III  401-500 

閑吟集 井上勝生「開国と幕末変革」 橋本治「宗教なんかこわくない!」 甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」 下向井龍彦「武士の成長と院政」 ハリール・ジブラーンの詩 五山文学集 宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」 アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」 中部経典

401 気候変動研究によれば、中世後期、特に十六世紀以降は寒冷化が進んだといわれ、それが生産条件を悪化させ飢饉の頻発を招いたと指摘されている(峰岸純夫氏による)。気候不順ばかりでなく種々の自然災害が十六世紀も次々と人を襲った。南北朝期から近世初頭を中心に、諸記録にみえる天変地異・損亡・飢饉・疫病に関する記事を抜き出した貴重なデータベースを見ると、そのことがよくわかる。

中略

 さて、奴隷となって飢饉を乗りきるのがひとつの方法なら、もう一つは、奴隷狩りも許される戦場に身を投じて生き残る方法である。越後上杉氏の他国への出兵時期・期間を見ていると、冬季出稼ぎをするように、一種の口減らしとして短期・長期の他国出兵に参加し、戦場を稼ぎ場として食いつないでいったのである。飢饉の続いた永禄年間に上杉謙信は関東への出兵を繰り返したという(藤木久志氏による)。 [久留島典子「一揆と戦国大名」(講談社、日本の歴史13, 2001p282-3]]

402 只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚。 [閑吟集 9]

403 神ぞ知るらん春日野の 奈良の都に年を経て 盛りふけゆく八重桜 盛りふけゆく八重桜 散ればぞ誘ふ誘へばぞ 散るはほどなく露の身の 風を待つ間のほどばかり 憂きこと繁くなくも哉 憂きこと繁くなくも哉。  [閑吟集 28]

404 思ひ出すとは 忘るゝか 思ひ出さずや 忘れねば。 [閑吟集 85]

405 思へども思はぬ振りをして しやつとしておりやるこそ 底は深けれ。 [閑吟集 87]

406 薫物の木枯の 漏り出づる小簾の扉は 月さへ匂ふ夕暮 [閑吟集 108]

407 人の情のありし時 など独寝をならはざるらん。 [閑吟集 199]

408 橋の下なる目ゝ雑魚だにも ひとりは寝じと上り下る。 [閑吟集 212]

409 柳之御所からは、そのようなカワラケがまことに大量に出土する。使い捨てだから当然、大量消費、大量廃棄ということになる。廃棄されたカワラケは宴会が行われた場の近く大量に残ることになる。だからカワラケが大量に出土する遺跡は、京都の貴族の世界で行われていたのと同じような儀式と、それにともなう宴会が、さかんに行われていた場所だったのである。その意味でカワラケの出土量は、京都とその遺跡の間の文化的距離を測る物差しになる。十二世紀という時期についていえば、東日本では、平泉以上に大量にカワラケを出土する場所はない。平泉は最も京都に近い地方都市だったのである。

 カワラケには手づくりのものと、ロクロでひいたものの二種類がある。手づくりのものは少しいびつになることがあるが、ロクロびきのものはきれいに仕上がって、私たちにはこちらのほうがよくみえる。しかし京都で作られていたのは、手づくねのものだけである。東北地方ではカワラケが京都から入ってくる前に、ロクロでひいた土師器が使われていた。その土師器を作る技術者たちがカワラケの製作法を学んで、手づくねのカワラケを作ったと考えるのであるが、そのさいロクロの技法を捨てきれなかった人たちがいたのである。カワラケを使う人たちのなかにも、ロクロでひいたものの方がよいとする人がいたのかもしれない。 [「周縁から見た中世日本」(日本の歴史14 講談社, 2001) p31-2 第一部北の周縁、列島東北部の興起 大石直正]

410 But as to the question of the desirability of setting formal definitions in biology, I have to say that I’m often against it. The reason is that it prematurely puts rigidity into your argument. An example would be the term “species”. I don’t care what anybody says, there has been no definitive definition of this term and I am not sure would be helpful to find one either at present or even in the future. Another term that cannot be adequately boxed in with a formal definition is “conscious-ness”. There was a time in my life when I felt that I wanted to add conceptual rigor to what I was doing and I got involved with symbolic logic; I suppose I was thinking of myself as a disciple of Woodger in a mild sort of way. And I did that for a while but finally I decided that it wasn’t getting me ahead. Indeed I could perhaps rig up a very precise definition of various words but it didn’t really help. I remember Isaiah Berlin saying something like the reason he didn’t go into philosophy and went into history instead was that he always felt that philosophy is something that doesn’t get you anywhere.  [“Interview with J. T. Bonner,” BioEssays 25, 727 (2003);p729]

411 江戸幕府の支配の強さは、訴訟も厳禁し、百姓を力で圧倒したところにあるのではなかった。越訴もふくめて訴訟をおこなうことを認める、柔軟性のある支配に強さの秘密があった。江戸時代、百姓の訴訟がいかに多かったかについては、大坂の旗本領の事例を前に紹介した。江戸に公認の公事宿があり、非公認の公事師が営業していて、大坂や他藩の城下町で百姓の訴願を世話する郷宿が営業していること自体、百姓の訴願する実力が活発であったことを物語っている。 [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p103-4]

412 自由民権家も、文明開化という時代の波に捉えられ、江戸時代を「未開」、「暗黒」と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった。近代の政府も自由民権家も、「合法的な」越訴のような下意をを上に届ける道筋が江戸時代に広く存在したことなどとても認められなかった。近代になって、自由民権家の手により「竹鎗蓆旗」の暴力的な百姓一揆像、そしてこれを身を挺してとどめ、一身を犠牲にして越訴する村役人(義民)という「虚構」の義民伝説ができあがったのである。

   事実は、百姓一揆は「あえて人命をそこなう得物はもたず」、鎌や鍬など百姓らしい農具を持ったのであり、また、越訴は好ましいものではないが、その罪は問われないか、あるいはお叱り程度の軽い罪であった。  [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p104]

413 東アジアの民乱のなかでも日本の一揆はとくに殺傷行為に抑制的であり、人を害さない点が特質になっている。 [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p106]

414 公儀は、越訴をふくめて百姓の訴権を受け入れた。江戸時代、百姓の訴訟はたいへん活発で、公儀の支配には柔軟性があった。しかし、理非の判断は幕府が独占していたのであり、理がないと判断された場合の処罰は苛酷であった。 [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p111]

415 文明開化以前には、「外人」などと恐れたりはしなかった。「嫌悪と警戒、虚勢と恐怖」は、むしろ近代日本のエリートたちから拡散した。  [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p199]

416 日本が近代経済成長をスタートさせた明治初期の一人当り国民所得は、西ヨーロッパ諸国の同じ段階の水準と比較すれば、かなり低く、イギリスの半分以下であったと推計されている。しかし寿命・余暇・教育などの面で生活の質を考慮するならば、前工業化期の西ヨーロッパ諸国と同等、もしくはある場合には、それ以上の水準に達していたといってよいのである。  [鬼頭宏「文明としての江戸システム」(講談社日本の歴史19p313]

417 外国公使を洋式で謁見した慶喜はきわめて闊達であり、百戦錬磨のサー・パークスをも圧倒してしまった。「近代転換期の日本社会が、極めて強大な威力によって外から脅かされており」、「内外の危機が相乗的に亢進し」、「強い不安と恐怖」が社会を支配していた、という、「内憂外患」の体制的危機による「不安と恐怖」論は、わたしには、背伸びした「万国対峙」を国是に突進していた、その後の近代日本のエリートたちがつくり出し広めた、一面的に過ぎるイメージだと思えてならない。  [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p333]

418 1800年前後から、全国に在村の医師がいちじるしく増える。村の医師は村役人層から出ており、寺子屋の師匠を兼ねるものも多かった。1804年(文化元)に紀伊国那賀郡西野山村字平山の医師華岡青洲が、「通仙散」(経口麻酔剤)による全身麻酔で乳ガンの摘出手術に成功すると、漢方と蘭法を折衷した実証的な華岡塾には、全国各地から門人が殺到した。青洲は藩の招きを辞退し、終生在村の医師をつづけ、門人の数は壱岐と松前を除く全国一千八百八十三人におよんだ。近代的医学が、地域村々で切望される時代だったのである。

 杉田玄白と大槻玄沢、前野良沢に学んだ美濃大垣の蘭医江馬家が開いた美濃で最初の蘭学塾好蘭堂には、名声を聞いて、明治のはじめまでに三百三十一人が南は豊後、北は武蔵から入門している。入門者は、蛮社の獄の後、1840代からかえって増える。1849年(嘉永二)に長崎に入港したオランダ船が出島蘭館医モーニッケの依頼で運んできた牛痘(種痘に用いる牛の疱瘡)は、モーニッケ苗として、待ち望んでいた各地の蘭医によって日本各地へ伝えられるが、江馬家へは、早くも同年末に京都の蘭医から届けられた。

 越前藩では、町医笠原良策が「村次伝苗」という方式を考案し、村から村へと領内すみずみまで種痘がもたらされた。鳥取藩でも医師グループが地域分担して、藩内くまなく種痘廻村が実施される。  [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p127-8]

419 当時、一般の地域社会に朝鮮人蔑視の見方が広がっていたのではない。斉昭のような、偏狭な一部の知識人には、蔑視の見方があったが、ここにあげたのは漂流の一例であるが、出会えば「交流」、それが、近世後期日本の、とくに庶民において有力な朝鮮観であった。  [井上勝生「開国と幕末変革」(講談社日本の歴史18p160]

420 「工」は、後漢代に書かれた『説文解字』では、「巧飾なり。人の規矩(下に木がつく)有るに象る。巫と同意ない。と解説される。また、中国思想史の白川静氏の『字通』によれば、「工」には工作の巧と呪具としての工の二系統があって、後の方は神を尋ね、神を隠すのに用いる呪具だという。「工」はどうも呪具から生まれた漢字のようなのだ。 [寺沢薫「王権誕生」(講談社日本の歴史02, 2000p115]

420 論理的にいっても、獲得形質の遺伝ということは簡単に否定できるようには思えない。ところでこの論理的にいうということは、いかにも空論のようであるけれども、じつは論理的にすべてのものを整理して、イエスかノーかを考えていくことは、必ずしなければならない、重要なものの考え方である。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」現代遺伝学と進化論(岩波1968) p314]

421 ところで、先にも述べたように数理というものは、数理に頼っていると、ついその基本的な点を忘れがちになるものである。数理そのものはあまりたいしたものを生むものではない。 [武谷三男「現代の理論的諸問題」現代遺伝学と進化論(岩波1968) p316]

422 三段階とは、自然現象の詳細で批判的観測を基本とする〈現象論的段階〉、実体的モデルを現実的に構成してみせる〈実体論的段階〉、本質的自然法則を捉える〈本質論的段階〉からなる。ニュートン力学の形成に三段階論を適用すれば、ティコ・ブラーエが現象論的段階、ケプラーが実体論的段階、ニュートンが本質論的段階に位置する。 [佐々木力「『弁証法の諸問題』」(岩波哲学・思想辞典1998p1464]

423 このように、国史の内容は自由に変えられることを眼前で示したのが桓武以下の三代の天皇であった。九世紀以降に隆盛を見る日本の紀伝道(漢文学と中国史学)が、哲学や歴史学として発展せず、単なる作文術になってしまった理由として、統治者は何故統治者たりうるのかという発問を放棄した年代記の編纂に終始してしまったことを挙げることができよう。平安時代初期が一見文運隆盛に見えても、政治思想的に見るべきものがないことの一因に、天皇による史書の改訂を挙げることも可能であろう。 [坂上康俊「律令国家の転換と「日本」」(講談社日本の歴史05p81]

424 たぶん、平安中期というのは、もう、大きな夢が見られない時代だったのだろう。「絶世の美女が王子様に愛されて幸せになりましたとさ」などという、現実とあまりにかけ離れた設定の物語を楽しめるほど、当時の人は能天気な日常を過ごしていられなくなっていた。 [大塚ひかり「カラダで感じる源氏物語」(ちくま文庫)p90]

425 自分を活かしてくれさえすれば、まだ自分の未熟な自我を「たとえ偽りであっても)伸ばしてくれさえすれば、会社というところは、いかに会社以外に害毒を垂れ流そうと、立派な理想社会なのだ。

 公害を垂れ流す企業の社員が、自分の会社の社会的責任に対して沈黙を守っていたのは、そうそう昔のことじゃない。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p26-7]

426 「オウム真理教の信者はヘンなことを信じているだからオウム真理教はヘンでインチキな宗教だ」というのは間違いで、オウム真理教は、「信者が教祖を無原則的に信じている」というその一点において、宗教以外のなにものでもないのだ。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p50]

427 宗教が危険なのでもない、イデオロギーが危険なのでもない。危険なものだけが危険なのだ。危険なもの危険を目の前にして、「これは宗教だから特別だ。イデオロギーだから特別だ」などというつまらない配慮はいらないということである。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p58]

428 必要なのは、宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて、自分の頭で考えられるようになること”—日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p88]

429 宗教を不必要とするものは、だだ何でも自分の頭で考えられることなのだ。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p89]

430 さて、それではこの日本で、最初に「宗教なんかこわくない!」と言ったのは誰だろう?それは当然、戦国時代の武将織田信長である。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p104]

431 本は、その基本姿勢としては、もう四百年も前から、平和な近代市民社会になっているのである—“宗教が不必要な力を持たないという点と、武器が野放しにされていないという点において。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p108]

432 この日本では、もうとうの昔に、宗教が生きているということはそんなにも重要なことではなくなっていたのだ」と言う。重要なことは、「宗教が生きている」ということではなくて、「人が平和に生きている」ということなのだから。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p118]

433 どうあったって、「織田信長が個人の内面に語りかける宗教を滅ぼしてしまったから、その後の日本は暗黒になった」ではないだろう。「救済を求める個人の群(= 宗教勢力)が滅ぼされて、それでかえって社会には平和が訪れた」というパラドックスがある。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p125]

434 すべての古くからある宗教は、みんな大昔に生まれた古代人の思想なのだ。そういうことを考えて、その思想を採用するならするで、もうちょっと取捨選択をしっかりした方がいい。「宗教という阿片の中から薬効成分をちゃんと抽出した」という点において、檀家制度を作った徳川幕府の方が、ずーっと現代の我々より、迷信深くないのだ。大錯覚というのは、これにつきる。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p130]

435 『権記』には、道風の書の貸借や贈答の記事も多く、行成のそばには常に道風の書が置かれていたことは明らかである。さらに、長保五年(1003) 十一月二十五日条には、「この夜、夢に野道風に逢ふ。示して云はく、書法を授くべし。雑事を言談す」と夢に道風に会って、書法の伝授を受けている。それほどあこがれていたのである。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p142]]

436 ゴータマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである。「我思う、ゆえに我あり」は、当然のことながら宗教からの自由である。つまりそれは、「私は神によって存在を許されているのではなくて、自分自身のありようにしたがって存在しているのである」で、ゴータマ・ブッダの悟りはこれに似ているではなく、これをおんなじだと言った方がいい。ゴータマ・ブッダという人は、デカルトより二千年以上も前に「我思う、ゆえに我あり。を自覚した人なのである。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p223]

437 女に出家を許して女に男の思想の一部を与えたのは、古代インドで身分の垣根を越えた解脱を達成してしまったゴータマ・ブッダだけで、女に思想世界への参加を認めた人間は、彼が世界で最初である。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p230]

438 ゴータマ・シッダルタは、悟りを開いてブッダになった。その彼は、だから当然、誰にでも教えを説く。「自分の人生は自分のものだと思ってもいいんだよ。でも、そんなこといきなり言われたって分からないかもしれないし、ロクな教育受けてないんだから、そんなこときちんと実感できないかもしれないけど、でも、それはホントのことなんだよ」と。「一体そんなブッダの言葉が仏典のどこに書いてあるんだ?」と不信に思われる人もいるかもしれないが、ゴータマ・ブッダの思想とはそういうものなのであるそれだけのことなのである。こういう風に説明しないから仏教というものがリアリティを失ってしまっただけなのである。仏教関係者は、少し反省した方がいいと思う。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p232]

439 彼のした解脱とは、「輪廻転生などという宇宙の法則は存在しない」と、すべてをひっくり返してしまうことだった。仏教が一切の幻想を否定するというのはここから出ているのだが、そういい切れるだけの根拠が、もう彼の中にはあった。ここが一番感動的なところなのだが、「自分の頭で分かったことが確かな真実であるということを決定するのは決定できるのは、自分自身以外にはない」のである。だから、それができるだけの自信がない限り、一切の知識も論理も、すべては机上の空論である。だから、悟りということをいたって簡単な言葉で言ってしまえば、それは、なんのてらいもなく自分の中に自信を感じていられる状態なのだ。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p237-8]

440 仏教は、その始めに置いて、全然宗教なんかではなかったという事実を知っておかなければならない。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p239]

441 比喩が一人歩きを始めればファンタジーになる。おとぎ話は人を責めないが、宗教という人間の根幹にかかわるおとぎ話は、人に教えを強要する、冗談の分からない人にファンタジーを与えると、それをそのまま本気にして、いたって厄介なことになるのだが、宗教という思想を人格化する行為は、そういうものである。 [橋本治「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)p249]

442 なお、天徳の焼亡で焼け跡から掘り出された神鏡は、この寛弘二年の時に再び焼損し、鑑の形を失ったらしい。火災の直後から神鏡を改鋳すべきか、公卿が議論している。中略ここで興味深いのは、道長が、結局取りやめになったが、神鏡を改鋳すべきだと主張していることである。神鏡は、伊勢神宮の天照大神の形代として神聖不可侵で崇拝の対象となるが、それは十一世紀後半以降のことで、当時は、他の「三種の神器」の宝剣などと同じたんなる宝器だったのである。古代貴族のある種の開明性が見てとれるではないか。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p215]

443 承平天慶の乱の危機に面して新たに先例を開き、それが十世紀広範に恒例化していく儀礼は多いのである。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p243]

444 幕末に孝明天皇が理想として行なったのが賀茂行幸や石清水行幸であったと言うことは、幕末の朝廷が規範としたのが、ここでのべてきた摂関期の神事のあり方であることを示し、それはどんなに遡っても十世紀中葉の承平天慶の乱までである。十世紀後半にでき、道長の時代に整えられた国制は、幕末に至るまで基本的に同じ構造として宮廷につづき、規範性や参照性をもった古典的国制だったということを示しているだろう。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p255]

445 行成が康尚宅へ訪れたことから、京に独立の大工房を構えていたことが知られ、貴族や天台・真言など宗派を問わず注文に応じて制作していた。特に一条天皇(あるいは道長)の批判により彫り直しをさせられたことは注目され、彼を重用した道長や行成の第一級文化人としての美学が、彼の様式に多大の影響を与えただろう。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p280]

446 この時代は先例重視で何も生み出さなかったと考えられがちだが、私人としての仏教信仰の中で道長のなしたことは、次の時代のあり方に多くの影響を与えた。「金にまかせて」という面は否定できないが、しかしそれまでの権力者がしなかった独自性があり、またのちの時代のように悪趣味に堕さなかったことは素直に評価すべきだろう。

 生涯に行った造寺造仏など多くの作善は、それまでになかった新しいものが多く、道長の進取の性格がうかがわれる。 [大津透「道長と宮廷社会」(講談社日本の歴史06p286]

447 剣術から体術へ、あるいは杖へ槍へというふうに自在に移ってゆくことが可能でしたが、それが近代になってからは分けられてしまって、柔道と剣道とは相互の関連の薄い、別ものとみなされています。いまではこの区別は当然のように思われていますが、そのことはかつての武術と現代武道とでは、身体の使い方が違っていることの証左のひとつといってもいいと思います。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p9]

448 追求すべき「術」とは何かといえば、私は質的に転換された動きのことだと考えています。それは、単に反覆稽古を繰り返して達成できるものではありません。慣れによる動きの延長線上にはない、明らかに質的に違った動きです。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p11]

449 昔は、もちろん職種にもよりますが、汗をかきながらするようなものは技のうちに入らないと言われました。汗を流してよいしょよいしょとやっているのは、素人です。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK人間講座(2003/10-11) p11]

450 スポーツはレクリエーションから発展したものなので、誰でもが参加できるためにちょっとできそうもないことはこれはできないことと分類されてしまったのでしょう。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p12]

451 昔の職人などは親方のところへ入門すると、ずっと雑用ばかりやらされて、ちっとも教えてもらえなかったという話がよくありました。職人の世界ではそれが普通のことでした。

 中略

私はその意味を、次のように考えています。入門してすぐ、ごく初心者のうちから仕事を教えられて始めてしまうと、もちろんすぐにはできませんから、いろいろ失敗します。そして、だんだんできるようになっていくわけです。この、だんだんできるようになるのが当然の道筋だろうと思われるかもしれませんが、その体験を通じて、人はできなかった自分というものを潜在意識のなかに抱えてしまうことになるだろうと思うのです

 しかし、仕事をさせてもらえずにただ見ていると、身体のなかでこうかな、ああかなと、仕事の感覚をシミュレーションしていく。具体的に失敗することはあり得ないわけです。それである日。じゃあこれでもやってみるかと言われたら、ちょっとしたヒントですぐできるようになる。そうすれば、あとは次々とできていきます。

中略

 ですから職人が仕事を教えないのは、応用力が育つようにということを含めての意味があったと思うのです。[甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p14-15]

452 現在では、できないことは、反復練習して身につけることが、教育界ではすすめられているようですが、このような方法では練習は単にノルマと化してしまい、感じること、考えることをしなくなる。それでは質的な転換は生まれません。

 私は稽古とはつねに毎回がライブであると思っています。結果としては反覆しているように見えるかもしれませんが、毎回新たな探究をしているのです。稽古するときの精神のあり方は、耐えず探究してやっているのと、マニュアルにしたがって考えずに反復しているのとでは、天地の開きがあるものです。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p16]

453 私は、形骸化した精神主義も、競技化でとりあえず結果を出そうとすることのいずれにも属さず、生身の人間が素手もしくは、剣や棒(杖)という簡単な道具をもってさまざまな状況下で対応するという形を通して、「できねば無意味」という武術の原点を追求したいと考えています。「できる」とは、質的に転換した動きによって相手を制するということであり、これは、反復稽古、つまり単なる繰り返しの延長線上では決してできません。つまり、動きの質が転換した「術と呼べる」ほどのものになっていなければ意味がないのです。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p16]

454 身体を通した訓練によって、何かあった時に自分で納得いく行動をとれるようにするところに、武術の稽古の大きな意味があると思うのです。 [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11) p18]

455 よその機械メーカーが作った機械を買って工場に据え付けるのでは、他者との違いが生じにくい。設備や工具まで自分で作れるメーカーだけがこれからは生き残れる。 [市川潤二(キャノン生産技術担当常務)(ハイテク四天王「生産革命」AERA03.10.6) p26]

456 仕掛かり品をベルトコンベヤで流す大量生産方式をやめ、一人ひとりの工員が手作業で組み立てる「セル生産方式」に方向転換した。そもそもは売れ行きに即応し、余分な在庫を持たないよう始めた少量生産への切り替えだったが、その波及効果が重大な意味を持った。市川が言う。「出来合いの装置を外部から買ってくるのではなく、手作業で組み立てる工員が自分流の製造方法に即した工具や機械を手づくりするようになった」 [ハイテク四天王「生産革命」AERA03.10.6 p27]

457 キャノン、エプソン、シャープ、三洋。「ジャパン・アズ・オンリーワン」の強い4社には、ほかにも共通点がある。首切りをしない点だ。 [ハイテク四天王「生産革命」AERA03.10.6 p27]

458 中世武士の騎馬個人戦術は、日本刀の出現による疾駆斬撃戦術の高度化によって生み出されたと考えられるべきであろう。その日本刀は律令軍制の直刀から発展したものではなく、蝦夷の蕨手刀から進化したものであった(石井昌国氏による)。 [下向井龍彦「武士の成長と院政」(講談社日本の歴史07p54]

459 承平南海賊の平定過程では前伊予掾純友だけでなく、下級武官・掾クラスの人々が諸国警固使になって下向し、勲功をあげた。中略しかし純友らの勲功申請は黙殺され、期待は大きく裏切られた。この勲功棚上げに対する不満が、天慶二年(939) 十二月の純友蜂起につながっていく。(p62)  中略

 純友にしても将門にしても、大きな錯覚があった。それは将門の発言に示される、自己の武芸に対するあまりの過信であった。それは生まれたばかりの武士が描いた誇大な自己評価であった。彼らは、自らの武芸で世界が動くと信じていた。その点で、彼らは紛れもない英雄であった。しかし彼らは、自己の武芸が本当に威力を発揮するのが、追捕官符を賜与され国家の軍事指揮官として戦っている時だけであるという冷厳な事実に、気がついていなかった。将門も純友も、追捕官符が約束する勲功賞に群がる政府軍に敗れ去ったのである。(p91-92)

  中略

 武士たちは、将門や純友の悲運を目の当たりにして軍事的抗議の無意味さを悟り、政府も武士たちへの冷遇が大規模な氾濫を招くことを知った。天慶の乱の後ほぼ百年間、武士の大規模反乱は起こらない。武士たちは、勲功賞をステップに位階・官職の昇進を目指す、王朝国家の戦士として歩み始めるのである。(p93)  [下向井龍彦「武士の成長と院政」(講談社日本の歴史07)]

460 彼ら天慶勲功者こそが、中世的「武芸」を「家業」とする武士の創始者と言えるのである。

  中略

武士身分は政府・宮廷貴族そして地方国衙が、天慶勲功者を武士と認知することによって成立したということができよう。 [下向井龍彦「武士の成長と院政」(講談社日本の歴史07) p100-1]

461 長久整理令をきっかけに。荘園公領の区別、公領内部での郡郷制の改編が進行していくことになるが、それまで国衙の保護と規制のなかで安定していた国衙と荘園の関係は一挙に対立的関係になり、境界をめぐる荘園と国衙の紛争が激増することになる。

  中略

 受領は荘園との武力紛争に勝ち抜くために、在庁官人や有力田堵である国内武士を郡司・郷司に任命するようになった。従来説かれたように在地領主が開発私領を守るために武士化したのはなく、国衙の凶党追捕に動員される戦士である武士がその武力を見込まれて郡郷司に任命され、住民に対する徴税権・警察権をテコに郡郷領域を所領とする在地領主になっていくのである。 [下向井龍彦「武士の成長と院政」(講談社日本の歴史07) p198-9]

462 犯人も犯人を匿う本主(主人である院庁・寺社・貴族・武士ら) も、院宣なしには逮捕にも引き渡しにも応じない。使庁に訴えてきた京内外の所領相論の判決も、院宣なしには実効性を持たない。使別当・検非違使庁は、院権力に依存しなければ京内外の治安維持ができなくなっていたのである。

 こうして院は、大寺社・貴族から院下部までの諸階層が関わる大小さまざまな事件や相論の裁定を下すことを通して京内外・貴賤の様々な動向に通暁し、好奇心が刺激される。歴代の院が、田楽や今様などの庶民芸能に強い関心を示すのも、院のもとに巷間のあらゆる情報が集まってくることと関係するであろう。 [下向井龍彦「武士の成長と院政」(講談社日本の歴史07) p233-4]

463 第二の失敗はこういうことだ。前述のように私のアブラムシ個体群の仕事は割合高く評価され、それによって休職中も研究を続けられたのだが、当時私はアブラムシは単なる「個体群生態学の材料」として使うだけで、アブラムシの分類の本や論文もロクに読まなければ、プレパラートの作り方も習わなかった。若いときの私は、その頃の多くの年輩昆虫学者の、好きな虫だけに興味をもち、当時の生態学や生理学の進歩にほとんど無関心だった姿勢に反撥して、「虫でなく、学問分野を専攻するんだ」といっていたのである。だが動機に正しい面があるとしても、これは私の大きな間違いだった。社会生物学の建設者ウィルソンはアリの専門家であり、年取ってからは分類もやっている。世界に知られた昆虫行動学者の坂上昭一氏は著名な分類学者でもあり、退職後は記載をやっていた。これらの人たちは他の動物の社会進化も論ずるが、すごくよく知った虫のグループがあって、それが学説の中心になっている。休眠生理と生活史進化の研究者正木進三氏も、分類こそやらないがコオロギ類という得意な虫のグループをもっている。私にはこれがない。うんとよく知った分類群をもつことを若い人たちに勧めたい。 [伊藤嘉昭「楽しき挑戦型破り生態学50年」(海游舎2003) p 56-7]

464 オルファリーズの人びとよ、あなたが自身の魂の中で今、動いているものについて語るほか、ほかの何について私が語ることができようか。 [ハリール・ジブラーン「予言者」船の到着神谷美恵子訳(角川文庫「ハリール・ジブラーンの詩」p50]

465

共にありながら、互いに隙間をおき、

二人の間に天の風を踊らせておきなさい。

中略

互いにあまり近く立たないように。

なぜなら寺院の柱は離れて立っており

樫や糸杉は互いの影にあっては育たないから。 [ハリール・ジブラーン「予言者」結婚について神谷美恵子訳(角川文庫「ハリール・ジブラーンの詩」p53-4]

466 王朝物語の主なものには一応目を通したと思うが、その際、殺人というのが一件も語られていないということに深い感銘を受けた。物語を組み立てる上で、殺人というのは構成を容易に、あるいは劇的にする要因ではなかろうか。

 シェイクスピアの多くの劇作から、殺人を取り去ったらどんな物語になるかを想像してみるとよい。平安時代の日本人はこれほど多くの素晴らしい物語を殺人のプロットなしで組み立てたのだ。 [河合隼雄「源氏物語と日本人」(講談社+α 文庫) p87-8]

(この人は読みが浅い;この本はかなり希薄な本である)

467 岡崎哲二・東京大学教授が指摘するように、戦前は、日本の企業社会はきわめてアングロサクソン的だった。普通の人で会社を四、五回変わる。組合も強く、株主の発言力も強く、一般庶民の金融資産の45%が株式であった。また企業内の評価システムも、年功序列などが定着したわけでもなく、明らかな能力主義もとられていた。それが、戦後になり、資本と労働との対立が先鋭化していくなかで、長期雇用が定着し、六〇年代には、いわゆる日本的経営というものができあがった。 [米倉誠一郎「もはや日本型成功体験は捨てるべきだ」中央公論2003/12, p91]

468 これまで日本企業は、長期の雇用、つまり、一人の人間が一カ所の勤め先にずっといるということを前提にしてきた。本稿で問題にしている仕事のモラルや質についても、このことを前提に維持されてきた。当然のことながら、その前提が崩れたのであれば、新たな状況に対応したマネジメントを行う必要がある。 [米倉誠一郎「もはや日本型成功体験は捨てるべきだ」中央公論2003/12, p92]

469 デジタル技術が中心となっている現場で、日本的な技術思想が競合相手となる世界の趨勢から遅れてきているという現実も直視すべきだ。

中略 モジュール化して、アーキテクチュアー(建築的)思想でシステムを組み上げるという世界、実は、日本はこういう事がうまくない。アナログの世界で摺り合わせを続けて、みんなで完成度を高めていくというのが得意だ。この方法は、人手もかかるし、時間もかかる。アメリカでは、この種の事をやっていたら絶対に日本に勝てないと考え、モジュール化に力を入れてきた。インターフェイスだけ規格化して、常に一番安いパーツを選び、誰にでも取り替え可能なシステムを作り上げた。[米倉誠一郎「もはや日本型成功体験は捨てるべきだ」中央公論2003/12, p93]

470 高度な知識や技能を持っている人間が扱えば、ヒューズ一本の交換で済む様なものでも、一区画、一モジュールごと入れ替えるという方式は、ロスが生まれるといえばその通りだが、その高度な知識や技能を持っている人間を必要な数だけ確保するコストのほうが、競争力を失わせるぐらいに過大になっているのだ。  [米倉誠一郎「もはや日本型成功体験は捨てるべきだ」中央公論2003/12, p94]

471

相看て一笑す 鬢は銀の如し、

二十年前、同社の人。 [絶海中津「蕉堅藁」49 済上人の天草に之くを送る]


472

清夜沈々として群籟収まり、

疎鐘声近し 月中の楼。

十年夢は絶つ 楓橋の泊、

吟興正に長楽の秋に逢ふ。 [絶海中津「蕉堅藁」115 鐘声近し]

473

河流一帯 冷たく天を涵す、

遠近の峰巒 秋霧連なる。

碧羅を把って望眼を遮るに似て、

水妃は肯へて嬋娟を露さず。 [絶海中津「蕉堅藁」116 河上の霧]

474 詩文集の「蕉堅藁」という名は、「維摩経」方便品に「是の身は芭蕉の如く、中に堅さ有ることなし」といい、同じく観衆生品に「水上の泡の如く、芭蕉の堅さの如し」と喩えられる、このはかない空蝉の身が書き残した作品、という意味である。つまり幻同然の書き物だというのではあるが、しかし実は「幻化の空身こそ即ち法身」(証道歌)という諦念に裏打ちされての逆説的修辞であろう。というのは、現存の「蕉堅藁」所収の作品は、明らかに作者自らによって厳選されたものであり、選び捨てられた作品は相当の数にのぼるものと推定されるからである。 [入矢義高校注「五山文学集」p2]

475 義堂周信(1325-88) は土佐の出身。同じ土佐の出で後輩の絶海中津と並んで、五山文学の双璧とされてきたが、結論を先にいってしまえば、その文才は絶海の豊潤さに比べてすこぶる精彩に欠ける。散文においてはその憾みは余り目立たないが、詩偈の作はどれもソツなく纏まってはいるものの、みな端正な格調の作例ばかりで、作者その人の真率な情感がそこから漂い出ることはほとんどない。余韻の響かせ方さえも常套の型を出てはいない。

 この律儀な端正さと常識人的な平衡感覚が、しかし実は彼を五山文学の模範教師として重きをなさせるにふさわしい資質であったし、また終始、足利義満の信認を蒙って、五山の政治的体制を統率する任務を担わされたゆえんでもあった。

中略

 彼はまた一方、なかなかの勉強家で読書量も多く、また丹念な記録者でもあった。古来の祖師の名句を分類集成した労作「重編貞和類聚祖苑聯芳集」や、読書メモの「古今雑集」などが、彼の作詩文の源泉として活用されたし,その精細な日記「空華日用工夫集」も、その名の示す通り、彼にとっては単なる記録以上の意味と効用をもつものであった。

 彼は健康上の理由から、海を渡って留学することなく終わった。推察するところ、そのことが彼のひそかなコンプレックスとしてあって、さればこそあのような猛勉強へ自らを駆り立てたのかも知れない。[入矢義高校注「五山文学集」p196]

476 あの絶海中津は明の僧如蘭から「日東語言の気習なし」と賞められたが、これでさえ留学僧のなかでも特別な例であった。 [入矢義高校注「五山文学集」p196]

477 いまこの邦の禅を称する者は、仏に原づかず、心に證せず。ただ師をのみ尚び、ただ宗にのみ党す。固に憫れむべき者なり。

中巌は五山僧のなかの異端児であった。元に留学した時の自らの体験を軸として、敢然と曹洞系から臨済系へ転じ、そのため烈しい迫害を加えられ、果ては暗殺を図られるほどであった。このようなラディカルな内部告発は、彼にして始めてなし得ることであった。しかしこのように醒めた眼をもった五山僧は、彼のほかには一人もいなかった。[入矢義高校注「五山文学集」五山の詩を読むためにp320]

478 現代の著者による書物がどれほど高雅なものであっても、そうした書物で学ぶだけで、ラテン語が自分の言葉であった古代の著者の泉に立ってこのことばの水を飲むことをしないならば、どのような人もラテン語のすぐれた達人にはなれないのである。 [J. ロドリゲス「日本語小文典」(岩波文庫)上p41-2] Joam Rodriguez, Arte Breve da Lingo Iapoa (マカオ、1620).

479 Va には提示の機能があり、ポルトガル語の[定冠詞] O, A, Os, As、カスティリャ語の[定冠詞] el, la,los, las、イタリア語の[定冠詞] il, la, li, le, などに対応し、[· · · に関しては」の意の] quantto a という表現などに相当する。 [J. ロドリゲス「日本語小文典」(岩波文庫)上p74]

480 『古事談』の語る逸話は信憑性に問題のある所伝ではあるけれども、そこには、晩年の清少納言についての真実が語られているのではなかろうか。史料を読んでいると、まま、こうした、「虚構の真実」に遭遇し、思わず目を見張るのである。 [角田文衛「平安の春」(講談社学術文庫1360)紫女と清女p72]

481 江戸時代二六〇年の間に記録に残っている一揆はおよそ一〇〇〇件くらいなのです。一年にすると四件足らずの非常に少ない暴動ですんでいるのです。そしてその間に、外国のように戦争はなかった。  [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p10]

482 日本の上流階級になると、急にレベルが高くなり洗練されていて、それが突然日本へやって来たイギリス人を満足させるものを持っていたのです。日本風のもてなし方をしているのですが、その中には違和感がないのです。ここに上層文化の意味がよくわかるのではないかと思います。 [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p72]

483 イザベラ・バードは洗練されたもの、技術的に高いものには率直に感心し、ちょんまげを結うとか、味噌汁などには違和感を持ち、さらに生活の中にプライバシーがないことを嘆いている。

 しかしプライバシーがほとんど問題でなかったということが、逆にお互いが安心して安全な生活ができたということなのです。例えば女が一人で旅ができるということは、プライバシーをわれわれがそれほど尊ばなくてはならないようなことがなかったからではないか。われわれの生活を周囲から区切らなきゃならない時には、すでにわれわれ自身の生活が不安定になっていることを意味するのではないかと思うのです。  [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p72-3]

484

百念氷の如く万病平らぐ、

月は梅影を移して紙窓明らかなり。

夜深けて驚き起こす 炉辺の睡り、

豆は寒灰に在って爆ずること一声。 [古剣妙快「了幻集」病中書懐その二]

485

毎に西山に向かって亮公を憶ひ、

禅余立ち尽くす 夕陽の紅。

忽然として得たり 箇の真消息、

一雁の秋声 落木の風。  [古剣妙快「了幻集」和韻して傑蔵主に答ふ]

486

雨外の清光 何処にか円かなる、

人をして翻って老南泉を憶はしむ。

玉階の夜色 秋は水の如く、

白雁の新声 海天を渡る。  [古剣妙快「了幻集」中秋に雨に値ふ]

487

病身を洗ひ得て毛骨清し、

誰か論ぜん 聖解と凡情とを。

閻浮七十四年の夢、

今夜江城 雁一声。  [古剣妙快「了幻集」浴し罷りて偶作す]

488 古典重力論の元年を1609 年にとることができる。この年ケプラーは、プラハで『新天文学因果律もしくは天界の物理学にもとづく天文学』を出版し、惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を一定の面積速度で運行するという、ケプラーの第一法則と第二法則を世に問うた。それは科学思想史を画する出来事といってよい。とくにこの『新天文学』に付いている特異な副題に注目していただきたい。 [山本義隆「重力と力学的世界古典としての古典力学」(現代数学社、1981 ) p1]

489 ケプラーの発見した法則は、とりわけその法則が円軌道と等速性の双方を放棄したことは、否応なく〈外的原因〉 という考え方を強いるものであった。· · · 科学思想史上では円と楕円のちがいは決定的である。 [山本義隆「重力と力学的世界古典としての古典力学」(現代数学社、1981 ) p3]

490 宇宙が球形であることと惑星の軌道が円より成ることは、プラトンとアリストテレス以来牢固とした固定観念になっていた。· · · コペルニクスの登場まで天文学においてもっとも権威のあったプトレマイオスの『アルマゲスト』では· · · 宇宙の球形性が論証され、また「一般に惑星の運行は、その本質からすべからく規則的で円形であると考えなければならない」とアプリオリに前提されている。したがってまた、現実の惑星の運行に見られる円軌道や等速性からの偏倚は、すべからく円の合成周転円、離心円等によって取り繕われねばならなかった。

 ケプラーまで、この天体の運動の円秩序と等速性の自明性を疑った者はチコ・ブラーエらきわめて小数の例外を除いていない。

· · · 16 世紀にコペルニクスがプトレマイオスの天動説を退けた一つの理由は、エカント(虚中心)の導入が惑星運動の等速性を破壊するからであり· · · ガリレイでさえも、円運動の呪縛にとらわれていたのだ。· · · ガリレイは、ケプラーから『新天文学』を贈呈されていたのに、ケプラーの発見を認めていない。たとえ読んでいたとしても、楕円軌道というような考え方を全く非現実的なものとして受けつけなかったであろう。ケプラーが2000 年にわたる円軌道の固定観念を見棄てて楕円に到達し、等速性を放棄して面積定理を見いだしたことは、それだけで、ロバチェフスキーがユークリッドの第五公理を放棄したことに、あるいはアインシュタインが平らな時空を棄ててゆがんだ時空を採用したことに、匹敵することである。 [山本義隆「重力と力学的世界古典としての古典力学」(現代数学社、1981 ) p3-5]

491 ガリレイには空間的配置の秩序現象の秩序が自然の秩序を表すのに反して、ケプラーにとっては力学的合法則性原理の秩序が自然界の真の秩序を表しているのであった。 [山本義隆「重力と力学的世界古典としての古典力学」(現代数学社、1981 ) p31]

492 ケプラーの重力はもっと得体の知れないところがあった。つまりケプラーは、「力」の概念が「霊力」とか「意志力」というような擬人的な観念から脱皮してゆく過渡期に位置していたのであり、そのためにこそ、ケプラーよりも先に進んでいた同時代人ガリレイがかえって重力を認められないという逆説が生じたのである。 [山本義隆「重力と力学的世界古典としての古典力学」(現代数学社、1981 ) p33]

493 うわべから見ると、アラブ世界は輝かしい勝利を得たところである。西洋が絶え間ない侵略によってイスラムの進出を押さえこもうとしたにせよ、結果はまさに逆であった。中東のフランク諸国家は、二世紀にわたる植民地化のあとで、根を引き抜かれてしまったばかりか、ムスリムはみごとに立ち直って、オスマン・トルコの旗のもと、ヨーロッパそのものの征服に出かける。1435 年にはコンスタンティノープルが彼らの手中に帰したし、1529 年には、その騎兵たちはウィーンの城壁のもとに陣を張ったものだ。

 われわれは、このことを、うわべに過ぎないとみる。歴史をひもといてみれば、ひとつの確認された事実が明らかになるからだ。すなわち、十字軍時代において、アラブ世界はスペインからイラクまで、依然として、知的および物質的に、この世で最も進んだ文明の担い手だった。しかしその後、世界の中心は決定的に西へ移る。そこに何か因果関係があるのだろうか。十字軍は、やがて世界を支配していく西欧に、飛躍のしるしを与え、アラブ文明に弔鐘を鳴らしたのだと、われわれは確言するまで行っていいのだろうか。

 間違っているとは言えないが、このような判断は、ある程度の修正を必要とする。アラブは十字軍以前から、ある種の「疾患」に悩んでいて、これはフランクの実在によって明らかとなり、たぶん悪化もしたが、ともあれフランクがつくったものではまったくない。

 予言者の民は9世紀以来。みずからの運命を制御できなくなっていた。指導者たちはほとんど異国人である。· · · フランクがやって来たとき、彼らはすでに足もとがおかしく、過去の遺産で生きることに満足していた。だから、この新たな侵略者に対して、ほとんどの面でまだ明らかに先進的であったにせよ、彼らの衰退は始まっていたのである。 [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p447-8]

494 アラブの第二の「疾患」は、第一と関係がないわけではないが、安定した法制を組み立てることができなかったことである。フランクは中東にやって来たあと、文字どおりの国家をつくることに成功している。エルサレムでは、継承問題は概して大過なく済んでいる。王国の枢密院が王の政治を有効に監督し。聖職者は権力争いの中で公認された役割を担う。

 これに対して、ムスリム国家では、このようなことがまったくない。どの国も君主の死におびえていたから、どんな跡目相続も内乱を引き起こす。· · · 東アラブでは、裁判過程こそフランクより合理的であったが,領主の専制権力はいかなる歯止めもない。この結果、商業都市の発達は、思想の進化ともども、遅れて行かざるを得なくなる。

 · · · 十字軍時代を通じて、アラブは西洋から来る思想に心を開こうとはしなかった· · ·。そして、たぶんこのことこそ、彼らが犠牲者となった侵略の最も不幸な結果なのだ。 [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p448-51]

495 西ヨーロッパにとって、十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいては、これらの聖戦は衰退と反開化主義の長い世紀に通じてしまう。四方から攻められて、ムスリム世界は縮み上がり、過度に敏感に、守勢的に、狭量に、非生産的になるのだが、このような態度は世界的規模の発展がつづくにつれて一層ひどくなり、発展から疎外されていると思いこむ。

 以来、進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶して、その文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に、自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として歩むべきか。イランも、トルコも、またアラブ世界も、このジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも,上からの西洋化という局面と、全く排外的で極端な教条主義という局面との間に、しばしば急激な交代が続いてて見られるのである。 [アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」(牟田口義郎・新川雅子訳、ちくま学芸文庫 2001p452]

496

サイデンステッカー 小林秀雄はなんで神様になったんですか。

丸谷 逆説と論理の飛躍のせいで、読んでわかりにくいからじゃないですか。

サイデンステッカー · · · 、どうして小林秀雄さんが神様になったか。私にはわからないですよ。彼の処女作『様々なる意匠』はただ頭のいい若者が賞をもらいたいから書いたものにすぎないと思う。それから偉大だと言われているドストエフスキー論もモーツァルト論も、私にとって全然新鮮なところがないんです。『無常といふ事』は、たしかに文章はきれいです。でも、中味はあたりまえのことです。

丸谷 僕はあたりまえでではなくて、間違っていると思いました。[丸谷才一vs サイデンステッカー「近代日本文学と青春」(本2003, Dec 講談社)p12]

499 アッサラーヤナ、これをどう考えるか。この王族の家に生まれた者,婆羅門の家に生まれた者、王家に生まれた者がサーラの木やササラの木や栴檀の木やパドゥマカの木でつくった火きり棒をとっておこした火、あげた炎だけに火の光があり、火の色があり、火の輝きがあって、その火によって火の用をなしうるが、賤民の家に生まれた者、猟師の家に生まれた者、竹細工師の家に生まれた者、車づくりの家に生まれた者、ゴミ集め人の家に生まれた者が、犬のえさ箱や豚のえさ箱や染めもの桶やエーランダの木の片端でつくった火きり棒をとっておこした火、あげた炎には火の光がなく、火の色がなく、火の輝きがなく、その火によって火の用をなしえないのか。 [中部経典(=マッジマ・ニカーヤMajjihima-nikaya) パーリ語大蔵経のうち;第九十三経、アッサラーヤナ経]

500 マールンキャーブッタ、世界は永遠であるという考え方があろうと世界は永遠でないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。現実にそれらを制圧することを私は教えるのである。

中略 マールンキャーブッタ、人は死後存在するという考え方があろうと人は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。現実にそれらを制圧することを私は教えるのである。

中略 マールンキャーブッタ、ゆえに、いまここにわたしが説かないことは説かないと了解せよ。私が説くことは説くと了解せよ。

 以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャーブッタは歓喜して世尊の教説を信受した。[中部経典(=マッジマ・ニカーヤMajjihima-nikaya)パーリ語大蔵経のうち;第六十三経、小マールンキャ経(毒矢のたとえ)]

497 為兼逝去の報に接した花園上皇は、その日の日記に千七百余字を費やして為兼の人となりや和歌を回顧した追悼文を書き留めた。これは公家や天皇の日記として全く異例のことで、歌道における上皇の為兼への傾倒ぶりがうかがえる。 [今谷明「京極為兼」(ミネルヴァ書房、2003p246]

498 ブッシュは2000年の大統領選挙では「穏健派」と見せかけ、「思いやりのある保守主義」を唱えたが、あくまで仮面でしかなかった。911 事件はこの政権が強硬路線を押し進める絶好の機会になったわけだ。減税をはじめとして多くの法案が議会を通過することになった。政権が誕生してしばらくたった九月ごろには、選挙公約と現実の乖離に国民は気づき始めていた。もし911 事件が発生しなかったとすれば、ブッシュ政権の手綱さばきを疑問視する世論が盛り上がっていたのではないか。

中略

有力者の顔ぶれを見ると、ワシントンで起きたことは極右によるアメリカ西部の実質的な「乗っ取り」以外の何ものでもない。

中略

ブッシュは「貴族的な家庭」の出身であるし、コネで資金を調達する「クロニー・キャピタリスト」であった。ビジネスマンとしての地位を築いたことも「親の七光り」やコネのおかげで平均的アメリカ人には夢のような話である。

中略

あと四年間、ブッシュがホワイトハウスに居ることになれば、いわゆる「ミドルクラス・アメリカ」の終焉が始まるだろう。 [P・クルーグマン「『ミドルクラス・アメリカ』の終焉が始まる」(聞き手、訳石川幸憲、中央公論2004/3)]