II 701-800 

ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」「自由の条件I」   ウェルトハイマー「生産的思考」    福翁自伝    八木雄二「中世哲学への招待」   岡谷繁実「名将言行録」    渡辺実「平安朝文章史」

701 経済学者たちが初めて理解したことは、当時すでに発達していた市場は、人間を彼が理解しうる以上に複雑で広範な過程に参加させる有効な方法であるということであり、また人間が「彼の目的にまったく入っていない諸結果に対して」貢献するようにさせられるのは、この市場を通じてであるということであった。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p18 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

What the economist understood for the first time was that the market as it had grown up was an effective way of making man take part in a process more complex and extended than he could comprehend and that it was through the market that he was made to contribute “the ends which were no par of his purpose.” [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p14]

702 個人主義者の議論の真の基礎であるのは、誰が最もよく知っているかということは誰も知り得ないということであり、またそれを見出すことができる唯一の道は、すべての人が自分のできることをしてみるのを許されるような社会的過程によることなのであるということである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p18 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The true basis of his (= the individualist) argument is that nobody can know who knows best and that the only way by which we can find out is through a social process in which everybody is allowed to try and see what he can do. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p15]

703 すべての事項を考慮に入れないのがとりもなおさず意味をわきまえた過程の特徴なのである。─中略─要するに全体whole)はすべてall)を意味するのではなく、課題の観点から相互に関係づけられるところの諸事項の構造をいうのである。それはよきゲシタルトをいうのである。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」(矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第2章対角線の問題 p114]

704 思考が本来言語的なものであり、またそうであらねばならぬという公理的な仮定、論理が言語に関する事柄であるという仮定─中略─も、盲目的な一般化である。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」(矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第2章対角線の問題 p118]

705 またときには、聡明な被験者においてさえ全くの絶望、おどろくほど愚劣な反応に出会う。特に彼らが習慣的な態度や訓練によって盲目にされているときにそれが著しい。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」

矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第3章若きガウスの有名な物語 p131]

706 設定された問題に焦点を合わすこと、もっとも簡便な仕方でそれを解決することが常に一番知的な態度であるとは限らない。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」(矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第3章若きガウスの有名な物語 p155]

707 しばしば偉大なる発見においてもっとも重要な事項は、或る課題が見出されるということである。生産的課題を直視し、それを提起するということは、設定された課題の解決よりも重要であり、また一層偉大なる業績であることが多いのである。それはちょうど、私達の例で、主要な事柄は、基礎的構造的な問題これは前に報告した諸過程よりずっと広汎な、ずっと深い過程であるを直視し、結晶化することであると思われるのと同様である。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」(矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第3章若きガウスの有名な物語 p163]

708 多くの論理学者がやっていること、彼らの考え方はどちらかといえば次のようである。建築物、美しいビルディングに向き合っている人はそれを解するために、個々の煉瓦に、そしてまた煉瓦がモルタルでくっつけられている仕方に注意を集中する、と。彼が最後にうるものは決してビルディングではなくて、煉瓦とその結合の仕方に対する概観にすぎない。 [M. ウェルトハイマー「生産的思考」(矢田部達郎訳、岩波現代叢書1952。原著Productive Thinking by M. Wertheimer (Harper and bros, 1945))第7章アインシュタイン:相対性理論 p237]

709 ハイゼンベルクも哲学的かも知れませんが、シュレーディンガーはやはり非常に哲学的ですね。─中略─彼は1925 年に自分の世界観についてあるエッセイ集を書いています。これを読んでみますと、彼は、自分は形而上学が全然ない学問はおもしろくない、それは空虚であると言うんです。 [湯川秀樹「物理講義」(講談社学術文庫1977p46]

710 この本(Maxwell Treatise on Electricity and Magnetism)の序文に非常に面白いことが書いてあります。だいたい序文で何か一つぐらい、パッと感じるようなことが書いてない本は駄目ですね。 [湯川秀樹「物理講義」(講談社学術文庫1977p52]

711 自然科学あるいは科学と呼ばれるような物において、そこで見つかる法則というのは、基本的なものは因果関係を表す法則であるということになっております。私はそんなものに限らんと思いますけれども。 [湯川秀樹「物理講義」(講談社学術文庫1977p92]

712 白洲次郎は昭和15年に仕事から退き、小田急沿線の鶴川村に引き籠もった。白洲の国際情勢の判断は、このまま行けば日本が世界大戦に巻き込まれるのは必定というものだった。戦争が始まれば、いずれ東京は爆撃に遭い、必ずや日本は戦争に敗れる。そうして食料難に陥るであろうというのが白洲の予見であった。彼は水道橋にあった家を引き払い、鶴川村に五千坪ほどの土地を求め、百姓をするのだと言って、都から身を引いたのである。 [青柳恵介「風の男白洲次郎」(新潮文庫、1997p19]

713 J. J. トムソンという秀れた物理学者は散歩をしながら思索にふける習慣があり、思索が深まってくると、道の真ん中で立ちどまってしまう。トムソンはケンブリッジの街で車の通行をしばしば止めてしまうが、警官もトムソンを注意することはせず、彼が動くまで車の方を止めていた。次郎はトムソンの試験を受ける際、充分に勉強してのぞんだが、返ってきた答案の点数は低く、「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と記してあった。そこで、次の試験の際は存分に自分の意見を書いたら、今度は評価が高かったという。  [青柳恵介「風の男白洲次郎」(新潮文庫、1997p51]

714 白洲次郎は正子との結婚が決まると、自分の部屋の机の上に置いてあった写真立ての英国女性の写真を抜きとり、破りすて「これはもういらなくなった」と言ったという。自分の過去に対する思い切りのよさは、若き白洲次郎と正子の一番大きな共通項だったようである。 [青柳恵介「風の男白洲次郎」(新潮文庫、1997p68]

715 樺山は政財界に知己を多く持っていたが、とりわけ牧野伸顕と親しかった。牧野は大久保利通の息子であり、牧野と樺山の間には、明治の元勲の倅として、また親英米派という点でも共通するところが多かった。牧野、樺山、井上準之助、池田成彬、そして吉田茂(牧野伸顕の女婿)といった人々が、やがては軍部に対抗する上層指導者として英米との和平交渉にあたることになるのである。 [青柳恵介「風の男白洲次郎」(新潮文庫、1997p71]

716 ある宴席に招かれた堤が新橋におもむくと、その料亭の玄関に白洲を見つけた。いっしょに案内されて座敷に入ると、彼はそこに居並ぶ面々の顔を立ったまま眺めわたし,「そうか、今日はこんな会合だったのか」と呟いて、座りもせずに、そのまま風のように帰ってしまったという。白洲次郎の最晩年の話である。彼の判断は常に素早く、そしてその行動は最後まで機敏であった。 [青柳恵介「風の男白洲次郎」(新潮文庫、1997p210]

717 我々の意味するところは、人々は彼らが望ましいと思うものは何であれ、それを得るために努力することを許されるべきであるということなのである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p18 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

what we mean is that they ought to be allowed to strive for whatever they think desirable. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p15]

718 基本的想定は人間の才能と技術とは無限に多様であるということであり、その結果としてどの単一の古人も彼以外のすべての社会の構成員を全体としてとらえた場合それが知っていることの大部分について、無知であるということである。この基本的主張を別の言葉で表現すれば、人間のもついわゆる理性なるものは、合理主義的接近方法が想定していると見られるように、特定の一個人に与えられ、もしくは利用されうるような、谷角形で存在するものではないのであって、理性は、ある人の貢献が他の人々によって評価され、修正されるというような人間相互間の過程であると考えられなければならないのである。この議論は、すべての人間はその天与の資質や能力において等しいと想定するものではなく、いかなる人も他人の持っている能力、もしくは他人がそれを行使することを許されているはずの能力について、最終的な判断を下す資格を持っていないということを想定しているのである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p19 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The fundamental assumption, here as elsewhere, is the unlimited variety of human gifts and skills and the consequent ignorance of any single individual of most of what is known to all the other members of society taken together. Or, put this fundamental contention differently, human Reason, which a capital R, does not exist in the singular, as given or available to any particular person, as the rationalist approach seems to assume, but must be conceived as an interpersonal process in which anyone’s contribution is tested and corrected by others. This argument does not assume that all men are equal in their natural endowments and capacities but only that no man is qualified to pass final judgement on the capacities which another processes or is to be allowed to exercise. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press (1948) I. Individualism: True and False p15]

719 人々を平等に取り扱うことと、彼らを平等たらしめようと企画することとの間には、天と地ほどの差異が存在する。前者は自由社会の条件であるのに対して、後者はド・トクヴィルが形容した、「新しい形の隷属」を意味するのである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p19 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

There is all the difference in the world between treating people equally and attempting to make them equal. While the first is the condition of a free society, the second means, as De Tocqueville described it, “a new form of servitude.” [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p16]

720 個人主義哲学が実践的指針として我々の役に立ちうるかどうかの決定は、窮極的にはそれが我々に政府の所管すべき事項と所管すべきでない事項とを区別させることを可能にするか否かに依存するのである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p21 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

Yet the decision whether individualist philosophy can serve us as a practical guide must ultimately depend on whether it will enable us to distinguish between the agenda and the nonagenda of government. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p17]

721 運用可能な個人主義的秩序なるものは、次の二つの条件を満たすように組み立てられなければならないということである。その第一の条件は、個人が自分の能力と資産を様々な仕方で使用することから期待しうる相対的な報酬は、彼の努力の結果が他の人々にもたらす相対的な効用に対応するということである。そして第二の条件は、彼の期待する相対的な報酬は、彼の努力の主観的価値に対応するのではなく、その客観的な結果に対応するということである。競争が有効に働く市場はこの両条件を共に満足させる。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p25-6 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

It is that any workable individualist order must be so framed not only that the relative remunerations the individual can exert from the different uses of his abilities and resources correspond to the relative utility of the result of his efforts to others but also that these remunerations correspond to the objective results of his efforts rather than to their subjective merits. An effectively competitive market satisfies both these conditions. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p21]

722 個人の自由の維持は、分配の正義に関する我々の見解と十分満足させることとは相いれないという事実を我々は直視しなければならない。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p26 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

We must face the fact that the preservation of individual freedom id incompatible with a full satisfaction of our views of distributive justice. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p22]

723 個人主義が機能するために、これらの人間の比較的小さい集団化に劣らず非常に重要であるのは伝統と慣習である。伝統と慣習とは自由社会の中で生まれ育ち、柔軟性を持ちながら、而も通常よく遵守されているような諸規則を強制的になることなく定着させ、これによって他人の行動を前もって相当程度予測可能にさせるのである。これらの諸規則に対して、それが存在する理由が理解される範囲内においてのみ従うというのではなく、それに反対する明白な理由がないかぎり進んで従うということは、社会的交流の諸規則を漸進的に発展させ、また改善させる上での本質的な条件である。そしてこのような、誰が設計したわけでもなく、その存在理由を誰も理解しないということがあり得るような社会過程によって産み出されたものに対して、通常はそれに従う用意があるということもまた、もし強制をなくすことが可能であるとしたならば、その不可欠の条件である。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p28 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

Quite as important fo the functioning of an individualist society as these smaller groupings of men are the traditions and conventions which evolve in a free society and which, without being enforceable, establish flexible but normally observed rules that make the behavior of other people predictable in a high degree. The willingness to submit to such rules, not merely so long as one understands the reason for them but so long as one has no definite reasons to the contrary, is an essential condition for the gradual evolution and improvement of rules of social intercourse; ant the readiness ordinarily to submit to the products of a social process which nobody has designed and the reasons for which nobody may understand is also an indispensable condition it it is to be possible to dispense with compulsion. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p23]

724 複雑な社会に生きる人間には、彼にとっては社会過程の盲目的な諸力と見えるに違いないものに自己を適応させるか、もしくは上司の命令に従うかの二者択一しかありえない。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p29 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

Man in a complex society can have no choice but between adjusting himself to what to him must seem the blind force of the social process and obeying the orders of a superior. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p24]

725 個人主義の哲学がこの点で我々に教えてくれる偉大な教訓は、自由な文明の不可欠の土台をなす自然発生的な形成物を破壊することは難しくないかもしれないが、一度これらの基礎が破壊されてしまうと、このような文明を意図的に再建することは我々の力を越えるものであろうということである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p30 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

Indeed, the great lesson which the individualist philosophy teaches us on this score is that, while it may not be difficult to destroy the spontaneous formations which are the indispensable bases of a free civilization, it may be beyond our power deliberately to reconstruct such a civilization one these foundations are destroyed. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p25]

726 ... 兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いと言えば、神様の名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場に持って行って遣ろう」と、一歩を進めて便所に試みて、そのときはどうかあろうかと少し怖かったが、後に何ともない。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p22]

727 されば、軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持ちの財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナことを議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並みに俗な馬鹿げた野心があるからおかしい。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p42]

728 マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多く迚も(とても)手に及ばないことで、その師弟の間はおのずから公なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実と少しも違わない有様であって。後世だんだん世が開けて進んできたならば、こんなことはなくなってしまいましょう。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p46]

729 仮令い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルトわたしは「どちらでも宜しい,義不義、口の前で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない」と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p79-80]

730 当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的の無かったのが却って仕合わせで、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業はできなかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のも考えて、如何したらば立身ができるだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことばかり心を齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p94]

731 実はキリスト教会から見て、日本は特別の国なのである。

 それはこれほどキリスト教の布教が失敗している国は、世界でもまれに見る国だからである。日本のキリスト教徒は、いまだに人口の1パーセント前後といわれる。─中略─韓国や中国では、日本よりすでに信者の割合は多い。─中略─ではなぜか。それはキリスト教会にとって、実は大いなる謎なのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)はじめに p11-2]

732 ヨーロッパ中世は、キリスト教という宗教とともに、ギリシア以来の哲学を発展させ、ヨーロッパ全体の文化基盤を整えた時代であり、近代の礎となった時代である。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)はじめに p13]

733 キリスト教社会制度のなかでは、信仰は、個人が社会との間に持つ紐帯であり、それを持つかどうかは、個人の問題ではなく、すぐれて社会的問題であった。─中略─、もしも信仰が純苦しみの中にいる人間の救いになることを、現実に示すことが追求されたことだろう。─中略─しかし実際には、神学者たちはこぞって「神の存在証明」に傾倒した。それは「神の存在」が社会を支えるために「客観的でなければならなかった」からである。つまりスコラ哲学における神の存在証明は─中略─少々うがった見方をするならば、教会支配の客観的拠り所として追求されたのである。したがって、神学者の示す「神の存在証明」は、決して個人の信仰心に訴えるものではなく、むしろまったくその反対に、客観的科学であろうとしたものである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)神の存在 p60-1]

734 生徒から毎月金を取るということも慶應義塾が創めた新案である。─中略─教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから、公然価をきめて取るが宜いというので、授業料という名を作って、生徒一人から毎月金二分ずつ取り立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。そのとき塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば食うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持ってきた授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行き渡れば死にはせぬと大本をさだめて、その上になお余りがあれば塾舎の入用にすることにしていました。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p201-2]

735 世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日たりとも休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p203]

736 元来私の教育主義は自然の原則に重きをおいて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はソレカラ割出して行きたい。─中略─東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p206]

737 中世哲学から近代哲学への移行がどのようなものであったかを、きわめて大ざっぱに言えば、次のようになる。すなわち、神・天使・人間・動物・植物・物質という聖書的世界秩序の中で、神についての真理探究が第一級の学者の関心事であったのが中世という時代である。言い換えれば神が科学の対象であったのである。ところが、さまざまな要因で教会の支配力が減退して近代を迎え、物質に基づく経済の支配力が強まると、物質についての真理探究が第一級の学者の関心事となった。言い換えれば、物体が科学の対象になったのである。─中略─この時代の変遷にもかかわらず、ものの本質を誤りなくとらえ、ことがらを認識していこうとする哲学者の意識は、中世からデカルトの近代を経て、フッサールの現象学に至るまで、つねに変わらずあるのである。したがって、中世がキリスト教的であり、近代以降の哲学が科学的である、ということではなくて、科学的であろうとする態度は同じでも、むしろ関心の向きが、神から物体に変わっただけだと言った方が正しいのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)神の存在 p62-3]

738 私達が市場経済の動きに振り回され、知的能力のある人々がその分析にエネルギーを注ぐように、中世では、人々は信仰をよりどころとした教会の支配に振り回され、知的能力のある人々は、信仰の対象となった神をはじめとする世界の研究に心血を注いだのである。ここには時代の相対性があるのみである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)神の存在 p74]

739 中世の神学者にとってのアリストテレス自然学は、近代の哲学者、たとえばカントにとってのニュートン力学なのである。したがって当時の大学において科学的な証明とは、アリストテレスの原理にもとづいて証明であって、これを踏み外せば、激しい批判にさらされるのは明らかであり、嘲笑の的になり、大学での教員資格を失うことになった。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)神の存在 p75]

740 結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合のようにあるが、血統は両人共すこぶる宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝的病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p282]

741 民主主義を正当化し得る根拠は、時の経過と共に、今日一握りの少数者にすぎぬ人々の意見が、明日は多数意見となりうるという事実に基づいている。実際、政治理論が近い将来に解答を見出さなければならないであろう最も重要な問題の一つは、次の二つの領域の間に境界線を見出すことであると私は信じている。一つは多数意見がすべての人を拘束しなければならない領域であり、もう一つは、それと対称的に、もし少数意見が一般の人々の必要をより満足させる結果を生み出し得るならば、この少数意見が優勢になることが許されなければならない領域である。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3,春秋社1990p35 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The whole justification of democracy rests on the fact that in course of time what is today the view of a small minority may become the majority view. I believe, indeed, that one of the most important questions on which political theory will have to discover an answer in the near future is that of finding a line of demarcation between the fields in which the majority views must be binding for all and the fields in which, on the contrary, the minority view ought to be allowed to prevail if it can produce results which better satisfy a demand of the public. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p29]

742 平等について論じる時には、真の個人主義は近代的な意味における平等主義ではないということをただちに指摘しなければならない。個人主義は、人々を平等たらしめようとする理由を見つけることはできない。─中略─個人主義の基本原則は、どのような人間、もしくはどのような人間の集団も、他の人間の地位が何であるべきかを決める権利を持ってはならないということである。そして個人主義は、このことを自由の条件として非常に本質的なものと認めるがゆえに、これを我々の正義感や、嫉妬心を満足させるために犠牲にしてはならないとするのである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p36 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

When we turn to equality, however, it should be said at once that true individualism is not equalitarian in the modern sense of the word. It can see no reason for trying to make people equal as distinct from treating them equally. Its main principle is that no man of group of men should have power to decide what another man’s status ought to be, and it regards this as a condition of freedom so essential that it must not be sacrificed to the gratification of our sense of justice or of our envy. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p30]

743 個人主義が我々に教えるのは、社会は自由である限りに於いてのみ、個人より偉大であるということである。もし社会が統制され、指令されているならば、その社会はこれを統制し、指令する個人の知性の力の範囲内に限定される。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p38(嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

What individualism teaches us is that society is greater than the individual only in so far as it is free. In so far as it is controlled or directed, it is limited to the powers of the individual minds which control or direct it. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p32]

744 我々が均衡状態に関心を持つことを正当化する唯一の理由は、均衡に向かう傾向が存在すると想定されることであるのは確かである。 [F A ハイエク「経済と知識」(ハイエク全集3, 春秋社1990p59 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

745 教義としては、神が自ら人間の原罪をあがなうため、人間を救うため、人間になり、十字架についた、ということなのであるが、言うまでもなく論理的必然性はない。この教義は、むしろそれを信じることによって救いが実現する、というたぐいのものであって、神という存在や人間についての理解を深めるためのものではない。ところがアンセルムスは、そこに論理的必然性を見出すべく苦闘するのである。そしてこの知的冒険こそ、信仰と祈りに満ちた宗教世界に、ギリシアの知的論理を持ち込み、新しいヨーロッパの文化的伝統を生みだしたのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)神の存在 p85]

746 道具、食料、薬品、武器、言葉、文章、通信、生産行為といったものもしくはこれらの打ちのどれか一つの特定の例を取り上げてみよう。これらは社会科学において絶え間なく起こっている人間活動の対象となるもののよい事例であると私は思う。これらの諸概念はすべて(これはより具体的な事例についても同様であるが)、事物の持つある種の客観的特性に、即ち観察者がこれらについて見出しうる特性に関係しているのではなくて、誰か他の人間がこれらの事物について抱いている見方に関係しているのであると言うことは容易に見てとれる。─中略─これらの概念はみな、時として「目的論的概念」と呼ばれるものの事例である。換言すれば、それらは次の三つのもの、うなわち目的、その目的を持つ主体である人間、そしてその人間がその目的を達成するための手段として適当であると思う対象、これらの間の関係を表示することによってのみ定義されうる諸概念なのである。もし我々が望むならば、我々は次のように言うこともできるであろう。これらすべての事物はそれらの持つ「現実の」特性によって定義されるのではなく、人々がそれらについて持つ見解によって定義されるのである。要するに社会科学においては、事物とは人々がそれらがそうだと思うものなのである。誰かがそう思うならば、そしてそう思うからこそ、貨幣は貨幣、言葉は言葉、化粧品は化粧品なのである。 [F A ハイエク「社会科学にとっての事実」(ハイエク全集3, 春秋社1990p82-3(嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

747 科学的知識はあらゆる知識の総体ではないなどと言い出すことは、今日ではほとんど異端である。しかしながら、一般的法則についての知識という意味で科学的なものとは呼び得ないところの、非常に重要であるが、系統立っていない一群の知識、即ちある時と場所における特定の状況についての知識というものが疑問の余地無く存在することは、少し考えてみればただちにわかることである。ある特定の個人が、自分以外の他の人々に対して実際上何らかの優位性を持つのはこの点に関してである。 [F A ハイエク「社会における知識の利用」(ハイエク全集3, 春秋社1990p111 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

748 経済問題は常に変化の結果として発生し、また変化の結果としてのみ発生するということは、おそらく強調するに値するであろう。 [F A ハイエク「社会における知識の利用」(ハイエク全集3, 春秋社1990p113 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

749 私が問題にしてきた種類の知識は、その性質からして統計にはならない種類の知識であり、したがって統計的な形式ではどのような中央当局にも伝達され得ないということである。 [F A ハイエク「社会における知識の利用」(ハイエク全集3, 春秋社1990p113 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

750 価格機構についてのもっとも重要な事実は、この機構が機能するのに要する知識が節約されていること、すなわち個々の市場の参加者たちが正しい行為をすることができるために知っている必要のあることがいかに少なくてすむかということである。 [F A ハイエク「社会における知識の利用」(ハイエク全集3, 春秋社1990p119 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

751 複雑な社会における合理的な計算のために価格機構が不可欠であるか否かという論争は、現在ではもはや異なった政治的見解を持つ陣営の間でのみ論じられるものではなくなったが、これは多くの点で幸運なことである。価格機構なしには、我々の社会のような広汎な分業に基礎を置く社会を維持することはできないとする命題が、フォン・ミーゼスによって二十五年前に初めて提起されたときには、それは嘲笑の嵐によって迎えられた。 [F A ハイエク「社会における知識の利用」(ハイエク全集3, 春秋社1990p122 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

752 競争は本来的に意見形成の過程である。競争は情報を普及させることによって、ある経済体制をわれわれが単一の市場と考えるときに前提としている、その統一性と整合性を作り出す。人々がさまざまな可能性や機会について、事実彼らが知っているだけのことを知るようになるのは、競争のおかげである。このように競争は与件における絶えざる変化を含む過程なのであり、従って、競争の意義は与件を不変として扱うどのような理論によっても完全に見落とされてしまわざるをえない。[F A ハイエク「競争の意味」(ハイエク全集3, 春秋社1990 p124 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

753 彼の景気循環論がミクロ的な資本理論や貨幣理論に立脚した非集計的理論であり、かなり複雑な理論構成を取っているのも、実はこうした個人主義哲学への信念がその規定にあるからである。彼はミクロ理論的な説明を与えない単なる数量・計量モデルに批判的であるが、一方そのために彼の景気循環論は数理的厳密化に馴染みにくく、集計的経済量の間の統計的傾向法則を軽視することになった。 [加藤寛「ハイエク全集2利潤、利子および投資 解説」(春秋社1990) p228 ]

754 山東の東平の知事に就任したときのやり方も、甚だ独自であった。これもその土地の風土の楽しさを聞いて、みずから知事を買って出たのであるが、驢馬にまたがって任地につくと、役所の壁ついじをすっかり取りはらわせ、執務のようすを人民に公開した。 [吉川幸次郎「阮籍の「詠懐詩」について」(岩波文庫1981p19]

755 母の死んだ時のこと、宰相の裴楷が弔問に来た。喪主の阮籍は、例のごとく酔っぱらい、さんばら髪で、あぐらをかいたままである。しかし裴楷は、かたのごとく弔問の礼をおこなって去った。人が裴楷をなじると、裴楷は答えた、

彼は彼の世界に生きている。おれは世俗の人間だ。おれはおれの世界の定めに従う。時人は、その両方をほめたという。 [吉川幸次郎「阮籍の「詠懐詩」について」(岩波文庫1981p23]

756 一年、小田原にて馬盗人を捕へて、之を長氏の前に出だす、其賊曰く、某盗みしことは定まりなり、あの國を盗みたる人は如何に、と長氏を指す。長氏、之を見て器量ある奴なり、と言て之を免るせり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之一 北條長氏(岩波文庫(1) p47]

757 長氏嘗て人をして三略を読ましむ、夫主将之法務攪英雄心。と云ふ一句を聞き、早や合点したるぞ余は読むに及ばずと言て読ましめず。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之一 北條長氏(岩波文庫(1) p48]

758 当時は普遍が実在の基礎と見られていた。─中略─たとえば、まず「人間」が在って、それからそれに属する個体として「個人」が存在する、と考えられていた。だから、普遍からの個別化がどのように理解されるべきかが、むしろ問題になったのである。─中略─個物から普遍が認識される過程を究明するのは、実は自然学か心理学の態度であって、哲学としては反対に、実在する普遍がいかにして感覚にとらえられるような個別者に収斂しているかを究明すべきなのだ、というのが中世の典型的な理解なのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)個別性についてp96-7]

759 ヨハネス・ドゥンスは、個別化の原理を、質料ではなく、形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」formalitas という)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである。

─中略─ しいて言えば、ヨハネスは個物性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える。個別性の起源をトマスのように質料に置いて考えると、個物が「一つ一つのかたちで在る」ことには大した意義はないと考えられた。すなわち、ものがある時間在る場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、そのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられた。

 これに対して個別性の起源を形相(現実態)の側に置くと、それが「何であるか」ということも重要ではあるが、さらにそれよりも、「一つ一つのかたちで在る」ことが、いっそう意義があると見なされることになる。どういう意義かと言えば、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)個別性について p113]

760 ヨハネスでは、人間知性はたしかに抽象によって普遍をとらえるのであるが、これは知性の最高の認識形態ではなく、個物を個別性のまま直観することが、実は最高の認識形態なのだ、という主張が出てきているのである。こうな[八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)個別性について p114]

761 ヨハネス以前の説明では、この個別性の発現は付帯的なことがらであって、重要性は薄い、と見られていた。─中略─これに対してヨハネスは、個別性は本質に対して付帯的であることを認めながら、この付帯性によって、色や形といったほかの付帯性にはないある特別な完全性が本質に与えられる、と言うのである。[八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)個別性について p116-7]

762 ヨハネスの説によって、個人が、奇跡的に直接神と関わることが考えられようになった。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)個別性についてp119]

763 ソクラテスとその弟子たちは、問答を通じて真理を求める求道者と考えられたのであるが、それは新たに知識を手に入れることではなく、すでに心のなかに在るはずの知識を思い出すための作業だったのである。

 つまりプラトンは認識に関しては、一種の生得説をとなえていたのである。簡単に言えば、真実は心のなかに隠されていて、わたしたちが真実を知るのは、本当は「思い出す」ことなのだ、と言う見方である。

中略

アリストテレスは、プラトンの想起説に真っ向から反対して、「経験論」をとなえていたのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)記憶と理解と愛 p133-5]

764 現代では意識的にある観点から普遍性を取り出すことを抽象と言うが、中世では違うのである。中世では、抽象作用は、知性のはたらきが開始する位置に置かれるものであり、無意識のうちになされる偉大なはたらきなのである。個別的なものから普遍的な種の概念が抽象され、これによって、「ことば」が当てはめられる概念が得られ、ことばの使用が可能になる。つまり「ことば」が活躍する世界は、すでに最低限の抽象経た普遍的な種の次元にあって、個別的なものへの言及は、そのつど知性が感覚表象へ回帰することでなされる、と考えられたのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)記憶と理解と愛 p137-8]

765 感覚と知性の間に、質の違いをどの程度に考えるかは、ヨーロッパ哲学の理解にとって、きわめて重大なポイントである。実際、ヨーロッパ哲学には繰り返し、存在と非存在、知性的存在と感覚的存在、精神と物質など、二元論が表現を変えて現れるが、どれもすべて同じ伝統から生じるのである。中略フッサ-ルが「学的厳密さ」を追求したときにも、この二元論は端的な前提なのである。当人がどれほど「二元論」を否定しても、ヨーロッパ哲学ないし科学は、二元論なしには成り立たないと言っていい。二元論あっての科学であり、哲学なのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)記憶と理解と愛 p141-2]

766 科学において偶然から必然が生じる理由は説明しがたいように、哲学において個物から普遍が生じる知性の抽象作用は、説明しがたいのである。なぜなら、個と普遍の対立性は、偶然と必然の対立性と等しい対立性だからである。

 繰り返すが、この謎を意識することが、ヨーロッパ哲学を理解するカギである。決してこの問題を解決すること、すなわち、二元論を解消することがヨーロッパ哲学を理解する道ではないし、ましてやヨーロッパ哲学の発展ではない。なぜならヨーロッパ哲学は、実はその対立から生まれている運動だからである。[八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)記憶と理解と愛 p142]

767 ヨハネスは、自由を、理性が担当する正しさとの関係を断って、それ独自に尊重されるものにしたのである。理性の認識がなければ、意志ははたらきをもてないとしても、意志のはたらきこそ自由の根拠があり、理性のはたらきにはむしろ本性的な必然性がまとわりつく、とかれは主張した。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p171]

767 ヨハネスによって、自我の根拠としての意志の能力が、理性が判断する善と切り離されたのである。その結果、意志的自我は「善さ」という自己の存在意義を、自我の内部に確固として見出せなくなったのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p177]

768 もともと理性は善美を見出すことを使命とする能力であった。なぜなら理性によって善美を見出すことによってわたしたちは、自己が生きることの意義を見出すことができたからである。したがって、意志が理性から切り離されると、意志は意志のみでは存在意義を見出すことはできないのであるから、理性との関係を断ってはたらくことは、自殺行為になる。

 言うまでもなく、ヨハネス自身はこのことを十分に理解しているように見える。なぜならかれはそれゆえに、理性がもっている「意志を指導する力」(実践理性)のはたらきを、重視しているからである。

中略

 ところが、ヨハネス自身の主張から離れ、意志が意志のみで自由であることが一人歩きし始めると、人は不幸な運命に襲われる。なぜなら意志には自己の存在根拠(善)を見出す力はないからである。言うまでもなく、哲学思想はなかんずく理性によってある。」自由がこの理性から切り離されて論じられ、それが中世からの解放であるかのように哲学者がもてはやすとき、思想は根拠(善)を失って崩壊する。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p178-9]

769 意志は、ヨハネスによれば、本質的に自由であり、この自由を誇りにする以外に何も持たない能力なのであった。  [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p182]

770 ヨハネスは、意志の自由を強調することによって、キリスト教神学は、意志のはたらきを導く実践学(scientia practica)として、わたしたちにとって絶対に必要な学問なのだ、と言うことができたのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p194]

771 ものの間の関係性の「必然」necessitas は、個々のものが神の意志によって在るという「偶然性」contingentiaに支えられている。神学者としてのヨハネスは、このことを強調している。つまり、その意味で、この宇宙に見られる必然は、ヨハネスによれば、すべて偶然的に在る必然なのである。 [八木雄二「中世哲学への招待「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために」(平凡社新書069)自由と意志 p208]

772 伊勢物語はすべてを人物の内面にしぼりこみながら、直接に内面を語ることをせず、内面に深く連なるような外的行為・外的状況を厳しく選ぶ態度をとり、それに内面追求を賭けたのである。これは竹取物語が、出来事の外面にかかずらわったがゆえに外面記述の文章であったのとは、まったく異質なことである。 [渡辺実「平安朝文章史」第二節 いちはやき到達伊勢物語 (ちくま学芸文庫p062 〔筑摩書房2000、原著1981]

773 もともと平安朝の仮名文に接続詞そのものは少ないのだが、前文との関係づけの言葉を要所に備えた仮名序は言わば仮名文の異色であって、貫之が論を成そうとしたことが、このような形へのあらわれによって確認できるかと思われる。 [渡辺実「平安朝文章史」第三節 晴のかな文古今集仮名序 (ちくま学芸文庫p081 〔筑摩書房2000、原著1981]

774 蜻蛉日記は、証本とすべき伝本がなく、諸本の異文による校訂といった程度のことでは、安定した本文が得がたくて、意改を含む本文整定を避けるわけには行かない作品である。そして、どの写本によっても意が通ぜず、意を持って改めつつ読むしかないというそのことに、蜻蛉日記の作者である道綱母の、文章の方法が反映しているように思われる。 [渡辺実「平安朝文章史」第六節 当事者的表現蜻蛉日記 (ちくま学芸文庫p145 〔筑摩書房2000、原著1981]

775 評論風な消息文が、記録的な日記と共存し連続しえたところにこそ、紫式部の文章の特色があらわれているように思われる。 [渡辺実「平安朝文章史」第九節 操作主体紫式部日記 (ちくま学芸文庫p234〔筑摩書房2000、原著1981]

776 国の文明は形をもって評すべからず。学校といい、工業といい、陸軍といい、海軍というも、皆これ文明の形のみ。この形を作るは難きに非ず、ただ銭をもって買うべしと雖ども、ここにまた無形の一物あり、この物たるや、目見るべからず、耳聞くべからず、売買すべからず、貸借すべからず、普く国人の間に位してその作用甚だ強く、この物あらざればかの学校以下の諸件も実の用をなさず、真にこれを文明の精神と言うべき至大至重のものなり。蓋しその物とは何ぞや。云く、人民独立の気力、即ちこれなり。 [福沢諭吉「学問のすゝめ」五編(岩波文庫)p48]

777 この書物でとりあつかうことは、社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態のことである。この状態を、われわれは本書を通じて自由(liberty あるいはfreedom)の状態として説いてゆく。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第一章 自由と個別的自由 p11]

778 ひとたび、自由を権力と同一視することが許されると、「自由」という言葉の魅力を利用して個人の自由を破壊する手段を支持する詭弁を押さえるものがなく、人びとに勧めて、自由の名のもとにかれらの自由を放棄させる策略にも果てしがなくなるのである。環境を支配する集合的な力の観念が個人的自由の観念におきかえられ、そして全体主義国家において自由が自由の名のもとに抑圧されてきたのは、このあいまいな語法に助長されてのことであった。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第一章 自由と個別的自由 p17]

779 自由の本来の意味と、自由を権力とする考えとを混同することは、不可避的に富と自由とを同一視することになる。富の再分配にたいする要求を支持するにあたって、「自由」という言葉にともなうあらゆる魅力を利用することが可能になる。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第一章 自由と個別的自由 p30]

780 自由についてのわれわれの概念が消極的にとどまることからしばしば反対をうけることがある。平和もまた、消極的概念であり、安全または静けさ、またある特定の障害とか災いのないということも、消極的であるという意味で、このことがあてはまる。自由はこの種の概念に属している。それはある特定の障害、つまり他人による強制がないことをあらわしている。それが積極的になるのは、われわれがそれから生みだすのを通じてのみである。自由はどんな特定の機会をもわれわれに保証するものではないが、みずからおかれている環境をなんのために利用するかの決定をわれわれにまかせるのである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990)(気賀健三、古賀勝治郎訳)第一章 自由と個別的自由 p33]

781 強制は全面的に避けることはできない。というのは、これを防ぐ道は強制の脅威によるしかないからである。自由社会はこの問題に対応するために、国家に強制の独占権を与えた。そして、国家のこの権力を私人による強制を防ぐことが必要である場合だけに限定しようと試みた。このことが可能であるのは、個人のある既知の私的領域を他人の干渉にたいして国家が守ることと、これらの私的領域を限定することによるしかない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第一章 自由と個別的自由 p36]

782 どんな経路を通じて、その人の実例が、他人に伝わって、そのあとに続くのであるかについては、ほとんど予測の方法がない。このように、実際に、行動をひきおこす知識と熟練の組合せで、しかも、ひとたび発見されれば、一般にうけいれられることのできるような適切な慣行、または工夫の発見を生みだすごとき組合せを、すべて残らず想像することはむずかしい。しかし、無名の人たちが、変化した事情のもとで、ありふれたことを繰り返していくうちに、無数のささいな行動を重ねることから、広くいきわたる型が発生する。これらの型が重要であるのは、それなりに明白に認識され、かつ伝達される主要な知的革新と同様である。中略知識と才能の有効な結合は、共通の討議によって、すなわち共同の努力によって問題解決を求める人びとによって選ばれるのではない。それは、自分達よりも成功した人人を模倣する個人の産物であり、また、個人がその生産物にたいして与えた価格とか、行為の基準をかれらが守ったことにたいして示される道徳的、審美的評価の表現のような、記号またはシンボルによって導かれることから生じる産物である。つまり、他人の経験ともちいることの産物である。[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty,1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 p122 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由明の創造力 p46-47]

783 少なくとも清少納言なら、中略始めから正直に語ってしまうところを、紫式部は、他の事柄を述べる中に伏線を設け、景色や音響を叙述する過程の中で、全体の状況がおのずから浮かび上がってくるように仕向けるのである。述語でない単語すらが述べ、述語は高次の述語へと発展解消して、同一文中に次元の異なる事柄が多く描きこまれて行く。そのような質と内容とをそなえた書き方が、紫式部の文章なのである。

 次元の異なる事柄を同一文中に描きこんで行く、というのは、おそらく、表現主体である紫式部において、つねに一般的・普遍的なものへの関心がある、ということを意味するであろう。 [渡辺実「平安朝文章史」第九節 操作主体紫式部日記 (ちくま学芸文庫p241-2 〔筑摩書房2000、原著1981]

784 われわれは、文明の進歩あるいはその保持さえ、偶然のできごとのおこる機会をできるだけ多くすることに依存しているということを認識しなければならない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 p122 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p48]

785 有益な結果が生じることが前もってわかっている場合だけに自由を許すのは自由ではない。どのように自由が行使されるか知っているならば、自由を擁護する理由はほとんど消滅してしまうであろう。ある人による自由の行使が望ましいと思われない場合でも自由が許されるのでなければわれわれは、自由の利益を得ることはないし、自由によって与えられる予想しがたい新発展を手にすることもできないのである。それゆえに、個人の自由に反対して、自由がしばしば濫用されるという議論は反論にはならない。自由は必然的に、われわれの好まない多くのことが行われることを意味する。自由にたいするわれわれの信仰は、特定の事情の下での予見できる結果にあるのではなく、差し引きして、悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するであろうという信念にもとづいている。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960)第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p50]

786 知的過程とは、要するに、単にすでに形成された考えの彫琢、選択および排除の過程に過ぎない。 [FA ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p55]

787 自由社会の特徴の一つは、人間の目標が開かれていること、すなわち、はじめはほんの少数の人びとからおこってきた意識的努力の新しい目的であったものが、やがて多くのひとびとの目的となるということである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p56]

788 もちろん、われわれの価値が進化の産物であると実際に理解しているからといって、それらがどうあるべきかに関する結論をひきだすことができると信じるのは誤りである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p57]

789 理性を用いるのは、管理と予測能力を目的とする。しかし理性の前進の過程は、自由と人間行動の予測不可能性にもとづいているのである中略前進がおこるためには、理性の成長を生みだす社会過程が理性による管理から自由でなければならないことにかれらは気づいてない。

 過去の人間のもっとも偉大な成功のうちのいくつかは、人間が社会生活を管理できなかったという事実によってもたらされたことはほとんど疑問の余地がない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第2章 自由文明の創造力 p60]

790 人間の理性は、みずからの未来を予測することも意図的に形づくることもできない。人間理性の前進は、それが誤っていたところを見いだすことにある。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第3章 進歩の常識 p63]

791 今日、もしアメリカあるいは西ヨーロッパにおいて、比較的貧しい人びとがかれらの所得のかなりの部分を費やして、自動車か冷蔵庫、飛行機旅行かラジオを持つことができるとすれば、それは過去に、もっと多くの所得のある他の人びとが、その時にはぜいたくであったものに支出することができたから可能になったのである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第3章 進歩の常識 p63]

792 経久、人と為り智勇兼備せしのみならず、吾身露宿風餐して、艱難辛苦を嘗めて後、数州を領せし人なれば士民の疾苦を能く知り、民を愛し之を使ふに時を以てし、士を撫し之を見るに禮を以てす。賢を尊ぶに爵を以てし、士を招くに禄を以てす、之に依り勇士謀臣、風を望み、招かざるに来り、喚ばざるに集まりぬ。故に元就も、経久が代には尼子に対して忠を盡くせり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之二 尼子経久(岩波文庫(1) p106]

793 此役、晴賢、元就并に伊予の河野に使を遣はして船を借る、晴賢は何となく借りたり。元就は只一日借し賜はれ、宮島に渡りて、即ち戻すべし、子細は軍に克ち候へば、勿論船は入らず候、只宮島へ渡海の中計り借り申べくとありしかば、来島通康聞て一言なれど、思ひ入れたる所あり、毛利必ず勝べきことあり。疑ふべからずとて、三百艘を借したりけり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之四 毛利元就(岩波文庫(1) p142]

794 元亀元年、出雲島根の陣にて、元就の岩木源六郎道忠、左の膝口を射られ、鏃骨體に残りて愈えず。元就医をして見せしむるに切らずんば愈えずと言ふ。元就叱て之を退け、自ら口を以て膿を吮ひければ、遺鏃口中に入る、之に依て平愈することを得たり。道忠感激し、死して恩に報ぜんとする志、顔色に顕はれたり。

元就之を見て汝我挙動に感じ、厚き恩信を思はゞ大勇の者にあらずと、深く誡めけり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之四 毛利元就(岩波文庫(1) p148]

795 元就、談話の時、儒臣法橋恵斎傍に在り、方今君の神武中国に輝き、万民湯武の世に逢ひたると悦服致し居る由を申ければ、元就聞て湯武の世には汝が如き諂臣なし、是を以て之を見るに、我等湯武に及ばざることを知るなりと言はれけり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之四 毛利元就(岩波文庫(1) p152]

796 ゆたかな社会は、くり返しながら、一言でいってしまえば、各人が、その多様な夢とアスピレ-ションに相応しい職業につき、それぞれの私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定な家庭を営み、安らかで、文化水準の高い一生をおくることができるような社会を意味する。 [宇沢弘文「社会的共通資本」(岩波新書、2000]

797 自由は自然の状態ではなく、文明の構築物であるけれども、それは設計から生まれたものではなかった。自由が創造したあらゆるものと同様に、自由の制度は人びとがその制度からある利益をうけることを予想して制定されたものではなかった。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p81 (Or. p54)]

798 これらのイギリスの哲学者(引用者註:Hume, Smith, Ferguson, Tucker, Burke など)は、文明の成長について、いまなお自由擁護論の欠くことのできない根拠となっている一つの解釈をわれわれに示した。かれらは制度の起源を発明あるいは設計ではなく、成功したものの存続に求める。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p85 (Or. p57)]

799 この社会進化の過程において淘汰のはたす役割をわれわれは強調しておかなければならないが、今日では、われわれが生物学からこの考えを借りてきているという印象を生みがちであるので、事実はその反対であったことを力説することは意味のあることである。ダーウィンとかれの同時代人がかれらの理論についての示唆を社会進化の理論からひきだしたことはほとんどほとんど疑う余地がない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p88 (Or. p59)]

800 設計されたものではない規則としきたりのもつ意義と重要性をほとんど理解せずにそれに従うこと、伝統にたいするこの敬意こそ、合理主義的な考え方と相容れないものである。ただし、その考え方は自由社会の機能にとっては欠くことのできないものである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p94( Or. p63)]