II  901-1003 

半藤一利「ノモンハンの夏」    清水幾太郎「倫理学ノート」    九鬼周造「「いき」の構造」    ウィトゲンシュタイン「哲学探究」   ロールズ「正義論」  ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」

901 一年前の張鼓峰事件のさい、天皇は激怒して板垣陸相にいった。「こんごは、わたくしの許しなくして一兵たりとも勝手に動かすことまかりならん」

 叱責どこ吹く風で、陸軍はこんども大元帥を無視して軍を動かした。「朕の命令」なくして軍旗を奉持した大部隊が動いたのである。陸軍は自分の意志を推しとおすためには、外には統帥権の独立を強調し、利用した。しかし自分に都合の悪いときには都合のいい理屈をつけて、これを完全に無視したのである。彼らは「天皇の軍隊」を誇示しながら、天皇に背くことにまったく平気であった。 [半藤一利「ノモンハンの夏」(文芸春秋1998p106-7]

902 ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程を見るとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。そして人は何も過去から学ばないことを思い知らされる。 [半藤一利「ノモンハンの夏」(文芸春秋1998p350]

903 一般に思想という曖昧な言葉で呼ばれているものは、敵との関係においてのみ、敵と味方とを含む全体性の一部分としてのみ、従って、敵が生きた力を持っている限りにおいてのみ、生命と意味とを持つことができる。強大な敵との衝突が発する火花の中にだけ、それは生きることが出来る。敵が弱くなったとき、生命を失ったとき、宛も勝ち誇ったように見える思想は、実は、敵と同様に弱くなり、敵と同様に生命を失っている。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p24-5]

904 もっとも、ムアは、定義が不可能なものについてのみ述べているわけではない。彼は、定義が可能な一つの例として「馬」について述べている。善は定義することが出来ないのに反して、馬は定義することが出来る。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p54]

905 ミルが善について論じたのは、それを定義するためではなかった。善という言葉の定義を倫理学の根本問題と考え、「その点の解答が明確に認識されない限り、倫理学の他の部分は· · · 無用も同然である」と説くような倫理学者が後世に現れることを、ミルは全く予想していなかったであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p68]

906 ムアに続く人たちは、二つの命題(事実判断と価値判断)の間に横たわる「永遠の重大な深淵」を認めることで一致している。自然主義的誤謬は、この深淵に気付かぬところから生まれるものである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p72-3]

907 ムアにおいてdesirable desired とが決定的に切り離されているのと反対に、ヒュームにおいては、desirable desired とは或る連続性を保っている。ムアが架橋不可能と見た深淵が仮にあるとしても、ヒュームは、それに立派なを架けている。あの明快な二分法にも拘わらず、ヒュームは、自然主義的誤謬を犯しているのであろう。人間というものに素直な関心を抱くに従って、私達は、自然主義的誤謬を避けることが困難になって行くように思われる。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p76]

908 ムアたちが価値の世界を守るために放逐した自然的なものと、ヴェーバーたちが科学の世界を守るために放逐した価値とは、次第に近づいて、やがて、一つに融けて行くように思われる。この一つのもの、すなわち、倫理学からも経済学からも締め出されたもの、それは、どこかで、人間の野性的なエネルギーと結び=ついている。そして、それが、倫理学にとっても、経済学にとっても、タブーなのであろう。それは、捨てられたものであり、野放しにされたものである。私は、取敢えず、それを生命と呼ぶ。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p81-2]

909 私たちの生活に現れる無数の判断は、それが無意味なものでない限り、その大部分が価値判断であるか、乃至は、価値判断としての機能を営むような事実判断である。価値的文脈から全く独立な事実判断を口にするような人間は、狂人としか考えられないであろう。現実とは価値判断の充満する世界のことである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p87]

910 ベンサムは、効用の個人間比較を始とする困難のすべてを認める。ロビンズに限らず、後代の人たちは、この困難を認めることを通じて、ベンサムに非難を加えたのであり、また、無差別曲線を用いて困難を回避することによって科学の純粋性を救ったのであり、また、同時に、その代償として、科学の現実的意味を捨てたのである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p129]

911 彼(=ベンサム)は、政策および改革のために生きた。そういう生き方を彼に選ばせたのは、人間の生活に対する彼の関心であり、社会の貧困や不正に対する彼の憤りであった。経験が彼を動かした。幸福計算も、この政策や改革に出来るだけ確実な基礎を与えるための企てであって、優美なフォーマリズムを打ち樹てることが、彼の目標ではなかった。幸福計算は、遠い昔から、人類が無意識的に行って来たものであり、ベンサムは、それに新しい反省を加えたので有ろう。この反省も、彼の経験から、すなわち、周囲の人間の生活および行為に対する綿密な観察から生まれている。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437,原著1972) p149]

912 快楽および苦痛というのは、ベンサムにおいて、人間にとってのプラスおよびマイナスと言い換えることが出来るような広さを持っている。この広さに相応しい用語は、探せば見出されたであろう。それを敢えて探さなかったのは、地上の人間の平凡な真実に忠実であろうとしたためということもあり、また、それと同時に、政策の立場からの要求ということもあったように思う。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p150]

913 遡って考えれば、価値や価値判断は、単に人間の世界だけでなく、広く生物の世界の条件なのである。それは、生命というものと切り離すことが出来ないもの、いや、それが生命であるようなものである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p195]

914 大きな歴史の中で掴めば、環境に含まれる諸事物との間で困難に出会う人間と、これらの諸事物の科学的研究に従事する人間とは別のものである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972)p199]

915 今までも、科学の世界と人間の世界とは、直接間接、方々で触れ合って来たし、今後は、ふれあいが益々増加するであろう。しかし、増加するというのは、二つの世界が重なり合うということではない。人間の世界には、研究者が不潔なもののように扱う価値や価値判断が充満している。それらは、誰かが新しく発見したり、新しく定立したりするまでもなく、私たちの内外に満ちている。私たち自身、それらの間へ生まれ、それらを母乳と一緒に吸い込むことによって成長したのであるし、また、私たちの社会がとにかく存続しているのも、多くの価値が或る程度の衝突を含みながら多くのメンバーによって共有され、彼らの行動に或る方向を与えているからである。ここには、価値判断の先行と優越とがある。それは、人間の世界の永遠の文脈である。この文脈の中にいる人間が一片の科学的知識を求めるとしたら、この一片が形式において申分のない事実判断であるとしても、それは機能において申し分のない価値判断であるだろう。そういう機能を期待することが出来なかったら、誰も知識などを求めはしない。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p200-1]

916 F H ナイトは、或る書評の中で、「エモーションや価値判断を非難する価値判断のエモーショナルな宣言」は「ユーモアが欠けている証拠」である、と考えている。ユーモアが欠けているというのは、余裕がないと言い換えてもよいであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p202]

917 普通の人たちが、諸科学の発達を知りながら、しかし、この新しい時代における人間の幸福について考えた末、最後の期待を哲学にかける時、彼らが本気であることを私は知っている。本気である人々に答えるには、私は親切でなければならない。そう思いながら、私はいつも一つの譬え話をして来た。二十世紀の哲学には、物判りのよい老夫婦のようなところがある。彼らは、今が新しい時代であることを悟り、また、新しい時代の主役が科学という若夫婦であることを知っている。自分達も新しい時代に生きようというのなら、精々、若夫婦の生活に干渉せず、その邪魔にならないような態度で暮らしていかなければならない。それには、昔の夢は捨てて、万事、若夫婦の暮らし方を謙虚に見倣って、大いに民主的に振舞わなければならない。老夫婦は、独立の人格というより、若夫婦の影のようなものになる。それだけに、若夫婦の生活に深刻なトラブルが起こったような場合、老夫婦はただ途方に暮れるばかりで、全く頼みにならない。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p204-5]

918 彼(= S F バーカー)によれば、分析哲学の根本的主張は、分析命題と綜合命題とのシャープな区別および先天的命題と経験的命題とのシャープな区別にある。そして、分析哲学の根本的誤謬は、これらの区別を自明のものと考えるところにある。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p207]

919 現代の哲学者にとって、ナンセンスでないものが論理と経験とであるという場合、経験はいかに抽象されているのか。センスとナンセンスとを選別し、塵芥を外部へ排除するという立場からすれば、一つの大いなるものとしての経験ほど、ナンセンスや塵芥に埋もれたものはない。ことによると、ナンセンスや塵芥が一般に経験と呼ばれているのかも知れないのだ。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p209-10]

920 「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎付けようとすることは大いなる誤謬である。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表しているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下に成立する。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さと深さにおいて具現していることは稀である。客観的表現は「いき」の象徴に過ぎない。それゆえに「いき」の構造は、自然形式または芸術形式のみからは理解できるものではない。そ反対に、これらの客観的形式は、個人的もしくは社会的意味体験としての「いき」の意味移入によって始めて生かされ、会得されるものである。 [九鬼周造「「いき」の構造」(岩波文庫) p88-9]

921 パリの旅宿で『「いき」の構造』の想をを練っているとき、辰巳芸者のイメージが目前に生きていたことは間違いない。 [多田道太郎「九鬼周造「「いき」の構造」解説」(岩波文庫) p203]

922 『「いき」の構造』は一人の女性を論じたものではもちろんない。しかし私は、著者の心の傷の向こうに、描かれていた女性の姿のあったことを、疑うことは出来ない。 [多田道太郎「九鬼周造「「いき」の構造」解説」(岩波文庫) p204]

923 現代の哲学者にとって、ナンセンスでないものが論理と経験とであるという場合、経験はいかに抽象されているか?センスとナンセンスを選別し、塵芥を外部へ輩出するという立場からすれば、一つの大いなるものとしての経験ほど、ナンセンスや塵芥に埋もれたものはない。ことによると、ナンセンスや塵芥が一般に経験と呼ばれているのかも知れないのだ。それゆえに、極端に慎重に振る舞おうとすれば、経験に手を出さないに越したことはない。中略多くの研究領域から次々に排除されて行く塵芥の中には、丹念に調べてみると、単に価値的な問題だけでなく、と書く価値との関係が疑わしい経験的な問題が数多く見出されるであろう。誰かが悪意を持っているわけではない。ただ、厳密性が美徳であるような文化の中に私たちが生きているということに過ぎない。論理も経験も、この美徳に使えるために、選別の基準になったのである。この文化の中で、この文化のために、経験は、それに相応しい抽象を加えられねばならぬ。それは、センスとナンセンスとの選別に役立つように、また、論理と見合う一つになるように抽象されねばならぬ。こうして、感覚与件としての経験が生まれた。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972)p211-2]

925 誰でも直ぐ気がつくことであるが、検証可能性の権利そのものは、この原理によって自己を主張することは出来ない。検証可能性の原理は、トートロジーでもなければ、検証可能な命題でもない。それは、ナンセンスな形而上学的命題と見るほかないであろう。検証可能性の原理は、自分以外の命題の多くをナンセンスとして追放しながら、しかし、考えてみれば、自分自身も一つのナンセンスなのである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p215]

926 決意というのは、論理の内部の出来事ではない。元来、決意の入り込む隙がないように決定されているのが論理なのであるから。それゆえに、決意は論理の始まる以前に行われる。それが行われる場所は、人生、現実、経験、歴史など、いろいろの名称をもって呼ばれる。それを何と呼ぼうと、決意は論理以前の場所で行われ、しばしば、この場所に見出されたものが論理に向かって方向を与える。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p216]

927 ダーウィンの意味は、彼が生物進化の事情を明らかにした点にあるだけでなく、人間に生物としての自覚を要求した点にある。人間に関する一切の研究は、この自覚の上に立つか否かによって、ダーウィン以前とダーウィン以後とに区別される。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p224]

928 言語のことだけを考えて、世界のことを考えない言語学的哲学というのは、もう時間は教えないが、以前よりも速く軽快な調子で動くから、という理由で振子のない時計を好む子供のようなものである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p236]

a clock with a pendulum which could be lifted off Russell E Gellner Words and Things(1959) への序文に出てくる。

929 ヴィトゲンシュタインの場合は、あまり長くもない生涯において、分析から生命への転回が行われたように思われる。WI からWII への変化は、分析から生命への変化なのであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p244]

930 意味は、これらの言葉自身の分析によってでなく、これらの言葉を包む条件の理解によって明らかになる。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p256]

931 わたくしは、自分の手稿によって他の人が(みずから)考える労を省くようになるのを望まない。出来ることなら、誰かが自分自身で考えるための励ましになりたいと思っている。

I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own.(p.x) [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)序p11]

932 意味という、かの哲学的な概念は、言語の働きかたに関する一つの原初的な観念のうちに安住している。しかし、それはわれわれの言語よりももっと原初的な言語の観念だとも言えるのである。

That philosophical concept of meaning has its place in a primitive idea of the way language functions. But one may also say that it is the idea of a language more primitive than ours. (p3)  [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)2 p16]

933 一つの言語を想像するということは、一つの生活様式を想像することに他ならない。

And to imagine a language means to imagine a life-form. (p 7) [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)19 p26]

934 「言語ゲームという言葉は、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない。」

Here the term “language-game” is meant to bring not prominence the fact that the speaking of languageis part of activity or of a life-form. (p10)  [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)23 p32]

935 言語ゲームの多様さを目にとめてないひとは、「問いとは何か」といった問いを発したくなるであろう。[ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)24 p33]

936 ひとは、しばしば、動物たちは精神的諸能力を欠いているから話をしない、と言う。そして、このことは、「かれらは考えない、それゆえ話をしない」と言うことである。しかし、動物たちはまさに話をしないのである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)25 p34]

937 1929 年のある論文の中で、ラムゼーは言っている。「怠惰と曖昧ということを除けば。私たちの哲学の主たる危険は、スコラスティシズムにある。その本質は、漠然たるものを精密であるかのように取扱い、これを厳密な論理的範疇に会わせようと試みることである。...」 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p260]

938 正直を言うと、私は、かねがね、Sprachspiel language-game と訳されているのに不満であった。といって、この訳語にはヴィトゲンシュタイン自身の責任もあるであろうし、また、私が別の訳語を提案する智慧を持っているわけではないけれども、Sprachspiel Spiel には、Spielraum—「活動の余地」とか、「活動範囲」とか訳すのであろうというような言葉が示している、活動という含みや感じがあるのに、それがgame では見られないからである。次の一句を読むと、ヴィトゲンシュタイン自身も、この訳語にあまり満足していなかったのではないかと思われてくる。「“Sprachspiel” という言葉を使うのは、ここでは、言葉を話すことが、或る活動の、或る生活形式の一部であることを強調するためである。」イタリックは、ヴィトゲンシュタインによるものであるが、language-game では、いくらイタリックにしても、そういう効果は挙がらないであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p268]

939 有利性のこの分割を決定するさまざまな社会的取り決めの中から選定を行ない、適正な分配上の取り分についての合意を取り付けるためには、一組の原理が必要とされる。これらの諸原理が、社会正義の諸原理である。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls,(Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p4]

940 異なる正義の概念を持っている人々は、基本的な権利と義務の割り当てに際して、人々相互の間に恣意的な区別がなされていず、ルールが社会生活の有利性に対する競合する諸要求の適正なバランスを決定しているとき、制度は正義であるということに、なお合意することが出来る。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p5]

941 明確に表現され得ない事柄、そういう事柄を持ち出す人間、そういう事柄を含む研究は、すべて卑しいもののように見られて来た。それが現代における科学という下位文化の一つのモラルであり、併せて、科学に高い意味を認めている現代の文化そのもののひとつのモラルである。この下位文化および文化の完成にかつて或る決定的な役割を果たしたヴィトゲンシュタインが、翻って、これらのものに自己を対立させようとする。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p275]

942 ヴィトゲンシュタインは、Exaktheit Genauigkeit について、くどいほど述べている。それを述べるのは、生活の文脈から切り離された時に、これらの美徳が空回りを始めるからである。空回りをしないためには、美徳は、生活の文脈の内部で効用と噛み合わねばならない。意味は正確さそのものにあるのでなく、役に立つ正確さにある。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p279-80]

943 『哲学的探究』の含まれる絶対的確実さに対する嘲笑とも解される多くの言葉は、そのまま、『トラクタトゥス』に対する、その著者である自分に対する嘲笑であるように思われる。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p280]

944 エンゲルマンが指摘しているように、ヴィトゲンシュタインには、沈黙を守るべき何物かがあったのに対し、彼を指導者と仰いだヴィーンの論理実証主義者たちには、沈黙を守るべき何物もなかった、という点が大切であろう。中略ヴィトゲンシュタインにとって、語り得ぬものは大海であり、語り得るものは、この大海に浮かぶ島であった。ヴィトゲンシュタインと論理実証主義者との距離に気づけば気づくほど、『トラクタトゥス』の末尾の意味が大きくなり、そして、この著作と『哲学的探究』との連続性が浮かび上がってくる。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p281]

945 相手の言葉を絶対に理解しまいと決意した人間は、しばしば、誠実に真理を求める人間として振舞うものである。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p284]

946 「ザラザラした大地」へ戻ろう(註: Zur¨uck auf den rauhen Boden!)と決意したヴィトゲンシュタインは、単に『トラクタトゥス』の自分を裏切っただけでなく、人間と生命と経験との犠牲において絶対的確実性を求め、透明な演繹とフォーマリズムとのうちに満足を見出そうとする近代思想そのものを裏切ったのであった。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p290]

947 われわれは、ものの名について有意義な問いを発するのは、その名によって何かをやりはじめることをすでに知っているひとだけである、と言うことができる。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)31 p39]

948 たとえばチェスの盤は、明らかに、また端的に合成されているのではないか。きみはたぶん32の白い正方形と、32の黒い正方形から成る合成を考えているのだ。だが、われわれは、たとえば、それが、白および黒という色、それに正方形の網目という型から成っている、と言うこともできないだろうか。中略「合成」という語(それゆえ「単純」という語)は、無数の異なった、さまざまなしかたで互いに近似した方式で利用されている。中略

 「この樹木の視覚像は合成されているのか。そうだとすると、どれがその構成要素なのか。」という哲学的な問いに対する正しい答は、「それは、きみが〈合成されている〉ということで何を了解しているか、に依存する」ということである。(しかも、これはもちろん答ではなく、問題の拒否なのである。) [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)47 p52-3]

949 この標本は、われわれがそれを用いて色の言明を行なう、言語の道具である、と。それは、このゲームの中では、叙述されるものではなくて、叙述するための手段なのである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)50 p57]

950 たとえば、われわれが「ゲーム(遊戯)」と呼んでいる出来事を一度考察して見よ。盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか。「何かがそれらに共通でなくてはならない、そうでなければ、それらを〈ゲーム〉とはいわない」などと言ってはならないそれらすべてに何か共通なものがあるかどうか、見よ。なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものは見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかもそれらの全系列を見るだろうからである。すでに述べたように、考えるな、見よ! [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)66 p69]

951 「しかし、〈ゲーム〉という概念がこんなぐあいに未限定でであるのなら、お前は、自分の考えている〈ゲーム〉の何たるかが、もともとわかっていないのだ。」わたくしが「大地はまったく植物で覆われている」という記述をするとき、あなたは、わたくしが植物の定義を下せない限り、自分の語っていることについて何もわかっていない、と言いたいのだろうか。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)70 p73]

952 ゲーム〉という概念は輪郭のぼやけた概念だと言うことができる。「だが、ぼやけた概念など、そもそも概念なのか」ピンボケの写真はそもそも人間の映像なのか。その上、ピンボケの映像をはっきりした映像でおきかえることが、いつも都合のいいことなのか。ピンボケのものこそ、正にしばしばわれわれの必要とするものではないのか。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)71 p73]

953 ある規則が、道しるべのように、そこに立っている。中略いかなる意味でわたくしがそれに従わなくてはならないのかが、その指さしている方向にせよ、あるいは(たとえば)その反対の方向にせよ、どこかに書いてあるのだろうか。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)85 p85]

954 ヴィーコにとっては、真理は、数学における真理ではないし、それを伝達する相手も、純粋の理性的存在ではない。ヴィーコに於ける真理は、たとえば、法廷において争われる真理であり、伝達の相手は、法廷に於ける敵対者であり、裁判官である。そこでは、真理は真理であることだけでは十分でない。真理は,真理であるからと言って、自ら虚偽に勝のではない。真理は真理らしく見えなければならない。中略真理は、レトリックによって自らを真理として示さなければならない。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p321]

955 私たちが幾何学において真なるものを知ることが出来るのは、幾何学の世界が、最初から人間の作りだしたものであるためである。人間は、自分で作り出した事柄についてのみ新なるものを知ることが出来る。それ故、幾何学的方法が物理学で成功するためには、神でなく、人間が自然を作っていなければならない。幾何学的方法の適用によって自然における真なるものが明らかにされたかのように見えはするが、結局、それは蓋然性に過ぎない。この方法は、単に蓋然性に過ぎないものを本当の真理であるかのように見せる術策である。それなら、誰が自然の真理を知ることが出来るのか。神である。なぜなら、神が自然を作ったのであるから。人間でなく神が作り出した世界には、人間の到達し得ないものが最後まで残る。この大いなる残余を感じながら、人間はつねに謙虚でなければならない。壇上のヴィーコは言う。「· · · 私たちの思い上がりを押さえるために、私たちは物理学の研究を進めなければならないのであります。」 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p340-1]

956 その取扱う現象が最も複雑で最も個別的であるために、如何に数学を尊重しても、その光が社会学まで射して来るわけではなく、従って、社会学上の認識は、所詮、相対性を免れず、況して、微積分の利用によって高度の精密性を誇ることは出来ない。無理に誇ろうとする者は、社会および歴史のレベルを去らねばならぬ。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p375]

957 M・ブラックは、自分自身を含めて、この人々を「頑固な少数派」と名づける。この少数派によれば、帰納法を正当化するものがあるとすれば、それは帰納法そのものである。私たちは、それが諸科学の発展に決定的な役割を果たして来たという単純な事実を認めればよいのであって、別個の論理的正当化を必要としない。もし帰納法の根拠を求めるとすれば、それは、論理の平面ではなく、生命および行動の平面に見出されるであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p389]

958 ニュートンの力学をモデルにして、自分の研究を少しでもハードに見せたいと思う研究者たちは、自分達の取扱う対象の実質を犠牲にしてまで、ハードな研究の形式を真似しようとする反面、自分達の研究よりソフトに見える研究に対しては冷たく振舞う。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p395]

959 「不正確」と言うことは、もともと非難さるべきこと、「正確」ということは称賛さるべきことである。そして、このことは、不正確なものはもっと正確なものほど完全にその目的を達成していない、ということである。だから、そこではわれわれが何を「目的」と呼ぶかが問題になる。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)88 p89]

960 論理学はあらゆる学問の根底に横たわっているように見えた。なぜなら、論理的な考察はあらゆる物の本質を探求するからである。それは、ものごとをその根拠において見ようとするから、あれやこれやの現実の出来事などにかかずらってはならないのである。それは自然現象の諸事実に対する興味から生まれるものでもなければ、因果連関を把握する必要から生まれたのでもない。経験的なものすべての基礎ないし本質を理解しようとする努力から生まれるのである。しかし、そのために新しい事実を探し出すべきなのではなくて、むしろ、探求に際してわれわれが新しいことを一切学ぼうとしないということが、われわれの探求にとって本質的なことなのである。われわれは、自分達の眼前にすでに公然と横たわっているものを理解しようとする。なぜなら、それをわれわれは、なんらかの意味で理解していないように思われるからである。[ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)89 p89-90]

961 飢餓あるいは餓死への恐怖は、人間が生物である限り、自然的なものである。歴史を通じて、意識の有無を問わず、この恐怖が人間の生活に「自然の型」を与えて来た。自然的恐怖のゆえに、人間は労働してきたばかりでなく、同時に、思想、挙措、言語、服装を含めて自分の行為の全体にある自発的な限定を加えてきた。(p402)

中略

今日、多くの人々が飢餓の恐怖から解放されたというのは、多くの人々が或る程度まで過去の貴族に似た事情にあることを意味する。しかし、彼らはみな平等な人間なのであろうか。同じく地上に生まれたという理由だけで、彼らを平等と見るべきだろうか。もとより、ある方面からすれば、彼らは正しく平等であろうし、また、他の方面からすれば、彼らを平等であるように取扱うというのが礼儀というものであろう。しかし、道徳の方面から見れば、すなわち、意志による欲望の形成という見地からすれば、残念ながら、彼らを二つのグループに区別しなければならない。中略自然的欲望からの自由において、自ら高い規範を打ち樹て、それへ向かって自己を構成して行こうと努力する少数者と、自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者。飢餓の恐怖から開放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」足ることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向かって「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう。(p436)  [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p402, 436]

962 哲学とは、われわれの言語という手段を介して、われわれの悟性をまどわしているものに挑む戦いである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)109 p97]

963 哲学者の仕事は、一定の目的に向かって、諸々の記憶を寄せ集めることである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)127 p105]

964 本当の発見とは、わたくしの欲するときに哲学するのを中断することを可能にしてくれるような発見のことである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)133 p107]

The real discovery is the one that makes me capable of stopping doing philosophy when I want to.

965 摂関家相伝の家宝は、前にもふれたが朱器台盤という食器セットである。なぜそんなものが藤氏長者の地位の象徴になったのか、という素朴な疑問は、答のでない難問なのだが、朱器台盤を使うのは、任大臣大饗や正月大饗の場面なのである。おそらく摂関の権力の本源は大臣であり、大臣として太政官を支配する大饗という場は、われわれの想像よりずっと意味が大きく、そこで代々用いられる食器にも特別な意味が感じられたのではないか。 [大津透「道長と宮廷社会」(日本の歴史06, 講談社, 2001p128]

966 何人かの研究者が口籠りながら、too precise とか、roughly とか、塵芥とか、包むものとか、unexakt とか、ザラザラした大地とか、散文的リアリティとか、曖昧な口調で洩らして来た気持ちが方々に鬱積している結果であるように思う。現代文化の精神に対する、なかなか言葉になりがたい不満が、人々の間にデカルトへの敵への関心を生みだしているのであろう。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1972) p302]

967 「赤」という音声を聞くとき,自分がどの色を選んだらいいのかを、かれはどのようにして知るのだろうか。きわめて簡単。その語を聞く際、自分の念頭に浮かぶ映像の色を取ればいいのだ。だが、どの色が〈自分の念頭に浮かぶ映像〉の色であるかを、かれはどのようにして知るのだろうか。そのためにさらに別の基準が必要か。(……なる語を聞く際、自分の念頭に浮かぶ色を選ぶ、という出来事は確かに存在する。)

 「〈赤〉というのは、〈赤〉という語を聞く際、わたくしの念頭に浮かぶ色のことを意味する」これは一つの定義であろう。語による表記の本質を説明するものではない。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)239 p175-6]

968 言語による意志疎通の一部になっているのは、諸定義の一致だけではなく、(非常に奇妙に響くかも知れないが)諸判断の一致である。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)241 p176]

969 ことばはどのように感覚を指し示すのか。ここには何ら問題などないように見える。われわれは毎日のように感覚について語り、それらを名指してはいないだろうか。だが、どのようにしてその名と名指されたものとの結合が作り出されるのか。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)244 p177]

970 空の青さを眺め、自分自身に向かって「何て青い空なんだろう!」と言ってみよ。あなたがそれを思わず知らず哲学的な意図などなくやっているとき、この色彩感覚が自分だけのものであるなどということは、あなたの念頭に浮かんでこない。そして、あなたは、この叫びを他の人に向けるのを躊躇しない。また、あなたがこうしたことばで何かを指示するなら、それは空なのである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)275 p191]

Look at the blue of the sky and say to yourself “How blue the sky is” — When you do it spontaneously — without philosophical intentions — the idea never crosses your mind that this impression of colour belongs only to you. And you have no hesitation in exclaiming that to someone else. And if you point at anything as you say the words you point at the sky. I am saying: you have not the feeling of pointing-into-yourself, which often accompanies ‘naming the sensation’ when one is thinking about ‘private language.’

971 痛み〉という概念を、あなたは言語とともに学んだのである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)384 p234]

972 「わたくし」はいかなる人物をも名ざさず、「ここ」はいかなる場所をも名ざさず、「これ」はいかなる名をも名ざさない。だが、それらは名と連関している。名はそれらを介して明らかになる。物理学が、これらの語を用いないことによって特徴づけられていることも、真理である。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)410 p245]

973 出来事の同型性に対する信念の本性は、われわれが期待された物事に恐れを感じている場合に、恐らくもっとも明白になる。何物もわたくしを動かして、手を炎の中へつっこませることなどできないであろう。たとえわたくしが単に過ぎ去った日にやけどをしたにすぎないのだとしても。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)472 p268]

The character of the belief in the uniformity of nature can perhaps be seen most clearly in the case in which we fear what we expect. Nothing could induce me to put my hand into a flame — although after all it is only in the past that I have burnt myself.

974 過去に関する陳述によっては、将来何かが起こることに確信が持てない、と言うひとを、わたくしは理解しないであろう。ひとはそのようなひとにこう問うことができよう。いったいあなたはどういうことを聞きたいのか、いったいあなたはどういうことを「確信」と呼ぶのか、どのような種類の確信をあなたは期待しているのか、もしこれが根拠でないなら、いったいどういうことが根拠なのか、と。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)481 p270]

If anyone said that information about the past could not convince him that something would happen in the future, I should not understand him. One might ask him: What do you expect to be told, then? What sort of information do you call a ground for such a belief? What do you call “ conviction”? In what kind of way do you expect to be convinced? —If these are not grounds, then what are grounds? —

975 よい根拠とは、そのように見える根拠のことである。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)483 p271]

A good ground is one that looks like this.

976 わたくしは命令を、それにしたがって行為できる前に、理解していなくてはならないか。たしかに!さもなければ、あなたは自分が何をしたらいいのか分からないであろう。だが、知ることから行なうことへと、ふたたび飛躍があるのだ! [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)505 p278]

977 自分の腕を挙げるとき、わたくしは大抵の場合、腕を上げようなどと試みていない。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)622 p321]

When I raise my arm I do not usually try to raise it.

978 わたくしが中断された文章を続けていき、自分はあのときこれをこのように続けていこうと思っていたのだ、と言うなら、それは、わたくしが一つの思考過程を短い覚え書きにしたがって仕上げているような場合に似ている。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)634 p325]

979 誰かが他人の顔を記憶の中に呼び起こしているとき、彼はそれをどのようにして行なっているのか。つまり、彼はどのようにしてそのひとを記憶の中へ呼び起こしているのか。どのようにかれはそのひとを呼び起こすのか。 [ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(藤本隆志訳、大修観館書店:ウィトゲンシュタイン全集8)691 p343]

980 正義論は合理的選択の理論の一部であり、おそらく最も重要な一部である。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p12]

981 原初状態とは、到達される基礎的な合意が公正であることを保証する適切な初期のありのままの状態(status quo) である、と私は述べてきた。この事実が「公正としての正義」という名称をもたらす。 [Jロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p13]

982 ここで私が最後に述べる対照は、公正としての正義が目的論的理論ではないのに対し、公理主義は目的論的理論であるということである。そこで定義によって、公正としての正義は義務論的理論であって、正から善を独立に定めることも、善を最大化することとして正を解釈することもない。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p21-2]

983 公正としての正義における、善に対する正のこの優先性は、その概念の中心的特徴であることが、明らかになる。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p21-2]

984 ここで、母国語の文章についてわれわれがもつ文法性の感覚を叙述するという問題と比較してみることは有用である[ここにChomsky が引用されている]中略この企てには、明示された文法上の知識に関するその場限りの準則をはるかに越える理論的構築物を要することが、知られている。同じ状況が、おそらく、道徳論についても成立する。われわれの正義感を、よき知られている常識的な準則によって正しく特徴づけることができると、あるいはより明瞭な学習の原理から導き出すことができると、仮定すべき理由は何もない。道徳的力量の正しい説明には、確かに、日常生活で引き合いに出される規範とか標準を越えた諸原理や理論的構築物が含まれるのである。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第一章公正としての正義p23-4]

985 自由主義的な概念は、明らかに生来の自由の体系よりも好ましいように思えるが、他方、直観的に見て、それには、依然として欠陥があるように思える。中略それは、依然として、富と所得の分配が能力と才能の自然の分配によって決定されるのを許している。中略この結果は、道徳的視点からみて恣意的である。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第2章正義の諸原理p56-7]

986 平等な自由と機会の公正な均等によって求められる制度の枠組を仮定すれば、より良い状況にある人々の高い期待は、次のような場合に限り、正義に適っている。つまり、そのことが、社会の最も不利な立場にある構成員の期待を改善する図式の一部として作用する場合である。

中略

人生の見通しにおけるこの種の初期不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時にのみ、それを正当化することができる。期待の不平等は、それを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時のみ、許容される。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第2章正義の諸原理p58,p60]

987 この補償原理(principle of redress) というのは、不当な不平等は補償を必要とするという原理である。そして、出生や生来の資質の不平等は、不当なものであるから、こうした不平等はともかく補償されるべきものなのである。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第2章正義の諸原理p76]

988 人々がある特定の地位について社会に生まれてくるということは正義にもとるわけではない。これらは自然の事実にすぎない。正義に適ったり、正義にもとったりするものは、制度がこれらの事実を処理するやりかたなのである。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第2章正義の諸原理p78]

989 公正としての正義の直観的観念は、最初の正義の諸原理を適切に定義された初期状況における原初的合意の内容それ自体と考えることである。これらの原理は、自己の利益の向上に従事している合理的人間が、彼らの連合体の基本条項を設定するために、平等なこの状況で受け入れる原理である。それ故、正義の二原理は原初的状態が提起する選択問題の解であるということが提示されなければならない。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第3章 原初状態p93]

990 正義の環境を、その下で人間の協働が可能となり、またそれが必要とされる正常な条件として叙述することが許されよう。

中略

正義の環境は、穏やかな希少性という条件の下で、人々が社会的有利性の分割に対する要求を打ち出すときに、いつでもえられると、手短にいうことができる。かかる環境が存在しないならば、ちょうど、生命や肉体に危害を加えられる恐れのないところでは、肉体的な勇気をふるう機会がないように、正義という徳目の働く機会はない。

中略

正義というのは、競合する利益が存在し、人々が互いに自分の権利を抑えて然るべきであると感じているところの実践の徳目である。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第3章原初状態p99, p100, p101]

991 日本の鬼が土俗的束縛を脱し、その哲学を付与されたのは、中世において鬼女〈般若〉が創造されたことをもってはじめとしてよい、と考える。 [馬場あき子「鬼の研究」(ちくま文庫)序章 鬼とは何か p12]

992 空気の清澄な月明の夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日ごろ姿を見せぬことを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏するなど、まことに哀れである。その時、鬼の心に去来した瞬時の回想は何であったろう。 [馬場あき子「鬼の研究」(ちくま文庫)序章 鬼とは何か p14]

993 正の概念とは、道徳的人間の対立する要求を順序づける最終的な上級裁判所として公認されている、形態の点で一般的で、適用の点で普遍的である一組の原理である。 [J ロールズ「正義論」(矢島鈞次監訳紀伊国屋書店1979, A Theory of justice by John Rawls, (Harvard UP, 1971) 第3章原初状態p99, p100, p104]

994 しかし私としては他のいかなる事例にもまして、アレクサンドロスの偉大な功業を、次のような考えを裏づけるのに格好の証拠として取り上げたいのだ。その考えとは、中略こういったことは万事、偉業と目されることをなしとげたその当人が、同時に自分の欲をみずから制するだけの力を持ちあわせないときは、人間としての幸福にとって何ら益するものではないという、そのことなのである。 [アッリアノス「アレクサンドロス大王東征記」上(大牟田章 訳、岩波文庫)p282 4巻7]

995 私たち一般の人間にとっては、「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だからまちがいないと自分自身に言い聞かせて納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにはない。理屈はつけられないが、自分はこちらのほうに与する、こちらのほうが心にぴったりくる、ということのほうが、じつは自分にとっての真実であり、実在なのである」といった側面もある。こういった形の真実をますます大切に思う時代がくるという予感もするのである。

 それは、科学によって奪われ、失われてしまった人間性をふたたび回復しようとする動きと見ることもできよう。科学は、こういったことについても十分な理解と認識をすること、つまり、これらの矛盾する二つの体系を同時にあつかっていく力をもつ必要がこれからあるわけで、それができなければ、科学の力は二一世紀には徐々に衰退していかざるをえないであろう。[長尾真「『わかる』とは何か」(岩波新書713, 2001)おわりにp185]

996 いかなる状況のもとでも、人は絶えず仕事をするように努力しなければならず、それが時として人を救いさえする。たとえば作曲家で、1906 年から28 年まで、ペテルブルグ音楽院院長を勤めたアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)を救ったのは仕事だった、と言うことができる。彼は忙しさのあまり、自分のことを考える余裕さえなかった。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、1真実の音楽を求めてp53]

997 わたしはひじょうにたくさんの凡庸な音楽家たちの演奏を聞いている。そう、ひじょうにたくさん。しかし、べつにどうとも思わない、彼らなりに生きていくがよい。そう、わたしをかっとさせるのは赤軍合唱団のような歌と踊りのアンサンブルぐらいのものだ。もしもわたしが、突然、文化大臣になったら、まっさきにこういったアンサンブルをすべて解散させることだろう。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、1真実の音楽を求めてp58]

998 わたしはトスカニーニを憎んでいる。これまで一度として,わたしは演奏会場で彼の指揮する音楽を聞いたことがないが、レコードではかなり多くのものを聞いている。わたしの意見では、彼は音楽をまったく恐ろしいものにつくり変えようとしている。音楽をカツレツのよに細かく切り刻み、それから甘ったるいソースを振りかけている。

中略

 トスカニーニはわたしの第七交響曲のレコードを送ってくれたが、それを聞いたとき、ひどく腹が立ってならなかった。なにもかも、精神も性格もテンポも、すべて間違っているのだ。それは不快でぞんざいな、やっつけ仕事である。[ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、1真実の音楽を求めてp60-1]

999 なにかの作品を、彼(=グラズノフ)の憎む「不協和音の様式」とみなしたあとでも、彼はけっしてその作品を聞くのをやめなかった。どんな音楽でも理解しようと努めていた。彼は作曲家であって、官僚主義者ではなかったからだ。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、2わが人生と芸術の学校p138]

1000 グラズノフは、自分がどのようにしてヴァーグナーの「核心に触れ」たかを物語るのが好きだった。「ヴァーグナーの楽劇ヴァルキューレをはじめて聞いたとき、なにも理解できず、まったく気に入らなかった。もう一度、聞きに行った。またしても、なにもわからなかった。三度目に聞きに行っても、やはり結果は同じだった。本当に理解するまで、この楽劇を何度聞きに通ったと思うかね?九回だ。十回目に、ついに、すっかり理解した。そして、たいそう気に入った」。

 この話をグラズノフから初めて聞かされたとき、わたしは内心、秘かに笑いを禁じえなかった。無論、表面はまったく真剣をとりつくろってはいたが。だがいま、わたしはこのことで彼を深く尊敬する。人生がわたしに多くのことを教えてくれたのである。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、2わが人生と芸術の学校p138-9]

1001 ロシアの大作曲家のうち、自分を「売りこむ」のに成功したのは、ストラヴィンスキーとプロコフィエフの二人しかいなかった。しかし、二人とも新しい時代の作曲家であり、ある意味では、たとえ養子とはいえ、西欧文化の子供であったことは偶然ではない。わたしの考えでは、宣伝に愛着と嗜好を抱いていたため、ストラヴィンスキーとプロコフィエフは完全にロシアの作曲家になりきれなかったのではないかと思う。彼らの心理には、なにかしら屈折したものがあり、もっとも重要な節操の面で欠けるものがあった。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、4非難と呪詛と恐怖の中でp272]

1002 第七交響曲は、わたしのもっともよく知られた作品かも知れない。ところが、すべては音楽の中で明らかになっているのに、これが何について書いているかを人々に正しく理解してもらえなかったりするのは、不愉快なだけである。女流詩人アフマートワは彼女の「鎮魂歌」を書いたが、第七番と第八番の交響曲はわたしの「鎮魂曲」である。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、4非難と呪詛と恐怖の中でp283-4]

1003 結局、第七番がレニングラード交響曲と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしているのである。

 わたしの交響曲の大多数は墓碑である。わが国では、あまりに多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。わたしの多くの友人の場合もそうである。メイエルホリドやトゥハチェフスキーの墓碑をどこに建てればよいのか。彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである。犠牲者の一人一人のために作品を書きたいと思うのだが、それは不可能なので、それゆえ、わたしは自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである。 [ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳、中公文庫)、5わたしの交響曲は墓碑であるp319