手紙など十余通の遺書と詩「サイゴンの言葉」をのこす.警察は事件をひた隠しに隠したが,仏教関係者が多数のコピーを作っていたおかげでここに載せられたのである.

472 名あれば治まり、名なければ乱る。治者はその名をもってす。 [管子「枢言篇」]

473 民と地を先にするときは得、貴と驕とを先にするときは失う。 [管子「枢言篇」]

474 王主は民に積み,覇主は将士に積み,衰主は貴人に積み,亡主は婦女珠玉に積む.ゆえに先王はその積むところを慎む. [管子「枢言篇」]

475 人主操逆。 [管子「枢言篇」]

476 明賞は費えず、明刑は暴ならず。 [管子「枢言篇」]

477 「ものども進め」のかわりに「ものどもつづけ」というのが赤軍指揮官のよく口にする言葉である. [エドガー・スノー「中国の赤い星」 赤軍と共に()]

478 敵進我退 敵止我擾 敵避我撃 敵退我進 [毛沢東,井崗山のスローガン]

479 諸君の作品が「陽春白雪」であり、これが一時は少数の人々からよろこばれはしても、大衆はやはり、あちらのほうで「下里巴人」をうたっているとしよう。そうしたばあい、諸君がそれを高いものにしようとせずに、人を悪罵することを考えているだけだとしたら、どんなふうに悪罵しようと、それは、むだなことである。いまでは、「陽春白雪」と「下里巴人」の統一が問題なのであり、向上と普及の統一が問題なのである。 [毛沢東「文芸講話」結論二]

480大衆のためという動機と大衆から歓迎されるという効果は切りはなせず、両者は統一させなければならない。 [毛沢東「文芸講話」結論三]

481 教条主義的な「マルクス主義」は,けっしてマルクス主義ではなくで,反マルクス主義的なものである. [毛沢東「文芸講話」結論三]

482 魯迅の詩にある「眉を横にし、ひややかに、千夫に対して指さし、首をたれて、あまんじて孺子の牛となる」の両句をわれわれの座右の銘としなければならない。 [毛沢東「文芸講話」結論三]

483 大辯は言(あげつら)わず、大仁は仁(いつくし)まず、大廉はへりくだ(=+ 兼)らず、大勇はそこな(=+支)わず。されば道は昭(あきら)かならば道ならず。 [荘子内篇「斉物論」]

484 人は固より其の暗(=黒+甚)闇 (くらやみ)に受(お)かれたり。吾れ誰にか之を正さしめん。 [荘子内篇「斉物論」]

485 吾が生は涯(かぎり)あり、しかも知は涯りなし。涯りあるものを以て涯りなきものを随(お)えば、殆(あやう)きのみ。 [荘子内篇「養生主」]

486 彊(し)いて仁義縄墨の言を以て暴人の前に術(の)べたつるは、是れ人の悪しきを以て其の美(よ)きを有(ほこ)るなり。  [荘子内篇「人間世」]

487 始めを順(ゆず)れば窮(はて)し無し  [荘子内篇「人間世」]

488 美きことの成るは久きに在り  [荘子内篇「人間世」]

489 意は至(つく)す所ありて愛は亡わるる所在り。慎しまざるべけんや。 [荘子内篇「人間世」]

490 人は皆有用の用を知りて無用の用を知ること莫し。 [荘子内篇「人間世」] (旧937) 

491 人は論理的な理由で改宗したりはしない、---中略---人は自分のもっている確信を、論理的論証で支えているだけのことなんです。 [マルタンデュガール「ジャンバロワ」鎖]

492 統一するにさきだって,そしてまた統一するためには,まず断乎としてかつ決定的に境界線を画することが必要である.  [レーニン「『イスクラ』編集部の宣言」]

493 力量を示すということ、それは常に自己の力量を少し越えることです  [ボーヴォワール「女性と知的創造」p43]

494 世界を完全に討議に付すには、この世界に対して深い責任を感じなければなりません。 [ボーヴォワール「女性と知的創造」p61-2]

495 世の中には信じこんでいることが多すぎ、知っていることが少なすぎる。 [ブレヒト「実験」]

496 私は、憎しみを頒けるのではなく、愛を頒けあうようにと生れついたのですわ。 [ ソフォクレス 「アンティゴネー」 アンティゴネーのことば]

497 正しい男を示すには長い時間がいるが、悪人はたった一日でもって見分けることができるからだ。 [ソフォクレス「オイディプス」]

498 されば、かの最後の日の訪れを待つうちは、 悩みをうけずこの世の涯を越すまでは、 いかなる死すべき人の子をも幸ある者と呼ぶなかれ。 [ ソフォクレス「オイディプス」 コロス]

499 私の考えはこうである.すなわち,自然科学の諸問題ととりくんでいる哲学者たちは,これらの問題についてできるだけ多くのことを理解している必要があるが,それは,たんに哲学者として理解することでなく,自然科学者としても理解することである,と.  [R. ハーヴェマン「ドグマなき弁証法?」第6講]

500 この天地のあいだには、哲学などの思いも及ばぬことが沢山あるのだ。 [ シェークスピア「ハムレット」ハムレットのせりふ]

501 本当に立派な世の中だ!こんな見えすいたいかさまに、気のついた頓馬がどこにいる?とは申せ、そんな分かりきったことを、口に出すほど不敵な男がどこにいる? [ シェークスピア「リチャード3世」 代書人のせりふ]

502 聖人なる者も人の積みし所なり。 [ 荀子「儒効篇」]

503 安定というものは,一種の死であると思われる.そしてこの死は印税の小切手の嵐となって訪れて来ることもありうる. [テネシー・ウィリアムズ「成功という名の電車」]

504 権力や道徳の目的ははっきりしている.``従順であれ''ということがその眼目なのだ.  [大門一樹『現代を支配する虚構」 潮1967/9 p262]

505 ``歴史は文部省で作られる''といった人もある.  [大門一樹『現代を支配する虚構」 潮1967/9 p264]

506 宣伝について次のように書いた社会学者がいる。宣伝は迷彩性 色彩性” “創造性” “歪曲性” “明記欠如性” “抑圧によって行われ、其の結果として、宣伝の材料に用いられたものには偏奇的” “欺瞞的” “誇張的であり、不平正” “不適当” “奸計的” “眩惑的” “一面的である。 [ 大門一樹「現代を支配する虚構」潮1967/9 p265]

507 パンを与えるとともに、同情の身ぶりを示せば、パンだけを与えるよりはるかに効果的である。この場合に、パンを、つまり、物質的援助を惜しんでも、同情を惜しまぬがよい。 [ラスウェル「政治」 ]

508 知性は否定的なものであります。  [ マルタンデュガール「ジャンバロワ」凪]

509

朝市は人をして昏からしめ 

山林は人をして傲らしむ。 

誰か知らん昏くと傲ると両つながら倶に非なるを 

但だ説はん、山林は是れ高踏と。 [朱子]

510 エリートたち、それは人間の文化を育てる地盤なのではなくて、社会の成員の大部分にたいして科学と芸術とへの門戸をとざしている、社会の野蛮な状態が生んだ産物なのである。---中略---未熟な大衆の後見人であると僭越にもみずから称するエリートたちを発生させるのは、社会的不平等である。 [R. ハーヴェマン「ドグマなき弁証法?」 人間の不平等について]

511 われわれは,たんにこれらの大いなる理念に酔い,世界についての深い思索の,快いひとときに心を満たされて,家に帰ってしまうだけであってはならない.たんに,世界にあれこれと解釈くだし,この世界に自由という大きなユートピアを対比させることによって,この世界の悲しむべき不完全さをあらためて意識するだけでは,不十分である.そういうことは哲学者たちにまかせよう. 

 われわれは,マルクスがいったあの言葉につづいてこう言おうではないか.われわれは世界を変革しよう! [R. ハーヴェマン「ドグマなき弁証法?」 人間の不平等について]

512 あらゆる人間の文化は、その文化をつくる者たちに、一定の世界像を与え、はっきりとした人生の意味を示す。人間の歴史をたずね、地球のおもてをさまよい歩いてみて、私の心を最もとらえ、他文化につきいり、ちがった型の人間の生を理解しようという気持ちにならせたのは、人生と世界をさまざまな角度からみる可能性だった。 [  マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」 第13章クラの意味]

513 他人の根本的なものの見方を、尊敬と真の理解を示しながらわれわれのものとし、未開人にたいしてもそのような態度を失わなければ、きっとわれわれ自身のものの見方は広くなる。おのおのの人間の生まれた環境のなかの、狭苦しく閉ざされた慣習、信仰、偏見を捨てなかったならば、ソクラテスのいうような自己自身の認識に達することは不可能だろう。このうえなくだいじなこの問題に、いちばんいい教訓を与えてくれるのは、他人の信仰や価値を、その他人の見方からみさせてくれるような、心の習慣である。 [マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」第13章クラの意味]

514 偏見と悪意と復讐心が、ヨーロッパの各国民のあいだを引き裂き、文明、科学、宗教の最高の成果としてだいじにされ、もてはやされてきたすべての理想を、風に吹きとばしている。このようなこんにちの時代ほど、文明社会が右のような心のゆとりを必要としている時代はない。「人間の科学」は、もしも徹底的に洗練され、掘りさげられるならば、われわれに、他人のものの見方の理解に立脚した、右のような広い知識と寛容と心のゆとりを与えてくれるだろう。 [マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」第13章クラの意味

515 だが、悲しいことに、民族学にとって、時間はかぎられている!いままでに述べたようなこの学問の真の意味と重要性が、遅すぎないうちに、ほんとうにわかってもらえるだろうか。 [マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」第13章クラの意味

516 女は物をこわして新しく作るより保存し,修繕し,調整しようとつとめる.核心より妥協や和解の方を好く.19世紀に彼女たちは労働者の解放運動にとってもっとも大きな障害の一つをつくっていた.  [ボーヴォワール「第二の性」III 永遠の女性とは]

517 神を畏敬することが被圧迫者の心から,一切の反抗心を窒息させてしまう.  [ボーヴォワール「第二の性」III 永遠の女性とは]

518 神秘ということによって男性の論理は光を失う.男の自尊心は罪悪になる.男達がばたばた活動するのはただに馬鹿馬鹿しいことであるだけでなく.悪いことにさえなる.神さまがつくられた世界をなぜ新しく作り変えようとしたりするのか?女がささげられている受け身の姿が神聖化される.炉辺で数珠をまさぐっている彼女は自分の方が政治的な集会など駆けまわる夫より神に近いことを感じている.  [ボーヴォワール「第二の性」III 永遠の女性とは]

519 女には一つの宗教が必要である.宗教を永続させるには女がいる.《ほんとうの女》が必要である.  [ボーヴォワール「第二の性」III 永遠の女性とは]

520

これからの本統の勉強はねえ 

テニスをしながら商売の先生から 

義理で教わることでないんだ 

きみのようにさ 

吹雪やわずかの仕事のひまで 

泣きながら 

からだに刻んで行く勉強が 

まもなくぐんぐん強い芽を噴いて 

どこまでのびるかわからない 

それがこれからの新しい学問のはじまりなんだ [ 宮沢賢治「稲作挿話(作品第1082番)」

521 異性の個人を自分と対等のものだとみとめるのは男より女の方がしにくいのだ。男性階級(カスト)が優越権をにぎっているからこそ、男は多くの個々の女にやさしい尊敬をささげることができる。 [ボーヴォワール「第二の性」III自由な女

522 若い娘は自分たちの才能は大したものではないと思いこんでいる。女の子の水準は男のそれに劣ると、親たちや教師達やが考えているものだから、生徒もまたそう思いこむ。 [ボーヴォワール「第二の性」III自由な女]

523 なにか偉大な事をしようとする場合、今日の女性に根本的に欠けていること; それは自己を忘れるということだ。だが、自己を忘れようと思えば、まず第一に自己をここで確実に見いだしたことを確認することがぜひ必要なのだ。 [ボーヴォワール「第二の性」III自由な女]

524 創造者となるには自分を大切に育てるだけでは不十分だ。つまりいろんな光景だとか知識だとかをわが生活に入れこむだけではだめなのだ。こうした教養が、超越の自由な運動をとおしてとらえられなければならない。精神がすべての富をもったまま空虚な大空へ飛びだすということが必要だ。その空を精神によって充実するのだ。しかしもし無数のかたい絆が精神を地上にしばりつけていると、飛躍は挫折する。 [ボーヴォワール「第二の性」III自由な女]

525 われわれが偉大とよんでいる男子はなんらかのやり方で、その双肩に世界の重みをになったひとたちだ。彼らはなんとかしてそれをきりぬけてきた。世界を再創造するのに成功し、あるいは失敗した。が、ともかくはじめには彼らはこの巨大な重荷をひきうけたのだ。 [ボーヴォワール「第二の性」III 自由な女]

526 手術を要する傷に向かって、未練がましく呪いをとなえるのは、すぐれた医者(くすし)のすることではない。 [ソフォクレス「アイアス」 (580) ]

527 敵を憎んでも,いつか友となる日のあることを思え.友にはよく尽くして為をはかるべきも,いつまでも渝らぬ友ではないことを忘れるな,と. [ソフォクレス「アイアス」 (580) ]

528 おそれとつつしみをかねそなえた者こそが、救われると知れ。---中略---しかるべき畏怖の情を堅固に持たねばならぬのだ。 [ソフォクレス「アイアス」 (1080) ]

529 私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んで面白いと思う人はすくないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかっての如き、つまりそれと相似た過程を辿るのではないか、と思う人々がふりかえって過去の真相を見凝めようとするとき、私の歴史の価値をみとめてくれればそれで充分であろう。この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためでなく、世々の遺産たるべく綴られた。 [ トゥーキュディデース 「戦史」 巻1 [22] ]

530 証明できることは凡べて論争出来ることである。論争の余地のないものはただ証明できぬことのみである。 [ジンメル「断想---日記抄---10]

531 より高きものたらんと努める精神的な人間が何よりも先づ避けねばならぬことは、物事を自明なものとして受け入れること及び偏愛することである。 [ジンメル「断想---日記抄---71] 

532 おれはこの上ない不幸にあった。他所の人たちよ、身に覚えのない仕業だ。神も御照覧あれ。その中の一つとして、おれが好んでやったことではない。 [ソフォクレス「コロノスのオイディプス」(520)] 

533 

コロス:苦しんだか。 

オイディプス:苦しんだ、一刻も去らぬ苦しみだ。 

コロス:罪だ。 

オイディプス:いいや、そうではない。 [ソフォクレス「コロノスのオイディプス」(530)] 

534 抑も吾々の文化の大部分をなすものは何であろうか.それは結局こういうものに過ぎない.自ら招いた苦悩.自分でつくり出した欲望,自ら惹起した矛盾,こういうものを再び少しづつ和げ,少しでも弱め,非常に不完全な方法でこれを解決するために手段を創造すること,これである.  [ジンメル「断想---日記抄---161]

535 未来に対する力を持つもののみが過去に対して本當の評価を下すことになる。 [ジンメル「断想---日記抄---162]

536 予言者や指導者が言ったり望んだりした通りのことが世の中に行はれたことは一度もなかった。だが予言者や指導者がなかったら、全く何も「行はれ」なかったであろう。 [ジンメル「断想---日記抄---165]

537 「余の味方にあらざるものは余の敵なり」---これは私の考えからすれば正に半面の真理しか伝えぬものである.私が生命をささげている究極的問題に対して味方でもなく,敵でもないやうな無関心な人だけが私の敵である.併し積極的な意味で私の敵である人,私がそこに生きてゐる平面に入って来てその内部で私と闘っている人,この人こそ最高の意味において私の味方である. [ジンメル「断想---日記抄---166]

538 ミズーリ号上で降伏文書の調印式があったとき、彼(ノーマン・メイラー)は駆逐艦か何かに乗って東京湾上にいた。ミズーリ号からは大きな声で実況放送がきこえて来る。その日いちめんに曇っていたのだが、実況放送は、調印式の時間になると、「雲が切れて、太陽が射した」と報じた。そのことばに彼があわてて顔を上げて空を見ると、あいかわらずいちめんに曇っていて、どこにも雲の切れ目はない。「小さなことだが、それがすべてを象徴していると思うな」彼はそれがくせの早口のセカセカした口調でつづけた。「ベトナム戦争までのすべてを。」  [小田実「義務としての旅」p72]

539 資本主義体制ではそれぞれの企業者は、社会的結果には頓着せずに勝手にしたい放題のことができるということが、この経済形態を「無秩序」「無計画」とよぶことの真の意味である。 [D. コンデ「アメリカの夢は終わった」]

540 On est incurable quand on che’rit sa souffrance. [Flaubert]

541 もっとも最近の錫鉱山労働者の虐殺事件は67624日にさかのぼる.ボリビアの鉱山労働者たちは劣悪な労働条件のもとで,しかも高度4000mという高地で作業しており,40才以上まで生き永らえるのはまれである.彼らは655月バリエントス軍事政権により布告された賃金引き下げ---なんと50%---を決して受けいれなかった.鉱山労働者たちは事実上鉱山の主人であり,じぶんたちのラジオ放送局をもち,ゲリラ支援を呼びかけた.ゲリラ戦士の3分の一は失業中の労働者から成っていたのだ. 

 67624日,一本の貨物列車が鉱山地域の中心地カタビに軍隊を運んできた.貨車の扉が突然さっと開くと,銃声が鳴り響き,鉱山労働者40人が殺され,100人余りが負傷した.  [ミシェル・ボスケ「チェ・ゲバラの死」  世界1968/1, p204]

542 われわれ革命家こそ、人間の達成した業績と人間のかかげる原則とが永遠であることを信じているのではないか?われわれ革命家こそ、人間の肉体的生命がいかにかりそめのものであり、人間の思想と行動と模範とがいかに永遠であるかを最初に認めているのではなかったか。なぜなら、この模範こそ、人間の歴史を貫いて人々を鼓舞し導いてきたからなのだ。.....チェはだれよりも確信していた、人間の肉体的生命ではなく、彼らの示す模範こそが何よりも大切なのだということを。 [フィデル・カストロ]

543 インテリ、とくに彼がブルジョアである場合は、何よりもまず戦略について論じるのは当たり前のことである。不幸なことに、正しい道、実行可能な唯一の道は、戦術的な条件から出発して次第に高まり、ついには戦略を定義するに到るものなのだ。戦略の乱用と戦術の欠如、ここにこそ思想家のおち入りやすい甘美な悪徳がある。もっともこういうわれわれも、こうした文章を書くことですでにこの悪徳に身をゆだねているのではあるが。 [レジス・ドブレ「革命の中の革命」 p70-1]

544 じっくり考えて見よう。これは、根底においては、選挙という麻薬におぼれる人々に吹き込まれている、単純素朴な理想主義と同じものなのだ。彼らにとっては、選挙人名簿に登録されている有権者の半分プラス一人が「社会主義」を支持して投票するとき、「社会主義」はやってくるのである。 [レジス・ドブレ「革命の中の革命」 p102]

545 すべての不屈な行為が殉教に終わるとき、それは「何かがうまくいっていない」からなのだ。 [レジス・ドブレ「革命の中の革命」 p107]

546 世尊は,「自ら束縛されながら,他人をきずなから解放することは不可能である.自ら解脱することによって.他人を解放しうるというのが道理である」と仰せられました. [ 維摩経  四]

547 方便をそなえて有の世界(輪廻も世界)にはいっていくことが解脱であります。[維摩経 四]

548 輪廻を境涯とし,しかも煩悩の境涯ではない,これが菩薩の境涯です.[維摩経 四]

549 法を求める者は、仏陀に執着して求めるのでもなく、法や僧に執着して求めるのでもありません。 [維摩経 五]

550 法はアーラヤ(自己の根底としての場所)ではありません.アーラヤを喜ぶ者は,法を求めているのではなく,アーラヤを求めているのです.  [維摩経 五]

551 愛着と怒りと愚かさとをはなれて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、 愛着と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです。 [維摩経 六]

552 汚れといい、浄めという。これが二である。もし汚れをじゅうぶん知るならば、浄めに対する妄信もなくなる。あらゆる妄信が破られること、そしてそこへ道く道、これが不二にはいることです。 [維摩経 八]

553 涅槃を喜び、輪廻を喜ばないのが二である。涅槃も喜ばず、輪廻もいとわぬならば、それが無二である。 [維摩経 八]

554 高貴な士よ、あなたがたの説はすべてよろしいが、しかし、あなたがたの説いたところは、それもまたすべて二なのである。なんらのことばも説かず、無語、無説、無表示であり、説かないということも言わない---これが不二にはいることです。 [維摩経 八]

555 アーナンダよ、あるところでは菩薩が仏陀の働きをする、そのような仏国土もある。ある仏国土では光が仏陀のはたらきをし、ある仏国土では菩提樹が、ある仏国土では如来の相好を見ることが、ある仏国土では衣服が仏陀のはたらきをするようなところもある。それと同様に、食事が仏陀のはたらきをし、河が、園林が、楼閣が仏陀のはたらきをするところもある。化作された者が、虚空が、空間が、同様に仏陀のはたらきをするところもある。このようにして、衆生が導かれるのである。 [維摩経 十]

556 カーシャパよ,菩薩に煩悩はあっても,それが,一切知であることに対しては有効な養分となる. [宝積経 49] 

557 自我があるというならば、これは一つの極端論である。無我というならば、これもまた一つの極端論である。 [宝積経 57]

558 カーシャパよ、あるということ、これは一つの極端論であり、ないということ、これももう一つの極端論である。カーシャパよ、これら二つの極端論の間にある中正、それが中道であり、存在についての真実の観察である。 [宝積経 60]

559 カーシャパよ、もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カーシャパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊する者であるとよぼう。 [宝積経 64]

560 抑圧に適応することは、抑圧されるものよりも、抑圧するものにとって、ずっと容易なことではなかったか。 [ポール・ニザン「番犬たち」 III]

561 ブルジョアの中のあるものが,植民地主義の残酷な現実によって当惑する,強制労働やトンキンの村々の爆撃によって生じた死者についてはまったく弁護する余地なしと感ずる,そういうことは起こりうる.当局の恩赦を乞う請願書に名を連ね,わずかの骨折りで良心の安らぎを求める,そういうことはありうる,だが,こうした考えの先に突き抜けることがどうしてできようか? 憤激と反抗とのこの最初の表現を越えて? これを徹底的な拒否にまで推し進めることは彼らにはできないのだ.徹底的な拒否をすれば,だんだんと拘束され,自分たちの安楽,安全,秩序を築きあげているもの,生活そのものが拠って立つところのものをもう受け入れることができなくなろう.自分たち自身を拒むまでに.自分たち自身の本性の抹殺を願うまでに. [ポール・ニザン「番犬たち」 IV]

562 悲惨は「悲惨」という観念の前で姿を消す。  [ポール・ニザン「番犬たち」 IV]

563 自由は現実的な力であり,自分自身であろうとする現実的な意志なのだ.築き,発明し,行動し,人間のもつあらゆる資源を思う存分使わせ,しかもそれを使うことが歓びとなる,そういう力なのだ. [ポール・ニザン「アデン.アラビア」 VI]

564

 天地の窮まり無きを惟ひ 

 人生の長く勤(つか)るるを哀しむ 

 往者は余及ばず 

 来者は吾聞かず [屈原「楚辞」 遠遊]

565

 物には足らざる所有り、 

 智には明らかならざる所有り。 

 数には逮(およ)ばざる所有り、 

 神にも通ぜざる所有り。 [屈原「楚辞」 卜居]

566 満州事変が犯罪行為を起点として開始され、日本の国家機関が次々に積極的または消極的にその犯罪に加工しつづけていくことによって、一五年にわたる戦争が継続されたのであり、この一事からいっても、太平洋戦争全体が違法な戦争であったことは明白といわなければならない。 [家永三郎「太平洋戦争」 p82-3]

567 そもそも特攻戦術などを思いつくような人権無視の思考様式が,万事につけて禍根をなしていたことも注意すべき点である. [家永三郎「太平洋戦争」 p180]

568 「不名誉な体制」に支配されている「祖国」の命令に服従することが決して真の愛国ではなく,反逆こそ真の愛国者のとるべき道となるというパラドックスが成立する所以を知らねばならぬ. [家永三郎「太平洋戦争」 p251]

569 重臣たちは「国体の護持」、すなわち天皇制支配機構を温存するために、その維持を不可能ならしめるほどの混乱の発生に先だって戦争を終結させたいと考えたのである。降伏はそうした意図に基づいて実行されたのであって、国民を戦災から救うためになされたのではなかったことを注意しなければならぬ。 [家永三郎「太平洋戦争」p263]

570 戦争中に人権蹂躙をはばかることなく強行してきた日本の国家権力は,敗戦後は一転して占領軍のために女衒の役を買って出て,多数の日本の女性の人権を蹂躙してはばからなかった. [家永三郎「太平洋戦争」p269]

571 口頭の報告の真偽は,パースナリティのよりかくされた層を照明する心理学的手段によって,たしかめなければならない. [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 3]

572 ほんものの価値と、にせものの価値とのあいだの区別は、有機体の根元的な衝動を表現するものか、または、不安から導き出されるものかの区別である。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 5]

573 科学の偉大な貢献は、どの価値がほんとうに究極的であり、確証されるものであり、どの価値がほんものでない、にせものの価値であるかを、きめるたすけをすることだ。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 5]

574 人生の共通の価値である人間の生物学的基礎がにせものの価値の批判への、究極的な基準を提供する。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 6]

575 価値の精神分析的批判は、倫理学者が最初になすべきしごとなのである。フロイトの方法は、応用社会科学としての倫理学に、非常に大きな貢献をした。かれは、態度が外部からおしつけられたものであるか、自主的な撰択にもとつくものであるかの度合を測定する技術、いいかえれば、価値がほんものであるか、にせものであるか、表現的であるか、抑圧的であるかを判定する技術を提供した。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 6]

576 倫理学が破壊的でなくなったとき、不幸な人々がまわりにいても自分だけ満足するようになったとき、その分析は、自由と科学以外のものに身をまかせたことになる。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 6]

577 ガリレオの望遠鏡をのぞくことをことわった、アリストテレス派の神学者がいた。しかし、科学的な証拠に対するその人の感情的な抵抗は、ガリレオの観察や理論の妥当性をきずつけはしない。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 7]

578 幸福の倫理学に対する、長つづきする唯一の土台は、その個人自身の幸福であり、かれ自身の行動をたのしみ、他人に対する愛情を楽しむことである。義務や良心の圧力のみをとおして社会行動がみちびき出されるとき、さまざまのかたちの不安や罪悪の現象---憂鬱、マゾヒズム、親の権威に対する暴力的な反抗、そしてその結果としての利己主義---をともなう。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 10]

579 非現実的なオプティミズム、自己に対する過大評価が、しばしば「科学的倫理学」にはつきまとう。人間の決断がどれほど盲目的で、どれほど科学による改造が可能な範囲をこえているか、ということをはっきり認めないからである。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第1部 11]

580文明の発達により,幸福に対する性的な寄与がみとめられるようになった.性的なよろこびが幸福の第一義的な根源であるということは,哲学史的の最近の段階ではじめて認められるようになった. [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第2部 5]

581 性の不具化は、いまだに圧制の形態をぬけ出ることのできない社会制度の一側面なのである。性の不具化は、文明に成功しなかった社会の刻印なのである。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第2部 6]

582 人間の究極的性質がなんであろうとも、実行可能な仕事をすればよい。それはわかっている抑圧の原因を少なくすることである。われわれは人間である限り、それのみがわれわれの仕事をささえる土台であり、われわれの社会行動への前提である。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第2部 9]

583 文化の相対性論者がみのがしているのは、文化の多様性の人類学的事実からは、どんな倫理的結論もみちびきだされないということである。文化型が多様であることを発見しても、そこから他の文化のやり方に寛容であれという倫理的命令はみちびき出されないのである。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 1]

584 精神分析の結果として生じる普遍的倫理学は,人類のすべての枝葉に共通した生物学的基礎があるという科学の信念のうえにきずかれる. [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 1]

585 抑圧と満足とは,文化形態を評価する基準である. [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 1]

586 条件づけの過程をとおしてそそぎこまれなければならないようなものは、究極的な価値ではない。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 1]

587 自己理解、つまり無意識の排除、すべてを意識の明るみにひき出すこと、自分自身に対するひるまない正直さ---これが新しい人間の科学と倫理学の基礎である$¥cdots ¥cdots$ 抑圧は、あたらしい科学的良心が禁ずる一種の不正直である。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 2]

588 科学的超自我,科学的方法の尊重は,迷信とおなじように復習への残忍な武器となりうる. [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 2]

589 われわれの分析の結論は,自由な思想と行為とは,イデオロギーからも自由だということである.イデオロギーは,知識が手に入らないところに,願望実現を投射する.それは,抑圧したい現実を否定し,それが賞讃するものを究極的なものとして高揚する.イデオロギーは、政治的社会的な感情にもとづく世界観であり、意識的無意識的に、政治的意志を宇宙の性質におしつけようとするこころみである。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」第3部 2]

590  私はこう感じていた。---もしも私が一番難しいものを理解することができたなら、私は残りのものを理解するのにずっと有利な位置に身をおくことができるだろう、と。私がここで一番難しいものという理由は、西洋文明から遠く隔たった非常にエキゾチックな社会が対象となるとき、理解の妨げとなるものが目に見えて多くなるからである。 [レヴィ=ストロース「文明の流れに逆らって」]

591 もしも私の研究がさまざまに現代の関心事のなかに場を占めるものならば,それはむしろ,その対極に立つことによってであり,顧みられない傾向のある,またおそらく断罪されるかもしれないいくつかの明白な事実や「価値」の存続に努めることによってである.それは,共同作業に積極的に参加するというより以上にはるかに,一つの救出作業なのだ.私が,われわれの文明の全般的な動きに参与しているとするなら,それは流れにさからってなのである. [レヴィ=ストロース「文明の流れに逆らって」]

592 たとえ日々の予報が計算の上で数年かかっても私は幸福に思うだろう。その時はじめて気象学は精密科学となり、大気に関する本物の物理学になることであろう。その時にこそ、実際的な予報は確実に進歩していくことであろう。山の中にトンネルを掘ることは多くの年月を要することである。しかしそのことは次代の人が急行列車でトンネルをつっぱしることを決してさまたげるものではない。 [V. Bjerkness]

593 正確な問いにしようと思えば、この問いに関係したある実験が行われたと想像して、その実験の結果がどうなるかということを尋ねなければならない。実験の結果についての問だけが実際に意味を持っており,理論物理学で考える必要があるのもこのような問だけである. [ディラック「量子力学」第4版 I Section 2]

594 ただ,古きものへの疑いによってこそ,われわれは古きものを克服し,しかも,その中の真の遺産をまもることができるし,ただ,新しきものへの疑いによってこそ,われわれは新しきものを獲得に,それに生命を与えてゆくことができるのである. [R・ハーヴェマン「ドグマなき弁証法?」あとがき]

595 それぞれの世代が、永久の挑戦に対してあたらしく立ち向かわなければならないということは、歴史の法則である。 [L. S. フォイヤー「精神分析と倫理」日本語版への序文]

596  私は、科学的な基本的態度は、論理的な概念の分析にあると考えております。 この点を私が一番学んだのはガリレオ・ガリレイのやり方でした。 [ 武谷三男「現代の理論的諸問題 」 序に変えてp1]

597 今日さまざまに使われている概念はいったいどういうものであるか、ということの分析がまず第一であって、データを細大もらさず扱うということも必要には違いないけれども、そういうことによるだけでは、ギリシャから一歩も進めることはできないのです。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 序に変えてp2]

598  もめた問題を回避するのは、ものを考える人間のやるべきことではなくその問題に、なにかの示唆を与えることがなければ、論理というものはしっかりしたものにならないのじゃないかというのが、わたしの考えです。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 序に変えてp9]

599 センチメンタリズムとヒューマニズムとは,敵対関係にある.それをはっきりさせなければ,ヒューマニズムを安易に考えると,センチメンタリズムに陥って,結局反動的なもになる可能性があるし,もう一つは,敵に乗じられる. [武谷三男「現代の理論的諸問題」 序に変えてp12]

600 人間のほんとうに自然なあり方、それから自分の知ったことについてごまかさないということ、その辺にヒューマニズムの根本があるんじゃないかと思うんですがね。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」 科学者と平和運動 p114]