I  801-1000

801 長安有男児 二十心已朽 楞伽堆案前 楚辞繋肘後 人生有窮拙 日暮

聊飲酒 (+)今道已塞 何必須白首。 [李賀「贈陳商」より]

802 長安風雨夜 書客夢昌谷 怡怡中堂笑 小弟裁澗緑 家門厚重意 望我飽飢腹 労労一寸心 燈花照魚目。 [李賀「題帰夢」]

803 

*やがて、私の時代が来る。 

*《交響曲》ということばは、わたしにとっては、自分の思いどおりになるあらゆる技法上の手段によって、一つの世界を築くことを意味しています。 

*ぼくには彼(Sch¥"{o}nberg)の音楽がわからない。でも彼は若いんだ。おそらく彼は正しいんだろう。 

*交響曲は世界のようなものでなければなりません。それはすべてを抱擁せねばいけません。(シベリウスに答えて) 

*音楽における本質的なものは楽譜の中には見いだされない. 

*ぼくはもう自分自身信じはじめているのだ、ぼくの作品はわけもわからぬ無意味なものか、それともあるいは....。いや!きみ自身で補って、どっちか決めてくれたまえ!ぼく自身はもうそれには飽きてしまったんだ!(マーラー30)

 [G. マーラーの言葉]

804 神を創造したのは人間である.その肉体(その素材)は不滅であり霊魂(その形式)は有限である.そして宗教なき時代にあっては,もっとも放埒な人びとこそが,厳格な宗教体制の下ではもっとも信仰的でもっとも狂信的な人びとであるにちがいない. [B. バルトーク]

805

数ならぬ心に身をば任せねど 身に随ふは心なりけり 

暮れぬ間の身をば思はで 人の世の哀れを知るぞ 且は悲しき 

誰か世に長らへてみむ 書き留めし跡は消せぬ形見なれども 

いづくとも身をやる方の知られねば うしと見つつも長らふるかな 

年暮れて我が世ふけゆく 風の音に心のうちのすさまじきかな [紫式部集より]

806 ...五字の文を説くに二、三万言に至る。後進は弥よ以て馳逐す。故に幼童にして一芸を守り、白首にしてしかる後よくもの言ふ。その習ふ所に安んじて見ざる所を毀ち、終に以て自づから蔽ふ。これ学者の大患なり。 [漢書「芸文志」]

807 高等動物の社会行動にかんする広範な知識は、多くの人が考えるように、人と動物の違いを過小評価させるものではない。それとは反対に、私は、動物の行動に本当に通暁している者のみが、生き物の世界において人間が占めている独自な、そして高貴な位置を正当に評価しうるものだ、と主張するものである。 [ ローレンツ「人、犬にあう」 ---主人とイヌ---p87]

808 遊び,とくに,若い動物における遊びは,つねにそのなかに何かの発見をふくんでいる.遊びは,成長する生命体に特徴的なものである. [ローレンツ「人、犬にあう」---ネコの遊びについて---p198]

809 人は生まれながらにして「悪」ではないが、その身に課される文明化された社会の要求に十分こたえるほどには、善ではない。 [ローレンツ「人、犬にあう」---動物と良心---p224]

810 遅かれ早かれ運命がつきつける勘定書の支払いを恐れて,いくつかの許された,倫理的にも正当な人生の喜びを断念する人物を,私は,基本的にはなまけ者だとかんがえる. [ローレンツ「人、犬にあう」---忠範と死---p240]

811 「「人間の条件」では、まだ納得できなかった。戦争がいったいどんな構造を持っていたのかっていうことがですね。どうして一億をあげて戦争へ、のめりこんでいったのか。どのへんから、私たちが意志のない民になりさがってしまったのか。... なんかわかるようでわからんでしょう。」 

.... たとえば、なぜ対米開戦にふみ切ったのか、ですよ。当時、わたしは製鉄会社の企画部で調査マンやっとりました。ですから、日本の鉄、石炭、石油の量がずーっとわかるのです。単純な算術平均とりますとね、まるで比較にならない数字なんですね。戦争の血液といわれていた石油など、4001とか5001。わたしみたいなチンピラが知ってたんだから、当然エラい人は知ってたはずですね、それを...わからない。29年前の疑問がいまだ解けない。」 

「ふたたび戦争は起こるかって。 ..... みんなイヤだといっているって?ぼくは、社会を構成しているトップから底辺までが、ぜんぶイヤだと思っている、という見方に疑問がありますね。戦争利得者というのがいるかぎり戦争はなくならないだろうと思いますよ。なんといっても戦争は、いちばん手っとり早くもうけることのできる事業ですからねえ。そういう戦争利得者をもうけさせるために、庶民がテッポウかついで戦場へ行って死ぬ。そのバカバカしさに対する怒りが、この年になってもまだある。あるからこそ、わたしは書いているのであってね.... 

「集って酒のんで軍歌うたうヒトがいますね。あれは、おおむね前半の戦争体験者なんですよ。勝ちいくさはおもしろかったでしょう。だが、わたしどもは、とてもそんな気にはなれない。わたしは幸いに後半の、負けいくさの体験しか持っておりませんから。」 

(戦争でつかみとった「人間の条件」とは)「それは、イエスとノーをはっきりすること。わたしどもは、それをいえなかった。もし全国民的な規模でイエスとノーが、はっきりいえたなら政治家は勝手なマネはできなかった。いや、この問題はいまの問題でもあると思います。ためらって結局モノをいわずにおわるヒト。それが声なき民でしょう。それが歴史を誤ってきた最大のものではないかとボクは思うんですね。」 

「そりゃあね、長い人生のある時間にね、あんな意気地のない男がどうして、と思うほど大勇をふるうことがある。それはできるんです。ある瞬間に。しかしね、小さな勇気を毎日毎日持ちつづけるってことは...そりゃあ、むずかしいんですね。だけどその小さな勇気こそが本当の勇気なのであって...」 [ 五味川純平 朝日1970/11/21 執念  70年代の100 $¥la 6 ¥ra$ より]

812 真珠小娘下青廓 洛苑香風吹綽綽 [李賀「洛(+)真珠」より]

813 東牀巻席罷 濩落将行去 秋白遥遥空 日満門前路。 [李賀「将発」]

814 秋風吹地百草乾 華容碧影生晩寒 我当二十不得意 一心愁謝如枯蘭 .... 壷中喚天雲不開 白晝万里閑凄迷 [李賀「開愁歌」より]

815 昌谷五月稲 細青満水平 [李賀「昌谷詩」より]

816 野色浩無主 秋明空曠間。 [李賀「送韋仁実兄弟入関」より]

817 西山日没東山昏 旋風吹馬馬踏雲 畫絃素管聲浅繁 花裙萃蔡歩秋塵 桂葉刷風桂遂子 青狸哭血寒狐死 古壁彩蚪金帖尾 雨工騎入秋潭水 百年老鴞成木魅 笑聲碧火巣中起。 [李賀「神絃曲」]

818 復讐の動因は,集団または個人の持つその強さと生産性とに反比例する. [E.¥ フロム「悪について」 2 p24]

819 要するに生に対する愛好は、品位ある生活の基本的な物質条件が脅かされないという意味の$保障と、誰ひとりとして他人の目的を果たす手段とはなりえないという意味の正義と、人はそれぞれ積極的に社会の責任ある一員となる可能性をもつという意味の自由とが存在する社会で最も発達するのである。 [E. フロム「悪について」 3 p60]

Summing up, love for life will develop mot in a society where there is security in the sense that the basic material conditions for a dignified life are not threatened, {¥em justice in the sense that nobody can be an end for the purpose of another, and {¥em freedom in the sense that each man has the possibility to be an active and responsible member of society. p52-3 

820 自己のナルチシズムを克服することは人間の目的である。 [E. フロム「悪について」 4 p113] 

It is the goal of man to overcome one's narcissims. p88 

823 かれは禁煙を「決心した」が、翌日は実に気分が爽快だが、翌々日は気分がひじょうに悪く、三日目には「非社交的」と思われたくないと考え、その次の日にはタバコ白書の真偽を疑い、そしてやめる「決心」はしていたのに喫煙をつづけてしまう。この種の決定は思いつき、計画、幻想以外の何ものでもない。すなわち真の選択がなされるまでは、ほとんどあるいは全く真実であるとはいえない---決定を必要とするのはいつも具体的な行為である。 

 ---喫煙の娯みを失うより二十年寿命が短くなってもよいと信じる場合、一見選択に関する問題はないようにみえる。しかしそれは隠蔽されているにすぎない。かれの意識にのぼる考えは、たとえそれを試みても勝ち味はないという感じを合理化しているにすぎない。---選択の問題は理性の支持をうける行為と、非合理的な熱情にうごかされる行為のいずれかを選択するという問題である。---自由とは非合理的な熱情の内なる声に反抗して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力にほかならない。 [E. フロム「悪について」 6 p177-8]

He has ``decided'' to stop smoking, yet the next day he feels in too good a mood, the day after in too bad a mood, the third day he does not want to appear ``asocial,'' the following day he doubts that the health reports are correct, and so he continues smoking, although he had ``decided'' to stop. All these decisions are nothing but ideas, plans, fantasies; they have little or no reality until the real choice is made. ... It is always the concrete act which requires a decision. 

... It is the choice between an action which is dictated by reason as against an action which is dictated by irrational passion. Freedom is nothing other than the capacity to follow the voice of reason, of health, of well being, of conscience, against the voices of irrational passion. p130-1 

824 悪しきことを捨て良きことを選択する決定的要因は《意識する》にある。すなわち 

(1)善ないしは悪を構成するものを意識すること、 

(2)具体的状況において、いずれの行動が望む目的に達するにふさわしい手段であるかを意識し 

(3)外面に表出した願望の背後に存在する力を意識すること、(すなわち無意識の欲望を発見すること) 

(4)いずれを選択できるかの現実的可能性を意識すること、 

(5)選択の結果を意識すること、 

(6)自分の熱情に逆行する行為から必然的に生ずる欲求不満の苦痛に絶える準備をともなわなければ意味のないということを意識すること、 

(7)無意識的な力をかくす合理化を自覚する必要がある、 

もう一つ重要な意識が必要である。それは 

(8)真の選択がいつ行われるかを識り、択一しうる真の可能性は何かを意識することである。 [E. フロム「悪について」 6 p179-81]

the decisive factor in choosing the better rather than the worse lies in {¥em awareness}. (1) awareness of what constitutes good or evil; (2) which action in the concrete situation is an appropriate means to the desired end. (3) awareness of the force behind the apparent wish; that means the discovery of {¥em unconscious desires; (4) awareness of the real possibilities between which one can choose; (5) awareness of the consequences of the one choice as against the other; (6) awareness of the fact that awareness as such is not effective unless it is accompanied by the {¥em will to act, but the readiness to suffer the pain of frutration that necessarily results from an action contrary to one's passion. p132-3 

825 「自由」という事実があるわけではない。選択が行われる過程において、自己を自由にするという行為が存在するだけである。 [E. フロム「悪について」 6 p184]

Freedom is not a constant attribute which we either ``have'' or ``have not.'' In fact, there is no such thing as ``freedom'' expect as a word and an abstract concept. There is only on reality: the {¥em act of freeing ourselves in the process of making choices. p136 

826 われわれは,不屈の精神と意識性とを持ちうれば,選択のための択一を所有する.自由の獲得は困難である,多くの人間が失敗するのはそのためである. [E. フロム「悪について」 6 p197]

827 もし人が生に無関心になれば、その人は善を選択しうる希望はもはやないのである。 [E. フロム「悪について」 6 p205]

If man becomes indifferent to life there is no longer any hope that he can choose the good. p150 

828 伝統的な思考の価値を軽んじる若い世代のために、私は最もラディカルな発展でさえ、過去との連続を持たなければならないし、人間精神の最高の達成を捨て去ることによって進歩することはできない---そして若いだけがすべてではない!---という私の所信を強調しておこう。 [E. フロム「希望の革命」 はしがき p8]

829 カーシャパよ、自我があるというならば、これは一つの極端論である。無我というならば、これももう一つの極端論である。有我と無我との中正は、形をもたないもの、見られないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基体のないもの、名づけられないものである。カーシャパよ、このことが中道であり、存在についての真実の観察である。 [ 宝積経  (57 ]

830 カーシャパよ,あるということ,これは一つの極端論であり,無いと言うこと,これももう一つの極端論である. [宝積経 (60 ]

831 カーシャパよ、その場合、悟りと迷いは二つのものではなく、二つに区別されるべきものではない。 [宝積経 (61 ]

832 まことに,カーシャパよ,もしある人々が空性という観念をつくり,その空性に帰依するならば,カーシャパよ,わたくしは彼らをこの教えにそむき,破壊する者とよぼう. [宝積経 (64 ]

833 世尊が仰せられた。---カーシャパよ、それと同じように、観念に固執する者をすべて(自由な境地へ)超越させるのが空性である、しかし、カーシャパよ、もしその空性の観念に固執する者があるならば、彼こそはいやすことのできないものと私はよぶ。 [宝積経 (65 ]

834 彼(リーマン)は「物理学的に意味を持つ」ような問題は「数学的にも意味を持つ」であろうと確信していたのである。 [C. リード「ヒルベルト」 9. p125 ]

835 若干意外にも,ヒルベルトは教育学にかなりの関心を持っていた.彼は普通の学生の能力についてあまり高い評価は持っていず,同じ異をくり返し耳に入れない限り,大したことは頭に入らないものと考えていた.「5回だ,ヘルマン,5回だ!」とは若いワイルが教壇に立ちはじめた時に彼が与えた忘れがたい忠告であった.「計算は掛け算表の一番易しいもののレヴェルを越えてはいけない」そして「一番簡単な例から始めよ」 --- これらも彼の気に入りのルールだった. [C. リード「ヒルベルト」 13. p197 ]

836 当時の化学は,ヒルベルトによれば,「女子高校の料理のクラスのような」ものであった. [C. リード「ヒルベルト」 16. p243 ]

837 「私にとって表現と形式は,ほとんど知識それ自体にもまして意味をもちます」と彼(ワイル)はいっている. [C. リード「ヒルベルト」 19. p301 ]

838 「私が数学で何事かをなしとげ得たわけは、」とある時ヒルベルトはハロルド・ボーアにいった、「実は、数学が私にとっていつも実に難しかったからなのですよ。何か読んだり、何かについて聞かされたりすると、ほとんどいつもそれを理解することが難しく、実際不可能だったので、何とかもっとことが簡単にならないものかと思わないわけにはいかなかったのです。そうして、」と彼は、まだ子供らしさの残っている笑顔を見せて続けた、「時によって、それが実際もっと簡単だということがわかったわけです!」 [C. リード「ヒルベルト」 20. p316 ]

839 「ふつう,彼は新しく学習していることを,講義の題材として用いようとしました」とノルドハイムはいっている.「彼は人の話を理解するのは苦手なタイプでした.いつでも,自分の頭の中で理論を再構成してみなければ始まらなかったのです.それが,彼にとって唯一つの,理論を理解するための方法だったようです.それで,新しい理論が展開されていることを知ると,彼はそれについて講義を準備しようとしたわけです.」 [C. リード「ヒルベルト」 21. p341 ]

840 なぜなら、いかなる限界も、それがとりわけ国家的なものである場合、数学の本質とは相矛盾するものだからであります。 [C. リード「ヒルベルト」 21. p356 ボローニャにおける国際数学者会議で ]

841 パリで、彼は「市井の人々」という表現を使い、完全に構築された数学の理論は、いつでもそうした人々に説明して分かってもらえるようなものでなければならないと主張した。 [C. リード「ヒルベルト」 22. p365 ]

842 Wir m¥"{u}ssen wissen. Wir werden wissen. [C. リード「ヒルベルト」 22. p371 ケーニヒスベルグでのラジオ放送の結語]

843 受動的に待つことが絶望と無力の偽装である一方、これと正反対の偽装---スローガン作りや冒険主義、現実の無視、通すことのできないことを無理に押し通そうとするやり方---をする別な形の絶望がある。 [ E. フロム「希望の革命」  第2章  p22]

844 弱い希望しかもたない人の落ちつくところは太平楽が暴力である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章  p24]

845 それ(=信念)はまだ証明されてないことを信じることであり、真の可能性を知ることであり、はらまれているものに気づくことである。 [E. フロム「希望の革命」 第2章  p29]

846 信念は希望と同じように、未来の予言ではなく、未来をはらむ現在の洞察である。  [E. フロム「希望の革命」 第2章  p29]

847 不屈の精神とは世間が《イエス》という答えを望んでいる時に《ノー》と言う能力である。 [E. フロム「希望の革命」 第2章  p32]

848  あらゆる瞬間がより良い、あるいはより悪い方向へ向かう決定的瞬間である  [E. フロム「希望の革命」 第2章  p34]

849 もし人が希望の挫折を経験しなかったら,どうして彼の希望が強固な抑えることのできないものとなりえよう. [E. フロム「希望の革命」 第2章  p39]

850 論理的思考は、それが単に論理的であるにとどまるなら、合理的とは言えない。 [E. フロム「希望の革命」 第2章  p68]

851 理性の源泉は、合理的な思考と感情の融合である。  [E. フロム「希望の革命」 第2章  p68]

852 人間がその歴史において自分の中に生み出したあらゆる感情のうち,ひたすら人間的であるという性質の純度において,思いやりにまさるものはおそらくないだろう.。 [E. フロム「希望の革命」 第4章  p122]

853 合成研究はかなりの美学的、文化的、芸術的要素をもっており、これらの要素が、私がビタミンB$_{12}$の合成を る決心をする上で、非常に決定的でした。 [Woodward,``Herr Woodward bedauert, dass die Sache fertig ist'' Nachr Chem Techn 20, 147 (1972)]

854 人間の声が大衆集会の騒音とあらあらしい命令によって完全にかき消されてしまうような時代、鎖につながれていることを悟らせないように、誰にも一瞬たりとも放任をゆるさないような時代、どんな人にも静かに生活し、自分を見つめ、はっきりと自己を意識することをゆるさない時代、そして、人類が目的もわからずに前進につぐ前進を開始する時代が現代なのだ。 [ E. レーデラー「大衆の国家」第三章 p90]

855 夢が現代文明の審判の中で辿った道はいっそう悪かった.まるっきり意味のないもので,大人が注意するに値しないものと考えられた.そしてその大人たちは,機械建造などという重要なことに忙しく,自分たちが征服したり操縦したりすることのできる事柄の現実性だけしか見なかったために,「現実的」と自ら称したのである.彼らは,自動車の型を呼ぶ言葉は一つ一つもってはいるが,最も多種多様な感情経験を表現するには,ただ「愛」という一語しか知らないリアリストだったのだ. [ E. フロム「夢の精神分析 」 序論p14]

856 夢も神話もともに、われわれ自身からわれわれ自身に送る重要な通信である。そこに書かれていることばを理解しないならば、われわれが外界を操ることに忙殺されていない時に知っており、かつ自分自身に語っている多くのことを見逃すことになるのである。 [E. フロム「夢の精神分析」 序論  p16]

857 愚かものよ、全部より半分のほうがいかばかり大であるかを知らぬ、またはじかみやしゃぐまゆりにも、いかばかりに大なる祝福がかくされているかも知らぬ。 [ヘシオドス「仕事と日々」 40-41 ]

858 「私はその歌を聞き、皆目解らぬアラビヤ語に耳を傾けた。そして、これこそ、例え全人生を費やすものであろうとも、私が究極まで余すことなく追究すべきものであることを悟ったのだった。」 [  A. ファセット「バルトーク晩年の悲劇」  I p9 バルトークのことば]

859 「新しくしかも意義あるものはすべて古い根に接木されたものでなくてはならないんだ。それはたんに生きながらえているというにすぎない根の中から、細心の注意をもって選ばれた、真に生命力に充ちた根なんだ。たんに生きながらえているにすぎない無駄と、前進していく生命力とをふるいわけるには、どんなに緩慢で微細な過程をとらねばならないことか!しかし、それのみが進歩を完遂する唯一の道なのだ、」 [ A. ファセット「バルトーク晩年の悲劇」 IX p120 バルトークのことば]

860 「自分以外の大地の子どもたちを受け入れる余裕があるということは真の文明を表す一つの重要な徴なんだ。」 [ A. ファセット「バルトーク晩年の悲劇」 XXI p286 バルトークのことば]

861 「しかしながら、地図上で後退したり前進したりして変わる国境線が新しいものであろうと、古いものであろうと、夏には緑に、冬には白い、あの広い土地に花粉や種子を楽々と運びつづけ、何世紀にもわたって歌を送りつづけているあの風に対する防御柵をうちたてることはできなかったのだよ。」 [ A. ファセット「バルトーク晩年の悲劇」 XXV p346 バルトークのことば]

862 「自分の辿るべき道を探す過程で、私は一つのことを信じるに到った。完全に古いものからのみ完全に新しいものが生まれる。その両者の間に生じるあらゆる夾雑物は、十字路のたくさんの岐れ道で行く手に立ちはだかる障害物にすぎないのだ。」 [ A. ファセット「バルトーク晩年の悲劇」 XXVI p360 バルトークのことば]

863 

 数は思惟の始めであり終わりである。 

 数は思考とともに生まれた。 

 思考は数を超越することはできない。 [ミッターク・レフレル]

864 自分の能力に無理強いしようとしてもよい仕事ができるものではなく、わたしは自分の頭脳が指向するところに逆らわなくてよかったと思う。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 序 pv]

865 私の思想を一言でいうならば,厳格な理性によって証明されたと思えない事柄にはすべて最大級の懐疑をもって接することになろうか. [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 序 p ix]

866 確率論は発見的推論にとっては最適のものである。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 第1部 IV章 p125]

869  私は何等かの形の直観を持たないで偉大なことが為されるとは思わない。でたらめに石を積み上げても家は建てられない。同様に、でたらめに選んだ簡単な論理演算を次々と続けた所で科学的理論は打ち立てられない。どうしても指導的なアイディア、はじめの計画がなければならない。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 第1部 V章 p155]

870 人間は、一つの宗教を選ぶにせよ、すべての宗教を斥けるにせよ、何としても自分の理性を用いなければならない。私はためらわなかった。そして後者の道をとった。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 第2部 IV章 p183]

871 四則演算や、小数、分数、比例算、それに幾何学の初歩を学ばなければならない年齢の子供たちに集合論の話をすることは馬鹿げている。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 註 pv]

872 読者をカトリックに導くために恐怖を用いようとしたPascalは真のキリスト教徒の精神状態からはほど遠いように思われる。私はしばしば思うのであるが、神は、もし存在するならば、Pascalの霊魂を出頭させて申し渡したであろう。予は人間を愛によって引きつけようと思った。予は善意と慈悲の神であり、地獄をこしらえようと思ったことはない。地獄を考え出した者は予を中傷する者である、予はそれらの者の言を認めないし、汝の言も認めない。汝は地獄を信じ、人々を恐怖によって予が許に導こうとしたゆえである。しかし、予は汝を罰するためにすら汝が考え出したあの地獄をこしらえるつもりはない。汝は、汝がどのみち運命づけられている虚無に戻れと。 [P. L¥'{e}vy「一確率論研究者の回想」 註 p195]

873 人間が人間である以上、もとより素質において敵味方に大差はない、しかし厳格無比の克己訓練で鍛えられたものこそ最後の勝利者たることを疑わない。 [ トゥーキュディデース「戦史」 I (84) p33]

874 Bernard Shawのことばでいえば、〈生物学的必然は尊敬に価いしなけらばならない〉のである。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第1章 p27]

875 一般的傾向として、ある能力テストに高い点数をとる人は、また別の型のテストすべてにおいても平均以上の能力を示す。このことはまさに人間の一般的性向である。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第3章 p70]

876 その個人が、自分のもっている素質を十二分に発揮するためには、優位に立ちたいというある種の動因がなければならない。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第3章 p73]

877 Whiteは非常に示唆に富んだ結論をしたが、それによると、偉大なキリスト教の聖人たちのなかでは、アッシジの聖フランシスコだけが、単にその個人のためばかりでなく種としての人間のために、謙遜の価値を説いたという。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第3章 p78]

878 ヒトを定義づけるのに,道具を作る動物であるというのは,婉曲ないい回しである.武器は道具以前に存在し,その道具の最も重要な使用法は,つねによりよい武器を製作することにあったのである. [M. バーネット「人間という名の支配者」 第4章 p87]

879  私は,淘汰の圧力が作用したと思われる唯一の道筋は,知能をつかって新しい方法を考案し,自分よりも知能の劣ったものを殺してきたことにあると考えている. [M. バーネット「人間という名の支配者」 第4章 p95]

880 概念的洞察力がなんらかでも形成される以前に、胎児や赤ん坊を苦痛なくとりのぞくことは、反社会的ではないのである。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第6章 p141]

881 自分の利益になり、見つからないと思う場合、多くの人が反社会的行動にでることは、疑問の余地がない。 [M. バーネット「人間という名の支配者」 第8章 p179]

882 憎悪,愛,誠実,不信等々が「善」であるかそれとも「悪」であるかという問いは,こうした全体のシステム機能を全く知らなくても立てられるが,それはちょうど甲状腺が善いか悪いかたずねるのと同じくらい馬鹿げている.このような機能を善悪にわけることができるという一般に通用している観念,愛や誠意や信頼はそれ自体善であり,憎しみや不誠実や不信がそれ自体悪であるという考え方は,私たちの社会では一般に善の不足と悪の過剰が支配しているということから発している.  [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第1章 p15 ]

883 もしも自分のまわりに人工の物,しかもひじょうに安っぽく醜悪な人造品しかみられなくなったなら,次代をになう人間たちは,どこから畏敬の念を手にいれればよいのだろう.  [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第3章 p31 ]

884 人間は不幸にも,自分の種の外にある環境のあらゆる力を支配することを学んだが,自分自身についてはあまりわずかしか知らなかったために,種内淘汰の悪魔的はたらきをどうしようもなくほっぽらかしにしてきたのである.  [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第4章 p36 ]

885 自分自身の種の今後の進化を決定する唯一の淘汰要因としての人間は、残念ながら捕食獣ほどには無害ではない。おそらく人間はもっとも危険な捕食獣かもしれない。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第四章 p37 ]

886 悲しみから遠ざかろうとすることは人生の本質的な部分を避けることである. [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第四章 p52 ]

887 さまざまな文化の法の構造はこまかい点にいたるまで一致しており、それが文化史との関連では説明しえないことが、比較研究によって示されている。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第六章 p59 ]

888 特異的な淘汰がなくなったときに社会的な行動様式の荒廃がどんなに速くはじまるかは、家畜についても、捕らえて増やし続けた野生種についても知られている。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第六章 p69 ]

889 幼児性は人間のもっとも本質的でもっとも不可欠な,かつもっとも高尚な意味で人間らしい特徴である. [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第六章 p71 ]

890 私たちは,個人に対する分別に富んだヒューマニティーと人類共同体に必要なことの配慮とを結合することを学ばねばなるまい.特定の社会的行動様式を欠き,同時にそれにともなう感情をおさえる能力を欠いた個人個人は,たしかに私たちの深い同情に値するあわれな病人であるけれども欠損自体は悪そのものである. [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第六章 p74]

891 二人の人間のあいだの自然の順位の存在は、あらゆるあたたかい感情を抑圧する障害物だと説明することは、えせ民主主義的な教義のもっとも大きな犯罪のひとつである。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第七章 p89 ]

892 大自然科学者で精神科学に対する大毒舌家であったわが師オスカール・ハインロートは,よくこういったものだった.「人間の考えることはだいたい間違っているが,知っていることは正しい」 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第8章 p95 ]

893 人間は誰でも等しく成長する権利があるということは、疑いようのない倫理的な真理である。けれどもこの真理は、あらゆる人間がもともと等価であるという偽りに歪曲されやすい。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第八章 p106 ]

894 (種としての人類を破滅させる恐れのある八つの過程は) 

第一に、地上の人口過剰である。 

第二に、自然の生活空間の荒廃である。 

第三に、人間どうしの競争である。 

第四に、虚弱化による豊かな感性や情熱の萎縮である。 

第五に、遺伝的な衰弱である。 

第六に、伝統の崩壊である。 

第七に、人類の教化されやすさの増加である。 

第八に、核兵器をもった人類の軍拡が、人類に危機を引き起こしている。 

えせ民主主義的な教義は七番目までの人間喪失の過程を促進している。 [K. ローレンツ「文明化した人間の八つの罪」 第10章 p125 ]

895 もし人間というサルに何か形容詞をつけるなら,「累積的伝統をもったサル」といわねばならないからです.まさに累積的伝統をもつことこそ,人間に特徴的なことですからね. [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p132 ]

896 完全に障害のないということは,乗りこれられぬ障害よりずっと危険なものだと私は思っています. [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p143 ]

897  私は、美、善、正義の評価はすべて同じ器官によってなされるのだと思っています。美的な評価と倫理的評価とを分けることはできないと思っています。社会的な調和、生態学的な調和、音楽的な調和は、共通の基盤をもっているのです。 [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p146 ]

898 ラウドスピーカーはニュアンスを伝えることがまったくできません。大衆を教化する競争で科学者が不利なのはこのためです。なぜなら、真理は単純ではないからです。 [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p150 ]

899 ユーモアは民主主義的社会で不可欠な機能を持っているのです. [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p158 ]

900 神?宗教的な信仰で私を妨げるのは、牧師たちが神とあまりにも親密な関係にある、ということです。私からみれば、神とそんなに親密であることは冒涜です。神は、一個の個人ではありません、神がもし存在するのなら、神はどこにでも、おそらくは、私のなかにもいるはずです。 [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p159-60 ]

901 美を評価することは、生物的自然を研究するための条件のひとつです。なぜなら、もし動物たちの美しさを楽しいと感じなかったら、彼らの行動の法則を見出すまでの長いあいだ彼らをじっと眺めている根気など湧いてくるはずがないでしょう。 [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p160 ]

902 私は内的な力の存在を示そうとしました。人間がそれを制御するためには、それを知らなければならないからです。自分の乗っている馬を知らなくともよいのですか? [K. ローレンツ「ローレンツは語る」 p162 ]

903 どちらかといえば奇妙なことですが,ノイズを系統的な結果 ---これをわれわれはシグナルと呼んでいます--- からいかに効果的に分離するかは学問が物理学からどれだけ離れているかの距離に逆比例するように思われます. [F.¥ ホイル「人間と銀河と」 1 p10]

904  憎むとか怒るとか呪うとかいうことは、瞬間にあらわれる。けれども、愛するとか信じるということは、どんな俳優の肉体が器用にできていても、瞬間にはあらわせない。退屈なくらいの時間がいる。そして、その時間にたえられた俳優が愛を演じたということになる。 [ 尾崎宏次「映画「大樹のうた」を見る」 図書 294, 43 (1974)] 

905  数学的な美を備えた理論の方がいくつかの数学的データと合う醜い理論より正しいことがより尤もらしい。 [P A M Dirac, ``Can Equation of Motion be Used in High-Energy Physics?'' Physics Today 23}(4), 29 (1970) ]

A theory with mathematical beauty is more likely to be correct than an ugly one that fits some mathematical data. 

906 我々は物理の一体性を信じる。 [P A M Dirac, ``Can Equation of Motion be Used in High-Energy Physics?'' Physics

Today 23}(4), 29 (1970) ]

We believe in the unity of physics. 

907 野生のラットを家畜化している間に、副腎機能から性腺機能へ、危険に対処することから交尾へとの転換が起こっているように思われる. [J. グレイ「恐怖とストレス」 4恐怖の遺伝 p87 ]

908

 太陽が今日も昇った。 

 太陽は言う、 

 生まれる者はいでよ、 

 死ぬる者は死ね、 

 病む者は病め、 

 治る者は治れと。 [ 西田利貞「精霊の子供たち」p44 トングェの古老の朝のつぶやき]

909 科学は、人間に自然を支配する過度の力を附与することによって、人間性を危険にさらすとしばしば告発される。この非難は、科学者が人間を彼らの研究の対象にふくめなかったという罪を犯す場合にのみ正当化されるであろう。 [K. ローレンツ「儀式化された闘争」 攻撃性の自然誌 p94 ]

910 普通の飼育下の条件で、肉体的・社会的空間が不自然に限定されているときには、致命的な攻撃性が起こってくるということは周知の事実である。 [K R L ホール「サルおよび類人猿社会における攻撃性」 攻撃性の自然誌 p106]

911 人間の破壊性と残忍性の極端な本性は,人類を行動の面で他の動物と区別する主要な特徴である. [D.¥ フリーマン「人類学的観点より見た人類の攻撃性」攻撃性の自然誌 p199]

912 人間の攻撃性は,ホモ・サピエンスに特徴的な独断的で妄想的な集団イデオロギーに奉仕する時が一番おそろしいものである.曰く「真理が真理を殺す時,おお,あやしくも神聖な闘争!」  [D.¥ フリーマン「人類学的観点より見た人類の攻撃性」攻撃性の自然誌 p199]

913 機械的創意と道徳的後進性の不一致が、人類にとって致命的であるのは周知のことであって、 技術水準は、最も天賦の才ある発明者の業績で決定されるのに、倫理的水準は、最も慈愛ある人によって左右されるよりも、その逆の人々によって左右される という事実と関連するのである。 [ S アンドレスキー「戦争の起源」 攻撃性の自然誌 p230 ]

914 命令を下すことのできる地位が自由競争に付されると、怠惰な者、無能者は、それを手に入れる機会はまずない。また優しい者達、謙遜な人達も見込みがない、その一方血にうえた狂人は相当に権力に近付く可能性があるのだ。 [ S アンドレスキー「戦争の起源」 攻撃性の自然誌 p231 ]

915 態度を決定することは我々全てにとって重荷であって,これが,我々が自分たちの社会の決定を下す者に高い経済的報酬をもって報いることの理由である. [A ストーア「戦争に代わりうるもの」 攻撃性の自然誌 p239 ]

916 我々が、攻撃性を除けるという考えはナンセンスだと思う。我々が知っている集団における人の行動のすべてが、この概念と矛盾するのであるから。紛争の原因のないコミュニティーを発見しようとさまざまな試みが為されたが、紛争は常に侵入してきたのである。そして紛争が少ない所では、その紛争は最も破壊的である。 [A ストーア「戦争に代わりうるもの」 攻撃性の自然誌 p241]

917 人々を観察するにつれて、私は攻撃性が実際に危険となるのは、それが圧さえられたり、放っておかれたりした場合である。自分の権利を主張できる人は、めったに悪くならないのであり、人の背を刺すのは、ほとんど弱者なのである。 [A ストーア「戦争に代わりうるもの」 攻撃性の自然誌 p242 ]

918 攻撃と創造は手に手をとって進む。ベルナール=ベルンセンのいうように、天才とは、人のトレーニングに対する生産的な反抗の能力である。 [A ストーア「戦争に代わりうるもの」 攻撃性の自然誌 p243 ]

919 無心ノ上ノ妙用、皆カクノ如シ。日ノ暖ニシテ霜ヲケシ、月ノ明ニシテ水ニ浮ガ如シ。何ゾ必シモ心アラン。無心ノ故ニ成ズトイウコトナク、遍ゼズトイフ事ナシ。モシ心アルナラバ、限アリテ平等ナラジ。 [ 無住「沙石集」巻第二 (9)菩薩代受苦ノ事]

920 イク族は、われわれが誇らしげに言い立てている人間の価値など、少しも人間に生まれつきそなわったものではなく、ただ社会と呼ばれる特別な生存形式とむすびついてはじめて意義が生じるものであり、そして、そんなものはすべて、社会そのものでさえ、なしですませることのできる贅沢物にすぎないということを教えてくれている。しかし,だからといって、そうしたもののすばらしさや望ましさがいささかなりとも減少するわけではなく、もし人間の偉大さというものがすこしでもあるなら、それは疑いもなく、そうした価値を保持する能力が人間にはそなわっていて、しばしばにがい結末を迎えるまで、それを固守しつづけ、ときには、自己の人間性を犠牲にするくらいなら、もともと哀れにも短い生命をさらに縮めることさえいとわない、というところに存在する。 しかし、これまた必然的に選択をともなうことであって、人間はその選択の意志を失うこともあると、イク族が教えてくれている。そして人間がそれを失うところで、真実も、善も、美も終わりを告げるのである。それはまた、個人に生命を与えると同時に社会にも力を与える、人間性成就のための戦いの終わりでもある。 [C. ターンブル「ブリンジ・ヌガグ」 第12章 今日の世界]

921 佛は常にいませども,現ならぬぞあはれなる,人の音せぬ暁に,ほのかに夢に見えたまふ. [ 梁塵秘抄  巻第二 佛哥廿四首 26]

922 釈迦の御法は唯一つ、一味の雨にぞ似たりける、三草二木は品々に花咲き実なるぞあはれなる。 [梁塵秘抄 巻第三 薬草喩品四首 76]

923 我等は薄地の凡夫なり、善根勧むる道知らず、一味の雨に潤ひて、などか仏にならざらん。 [梁塵秘抄 巻第三 薬草喩品四首 82]

924 二乗高原陸地には,仏性蓮花も咲かざりき,泥水堀りえて後よりぞ妙法蓮華は開けける.  [梁塵秘抄 巻第三 法師品十首  101]

925 龍女は仏に成りにけり、などか我等もならざらん、五障の雲こそ厚くとも、如来月輪隠されじ。 [梁塵秘抄 巻第三 法師品七首 101]

926 佛も昔は人なりき,我等も終には佛なり,三身仏性具せる身と,知らざりけるこそあはれなれ. [梁塵秘抄 巻第三 雑法文哥五十首 232]

927 暁静かに寝覚して、思へば涙ぞおさへあへぬ、はかなく此の世を過ぐしても、いつかは浄土へ参るべき。 [梁塵秘抄 巻第三 雑法文哥五十首 238]

928 月も月立つ毎に若きかな、つくづく老をする我が身何なるらむ。 [梁塵秘抄 巻第三 二句神哥 449]

929 南無阿弥陀仏の御手に懸くる糸の,終乱れぬ心ともがな. [梁塵秘抄 巻第三 二句神哥 493]

930 僕には表現方法の選択の自由がそのままみのり多い新天地に通ずるかどうかよくわからない。一見すると、たしかに自由であるほど可能性がゆたかになり、多様化するように思われているようだ。しかし、僕にとって科学よりは身近な芸術に対して、実際そういうことはみとめられないのだ。---中略---この表現内容と表現方法の制約との間の相互作用、あるいは戦いと呼んでもよいが、それは本当の芸術が生まれるために不可避な前提であるように僕には思える。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」II p31 友人ワルターのことば]

I don’t really know whether ‘freedom of expression’ and `promising virgin soil’ are necessarily the same thing. At first sight it admittedly looks as if greater freedom must necessarily mean enrichment, wider possibilities; but this I know to be untrue in art, with which I am more familiar than with science. This interplay of, if you like, this struggle between the expressible content and the limitations of the expressive medium is, I think, a sine qua non of the emergence of real art. [W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 2. p 19]

931 ニュートンや、君が言及したファラデーでの決定的な一歩は、どちらも新しい問題設定と、その結果としての新しい明確な概念構成にあった。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」III p54 パウリのことば]

The decisive steps of Newton and Faraday were, in each case, their new way of asking questions and of formulating concepts by which the correct answers could be obtained. [W. Heisenberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 3. p 32; Pauli said]

932 しかし原理的な観点からは,観測可能な量だけをもとにしてある理論を作ろうというのは,完全にまちがっています.なぜなら実際は正にその逆だからです.理論があってはじめて,何を人が観測できるかということが決まります. [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」V p104 アインシュタインのことば]

But on principle, it is quite wrong to try founding a theory on observable magnitudes alone. In reality the very opposite happens. It is the theory which decides what we can observe. [W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 5. p 63; Einstein said]

933 実験による検証ということは,もちろん一つの理論の正しさに対するごくtrivialな前提であります.しかし,人は決して全てを検証してみせることはできません. [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」V p113 アインシュタインのことば]

Control by experiment is, of course, an essential prerequisite of the validity of any theory. But one can’t possibly test everything. [W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 5. p 69; Einstein said]

934 もし人が真面目ならば---そしてそのことは自然科学者として何と言ってもまず第一にそうあるべきことだが---実際には何の根拠もないようなただ誤った主張だけが、宗教の中では述べられているということをみとめるに違いない。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」VII p138 ディラックのことば]

If we are honest—and scientists have to be—we must admit that religion is a jumble of false assertions, with no basis in reality. [W. Hiesenberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 7. p85; Dirac said]

935 自然は理解され得るように作られているというのが私の確信であった。あるいは、 より正しくはわれわれの思考能力は自然を理解し得るように作られていると逆に言うべきだろう 。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」VIII p164]

nature, I was certain, is made to be understood, or, rather, our thought is made to understand nature. W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 8. p101]

936 .... ポール(Dirac)はいった.「人は一度にたったひとつの困難しか決して解くことができない」 それに対して私はまさに正反対の表現をした.「人は決してただ一つの困難だけを解決することはできない.人は多くの困難を一度に解決することをつねにきょうせいされている」と. [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」VIII p164]

whereas Paul argued that one can never solve more than one difficulty at a time, I contented that one can never overcome an isolated difficulty, but must always surmount several at once. [W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 8. p 102]

937 ニールスは次のように言うのが常であった、「正しい主張の反対は誤った主張である。しかし深遠なる真理の反対もまた、深遠なる真理でありうる」と。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」VIII p165]

an oft-repeated dictum of Nield Bohr: “The opposite of a correct statement is a false statement. But the opposite of a profound trut may well be another profound truth.” [W. Heseinberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 8. p 102]

938 自然科学では、よいそして実りのある革命は、まずある狭い輪郭のはっきりした問題をとくことに限ったときに、しかも最小限の変更にとどめるよう努力したときにだけ、ただそのときだけ遂行され得ます。---中略---ひとつの重要な目標に限定し、そしてできるだけ小部分の変更にとどめることこそが問題なのです。それでも、どうしても変えねばならなかったそのわずかなものが、あとになると、変化を起こさせる力を持つようになってほとんどすべての生活様式が自然に変形されるようになるのです。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」XII p238]

only those revolutios in science will prove fruitful and beneficial whose instigators try to change as little as possible and limit themselves to the solution of a particular and clearly defined problem. what matters is to confine oneself to a single, important objective and to change as little of the rest as possible. The small part we have to change may well have so great a transforming force that it may affect all forms of life without any further effort on our part. [W. Heisenberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 12. p148]

939 なぜメタという接頭辞が論理学や数学のような概念の前にしかおくことが許されなくて物理学という概念の前にはなぜ置いてはいけないのかが僕にはよく理解できない. [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」XVII p337]

I could see no reason why the prefix ‘meta’ should be reserved for logic and mathematics and why it was anathema in physics. [W. Heisenberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 17 p210]

940 “専門家とはなんであるかと僕はたずねたい。おそらく多くの人は専門家とは、その対象とする部門について非常に多くの知識を持っている人のことであると答えるだろう。しかし僕は、この定義を承認したくない。なぜなら人は元来一つの領域について多くのことを知ることは決してできないからだ。僕はむしろ次のように表現したいと思う。 専門家とは、その専門とする部門において起こりうる最も重大な間違いのいくつかを知っており 、だからいかにすればそれを避けられるかがわかる人であると。 [ W. ハイゼンベルク「部分と全体」XVII p337]

Take the question ‘What is an expert?’ Many people will tell you that an expert is someone who knows a great deal about his subject. To this I would object that no one can ever know great deal about his subject. I would much prefer that following definition: an expert is someone who knows some of the worst mistakes that can be made in his subject, and how to avoid them. [W. Heisenberg, Physics ad Beyond (translated by A. J. Pomerans, Harper & Row, 1971) 17, p210]

941 人間の社会は、攻撃性をあらかじめきまったチャンネルに沿って流すための強制的メカニズムだと私は思っています。 [R I Evans 「ローレンツとの対話」 自然1974(10) p42 ]

942 性行動の繊細で,感受性に富み,社会的にもっとも重要な上部構造をポルノが消滅させてしまうのではないかと思うのです.---中略--- 家畜された動物では性行動のそういう繊細な上部構造が,まさに都市化された人間と同様に,消失してゆく傾向があります. [R I Evans 「ローレンツとの対話」 自然1974(10) p43 ]

943 もし攻撃をひきおこす要素をすべて除去することによって、非攻撃的な子供ができたとしたら、それは驚くでしょう。このちがいがおわかりになりますか?多くの実験で示されているように、何でも許される、フラストレーションのない環境で育った子供はたいへん攻撃的です。 [R I Evans 「ローレンツとの対話」 自然1974(10) p44 ]

944 わたしがこの書の中で主張したいことは、攻撃的行動と愛他的行動とは系統史的上の適応の結果、前もってきまったプログラムとして生まれつき組み込まれているものであり、したがってわれわれの倫理的行動にはその下絵となる規範が存在すると言うことである。 [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 I p8]

945 人が過度に攻撃的になることはごくふつうにあるけれど,友情が過度になることはまれである. [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 I p12 原注1]

946 人間の発達には感じやすい時期があって,この時期に一定の倫理的,美的な基本態度が刷り込まれるように定まる. [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 II p41]

947 武器の発明よりもいっそう重大だと思われるのは,敵を悪魔のような存在だと見なすことのできる能力である.人間は高度に発達した知性のおかげで,敵を人間ではなく,せいぜい動物か危険きわまりない人でなしだと信じこむことができる. [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 IV 143-4]

948 戦争の宣伝に使われる莫大な費用などは.人間が実は他人との接触をの臣,ある程度まではどんな人間に対しても攻撃を抑制されているからこそ必要なのだって,さもなければいらないものであろう. [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 IV 144]

949 この攻撃抑制のしくみが文化的上部構造として作られたものではないという事実の中に、われわれの大きな希望がひそんでいる。 [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 VI p146]

950 愛は雌雄の性のうちに根ざしているのではないが、きずなを二次的に強めるために性を利用するのである。 [ アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 VII p184]

951 もし文章ずくめのようだと、それは近づきがたい、説教めいた様相を呈するだろう。また、1ページに記号が一杯で計算だらけのように見えれば、威嚇的でゴタゴタした様相を呈するだろう。中庸が肝心である。[ P Halmos 「数学の書き方 II」 科学 44 (1974) p510]

952 大きな一般論は、往々にして、小さいながらも深い明察の結果がもとになって、あとから思いつくものだし、その明察は、また具体的な特殊な場合から生ずるものである。 [ P Halmos 「数学の書き方 I」 科学 44 (1974) p429]

953 大冊の本を書く唯一の方法は、その小部分を、毎日、例外なくコツコツと休日なしに書き続けることである。 [ P Halmos 「数学の書き方 I」 科学 44 (1974) p431]

954 以上要するに、イエスを革命家とみなす歴史家たちと、それに反対してイエスを精神の変革者とみなそうとする聖書学者たちとは、共に政治と宗教を二つの異なった領域に区別する近代的発想から自由になっていない。これでは、イエスを古代の歴史的文脈の中に位置づけることは不可能ではなかろうか。 [荒井献「イエスとその時代」 I p24 ]

955 私どもはここで、イエスが当時の価値を転倒せしめる存在として社会の各層に受容されていたことを、はっきりと確認しておこう。 [荒井献「イエスとその時代」 IV p123 ]

956 イエスは、彼のまわりに集まってきた人々に対して、彼らが再び律法によりかかり、自己を、あるいは自己の所属する共同体をいかなる意味においても絶対化することのないように、現代風に言えば、彼らを「党派性の論理」から自由にするために、誓と復讐を禁じ、敵愛の命題を提示したのである。イエスにとって重要なことは、いかなる権威にも頼ることなく、一人立ち、醒めた眼で現実を見すえ、然りを然りと言い、否を否と言い切ることであった。 [荒井献「イエスとその時代」 V p144 ]

957 「人の子」とは---当時のアラム語のガリラヤ 地方における用語法に即して言えば---「私」の婉曲的表現でる。 [荒井献「イエスとその時代」 V p149 ]

958 イエスはこの言葉(「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」)でもって、政治的領域と宗教的領域とを区別し、両方の領域で課せられている義務を同時に果たすべきであると言ったのだという解釈がある。実際これに依って、歴代のキリスト教会の主流派は、結果としてその時々の政治体制に、今日に至るまで順応してきた。しかし、この種の解釈が正しくないことは、これでは、なぜイエスが時の政治権力によって抹殺されたのかという問に、まともな答えを出すことができないところから見ても、明らかであろう。 [荒井献「イエスとその時代」 V p169 ]

959 イエスは、ユダヤ教の指導者たちのように、自己を主張する手段として引き合いに出される「神」を捨てたのである。しかし、彼は、神信仰そのものを捨てたのではない。否、むしろ、自らの神信仰の故に、自己主張の手段としての神を捨てた、と言うべきであろう。 [荒井献「イエスとその時代」 VI p178 ]

960 イエスにとって神は自己相対化の視座として機能すべきものであったからこそ,イエスはこの神を,いかなる場合にも自己の振る舞いを正当化する手段として引き合いに出さなかったのである. [荒井献「イエスとその時代」 VI p185 ]

961 少なくとも、イエスが反逆罪に問われて、つまり政治犯として処刑されたことの史実性は、彼が他ならぬ政治犯に適用される十字架に処せられたという事実によって裏づけられるであろう。 [荒井献「イエスとその時代」 VII p194 ]

962 別れのときには、かれは、哲学論文には質問(答えなしの)だけしか含まれていなくてよい、と述べている。 [N マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」 ヴィトゲンシュタインの手紙より p51 ]

963 きみが、賢明でなくとも立派な思想を生み出し、洗っても落ちないような品位をもつことを祈ります。 [N マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」 ヴィトゲンシュタインの手紙より p62-3 ]

964 哲学的混乱のとりこになっている人は、室の中にいて外へ出たいと思って居ながら、どうしたら外へ出られるのか知らない人に似ている。その人は窓を調べてみるが、窓は高すぎる。煙突もためしてみるが、狭すぎる。 しかし、もしこの人が振り返りさえしたら、そこのドアがずっと前からあいていたことがわかるであろう。  [N マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」 ヴィトゲンシュタインのことば p88 ]

965 問題が解決されるのは、新しい経験をもち出すことによってではなく、とっくに知られていたことをまとめることによってである。 [N マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」 ヴィトゲンシュタインのことば p88 ]

966 ヴィトゲンシュタインが、とりわけ寛大だったり、親切だったり、あるいは正直だったりする人を指すときに使った特別な表現は、「かれは人間だ!」というのであった。---それによって、大多数の人々は人間の資格さえないということを言外に暗示しているのである。 [N マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」p102 ]

967 解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事である。 [ G H ハーディ「一数学者の弁明」  1 p7] 

968 良い仕事は、謙虚な人にはできないものである。たとえば、教授にとってのまず第一の義務は、どのような分野であろうと、自分の専門分野の重要性と、その分野における自分自身の重要性を多少誇張することである。「私がしていることは、本当に価値があるのだろうか」とか、「この仕事をするのに、私は適切な人間だろうか」といつも問うている人は、必ずや自分としてはぱっとした仕事ができず、他人をがっかりさせるだろう。彼はちょっとばかり目をつぶって、自分の仕事や自分自身を実際よりは少しばかり高く評価すべきである。これはそれほどむずかしいことではない。 [G H ハーディ「一数学者の弁明」 2 p11] 

969 野心は,この世の最良の仕事のほとんどすべてを成就させる力の源である.  [G H ハーディ「一数学者の弁明」 7 p21]

970 美が第一の条件である.この世には醜悪な数学に永住の地はない. [G H ハーディ「一数学者の弁明」 10 p26]

971 詩においてさえ、ましてや数学においてはなおのこと、内容は様式にかかわりを持つ。 [G H ハーディ「一数学者の弁明」 11 p30] 

972 数学的実在が私たちの外の世界に属すること、それを発見しあるいは観察するのが私たちの仕事であること、私たちが証明し、また私たちが自らの「創造」であると大言壮語する諸定理は単に私たちの観察記録にすぎないことを、私は信ずる。 [G H ハーディ「一数学者の弁明」 22 p55-6] 

973 数学は瞑想の学問ではなく、創造の学問である。創造する力や意欲を失った数学者は、数学から慰めを引き出すことはできない。そして、これは数学者に思いのほか早くやってくる。それは悲しむべき事であるが、もしそうなれば、彼はどのみち重要ではなくなるし、彼のことを心配することは愚かなことである。 [G H ハーディ「一数学者の弁明」 28 p69]

974 数学者は60才になっても有能でありうるかもしれないが,彼に創造的思考を期待しても無益である.  今や,私の人生は,それがどんな価値があったにせよ終わってしまっており,その価値を目に見えるほどに増したり減らしたりすることは,もはや何もできないのは明らかである. [G H ハーディ「一数学者の弁明」 29 p73]

975 多数意見を述べるなどということは、第一級の人間が時間をさくには価しない。多数意見の定義にもよるが、他に大勢の人がそうするからだ。 [C P スノー「ハーディの思い出」  p118 ハーディのことば

976 若者はうぬぼれなければならない。しかし愚かであってはいけない。 [C P スノー「ハーディの思い出」  p118 ハーディのことば

977 劣悪な文章で国語を学んだ国民は,文体についての感覚を失ふにちがひないし,そのことは必然的に精神の衰弱をもたらすだらう.大げさなおどしをかけるなと叱られるかもしれないが,文化と文体とはもともとさういう不密接な関係にあるものなのだ.文体は思考の姿かたちだからである.それゆゑ国語教科書は名文を収めなければならず,決して駄文を含んではならない. 

 それなのに教科書の編集者たちには,文体が大事だといふ気持ちがさっぱりないらしい.彼らの眼中,内容のみあって,形式などは末の末と鼻のさきで軽くあしらってゐるやうに見受けられる.しかし内容と形式とは分かちがたく結びついてゐるといふことこそ、文章論のイロハなのである。 [丸谷才一「日本語のために---国語教科書批判」 4 文体を大事にしよう  p26-7] 

978 つまり口語文には、文語文といふ骨格が一本とほってゐる。とすれば、子供に文語文を読ませることの重要性は至って明らかな話にならう。それが日本語の文体をすこやかにし、美しく保つための、基本的な手段なのである。国語は常に古典主義によって養はれてゐなければならない。 [丸谷才一「日本語のために---国語教科書批判」 6 小学生に文語文を  p38] 

979 人間的認識のはたらきも、系統発生の途上で生じた、種族維持に役だつその他のはたらきのように、則ち、実在する外界と相互作用を行う、現実的な、自然的過程で生じた一システムの機能として研究されるべきである。 [ K.ローレンツ「鏡の背面」 認識論的前置き、1.課題設定 p16] 

980 生物学や、系統発生によからぬ気持ちをいだいている、哲学的傾向をもつ人間学者たちにも示すことができたらと私が希望していることは、人間の特殊人間的特性とはたらきとが比類なくみごとにあらわれるのは、まさにそれらが一つの自然的な創造過程の産物として自然研究者の眼によって観察されたときであるということである。この本はこの目的のために書かれた。 [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、1.課題設定 p17] 

981 認識する主体を科学的に観察せよという要求は,けっしてただたんにわれわれの認識を客体化せよという要請から引き出される様々な理由のみに依るものではないはずだ.この要求は,実践的な,とりわけ倫理的な考慮の末にそうしても出さなければならないものなのだ. [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、1.課題設定 p18] 

982 たとえば魚のひれの形態と運動形態は、水の流体力学的な諸特性を反映している。そしてこれらの特性を、水はひれが自分のなかで使われるかどうかということとは無関係に所有しているのである。---中略---動物や人間のふるまいも、それが環境世界に適応しているふるまいである限り、環境世界の像である。 [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、2.自然科学者の認識論的態度または《仮説的実存論》 p20] 

983 われわれの認識装置がわれわれに伝えるすべてが,主体外的世界の現実的な事実に応じているのだという確信に関しては,われわれは毅然としてこれを固執する. [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、2.自然科学者の認識論的態度または《仮説的実存論》 p22] 

984 因果性とか実体性とか時間とか空間とかの、物の考え方や見方のための《いろいろな眼鏡》は、種族維持のために生じた感覚神経的な機構がそなえている諸機能である。 [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、2.自然科学者の認識論的態度または《仮説的実存論》 p22] 

985  卵形嚢や三つのたがいに垂直な平面に組みたてられた半規官とともに、われわれの内耳の迷路は、上がどっちかということと、からだの回転のスピードはどの方向へ増しているかということをわれわれに伝える。このようにも明らかに種族維持のはたらきへの奉仕と現実的事実への適応とによって生じたこれらすべての器官ならびにその諸作用が、空間に関する先験的な直観形式とは何の関係がないとする想定は、わたしには混乱しているものに思える。それらは三次元的な《ユークリッド的》空間の直観形式の基礎となっている、いやある意味ではこれらの直観形式であると断言する方が、私にはむしろ自明のことに思えるのだ。 [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、3.仮説的実存論と先験的観念論 p28] 

986 すべてのこれらの世界像装置のはなはだしい多種多様性に直面したとき,きわめて深い意味をもった一つの事実が現れる.すなわち,それらの報知が同じ環境世界的事実に関するものである限り,それらはたがいにけっして矛盾しないという事実である. [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、3.仮説的実存論と先験的観念論 p31] 

987 人間が精神史の経過においてなしとげたすべての発見のなかのこの最大の発見(註=自我の発見)に、すべての誤りのなかで最大かつ最も厄介な誤りが続いた。外界の現実性に対する疑いである。その発見が引き起こした、この、最も当たり前の事実をわれわれの祖先に疑うようにしむけたショックこそ、その発見の偉大さにほかならなかったのかもしれない。われ思う、ゆえにわれあり--- これこそ確証なのだ。いったいわれわれが体験する多彩な世界も同様に現実であるということをだれが知ることができ、だれが証明することができるか?---中略--- 

 このような考えが,非省察的で《動物的》で実在論の薄明から目覚めたばかりの人間に,圧倒する力をもって迫ってきたに違いない. [K.ローレンツ「鏡の背面」認識論的前置き、3.仮説的実存論と先験的観念論 p36-7] 

988 すでになしとげられた適応過程が《原則的に》定着する傾向は,われわれの認識行為に仮説を押しつけている.いいかえれば,われわれは気づかないうちに,仮説を認識としてうけとっている.われわれは,そのような生得的な仮説を潜めている前提や想定によって認識行為を行うことなしには何ごとも経験できないし,見ることも考えることもできない.まさにこれらの仮説はわれわれの《世界像装置》のなかに組みこまれているのだ. [K.ローレンツ「鏡の背面」第一章 認識過程としての生命 3 蓄積されえない一時的情報の取得 p57] 

989 すべての学習能力は開かれたプログラムにもとづいているが,これはいわゆる生得的行動様式よりも一層多くゲノムのなかに固定された情報を前提としているのだ. [K.ローレンツ「鏡の背面」第5 行動のテレオノミー的変異

990 遠い祖先からの系統発生的な発達によって個体のおのおのに生涯にわたってあたえられているさまざまな行動メカニズムの開かれたプログラムは、そのいわば余白のまま残された可変部分が、環境世界の諸事実とうまく関係を持つようなふうに、つねに十分テスト済みのかたちで構成されている。 [K.ローレンツ「鏡の背面」第六章  p164] 

991 戦争や暴力よりも,恋愛のほうがどれだけ男子一生の仕事かもしれないと,私は思うからだ.それをいやしめるこの国の風土に,もう一度さからってみたいという気が今,しきりとする. [五木寛之《恋愛不能時代の恋愛小説」 朝日新聞() 1975.8.8 ]

992 The axiomatic basis of theoretical physics cannot be extracted from experience but must be freely invented.  [A. Einstein, quoted in J. Schwinger, ``A theory of the fundamental interactions,'' Ann. Phys.(USA) 2}, 407 (1957).]

993 バルトークの名前は,種々の偉大な考えのシムボルのようなものである.第一にそのような考えとは,すべての人間的弱みをこえた倫理的真剣さによってのみ到達される芸術と学問における絶対的な真理の探求.第二には,いろいろな民族,人種のもつ特性に対してなんの偏見も抱かないという思想.その結果としての民族間の相互理解,それを通しての友情.さらにバルトークの名前は,われわれにとって,芸術においても政治においても,民衆の側からその更新の力を汲もうとする原理と要求のシムボルをも意味する.そしてそれはさいごに,音楽の恩恵を民衆の最も広い層にゆきわたらせるという努力にも結びついている. [ゾルタン・コダーイ,ハンガリーバルトーク記念委員会発会式上の講演19569月より]

994 ウィーンではディーテルやマンテル,ブダペストではトマーンやグルーベル夫人が私のことを心配してくれますが,ときどき結局は自分はたった一人なのだ,という事実にぶつからないわけにはいきません.これが一生変わらないだろうということは予言さえできる.理想的な友を常に探し.求めはするが,むだなことだということはあまりにはっきりしている. [バルトーク,母宛の手紙1905.9.10 パリ]

995  レオナルドの科学と芸術とをあまりはっきりと分けるのは正しい扱い方ではございません。第一、分けられるかどうかがすでに問題でございます。 [小野健一「レオナルドの自然科学」図書1975-11, p2 ] 

996  私は臆病で命が惜しいとはいえ、いくらかは義のために命を棄てるべき道理を弁えておるつもり。どうして好んで縄目の恥に身を沈めましょうぞ?それに妓や婢妾ですら自決することは知っています。まして私のように、義として已むを得ずにした事なら、なおさら自決して当然。恥を忍んで生き残り、糞土の中に陥るのも辞さなかったわけは、わが心中にまだ言い尽くさないものがあり、死んで後にわが文章が世に出ないことを恥じるが故であります。---中略---始めたばかりで未完のうちに、たまたまこの禍いに遭いました。この書ができ上がらぬのが心残りなばかりに、甘んじて最も恥ずかしい刑を受けた次第です。私が本当にこの書を作り上げて、これを名山に蔵し、これをしかるべき人に伝え、大きな村や都に流布し得たならば、私とし、前の辱めの借りを返す事になる。一万回罰せられたとして、悔いはありませぬ。しかし、これは智者にのみいうべき事、俗人にはいっても詮ないことです。それに地位が低いと居心地はよくない。下流におれば悪口ばかり聞こえて来るものです。 [漢書 司馬遷伝

997 先生の物理の進め方において、最も基礎になるのものは必ず簡明で美しい形をしているはずだとの信念がある。美しいということはそこに任意性の入り込む余地のない絶対的で必然的なもの、すなわち何かの意味で一義的に確定したものという判断基準がある。ジイドの言葉の``力をつくして狭き門より入れ''が先生の生き方である。 [山崎和夫「ハイゼンベルク先生を偲ぶ」 自然 1976(4) p57] 

998  先生は、現在はもちろん将来も、いかに科学が進み多くのことを学ばねばならなくなったとしても、25才になれば人間は一人立ちして仕事をするべきで、いつまでも先生を頼っていてはいけない、25才になれば学生の身分を終えなくてはならないというのが持論であった。 [山崎和夫「ハイゼンベルク先生を偲ぶ」 自然 1976(4) p59] 

999  ワイツェッカーによって書かれた記事に、先生は死の間際に、死ぬということは簡単なことであった。私は今までそれを知らなかったといわれたと述べられている。 [山崎和夫「ハイゼンベルク先生を偲ぶ」 自然 1976(4) p63] 

1000 子どもたちの人生を豊かにする源泉となる物語とは、子どもの想像力を刺激し、知性の発達をたすけるばかりではなく、かれらが直面している困難をわからせ、その困難を解決へとみちびくような示唆を与えることによって、自己と自己の未来について確信を抱かせるものでなけれならない。 

 また、そのためには自己愛から生じる失望感や兄弟間の競争意識を克服し、意識下の世界に生じるさまざまな欲求をうまく処理するほかに途はないのだ。そして、この点について親たちが思い誤っているのであるが、子どもたちにむかってそれを合理的に説明したり、説得することで解決できるものではない。それは子どもたちが、無意識の抑圧から解放される白昼夢の空想の世界(おとぎ話)に遊ぶことによってもたらされるのだ。 

 現代のすぐれた児童文学は、努力さえすれば人生がうまくゆくように教えているけれども、子どもたちは、死とか、老い、人間の存在の限界という不可抗力の問題を感じたり、体験しているのである。 

 親たちが、子どもたちに与えたがる「安全な」本は、これらの根元的な問題について、何ごとも語ってはいない。それ故、子どもが精神的に成長し、心理的に成熟するためには、この根元的な問題をどのように扱うべきかを象徴形式によって提示しているおとぎ話が、どうしても必要になるのだ。 [ブルーノ・ベッテルハイム「なぜ子どもにおとぎ話が必要なのか」 図書 1976.4 p38 ] 

李賀 フロム「悪について」「希望の革命」「夢の精神分析」  宝積経 バルトーク マーラー ローレンツ「鏡の背面」etc  攻撃性の自然誌 梁塵秘抄 ハイゼンベルク「部分と全体」 アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ」 マルコム「ヴィトゲンシュタインの思い出」 ハーディ「一数学者の弁明」