証 III 601-700
福沢諭吉「文明論之概略」 Panksepp, “Affective Neuroscience” 風雅和歌集 岡田英弘「中国文明の歴史」 牧村健一郎「新聞記者夏目漱石」 山田仲美「日本語の歴史」 井筒俊彦「イスラーム誕生」 ローマ人の物語 I,II
601 衆論の向ふ所は天下に敵なし、奈何ぞ政府の区々たるを患ふるに足らん、奈何ぞ官員の瑣々たるを咎るに足らん。政府は固より衆論に従て方向を改るものなり。故に云く、今の学者は政府を咎めずして衆論の非を憂ふ可きなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之二、第四章 一国人民の知徳を論ずp67]
602 今国に事あれば其事の鋒先きに当て即時に可否を決するは政府の任なれども、平生よく世上の形勢を察して将来の用意を為し、或は其事を来たし或は之を未然に防ぐは学者の職分なり。世の学者或は此理を知らずして漫に事を好み、自己の本文を忘れて世間に奔走し、甚しきは官員に駆使されて目前の利害を処置せん とし、其事を成す能はずして却て学者の品位を落す者あり。惑へるの甚しきなり。 [福沢諭吉「文明論之概 略」巻之二、第四章 一国人民の知徳を論ずp68]
603 公の心を以て単一の論を唱れば、其勢必す強盛ならざるを得ず。是即ち攘夷論の初に権を得たる由縁なり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之二、第五章 前論の続p73]
604 苟も文明に赴きたる人間世界に居り、人の恵与の物を飲食して之を悦ぶ者は、飢者に非ざれば愚民なり。此愚民の悦ぶを見て之を悦ぶ者は、其愚民に等しき愚者のみ。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之二、第五章 前論の続p76]
605
Mandela wins BBC’s ’global election’
Former South African President Nelson Mandela has topped a BBC poll to find the person most people would like to lead a fantasy world government.
More than 15,000 people worldwide took part in the interactive Power Play game, in which players were invited to choose a team of 11 to run the world from a list of around 100 of the most powerful leaders, thinkers and other high-profile people on the planet.
The winning 11 were exclusively male, with Burmese opposition leader Aung San Suu Kyi the highest-ranking woman at 13th. Hillary Clinton was the next most popular woman at 16th. Perhaps the biggest surprise was the success of the American linguist and political activist Noam Chomsky, who came fourth. Another outspoken American, Michael Moore, was 15th. Other placings included Osama bin Laden, at 70th.
FINAL SELECTION
1 - Nelson Mandela
2 - Bill Clinton
3 - Dalai Lama
4 - Noam Chomsky
5 - Alan Greenspan
6 - Bill Gates
7 - Steve Jobs
8 - Archbishop Desmond Tutu
9 - Richard Branson
10 - George Soros
11 - Kofi Annan
British Prime Minister Tony Blair narrowly missed out, coming 12th. US President George W Bush was placed 43, ranking below two of his fiercest adversaries on the world stage, Fidel Castro - 36th - and Hugo Chavez, 33rd. [ http://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/2/hi/in depth/4298568.stm Published: 2005/09/30 16:11:57 GMT ]
606 Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn’t have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can’t capture, and I found it fascinating. None of this had even a hope of any practical application in my life. But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, its likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later. Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life. [S. Jobs, Commencement Speech, Stanford Report, June 14, 2005 ’You’ve got to find what you love,’ Jobs says]
607 I didn’t see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life. [S. Jobs, Commencement Speech, Stanford Report, June 14, 2005 ’You’ve got to find what you love,’ Jobs says]
608 戦死者の遺族や、戦場に駆り出された人々が、靖国神社の境内にある軍事博物館「遊就館」の歴史観に固執する感情は、理解できる。だが、経済がグローバル化した今日、いわゆる先進国と見なされている国としては、遊就館だけではなく、周辺諸国の感情に配慮した内容の博物館や追悼施設を別に持つことも、必要である。首相が靖国神社に参拝したいのならば、バランスをとるために、そうした博物館や追悼施設をも公人として訪れる事を義務づけるべきだ。 [熊谷徹「「歴史リスク」と戦うドイツ、放置する日本」中央公論2005 9 月p70]
633 七歳以下の子どもが生きるのに悩んで自殺した例は、まず聞いたことがない。 [長谷川摂子「昔話と子どもの内なる自然」(図書2004/12) p19]
641 資本主義は、他の人々が「想定外」に置く事柄をいち早く「想定内」にしてしまった人が、儲かるシステムだからだ。 [松原隆一郎「純粋な資本主義にとって「偽計」と「偽装」は想定内と思え」中央公論2006/3,p57]
642 「悪いこと」かどうか法的に確定していないグレーゾーンへ企業家を挑ませるのが資本主義という制度なのであり、「牛の飼料に肉骨粉を混ぜる」という技術にしても、牛乳が増量されるという点では画期的な技術革新である。─中略─ それでも自己防衛しようとすれば、肉骨粉を飼料に使うような畜産の工業化を「不気味」と感じるセンスが必要になる。 [松原隆一郎「純粋な資本主義にとって「偽計」と「偽装」は想定内と思え」中央公論2006/3, p57]
698 ウルク古拙文字と呼ばれている最古の絵文字は,ウルク市で短時間に誕生したと考えられている.─中略─ ウルクで絵文字が使用されはじめた段階で(3200BCE),ほかの都市ではまだトークンが使用されていた.ほかの都市には文字はなかなか広まらず,キシュ市から絵文字の書かれた古拙文書が一枚発見されているだけである. [小林登志子「シュメル—人類最古の文明」(中公新書, 2005) p38-9]
609 徳義は形を以て人に教ゆ可らず、形を以て真偽を糺す可らず、唯、無形の際に人を化す可きのみ。知恵は形を以て人に教ゆ可し、形を以て真偽を證す可し、又無形の際に人を化す可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之三、第六章 智徳の辯p96]
610 牛と猫と闘ふを見ず、力士と小児と争ふたるを聞かず。争闘の起るは必ず其力、伯仲の間に在るものなり。かの耶蘇教は西洋人の智恵をを以て修飾維持したる宗教なれば、其精巧細密なること迚も神儒仏の及ぶ所に非ざる可しと雖ども、西洋の教化師は日本に来て頻りに其教を主張し神儒仏を排して己れの地位を得んとし、神儒仏の学者は及ばずながらも説を立てゝ之に敵対せん兎に角に喧嘩争論の体裁を成すは何ぞや。西洋の教必ずしも牛と力士との如くならず、日本の教必ずしも猫と小児との如くならずして、東西の教、正しく伯仲の間に在るの明証と云ふ可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之三、第六章 智徳の辯p106]
611 愚人に権力を附して、之をして信ずる所あらしめなば、何等の大悪事も為さざるなし。世のために最も恐る可き妖怪と云ふ可し。爾来諸国の文物漸く盛なるに至り、今日は既に「ペルセキウション」の事あるを聞かず。こは古今の宗旨に異同あるに非図、文明の前後に由て然るものなり。均しく是れ耶蘇の宗旨なるに、古はこの宗旨のために人を殺し、今はこの宗旨を以て人を救ふとは何故ぞ。人の智愚に就て其源因を求むるの外は手段なかる可し。故に智愚は徳義の光明を増すのみならず、徳義を保護して悪を免れしむるものなり。[福沢諭吉「文明論之概略」巻之三、第六章 智徳の辯p111]
612 北條高時、何ほどの仁君なれば此六千八百人の臣下に交て其交情親子兄弟の如くするを得たるや。決してある可からざることなり。此様子を見れば討死割腹等の多少に由て其君徳の厚薄を卜す可からず。暴君のために死し仁君のために死すると云ふも、事実君臣の情に迫て命を致すものは思の外に少なきものなり。其源因は別に之を求めざる可からず。故に徳義の効能は君臣の間に於ても其行はるゝ所甚だ狭し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之四、第七章 智徳の行はる可き時代と場所とを論ずp126]
613 都てこれまで日本に行はるゝ歴史は唯王室の系図を詮索するもの歟。或は君相有司の得失を論ずるもの歟、或は戦争勝敗の話を記して講釈師の軍談に類するもの歟、大抵是等の箇條より外ならず。稀に政府に関係せざるものあれば佛者の虚誕妄説のみ、亦見るに足らず。概して云へば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。学者の不注意にして国の一大缺典と云ふ可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之五、第九章 日本文明の由来p152]
614 日本の人間交際は、上古の時より治者流と被治者流との二元素に分れて、権力の偏重を成し、今日に至るまでも其勢を変じたることなし。人民の間に自家の権義を主張する者なきは固より論を俟たず。宗教も学問も皆治者流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之五、第九章 日本文明の由来p168]
615 或は又人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名分の然らしむるものなりとの説あれども、大義名分とは真実無妄の正理ならん。真実無妄の理は人間の須臾も離る可しからざるものなり。然に鎌倉以来人民の王室を知らざること殆ど七百年に近し。此七百年の星霜は如何なる時間なるや。此説に従へば七百年の間は人民皆方向を誤り、大義名分も智を払て盡きたる野蛮暗黒の世と云はざるを得ず。固より人事の泰否は一年又は数年の成行を見て決定すべきに非ずと雖ども、苟も人心を具して自から方向を誤つと知りながら、安んぞよく七百年の久しきに堪ゆ可けんや。加之実際に就ても亦證す可きものあり。実に此七百年の間は決して暴乱の世に非ず。今の文明の源を尋れば、十に七、八は此年間に成長して今に伝へたる賜と云ふ可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp188]
616 故に今日の文明にて世界各国互ひの関係を問へば、其人民、私の交には、或は万里外の人を友として一見旧相識の如きものある可しと雖ども、国と国との交際に至ては唯二箇條あるのみ。云く、平時は物を売買して互に利を争ひ、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替へて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp190]
617 抑も外人の我国に来るは日向浅し。且今日に至るまで我に著しき大害を加へて我面目を奪ふたることもあらざれば、人民の心に感ずるもの少なしと雖ども、苟も国を憂るの赤心あらん者は、聞見を博くして世界古今の事跡を察せぁる可らず。今の亜米利加は元と誰の国なるや。其国の主人たる「インヂアン」は、白人のために逐はれて、主客処を異にしたるに非ずや。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp202]
618 パリ解放後、二度と敗北は経験すまいと決意したド・ゴールが目指したのは、文化の威光による、フランスの復活だった。その第一歩として、1949 年4 月、外務省内に、「文化関係総局」が設置された。フランスの対外文化活動を中心的に担う部署の誕生であり、この部署がフランスで「文化」を冠したはじめての政府組織となった。最近、外務省のフランス語・文化協力局長を務めたグザビエ・ノースは「フランスの対外文化活動は、歴史の屈辱を忘れるための役割を負わされた」(Portrait du diplamate en jardinier, “Le Banquet.”(1979)) と述べているが、第二次大戦後の文化外交強化の理由を、ノースのこの言葉は端的に示している。
さらに1959 年、ド・ゴールは「文化省」を設立する。その目的は、「フランス文化の以降と拡大のための活動を行うこと」であった。初代文化省大臣には、ど・ごーるを慕い、第二次大戦中二はヴィシー政権とナチスへの抵抗運動(レジスタンス)にも加わっていた文学者アンドレ・マルローが任命された。1950 年はフランスの植民地が次々と独立を果たした時代でもある。植民地帝国としてのフランスの崩壊は、フランスが経験したもう一つの敗北であった。約10年間の在任期間中、マルローは、国内においてはパリの街の洗浄や景観維持のための「マルロー法」の制定によって、パリを再び「世界の首都」として甦らせる一方で、ルーヴル美術館の至宝モナ・リザをアメリカへ、ミロのヴィーナスを日本へ送るなどの美術外交を進めた。ケネディのアメリカとド・ゴールのフランスの関係が悪化していた中で、「モナ・リザの微笑み」というフランスの文化資源がその緊張関係を解くのに一役買ったとも言われた。
以降,マルローの敷いた文化国家フランスという道は紆余曲折を経ながらも、それぞれの大臣に引き継がれ、今日に至っている。 [大宮朋子「文化国家フランスはいかに成立したか—それは“敗北” から始まった」(中央公論、2005.10) p138]
619 国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可からずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp205]
620 又一種の憂国者は攘夷家に比すれば少しく所見を高くして、妄に外人を払はんとするには非ざれども、外国交際の困難を見て其原因を唯兵力の不足に帰し、我に兵備を盛にすれば対立の労を得べしとて、或は海陸軍の資本を増さんと云ひ、或は巨艦大砲を買はんと云ひ、或は台場を築かんと云ひ、或は武庫を建てんと云ふ者あり。其意の在る所を察するに、英に千隻の軍艦あり、我にも軍艦あれば、必ず之に対敵す可きものと思ふが如し。必竟事物の割合を知らざる者の考なり。英に千隻の軍艦あるは、唯軍艦のみ千隻を所持するに非ず、千の軍艦あれば万の商売船もあらん、万の商売船あれば十万人の航海者もあらん。航海者を作るには学問もなかる可からず、学者も多く商人も多く、法律も整ひ商売も繁盛し、人間交際の事物具足して、恰も千隻の軍艦に相応す可き有様に至て、始て千隻の軍艦ある可きなり。武庫も台場も皆斯の如く、他の諸件に比して割合なかる可からず。割合に適せざれば利器も用を為さず、譬へば裏表に戸締りもなくして家内狼藉なる其家の門前に二十「インチ」の大砲一坐を備るも盗賊の防禦に適す可からざるが如し。武力偏重なる国に於ては、動もすれば前後の勘弁もなくして、妄に兵備に銭を費し、借金のために自から国を倒すものなきに非ず。蓋し巨艦大砲は以て巨艦大砲の敵に対す可駆使手、借金の敵には敵す可からざるなり。今日本にても武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。或は我製造の術、未だ開けざるがためなりと云ふと雖も、其製造の術の未だ開けざるは、即ち国の文明の未に具足せざる証拠なれば、其具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざる可し。故に今の外国交際は兵力を足して以て維持す可きものに非さるなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp206-7]
621 今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之六、第十章 自国の独立を論ずp207]
622 The study of the laws of nature is, in all its branches, interesting. Even those physical laws by which the more distant parts of the universe are governed, and over which, of course, it is impossible for man to have the slightest influence, are yet noble and rational objects of curiosity; but the laws which regulate the movements of human society have an infinitely stronger claim to our attention, both because they relate to objects about which we are daily and hourly conversant, and because their effects are continually modified by human interference. [T. R. Malthus, Principles of Political Economy (1819) Introduction p12]
623 In many cases, indeed, it may not be possible to predict results with certainty, on account of the complication of the causes in action, the different degrees of strength and efficacy with which they may operate, and the number of unforeseen circumstances which are likely to interfere; but it is surely knowledge of the highest importance to be able to draw a line, with tolerable precision, between those cases where the expected results are certain, and those where they are doubtful; and further to be able to satisfactorily to explain, in the latter case, the reasons of such uncertainty.
To know what can be done, and how to do it, is beyond a doubt, the most valuable species of information. The next to it is, to know what cannot be done, and why we cannot do it. [T. R. Malthus, “Principles of Political Economy”(1819) Introduction p13-4]
624 We simply experience the things we do because of the types of brain functions we possess. Language can take these functions into realms of the imagination that are, hopefully, limitless. One of the biggest intellectual challenges of the 21st century will be to construct unified images of human nature that do not denigrate our animal past or our future potentials as members of the human family. [J. Panksepp, Affective Neuroscience, the foundations of human and animal emotions, (Oxford UP 1998) p339]
625 In my research experience, animals with essentially no neocortex remain behaviorally, and probably mentally, as emotional as ever, indeed more so.(see J. Panksepp, L. Normansell, J. F. Cox and D. M. Siviy, “Effects of neonatal decortication on the social play of juvenile rats,” Physiol. Behav., 56, 429-443 (1994).) [J. Panksepp, “Affective Neuroscience, the foundations of human and animal emotions,” (Oxford UP 1998) p341]
626 I would advocate that we should begin to study emotional feelings, indirectly, as essentially foundation processes upon which many unique aspects of the human mind—from art to politics—have been created.
[J. Panksepp, “Affective Neuroscience, the foundations of human and animal emotions,” (Oxford UP 1998) p341]
627 My personal conviction is that we shall really not understand the brain of the nature of consciousness until we begin to take emotional feelings more seriously, as internally experienced neurosymbolic SELFreferenced representations of major evolutionary passages, in the animals that we study. Parenthetically, to do otherwise further widens the possibilities for many unethical behaviors in this troubled world of ours. [J. Panksepp, “Affective Nueroscience, the foundations of human and animal emotions,” (Oxford UP 1998) p341]
628 We should remember that insightful observation of the systematic patterns in nature (whether easily visible or not) remains our second highest calling. In the final accounting, that is the most lovely aspect of science. [J. Panksepp, “Affective Nueroscience, the foundations of human and animal emotions,” (Oxford UP 1998) p341]
629 Consequently, for those with some knowledge of this field, these books do not offer anything really new.
For those with no previous knowledge of these matters, it is questionable whether these books are really a good place to start. [P. Raatikaien, “Exploring Ranodmness and the Unknowable,” A book review of G. Chaitin’s “Exploring Randomness,” and “The Unknowable.” Notices AMS 48, 992 (2001)]
630 Osama Bin Laden has seemingly propelled a book by an obscure historian into the US bestseller list, by endorsing it in an audio message aired on Thursday. ”Rogue State: A Guide to the World’s Only Superpower” had reached number 21 on the Amazon list by Sunday, leaping from below the 200,000 mark. Author William Blum, 72, said he had no regrets about the endorsement. Mr Blum has described the 11 September 2001 attacks on New York and Washington as ``an understandable retaliation against US foreign policy”, but makes clear that this is not a justification of them. [“Osama `plug’ boosts book’s sales,” Story from BBC NEWS: Published: 2006/01/22 13:10:54 GMT ]
631 The 500 years of Indian resistance have not been in vain. From 500 years of resistance we pass to another 500 years in power. We have been condemned, humiliated ... and never recognised as human beings. We are here and we say that we have achieved power to end the injustice, the inequality and oppression that we have lived under. The original indigenous movement, as well as our ancestors, dreamt about recovering the territory.
When we talk about recovering the territory we are talking about recovering the natural resources, and these need to be in the hands of the Bolivian people and the Bolivian state. We were told 10, 15, 20 years ago that the private sector was going to solve the country’s corruption problems and unemployment, then years go by and there is more unemployment, more corruption, that economic model is not the solution for our country, maybe it is a solution for an European country or African but in Bolivia the neo-liberal model does not work.
[BBC NEWS , “Excerpts from Bolivian President Evo Morales’ inaugural speech at the Congress
in La Paz.” Published: 2006/01/22 23:01:22 GMT ]
Vestido con una chaqueta negra con el borde adornado por un tejido de colores, y una camisa blanca sin corbata, Morales recibi´o la banda presidencial ante el Congreso en medio de gritos de ”Evo, Evo, Evo”. Visiblemente emocionado, el nuevo presidente comenz pidiendo un minuto de silencio por ”los millones de seres humanos ca´ıdos en toda Am´erica”, haciendo menci´on a Manco Inca, Tupac Amaru, Sim´on Bol´ıvar, el Che Guevara, los cocaleros, los mineros y otros m´as. Estamos ac´a para cambiar nuestra historia. De la resistencia de 500 a˜nos a la toma del poder para 500 a˜nos, para acabar con esta injusticia, para acabar con esta desigualdad
632 こんなこともありました。工作で作った箱家具の写真を撮るとき、花森さんが紙の色見本を見せて、この色の座ぶとんを作るといいました。紅赤のしゃれた色です。東京中をさがしましたが見つかりません。結局、染物屋さんに染めてもらいました。
できあがった写真は白黒写真です。だったらあの座ぶとんは赤でも青でもよかったはずです。どうして紅赤でなければならなかったのと聞きましたら、花森さんはくいつくような顔をして、「そうだ、白黒写真だから何色でもよかったのだ。しかし、何年後かには、雑誌もカラーの時代が来る。そのときになって、編集する者が色の感覚がなかったらどうする」。それは、するどい語気でした。 [大橋鎮子「花森安治厳しくて、やさしくて、素敵」(文藝春秋2006/2 月p198]
634 昨今、狼が改心して、子ヤギたちと手をとりあったり、狸が反省して、病床のおばあさんにあやまりにきたりする結末の昔話絵本が、巷の本屋にあふれている。やさしい子に育てるために残酷な昔話を子どもに聞かせたくない、という大人の配慮らしいが、改ざんの末に、昔話に生きていた大自然の命の問題はものの見事に抹殺された。狼や狸のむこうには、悪い子というレッテルを貼られた現代っ子が透けて見えるだけだ。人間と自然のかかわりの中で子どもの成長に深い意味をもってきた伝統的な昔話は「残酷」という言葉で批難され、とりあえず子育て中の母親に媚を売った、擬人法のお説教になってしまっている。
私はそういう絵本を手にとると、動物的本能から社会的人間へと脱皮していく子どもの内面的成長を無視した、大人の無知と身勝手を感じてしまう。自分自身の内なる野生に押されて、生命の内実に触れようとしている子どもの自然の成長を圧殺してはならない。環境破壊、自然破壊への抗議の声はいたるところで上げられているのに、子どもの内なる自然の成長過程、生命の弱さと大切さを体で納得していく時期が無視され、妨げられていることを心配する声はほとんど聞こえてこない。生命の大切さを体で学んでこそ、人は人として互いに信頼できる社会を作ることができるのだ。私たちはこともの内なる自然に声に耳を傾けなければならない。 [長谷川摂子「昔話と子どもの内なる自然」(図書2004/12) p22]
635 かつてわが国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争の頃まではそのまま残っていた。─中略─
旅順陥落の祝賀会で、乃木は途中退席した。ウォッシュバーンの「乃木将軍と日本人」には乃木の副官の話が記されている。「行ってみると。小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。今は喜んでいる時ではない。お互いにあんなに大きな犠牲を払ったではないか」。日本海海戦勝利を祝して行われた祝賀会のスピーチではこう言っている。
「我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督のために、祝杯を挙げるのはこの上ないことだ(中略) しかし忘れてならぬことは、敵が大不幸ををみたことである。我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れないようにしたい。(中略) 我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表して、盃を重ねることとしよう」
─中略─
東郷平八郎元帥も、福岡に「日本海海戦勝利記念碑」を立てる話がもち上がった時、「祖国のために戦死した五千人のロシア兵を思うと勝利という言葉は使えない」と述べ、その二字を削除させた。 [藤原正彦「愚かなり、市場原理主義信奉者」文藝春秋2006/3, p101-2]
636 賢治は妹の死が真実辛かった。もう手放しで哭きたかった。しかし法華経の改宗を迫って家出まで決行した賢治を知っている家族の者にも、そして兄を信じ只ひとり法華経を理解してくれた妹に対しても、賢治は自分の信仰の迷いなど、決して言うことはできなかったのだ。賢治には迷いを隠し、悲しみを隠し、心を隠して、慟哭することしか許されなかったのである。大声を張り上げて泣くという意味を持つ「慟哭」ということばに「無声」をつけることで、妹を亡くした肉親としての哀しみの裏にもう一つ、妹を裏切り通したまま黄泉の国へ送り出してしまった背徳者の哀しみが隠されていなかっただろうか。
この詩群のタイトルが「無声慟哭」でなければならなかった理由はここにあるのだ。 [菅原智恵子「宮沢賢治の青春“ 唯一人の友”保坂嘉内をめぐって」p191-2 (角川文庫1994)]
637
九重や玉しく庭に紫の袖をつらぬる千世の初春(俊成)
深くたつ霞の内にほのめきて朝日こもれる春の山の端(九條左大臣女)
出づる日の映ろふ峯は空晴れて松より下の山ぞかすめる(前中納言為相)
沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯(前大納言為兼)
長閑なる霞の空の夕づく日かたぶく末にうすき山の端(従二位為子)
朝嵐は外の面の竹に吹きあれて山の霞も春寒きころ(永福門院)
つくづくと永き春日に鶯の同じ音をのみ聞きくらすかな(徽安門院)
梅が香は枕にみちて鶯の声よりあくる窓のしののめ(前大納言為兼)
窓あけて月の影しく手枕に梅が香あまる軒の春風(進子内親王) [風雅和歌集 巻第一 春歌上]
638
はつかなる柳の糸の浅緑乱れぬほどの春風ぞふく(権大納言公宗母)
見るままに軒の雫はまされども音にはたてぬ庭の春雨(従三位親子)
眺めやる山は霞みて夕暮の軒端の空にそそぐ春雨(従二位兼行)
晴れゆくか雲と霞のひま見えて雨吹きはらふ暮の夕風(徽安門院)
何となく庭の梢は霞ふけて入るかた晴るる山のはの月(永福門院)
花の上にしばし映ろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり(永福門院)
つくづくとかすみて曇る春の日の花静かなる宿の夕暮(従三位親子)
吹くとなき霞のしたの春風に花の香ふかき宿の夕暮(前大納言家雅) [風雅和歌集 巻第二 春歌中]
639
年ふれて帰らぬ色は春ごとに花に染めてし心なりけり(崇徳院)
けふも猶ちらで心に残りけりなれし昨日の花のおもかげ(後光明照院前関白左大臣)
春の心のどけしとても何かせむ絶えて櫻のなき世なりせば(慈鎮)
老が身は後の春とも頼まねば花もわが世も惜しまざらめや(後西園寺入道前太上大臣)
梢よりよこぎる花を吹きたてて山本わたる春の夕風(従二位為子)
吹きわたる暮の嵐は一はらひ天ぎる花にかすむ山もと(徽安門院)
長らへむ物ともしらで老が世に今年も花の散るを見るらむ(正三位知家)
ちり残る花落ちすさぶ夕暮れの山の端うすき春雨の空(永福門院内待)
つくづくと雨ふる郷のにはたづみ散りて浪よる花の泡沫(前中納言清雅)
梢より落ちくる花ものどかにて霞ぞおもき入相の声(院御製)
瀧津瀬や岩もと白くよる花は流るとすれど又帰るなり(永福門院) [風雅和歌集 巻第三 春歌下]
640
年を経ておなじなく音を時鳥何かは忍ぶなにか待たるゝ(徽安門院)
樗さく梢に雨はやゝはれて軒のあやめにのこるたま水(前大納言経親)
月影に鵜舟のかがりさしかへて暁やみの夜川こぐなり(民部卿為藤)
大井河鵜ぶねはそれと見えわかで山本めぐる篝火のかげ(中務卿宗尊親王)
水鶏なく森一むらは木暗くて月に晴れたる野べの遠方(前大納言実明女)
雨はるゝ軒のしづくに影みえてあやめにすがる夏の夜の月(後京極摂政太政大臣)
茂りあふ庭の梢を吹きわけて風にもりくる月のすずしさ(前関白右大臣)
月や出づる星の光のかはるかな涼しき風の夕やみのそら(伏見院)
涼みつるあまたの宿もしづまりて夜更けてしろき道のべの月(伏見院)
星おほみはれたる空は色こくて吹くとしもなき風ぞ涼しき(従二位為子)
山深み雪きえなばと思ひしに又道たゆるやどの夏ぐさ(如顕法師)
ふりよわる雨を残して風はやみよそになり行く夕立の空(徽安門院小宰相)
夕立の雲吹きおくる追風に木ずゑの露ぞ又雨とふる(宣光門院新右衛門督)
蝉の声は風にみだれて吹きかへす楢のひろ葉に雨かかるなり(二品法親王尊胤)
空晴れて梢色こき月の夜の風におどろく蝉のひとこゑ(院御歌)
日の影は竹より西にへだたりて夕風すずし庭の草むら(祝子内親王) [風雅和歌集 巻第四 夏歌]
643 小泉政権が目指す「純粋な資本主義」は、犠牲者の被害よりも犠牲を逃れた人が利益を上げることを重視するものなのだ。「偽計」と「偽装」は、この疑似ゲームを象徴している。 [松原隆一郎「純粋な資本主義にとって「偽計」と「偽装」は想定内と思え」中央公論2006/3, p59]
644 ゴールドラッシュで確実に儲ける方法は、金を掘るスコップを売ることだと言う。海のものとも山のものともわからないアイデアに賭けて創作する個々のクリエーターと、「大数の法則」を駆使してリスクをヘッジできるシステム側では、最初から勝負は決まっている。システムの安定と個々のクリエーターの脆弱さの間には、明らかな格差がある。その格差が一種の階層を生んでしまう。 [茂木健一郎「ネット社会の新たな「階層」」(時評006, 中央公論2006.4, p 169)]
645 しかし、実際に三十∼ 三十四歳の生活満足度を調査してみると、彼らの生活水準意識と比例していた。フリーターの階層意識は全員が「下」でした。フリーターといえば、「リッチなパラサイトシングル」というイメージを持っていた私にとっては、少々意外なものでした。 [三浦展、本田由紀「「失われた世代」を下流化から救うために」(中央公論,2006.4 p 113, 三浦の発言)]
646 木村はこう続けた。
「耐震性があるということは、実際の地震で建物が倒れる危険性が無いと言うことだろうか?いや、設計士にとって、耐震性があるということは、建築確認で耐震性があると認められることなのではないか」。
暗闇に光がさした気がした。
姉歯は、また机に向かった。
小嶋は、確認申請を提出した。
書類を検査したのはイーホームズだった。
自信があった。
「必ず通る、いや通して見せる」
そして、運命の日。
「建築確認許可」
不可能だと思われていた。
いや誰もが不可能だと信じて疑わなかった。
しかし、それが可能になった瞬間だった。 [Anonymous: プロジェクトX~挑戦者たち. ヒューザーの挑戦。奇跡の100 平米マンション]
647 負け組が負け続け、圧倒され続けている相手は「勝ち組」などではない。ホリエモンでも小泉改革でもない。「勝ち/負け」という格差幻想を押しつけてくる「日常というシステム」そのものなのだ。 [斉藤環「ニートがそれでもホリエモンを支持する理由」(中央公論, 2006.4), p128]
648 そして、どうすれば苦しさから逃れられるかも、知識としては理解している。ひきこもっていない人間と自分との間に、絶対的な能力差がないこともよくわかっている。しかし、だからこそ彼らはひきこもりから抜け出すことに絶望してしまうのだ。ほんのわずかの差がかくも絶対視されてしまうのはなぜなのだろうか。わずかな歳こそが「格差社会」のシステムにおいて増幅され、ダイナミックに維持されてしまうことを知っているからだろう。
「負け組」の若者にとって、怨念の対象は「少し上」の階層だ。この階層に属す人々は、まさに自分たちと交換可能な存在であるが故に。怨嗟の的になる。彼らと自分たちとの差はほとんど運と確率の差でしかない。ならば格差社会化は、この階層の人々が中流から下流に転落する過程を推し進めるがゆえに、言い換えるなら「仲間を増やしてくれる」と想定されるがために歓迎される。おそらく彼らの多くが小泉政権を漠然とながら信頼している背景には、そのような気分も控えているのではないか。 [斉藤環「ニートがそれでもホリエモンを支持する理由」(中央公論, 2006.4), p130-1]
649 金玉鈞一行は、日本に上陸すると旧知の福沢諭吉の邸宅に身を隠した。「よく死なずに生きてこられた。本当に有難いことだ」と福沢は自ら彼らを玄関まで迎えに出て握手をし、その後、シャンペンで一行の無事を祝したと伝えられる。
—中略—
福沢諭吉が朝鮮からの留学生を受け入れ、金玉鈞らの亡命を支援し、その門下井上角五郎を派遣して朝鮮初の新聞『漢城旬報』を刊行させている事実を見る時、福沢諭吉を単なる欧化主義者として結論することは、あまりにも性急すぎる。ちなみにアジア主義者として知られる玄洋社の頭山満は、福沢が主宰する交詢社の社員だったし、それに連なる玄洋社やその関係の子弟は、実は慶應義塾出身者が多い。 [田中健之「金玉鈞の流転」(日本の中の近代アジア史3, 中央公論2006.4) p371-2]
650 After talking to the principal investigators, Okamura and Kamata, and a thorough study of the relevant publications and the lithics themselves, we have concluded that no proven artifacts of human origin predating 30,000 B.P. exist in Miyagi prefecture. The claims of Okamura, Kamata, and some other Miyagi archaeologists that they have discovered a ”Lower Palaeolithic” there are based on flawed research and are dubious claims. The artifactual database for the Miyagi Palaeolithic is extremely small and much of it has been picked out of road and field cuttings. Several obviously Jomon artifacts are being called Palaeolithic, the oldest lithics are probably not artifacts, and the dates being assigned to the geological strata by the archaeologists disagree with the actual age measurements published by the dating specialists. Furthermore, sensationalizing these very controversial finds in the press is unethical. [ Shizuo ODA and Charles T. KEALLY , “A Critical Look at the Palaeolithic and ”Lower Palaeolithic” Research in Miyagi Prefecture, Japan,” 人類学雑誌94, 325 (1986). ]
この投稿が掲載されて以降、芹沢長介氏の視界から、私(= KEALLY ) は消え去ってしまった。大会などで出会っても、挨拶をかわすことは無くなってしまった。
651 日本で前期中期旧石器を探索し、発掘している考古学者達は、筆者には、あまりにも学問的注意を欠いているように思われた。彼等は、批判を無視する傾向が強く、批判者を嘲笑することすらある。彼等は、発見遺跡に対する地質学者や年代測定研究者の専門家としての意見を、拒絶することがある。彼等には、注意力と懐疑が、決定的に不足していた[註4... これらの資料を安易に受け入れ、何のためらいも表明しなかった研究者の、インテリジェンス自体に大きな疑問符がつく。指導的な立場の考古学者ですら、例外ではない。] 。
......
毎日新聞の11 月5 日のスクープのおかげで、前期中期旧石器につきまとってきた様々な資料的な弱味が、実は遺物埋込みの証拠であったことに気付かされた。
.....
筆者は、多くの考古学者が、予算獲得のために、報告書をでっち上げてきたことを知っている。藤村某は一人で裸踊りをしていたわけではなく、周りで多くの観客が、劇場を満喫していたように見える。
......
藤村某の行為をどう解釈するにせよ、それは余りにも直接的な説明にしかならない。真に問題とすべき原因は、一個人を越えたところにある。彼の行為は批判に値する。しかし同時にシンパシー(同情)も誘う。彼は、これまでも多くのスキャンダル(ストレス、自殺)を生み出してきた「システム」の産物なのだ。ほとんど毎日のように報道されているスキャンダルは、氷山の一角にすぎない。 [C. T. Keally, 「今度は考古学のスキャンダル] Nov., 17, 2000 http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/This-Time-j.html ]
652 文化庁(註4)、文部省(註5)、日本考古学協会(註6)、指導的な考古学者達(註7)は、支援も検証もせず、ただ発見の知らせを受け入れ、博物館で展示し(註8)、教科書掲載を容認してしまった。まさに度し難いほどの注意不足であった。
....
仮に多くの前期中期旧石器が本物だったということになったとしても、日本考古学界は、科学的な無力をさらけ出してしまったことになり、大いに傷付いてしまった。仮に、20 年間にわたる33 遺跡のペテンだったということになると、日本考古学は、進歩し、熟練した世界の考古学の仲間と認めてもらうために、これから長く苦しい戦いを要求されることになるだろう。
註4 岡村道雄氏(文化庁)は、最近の著書(『縄文の生活誌』日本の歴史01 巻,講談社,東京,2000.10.24)の中で、上高森等の遺跡について、全く疑問の余地がないかのように、言及している[訳注:講談社は2000年12 月21 日に同書の回収を決定した]。
註5 文部省は、上高森遺跡の埋納遺構を、教科書検定にパスさせている。しかしいわゆる「Rape of Nanking」や「comfort women」については、確固たる証拠が無いとして、容認していない。 [ C. T. Keally, “いかに2カ所の前期旧石器遺跡の偽造が日本考古学全体にダメージを与えたか,” 2000 年12 月14 日]
653 The person who was most influential on me, however, was neither Patterson nor T. S. Painter, who was also there, but W. S. Stone, who is not so well known as either of the other two. He was interested in all kinds of evolutionary questions and he had an excellent, analytical mind, but he had another property that is sort of fun to talk about. That is that he was a great admirer of mathematics. He knew none, but he admired it. And I knew a little bit, more than he did. So he encouraged me to go into mathematical courses. I, therefore, took a number of math courses and statistics courses at his instigation. There was one piece of advice that he gave me which I have treasured and used with other people. He said, “Don’t worry about getting grades, you are going to graduate, take courses that are too hard, you will learn more than taking the easy courses.” So I did that, I took advanced courses in both maths and physics, which I was really unprepared for and I struggled with, but I got a lot out of them. [J. Crow, Bioessays 28, 660(2006) “Interview with Professor James Crow.” (on October 24, 2005)]
654 西洋人は、自分用のナイフやフォークを持たない。自分用の皿も持たない。どれでもいいのだ。この違いは何を意味するのか。日本人にとって、ハシは道具ではないのだ。ハシは自分の手や指同然なのだ。手や指の延長としてハシをあやつっているのだ。 [東海林さだお「ショージ君のALWAYS」(集英社インターナショナル、2006)“ 旅のハシは食べ捨て”p250]
655 1854 年、日本は開国し、熱心に西洋化の路を突き進んだ。清国はこれを軽蔑していたが、1894 年からよく1895 年にかけて、日清戦争が起こった。これに敗れた清国は大いに衝撃を受け、日本を手本に西洋化に乗りだし、翌1896 年、第一陣の留学生を日本に派遣してきた。それ以後年々増加した留学生は、日本人が自分たちの故郷を「支那」と呼んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ称呼がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を「支那」、自分たちを「支那人」と呼んだ。
しかし、「支那」は意味をあらわさず。表意文字である漢字に乗せるには都合が悪い。「支」といえば「庶子」、「那」と言えば「あれ」のことになってしまう。そこで「支那」に代わって「中国」を、意味を拡張して使うようになった。これは19 世紀の末から20 世紀はじめにかけてのことであるが、ここにいたってはじめて「中国」が全国の称呼として登場したのである。 [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761,2004) p18]
656 中国語(漢語) と普通呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない。そしてその漢字のきわめて特殊な性質が、中国の言語問題の理解を困難にしているのである。 [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004) p68]
657 紙の使用の普及と儒教の国教化、テキストの公定化は、これまで文字によるコミュニケーションに無縁であった階層にも、文字を浸透させてゆく。その一つの結果が、再びおこった人口の都市集中によって出現した都市の貧民の厚い層の内部における、宗教秘密結社の発生と発達である。 [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004) p85 ]
658 漱石は朝日側の回答にほぼ満足し、仕上げとして三山との会談を希望する。もちろん、こちらから訪ねるつもりだった。
三山は面会の意向をきくとすぐ、漱石宅を電撃訪問する。3 月15 日のことである。機先を制するという言葉があるが、ジャーナリスト三山の面目躍如たる場面だ。もし近代日本傑作会談場面集というのがあれば、江戸無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟の会談とならんで、この日の本郷西片町漱石宅二階の、三山と漱石の初対面の会談も歴史的なシーンとして特筆されよう。この会談によって。新聞記者漱石、国民作家漱石が事実上、誕生したからである。 [牧村健一郎「新聞記者夏目漱石](平凡新書277, 2005) p23]
659 大学を辞して朝日新聞に這入ったら、逢う人が皆驚いた顔をして居る。新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為に、変り物として出来うるかぎりを尽くすは余の嬉しき義務である。 [夏目漱石「入社の辞」牧村「新聞記者夏目漱石](平凡新書277, 2005) p92-3]
660 驚くべきことに、西片町の家は漱石が引っ越した半年後、清からの留学生魯迅が、弟の周作人らと住むことになる。近代日本と中国を代表する作家が同じ家に住んだのだ。 [牧村健一郎「新聞記者夏目漱石」(平凡新書277, 2005) p116]
661 It always seemed to me that Kolmogorov preferred alpinism and climbing difficult mountains opening broad perspectives of new regions to building the highways of popular general theories (a task which he also always coped with very well). [V. I. Arnold, “ A.N. Kolmogorov and natural science,” RMS 59, 27(2004).]
662 井上さんは、新聞小説家としての漱石の最大の貢献は、現代日本語を作り上げたことだと見る。
漱石は学生時代から寄席に通い、落語を好み、「三四郎」で与次郎に「小さんは天才であり、同じ時代に生きているのは大変な幸せだ」と言わせて、小さん(三代目柳や小さん) を絶賛している。
─中略─
「漱石は、小さんの口語体を下地に当時の最高の言語学を学んで、平明でしなやか、しかも意識の内側のことや、大局的な事柄も搭載できる現代日本語を作り上げた。それには、新聞、とくに当時の朝日新聞が舞台だったことが大きい」と井上さんは指摘する。 [牧村健一郎「新聞記者夏目漱石](平凡新書277, 2005) p211-2]
663 当時の東朝はいまでいうベンチャー企業のような若々しさで、漱石のこの「壮大な実験」に恰好の舞台だった。漱石の入社は打診から決定までわずか一ヶ月、即断即決だった。帝大の辞職を巡り、辞職願の字句をとやかくいう官僚世界と、対照的だった。毎日が締め切り、即物的で可変なスタイルをもつ新聞の生理も、漱石には新鮮だった。 [牧村健一郎「新聞記者夏目漱石](平凡新書277, 2005) p213]
664 漱石は社員として年一回、長編小説を書かねばならなかった。これは漱石に強いプレッシャーを与え、肉体を蝕んだのは間違いない。そのプレッシャーに耐え、ボルテージを高め、じりじりと高い山に登っていった。そして、ついにばたりと倒れた。その坂道は漱石が選択した道だった。 [牧村健一郎「新聞記者夏目漱石](平凡新書277, 2005) p216]
665
おちそむる桐の一葉の声のうちに秋の哀れを聞きはじめぬる(入道二品親王法守)
色うすき夕日の山に秋みえて梢によわる日ぐらしの声(従三位客子)
むら雀声する竹にうつる日の影こそ秋の色になりぬれ(永福門院)
更けぬなり星合の空に月は入りて秋風動く庭のともし火(太上天皇)
真萩ちる庭の秋風身にしみて夕日の影ぞかべに消え行く(永福門院)
まねくとも頼むべしやは花すすき風邪にしたがふ心なりけり(源重之女)
光そふ草葉のうへに数見えて月をまちける露の色かな(藤原重顕) [風雅和歌集 巻第五 秋歌上]
666
庭のむしは鳴きとまりぬる雨の夜の壁に音するきりぎりすかな(為兼)
夕やみにみえぬ雲まもあらはれてときどきてらす宵の稲妻(従三位実名)
月をまつくらき籬の花のうへに露をあらはす宵の稲妻(徽安門院) [風雅和歌集 巻第六 秋歌中]
667
暮の秋月のすがたは足らねども光は空に満ちにけるかな(右京大夫顕輔)
風になびく尾花が末にかげろひて月遠くなる有明の庭(院御製)
さすとなき日影は軒にうつろひて木の葉にかかる庭の村雨(永福門院)
しをりつる野分はやみてしののめの雲にしたがふ秋のむらさめ(徽安門院)
吹きみだし野分にあるる朝あけの色こき雲に雨こぼるなり(院一條)
日影さへ今一しほを染めてけり時雨の跡の峯のもみぢば(後京極摂政前太政大臣)
見るままに壁に消え行く秋の日の時雨にむかふうき雲の空(進子内親王)
秋の雨にしをれておつる桐の葉は音するしもぞさびしかりける(西園寺前内大臣女)
668
千曲川旅情のうた
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをかふ
過し世を静かに思へ
百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
ただひとり岩をめぐりて
この岸に愁を繋ぐ [島崎藤村]
669 バークリーにとっては,ニュートンに端を発する力学的な世界観そのものが,批判の対象であった.バークリーは,ニュートンの自然観から,かならず唯物論が,無神論が帰結することを予見している.ちょうどパスカルが,デカルトの世界像からは,やがて神が追放されるはずであることを予感していたように,である. [熊野純彦「西洋哲学史,近代から現代へ」(岩波新書,2006) p77-8]
670 『源氏物語』の文章が,話し言葉だけで書かれたひらがな文よりも,格段に優美な趣を備えているのは,和歌の言葉と手法をとりこんで語られているからです. [山田仲美「日本語の歴史」(岩波新書,2006) p84]
671 係り助詞というのは,主語であるとか,目的語であるとかいう,文の構造上の役割を明確にしない文中でこそ,活躍できるものなのです. [山田仲美「日本語の歴史」(岩波新書,2006) p117]
672 「女性語」という性差による言葉の区別意識が現在にも色濃く存在するのは,江戸時代を通過したからです. [山田仲美「日本語の歴史」(岩波新書,2006) p166]
673 それまで地の文で説明に用いられる文末は,「でございます」「であります」「です」「だ」です.ところが,これらは,いずれも読み手に直接働きかけてしまう文末なのです.地の文で客観的に説明したいときには,向かない表現形式なのです.
それに対して,「である」は,客観的に説明するのに向いています. [山田仲美「日本語の歴史」(岩波新書,2006) p204]
674 1890 年頃にいたるヒルベルトの研究は主として不変式論および整数論であったから,有限あるいはたかだか可附番無限の立場であったということが出来る.幾何学基礎論に関連して一つの転機が見出される.すなわち低段階の無限より高段階の無限への—特に連続性への転換がこれである. [中村幸四郎「ヒルベルト幾何学基礎論,解説」(ちくま学芸文庫, 2005) p213]
675 文科省の検定教科書というのは,記述に対して著者が責任を取るのか文科省が責任を取るのか,よくわからない本である.記述に対して誰が責任を取るのかわからない本が,面白いわけがない.〈 検定制度〉 とはつまる所,〈 まちがっていても誰も責任を取らない制度〉 だということがよくわかった.
本書の間違いはすべて著者たる私の責任である.その一事をもってしても,本書がすべての文科省検定教科書よりすぐれていることは自明であろう. [池田清彦「新しい生物学の教科書」(新潮社,2001) あとがきp364]
676 八重桜は実を結ばぬものなるべければ,之が繁殖は特殊の方法によるべきなり.ここに於いて余は.当時接木の行はれしことを語らむ.古今著聞集第十九に曰く,· · · とあり.これ即ち定家卿が大炊殿内裡の八重桜をとりて接木せむとせしをいへるなり.かくて彼れの日記を見るに,彼れはこの折に限らず,盛に八重桜の接木を行ひしなり.· · · と.之によりて見れば,その八重桜の接木を盛に行ひしことを見るべく,而して又かの定家卿一人に限らず,他にも行はれてありしことをも想像しうべし [山田孝雄「櫻史」(講談社学術文庫916) p118]
677 一体,沙漠のアラビア人は夢の世界に遊ぶことを知らない人々である.今でも世界中至るところで,アラビア文学といえば人は「千夜一夜物語』を読む.ところが,このあでやかな夢幻の世界,絢爛たる夢と幻想とが妖しく交錯する世界,「アラビア夜話』の世界ほど本当のアラビアの形象から遠いものはないのだ.「千夜一夜』は真に正統的なアラビア文学ではない.それはアラビア語の外衣を着たインドとペルシアの物語文学に過ぎない. [井筒俊彦「イスラーム誕生」(中公文庫Biblio 762) p46-7]
678 セム的一神教にあっては,終末観は神学的理論でもなければ,ましてや文学的比喩,寓意のたぐいではない.それはセム的世界像の根柢に伏在する感覚,生々しい,圧倒的な感覚だ. [井筒俊彦「イスラーム誕生」(中公文庫Biblio 762) p64]
679 イスラームという語の最も基本的な意味は,無条件的な自己委託,自分を相手に引き渡してしまうこと.自我の意志・意欲に由来する一切の積極的な心の動きを抑え,自分を完全に放棄して,すべて相手の意のままに任せきることである.· · · 自分をすっかり神に任せてしまった人を「ムスリム」という.
· · · ついでながらmuslim とislam とは同じ語根から派出した二つの違った形で,前者は形容詞(より正確には同じ語根SLM からでた動詞aslama の能動分詞形),後者は名詞である. [井筒俊彦「イスラーム誕生」(中公文庫Biblio 762) p124,126]
680 この新しい宗教は,神と人との宗教的関係を,主人-奴隷関係という形で根本的に規定した.すなわち,ムハンマドの興したこの新宗教に入信して「ムスリム」となる人は,独立不依の存在としての人間であることをやめて,神を「主」(rabb) とし,これに仕える「奴隷」(‘ abd) とし,これに仕える「奴隷」となって新しい人生を生き始めることを要求されたのである.神-人の関係が,ここに主人-奴隷の関係として確立された.アラブ精神史上に起こった一つの革命的出来事である. [井筒俊彦「イスラーム誕生」(中公文庫Biblio762) p136-7]
681 こうして,ハンブルクに別れを告げ,反対派の仕組んだ多くの策謀にも勝って,—特にコジマ・ワグナーは,ユダヤ人がウィーンのオペラ監督になることを,認めようとしなかったのだが—ともかく,彼はウィーンと契約することが出来た. [アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987)p28]
682 モーツァルトのオペラの上演は,単にウィーンのみならず世界のどこでも,マーラー以前にはすたれていて,振るわなかった.· · · モーツァルトの復活のために最初ののろしを世界に上げたのは,ほかならぬマーラーであった. [アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p45]
683 しかし,雲は存在した.私は私の夢を葬ったし,それが最善であったはずである.今日に至るまで私自身の創造の才を,精神において私よりもさらに秀でた人たちのために捧げてきたのは私だけの特権である.それでも,刃は私の心を貫通し,傷はついに癒えることがなかった. [アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p48]
684 次のエピソードは面白いと同時に,彼のワグナーに対する態度に光を当てるものであろう.ある日,彼は《オペラ》に行く途中でゴールトマルクに会った.「おや,先生.《オペラ》にいらっしゃいませんか」「いや,ぼくはワグナーは聴きません.あんな風な人間になるといけませんから.」「そうですか」とマーラーは言った.「でも牛肉を食っても牛にはなりませんでしょう」 [アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p101]
685 知力では,ギリシア人に劣り,
体力ではケルトやゲルマン人に劣り,
技術力では,エトルリア人に劣り
経済力では,カルタゴ人に劣るのが,自分たちローマ人であると,少なくない史料が示すように,ローマ人自らが認めていた. [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) p8]
686 それでは今から,私は書きはじめ,あなたは読みはじめる.お互いに,古代のローマ人はどういう人たちであったのか,という想いを共有しながら.
1992 年ローマにて [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) 序章p8-9]
687 前149 年からはじまって三年間つづいた第3次ポエニ戦役には,総司令官に選ばれていたスキピオに同行した.七日七晩燃えつづけたというカルタゴの終焉も,現場にいて実際に見たのである.ポリビウス,五十七歳の年であった. [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) 序章p12]
688 西暦紀元の前と後のちょうど境めに生きたギリシア人の歴史家ディオニッソスは,その著作「古ローマ史』の中で,次のように言っている.「ローマを強大にした要因は,宗教についての彼らの考え方にあった」
─中略─
宗教は,それを教習しない人との間では効力を発揮しない.だが,法は,価値観を共有しない人との間でも効力を発揮できる.いや,共有しない人との間だからこそ必要なのだ.ローマ人が,誰よりも先に,そして誰よりも強く法の必要性に目覚めたのも,彼らの宗教の性質を考えれば当然の経路ではなかったかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) 1. ローマ誕生p45,46-7]
689 歴史の主人公に問われるのは,悪しき偶然はなるべく早期に処理することで脱却し,良き偶然は必然に持っていく能力ではなかろうか.多くの面で遅咲きの感のあるローマ人が,他の民族と比べて優れていたとしてもよいのは,この面での才能ではなかったかと思われる. [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) 2. 共和政ローマp244-5]
690 ローマ興隆の要因について,3人のギリシア人は,それぞれ次のように指摘している.ハリカルナッソスのディオニッソスは.宗教についてのローマ人の考え方にあったとする.
─中略─自身政治指導者であったポリビウスとなると,ローマ興隆の要因は,ローマ独自の政治システムの確立にあった,と考える.─中略─ 一方プルタルコスになると,ローマ興隆の要因を,敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない,と明言している.
これら三人の史家の指摘は,私には三人とも正しいと思われる.それどころか,ローマの興隆の要因を求めるならば,この三点全部であると思うのだ.
なぜなら,ディオニッソスのあげた宗教,ポリビウスの指摘した政治システム,プルタルコスの言う他民族同化の性向はいずれも,古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである.─中略─ローマ人の真のアイデンティティを求めるとすれば.それはこの開放性ではなかったか. [塩野七生「ローマ人の物語I ローマは一日にしてならず」(新潮社1992) ひとまずの結びp269-270]
691 内的外的存在現象がことごとく「徴」(アーヤ) であるという考えはコーランの至るところに表明されている.「徴」はコーランのなかで一番頻繁に出でてくる述語の一つ.その重要性は誰の目にも明らかである.
─中略─
世界は神の恵みに満ちている.神の無限の善性は世界のあらゆるところに,あらゆる事象のうちに,「徴」としてあらわれている.一見すると人間にとって災難と感じられ,悪と思われることでも,反省してみればその多くは神の恵みの「徴」である.とすれば,人間の神に対して取るべき態度がいかにあるべきかは自ずから明らかであろう.ただ感謝あるのみ.「愛の神」の無限の恩恵に,人は常に感謝の念を持って応えなければならない.
こうして「感謝」(shukr) が重要な宗教概念となる.その重要性は「感謝」がイスラーム的信仰概念そのものの中に組みこまれて,それの内的構造を決定するところにある.事実,コーランでは「神を信じる」という変わりに,よく「神に感謝する」という表現が使われる.「感謝する人々」(shakirum) とは「信仰ある人々」(mu’minum) のほとんど同義語である. [井筒俊彦「イスラーム誕生」(中公文庫Biblio 762) p156-8]
692 —イタリア半島を統一した後· · · こうして地中海はローマの海になった—-
これが,高校生なら知らないと落第する,結果としての歴史である.これに以外の諸々は,プロセスであるがゆえに愉しみともなり考える材料も与えてくれる,オトナのための歴史である. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 読者へp10]
693 敵方の捕虜になった者や事故の責任者に再び指揮をゆだねるのは,名誉挽回の機会を与えてやろうという温情ではない,失策を犯したのだから,学んだにもちがいない,というのであった.
─中略─
この戦闘(パレルモ攻防戦) を指揮していたカルタゴの将軍は,本国に召還されて死刑に処せられる.· · · 敗戦の責は問わないローマ人とは,カルタゴ人は反対のやり方をする民族だった. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 1. 第一次ポエニ戦役p43, 46]
694 ローマ人の面白いところは,なんでも自分たちでやろうとしなかったところであり,どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった.もはや完全にローマに同化していたエトルリア人たちは,相も変わらず土木事業で腕をふるっていたし,南伊のギリシア人は通商をまかされていた.シチリアが傘下に加わって本格的にギリシア文化が導入されるようになって以降は,芸術も哲学も数学もギリシアにまかせます,という感じになってくる. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 2. 第一次ポエニ戦役後p68]
695 後世に有名になる「ローマ化」とは,「インフラ整備」のことではなかったか.そして,ローマ人がもっていた信頼できる協力者は,この「ローマ化」によって,ローマの傘下にあることの利点を理解した,被支配民族ではなかったかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 2. 第一次ポエニ戦役後p71]
696 ローマ軍団の総指揮権は,常にローマ人がにぎっていた.だがそれは,覇者であったからというだけでなく,他者以上の損害をも甘受したがゆえではなかったか,と思われる. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 2. 第一次ポエニ戦役後p86]
697 だが,選挙委員長であった護民官が,資格年齢に達していないことを理由に,スキピオの当選に異議を唱えた.それに,二十二歳の若者は答えた.「全市民がわたしをエディリスにふさわしいと思ったのだから,私はそれに充分な年齢であるということだ」
このような振る舞いは,年功序列を重んずる共和政主義者の眉を潜ませたが,市民たちの支持は圧倒的だった.資格年齢には七歳も足りない按察官が誕生することになった.
─中略─
· · · スペイン戦線の司令官だけが決まっていない.そして,それをまかせるに適した,四十歳以上の武将のストックがなかった.
元老院の達した結論は,やりたいと言っているのだからやらせてみようではないか,であったのである.戦死した父と叔父の仇をうちたいと言う若者の願いに元老院が抗しきれなかった,という形になった.
─中略─
元老院の決定は,市民たちに大好評だった.ハンニバル相手に苦闘をつづけるローマ人には,スキピオの若さと明るさと大胆な行動力が,救いでもあったのだ.
こうして,第二次ポエニ戦役の舞台に,もう一人の天才的な武将が登場する.私には,アレクサンダー大王の最も優秀な弟子がハンニバルであるとすれば,そのハンニバルの最も優れた弟子は,このスキピオではないかと思われる.そして,アレクサンダーは弟子の才能を試験する機会をもたずに世を去ったが,それが彼の幸運でもあったのだが,ハンニバルの場合は,そうはならなかったのであった.[塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 4. 第二次ポエニ戦役中期p216-7]
699 「アトラ(ム)・ハシース物語』によれば.戦争は不妊とともに,人間が増えすぎないように神々によって定められたという. [小林登志子「シュメル—人類最古の文明」(中公新書, 2005) p112]
700 スキピオはこのマシニッサを二百騎しかもたない外国人とは扱わなかった.これ以後のスキピオの戦略戦術は,スキピオとマシニッサと,これまですべての戦線をスキピオと共有してきたレリウスも加えた,いずれも三十台の男三人の共同作戦で実現していくのである.親友というものを生涯知らないで過ごしたハンニバルとは,ここがスキピオのちがう点であった. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 6. 第二次ポエニ戦役終期p272]