703 意識してか,それとも無意識にか,ローマの勝将は,ホメロスの叙事詩の一句,トロイ側の総司令官であった,ヘクトルの言葉とされている一句を口にしていた.「いずれはトロイも,王プリアモスと彼につづくすべての戦士たちとともに滅びるだろう」背後に立っていたポリビウスが,なせ今その一句を,とローマの勝将にたずねた.スキピオ・エミリアヌスは,そのポリビウスを振り返り,ギリシア人だが親友でもある彼の手を取って答えた.「ポリビウス,今われわれは,かつては栄華を誇った帝国の滅亡という,偉大なる瞬間に立ち合っている.だが,この今,私の胸を占めているのは勝者の喜びではない.いつかはわがローマも,これと同じときを迎えるのであろうという哀感なのだ」— [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 9. カルタゴ滅亡p379]
705 ダーウィンをプリニウス協会に誘ったのは.急進的自由主義者のウィリアム・ブラウンという人物だった.彼は,聖人と呼ばれる人々は,脳の中の「信仰」に関わる部分が肥大した精神異常者だという説をもって,精神異常の研究をしていた. [長谷川真理子「ダーウィンの足跡を訪ねて」(集英社新書ヴィジュアル版, 2006) p50]
710 《第5》,それは私が初めて彼の人生と作品とに力をかすことのできたものであった.その全スコアは私が清書した.のみならず,彼が私を無条件に信頼してブランクにしておいたところまで私が書いたのだ. [アルマ・マーラー「グスタフ.マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p138]
711 バロック音楽史の見取り図をややこしくしているのは,バッハという「時代の最も偉大な作曲家」が,必ずしも文句なしに「時代の最も典型的な作曲家」とはいえない点にある. [岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書, 2005) p85]
712 マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は一生変わらなかった.ニューヨークに行ってからも,ブルックナーの交響曲を一つまた一つと演奏して行った.新聞の批評は悪かった.ウィーンでは彼はブルックナーの価値を当然のこととして宣明していた. [アルマ・マーラー「グスタフ.マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p194]
715 敵はいつ襲撃してくるかわからない.ゆえにそれへの対応手段は常に準備しておかねばならない.アウグストゥスは,専守防衛を目標とするからこそ常設軍事力が不可欠であることを理解し,それを実践したのである. [塩野七生「ローマ人の物語 VI パックス・ロマーナ(新潮社1997) 1. 統治前期p52]
716 そのティベリウスにあてた,手紙というのが遺っている.
「私のティベリウスよ.若いおまえでは無理もないと思うが.わたしのことを悪く言う人がいても憤慨してはいけない.満足しようではないか,彼らがわれわれに剣をを向けないというだけで」自己制御の能力では,抜群の男であったというしかない. [塩野七生「ローマ人の物語 VI パックス・ロマーナ(新潮社1997) 1. 統治前期p94-5]
722 近現代の歴史研究者たちによるティベリウス復権の傾向は,一千八百年も経って人々の考え方が変わったからではない.考古学の発展のおかげなのである.それまで古代の歴史家の著作に頼るしかなかったのが,かつてのローマ帝国全土から発掘されるようになった,数多くの碑文その他の史料も参考にできるようになったからである.それをいかにもドイツ人らしい徹底さで実行したのが,歴史著作でありながらノーベル文学賞まで受賞した,十九世紀の歴史家モムゼンであった.このモムゼンのティベリウス評は,「ローマがもった最良の皇帝の一人」である. [塩野七生「ローマ人の物語 VII 悪名高き皇帝たち(新潮社1998) 第一部 皇帝ティベリウスp185-6]
724
【封筒】
昭和七年五月十五日犬養首相暗殺直後、後継内閣組織に際し陛下より元老に御注意を賜りたる要点、老公自ら認めたるもの。
原田
【本文】
一 首相は人格の立派なる者
一 現在の政治の弊を改善し陸海軍の軍紀を振粛するには、最も首相の人格に依頼す協力内閣と単独内閣などは問ふ処にあらずファショに近き者は絶対に不可なり憲法は擁護せざるへからす、然らざれば明治天皇に相済まず
二 外交 三 事務官と政務官の区別を明かにし、官規振粛を実行すべし(投火の事) [西園寺公望覚書 (原田熊雄関係文書 18 国立国会図書館) 元老西園寺公望のもとに、鈴木貫太郎侍従長から天皇の後継内閣に関する希望が告げられた。その要点を書き留めたものがこの史料である]
725 敬覆、遂に来るものか来候。If the Devil has a son, surely he is Tojo. 今迄の処、我負け振も古今東西未曽有の出来栄と可申、皇国再建の気運も自ら茲に可蔵、軍なる政治の癌切開除去、政界明朗国民道義昂揚、外交自ら一新可致、加之科学振興、米資招致により而財界立直り、遂に帝国の真<(りっしんべん)+隨の右側>一段と発揮するに至らは、此敗戦必らすしも悪からす。雨後天地又更佳、兎に角事態存外順調、茲に至れるは一に聖断による戦局終結、 [吉田茂書翰 来栖三郎宛1944.8.31 ([昭和20 年]8 月27 日原田熊雄関係文書 54-14 国立国会図書館)]
726 イタリアの普通高校で使われている,歴史の教科書
「指導者に求められる資質は,次の五つである.
知性.説得力.肉体上の耐久力.自己制御の能力.持続する意志. カエサルだけが,このすべてを持っていた」
─中略─
ユリウス・カエサル
「文章は,用いる言葉の選択で決まる.日常使われない言葉や仲間うちでしか通用しない表現は,船が暗礁を避けるのと同じで避けねばならない」[塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) p3]
727 カエサルは,モテるために贈物をしたのでなく,喜んでもらいたいがために贈ったのではないか.女とは,モテたいがために贈物をする男と,喜んでもらいたい一念で贈物をする男のちがいを.敏感に察するものである. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p85]
728 天才は,彼の生きた時代を越えたからこそ天才なのである.しかし,時代を越えることができるのも,十全に時代の子であったからなのだ.私の頭の中では,第III 巻「勝者の混迷』と,第IV 巻「ユリウス・カエサル』は,このような感じでつながっているのである. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p96]
729 カエサルという男は,あらゆることをひとつの目的のためだけにはやらない男だった.彼においては,私益と公益でさえも,ごく自然に合一するのである. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p100]
730 カエサルはなぜあれほど女にモテ.しかもその女達の誰一人からも恨まれなかったのか...
─中略─
しかし,カエサルだけが,ある作家の言を借用すると,列を作って自分の順番がくるのを待つかのように,上流夫人を総なめにする栄誉に輝いたのである.記録に残る名をあげるだけでもこの豪華さだ.カエサルにとっては金を貸してくれる第一の人であった,クラッススの妻テウトリア.オリエントで戦争を指揮している将軍の留守宅を守らねばならないはずの,ポンペイウス夫人のムチア.ポンペイウスの副将だから同じく出征中の,ガビニウスの妻のロリア.· · · そして,カエサルの愛人たちの中でも最も有名なのは,後年のクレオパトラを別にすれば,セルヴィーリアであろう.後にカエサル暗殺の首謀者になるブルータスの母セルヴィーリアは,再婚話を断ってまで,カエサルの愛人でいるほうを選んだ女であった.
─中略─
一人前の男なら,自分から醜聞は求めない.だから醜聞は,女が怒ったときに生まれる.では,なぜ女は怒るのか.怒るのは,傷ついたからである.それならどういう場合だと,女は傷つくのか.
─中略─
まず第一に,愛する女を豪華な贈物攻めにしたのはカエサルのほうである.これも彼の莫大な借金の理由になったのだが.借金が増えるから贈物などしなくてもよいなどと言うのは妻であって,それ以外の女ならば例外なく愛しいと感ずる.そして,誇らしいと思う.カエサルがセルヴィーリアに贈った六百万セステルティウスもの真珠はひとしきり首都の女たちの話題を独占したものであった.もしも事実なら,パラティーノの丘の上の豪邸が二つは買える額である.
そして第二だが,カエサルは愛人の存在を誰にも隠さなかった.彼の愛人は公然の秘密だった.いや,女の夫まで知っていたのだから,秘密でさえもない.オリエントで戦争中のポンペイウスもガビニウスも,自分たちの妻の浮気を知っていた.これでは.スキャンダルにもならない.公然なら,女は愛人であっても不満に思わないからである.
また,理由の第三は,史実によるかぎり,どうやらカエサルは,次々とモノにした女たちの誰一人とも,決定的には切らなかったのではないかと思われる.つまり,関係を清算しなかったのではないかと.
二十年もの間公然の愛人であったセルヴィーリアには,愛人関係が切れた後でもカエサルは,彼女の願いならば何でもかなうように努めた.彼女の息子のブルータスがポンペイウス側に立って自分に剣を向けた際も,戦闘終了後のブルータスの安否を心配し,生きていたとわかるやただちに母親に伝えさせている.また,公然の愛人がクレオパトラになった後でも,セルヴィーリアの生活に支障がないよう,国有地を安く払い下げさせるなどという,公人ならばやっていけないようなことまでやっている.
─中略─
重ねて言うが, 女が何よりも傷つくのは,男に無下にされた場合である.
イタリアのある作家によれば,「女にモテただけでなく,その女たちから一度も恨みをもたれなかったという希有な才能の持主」であったカエサルの,以上が私なりの史実の読みこみによる推察である.そして,女と大衆は,この点ではまったく同じだ.人間の心理をどう洞察するかに,性別も数も関係ないからである. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p135-9]
733 野心とは,何かをやりとげたいと思う意志であり,虚栄とは,人々から良く思われたいという願望である. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第五章 壮年前期p147]
734 ともあれこの二千年間,カエサルの業績に関しては意見が分かれないでもなかった史家たちが,カエサルの文章力についてならば,讃嘆で全員が一致してきたのである.二千年後でさえ文庫本で版を重ねるという,物書きの夢まで実現した男でもある.
─中略─
カエサルは,歴史を書こうとする者に史料を提供するつもりで書いたのかもしれないが,その恩恵に浴せるのは,諸々のことをくっつけて飾り立てた歴史を書く馬鹿者だけで,思慮深く賢明な人々には,書く意欲を失わせてしまうことになった.
─中略─
このカエサルの文体は,次の三語で統括できるのではないかと思う.
簡潔,明晰,洗練されたエレガンス. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第五章 壮年前期p178-180]
735 どうやら,この時期からのカエサルは,かつての愛人たちの息子たちの武者修行まで,一手に引き受けていた観さえある.カエサルの許で軍団長や大隊長の将官クラスに名が出る若者たちの母親の多くは,カエサルの愛人名簿を飾った女たちであったからだ.元老院への報告書でも「ガリア戦記』でも,部下の挙げた功績ははっきりとそのことを銘記したカエサルである.むかしの恋人に息子を託し,彼もまたそれをまっとうしてくれるのだから愉しいではないか.実の息子には恵まれなかったカエサルだから,親身になれたのかもしれない. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第五章 壮年前期p249]
736 I wish that physicists would refrain from using the word God in their special metaphorical sense. The metaphorical or pantheistic God of the physicists is light years away from the inteventionist, miracle-wreaking, thought-reading, sin-punishing, prayer-answering God of the Bible, of priests, mullahs and rabbis, and of ordinary language. Deliberately to confuse the two is, in my opinion, an act of intellectual high treason. [R. Dawkins, The God Dillusion (Houghton Mifflin, 2006) p19]
737 マキアヴェッリは,民主的な討議でことを決する習慣を持たない民族に,それを移植しようと努めても無駄である,と言っている. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p185]
738 憤怒とか復讐とかは,相手を自分と同等視するがゆえに生ずる想いであり成しうる行為なのである.カエサルが生涯これに無縁であったのは,倫理道徳に反するからという理由ではまったくなく,自らの優越性に確信をもっていたからである. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後—(新潮社1996) 第六章 壮年後期p213]
741 ナショナリストの北一輝が,中国ナショナリズムの沸騰である五四運動を前にして日本そのものの革命を構想したのが「日本改造法案大綱」だったのである.それは,かれが日本の帝国主義政策である「対支二十一ヵ条の要求」を,みずからのナショナリズムの立脚点そのものにおいて捉え直した思想作業にほかならない. [松元健一「日本の失敗—「第二の開国」と「大東亜戦争」(岩波現代文庫2006) p45]
743 治安と清掃は,そこに住む人々の民度を計る最も簡単な計器である.
カエサルは,リーマの清掃にも注意を怠っていない.公的な場所の清掃は按察官(エディリス) の管轄としたが,それ以外の場所の清掃は,そこに住む住民の義務とされた.自分の家のまわりは自分で清掃しましょう,のたぐいである.確信をもっていえるが,古代のローマは,現代のローマよりは格段に清潔であったのだ. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p307]
744 壁は,安全の確保には役立っても,交流の妨げになりやすい.カエサルにとっては,壁を壊すという行為は,ローマの都心部の拡張のためであると同時に,壁なしでも維持できる平和への意思の表明でもあったのだ.共和制時代の城壁の遺跡の貧弱さが不思議でならなかった私も.研究者たちの論文で知り実際に歩いてみて納得したとき,正直言って感動した.そして,有形にしろ無形にしろ,あらゆる「壁」を築くことしか知らなかった以後の歴史に想いを馳せながら,人類の進歩なるものに疑いをいだかずにはいられなかったのである. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p318]
745 それにしても,教師と医師は,人間社会での彼らの職業の重要さを歴史上はじめて公式に認めた人として,カエサルには感謝してしかるべきかと思う.教師と医師へのローマ市民権授与は,まもなくイタリア全土に広まり,その後もローマ人の移り住んだ植民都市や軍団基地にまで波及したのだから. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p319]
746 歴史は,勝者が自分たちに都合のよいように書いたものだという,思いこみがまかり通って久しい.私は事あるごとに,そうとはかぎらないと主張してきたが,ここからの叙述は,私の説を証明する典型である.なぜなら,第七章全体の叙述は,敗者の側が遺した,つまりは反カエサル側が遺した史料のみに基づいて述べられるからである.その理由は簡単で,史料を遺してくれたのが,反カエサル側のキケロであったからだ. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第七章 「三月十五日」p341]
747 セルヴィーリアは,政略結婚をくり返すだけでなく,多くの愛人の存在も隠さないカエサルを愛しつづける.男を,そのあるがままの形で愛する,というたぐいの愛を,息子のブルータスは,青年になった後でも理解しなかったのではないか. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後—(新潮社1996) 第七章 「三月十五日」p349]
752 王宮内で一度,三十九歳の女王と三十三歳の勝者は会ったといわれている.どのような話が交わされたかは知られていない.この二人以外に,列席した者はいなかったからだ.古代の史家の幾人かは,その時クレオパトラはオクタヴィアヌスに対して.カエサルやアントニウス相手に成功したと同じ手を試みたと書いている.試みはしたが,失敗したのだ,と.四十に手のとどくようになっては,有名なクレオパトラの魅力もさすがに効力を失っていたというわけだろう.
しかし,私は,彼女は試みもしなかったと思う.猫は可愛がってくれる人間を鋭くも見抜くが, 女も猫と同じである.なびきそうな男は,視線を交わした瞬間に見抜く.
クレオパトラも,整った美貌の三十三歳の冷たく醒めた視線を受けたとたんに,この種の戦術の無駄を悟ったのではないかと思う.そして,自分を待つ運命をはっきりと見たのではないか. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第八章 アントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌスp479]
753 ヨセフスと同年輩だったティトゥスは,ユダヤの反乱鎮圧を遂行中であったにせよ,反ユダヤ主義者ではまったくない.エジプト長官のユダヤ人であるユリウス・アレクサンドロスには心酔していたし,アグリッパ二世の姉のベレニケを,ユダヤの王女であることなど無関係という感じで熱愛中だった.ヴェスパシアヌスにもなかったが,その息子ティトゥスにも,人種偏見は皆無であったのだ. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII 危機と克服(新潮社1999) 第四章 帝国の辺境ではp179]
754 ローマの武将たちの多くに共通する特色は,武人らしい見栄,ないしは虚栄心に無縁であった点である.彼らは,少数の敵を多数で攻めることになんのためらいもなかった.多勢で攻めるのは,解決を早めるとともに敵味方双方の犠牲を少なくするためでもあったからである.五百人程度が守るマサダの要塞を攻めるのに十倍の兵力を投入したことを軽蔑する人がいたならば,それはローマの武人の精神を知らない人である.ローマ軍の戦法は,ユリウス・カエサル著の「ガリア戦記』にも見られるように,兵力や兵器や兵糧補給のような確定要素を整えることからはじまる.その後で,わが軍は個々の兵士の士気の面でも優勢であった,と言う.つまり,精神力のような非確定要素は最後にくるのだ. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII 危機と克服(新潮社1999) 第五章 皇帝ヴェスパシアヌスp202]
755 このヴェスパシアヌスの皇帝としての第一声は,アウグストゥスとティベリウスとクラウディウスの政治を継承する,である.歴史家タキトゥスによってティベリウスとクラウディウスは悪徳皇帝として一刀両断されるのだが,そうは思っていなかったローマ人が多かったことを示している.とはいえ,カリグラ,ネロ,そして次々と入れ代わったガルバ,オトー,ヴィテリウスの名は上げていない点にも注目して欲しい.これらの皇帝たちは,同時代人からも皇帝不適格者と思われていたのだ. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII危機と克服(新潮社1999) 第五章 皇帝ヴェスパシアヌスp208-7]
756 「パンとサーカス」(Panem et circenses) とは原語であるラテン語でも記したように,ローマ人自らが言った言葉である.だがこれは諷刺作家の誇張であって,そのような誇張を鵜呑みにしたのでは,歴史上の真実に迫ることができなくなる.それにこの「小麦法」が存在したことで,百万都市ローマでも餓死者と無縁でいられた事実は無視できない.また,類似の社会福祉は,帝国の経済力の向上にともなって地方都市や属州にも普及していったので,あの広大なローマ帝国で飢餓が原因の集団死は,まったくと言ってよいくらいに起こらなかった事実は,特筆に値するのではないだろうか. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII 危機と克服(新潮社1999) 第五章 皇帝ヴェスパシアヌスp241]
758 医療に関してのローマ人の考え方は.彼らの死生観に起因していたのではないかと思う.帝国という共同体の平和の維持のために負傷した者には,完璧な治療が保証される.しかし,生命,日本で言う寿命,は甘受する.こうなると病気の治療への努力も,治る可能性があるかぎり,となりはしないか.ローマの皇帝のただ一人といえども,自らの延命に狂奔した人はいない.それどころか,社会的には高い地位にある高齢者が病に倒れ.もはや寿命と悟った場合に,それ以上の治療を拒否し,食を断ち,自死を選んだ例は少なくない.ローマ人は.自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ.社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど,頭脳的にも精神的にも肉体的にも,消耗し尽くした後でもなお生きのびるのを嫌ったのである.だからこそ,生命ある間を存分に生きる重要さを説いた,ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII 危機と克服(新潮社1999) 第五章 皇帝ヴェスパシアヌスp244]
760 ローマ人はインフラを「人間が人間らしい生活を送るために必要な大事業」と考えていたのではないか.─中略─ローマ人は,後世への記念碑を遺すつもりであの大事業を行ったのではなく.人間らしい生活をおくるためには必要だからやったのだ.それが結果として,ローマ文明の偉大なる記念碑になったにすぎない.
私は,この考えにたどりついたときはじめて,いかに不十分なる結果に終ろうとも,ローマのインフラのみをとりあげた一巻は書かねばならない,と思ったのであった. [塩野七生「ローマ人の物語 X すべての道はローマに通ず(新潮社2001) はじめに p18-9]
761 寺門静軒は州崎を描いた.茶屋で酒に酔い,その遠浅の花を歩く.春の霞にふうっと見える天空と海.気も心も晴れ晴れとして酔いは気持ちよく覚めてくる.水鳥がやってくる.漁舟のいさり火が海にただよう.彼らの遊びを美しくしているのは.女とのつきあいだったのか,贅沢な食事だったのか.いや,江戸の自然だったのである.水や風や季節や月や花だったのだ.江戸の戯作や洒落本や随筆はとりわけそれを描いたりはしていないが,じつは豊かな自然環境は大前提であった.それを抜きにして江戸文化を語るのは,もっとも大事なものを見落としていることになる. [田中優子「江戸を歩く」(集英社, 2005) p88]
762 作品というものは後代になってから成立当時は予想もしなかったような見方をされることもしばしばあるものだが,「源氏物語」の場合のごとき,初めて執筆しだしたときと最後に擱筆したときとのわずかの間に,まるで別のものになってしまったのではあるまいか?作者も,読者も,物語という様式も,ともに変化し成長し新しい道をきりひらいて行ったのではなかろうか.すなわち,昔物語がものがたりになっていったのであって,「源氏物語」が昔物語と物語とのあいだに一線を画するとは,こういう意味でいうべきことなのではなかろうかと考えてなのである. [玉上◯彌「昔物語の構成」(「源氏物語音読論」(岩波, 2003) 所収p3-4]
763 引き歌というものはまだまだ考える余地がありそうだが,厳密にいえば,「源氏物語」にはじまり「新古今集」に完成したともいえる.本歌を知らなくては物語の文章がわからないことになったのは実に大きな革新であった. [玉上◯彌「昔物語の構成」(「源氏物語音読論」(岩波, 2003) 所収p9]
764 主題に直接関係しないものを書くことは,実は,主人公の生活を広く深く暗示することにもなるのである.作品のほかにも,描かれない部分にも,主人公が生きていることを暗示しているのだ.描かれたものは一部分にすぎない.たまたま作者が見て,そして読者に示す一部分なのだ.作者さえ知らない部分が,もっともっと広くひろがっており,深くつながっているのだ.われわれには断片がほんのちらちらと見えるにすぎない.近代の短編小説に見るような,断片というものは一つもなく,すべてはつながっているおもしろさ,そういう構成美とは違ったおもしろみである.自然そのままの構成である. [玉上◯彌「昔物語の構成」(「源氏物語音読論」(岩波, 2003) 所収p17]
765 本当に完成するとは夢にも思わなかった.世界中でもローマの通史を完成した人はいないですからね.
─中略─目も悪くなられただろうし,お互い年も取った.でも腰は曲がっていない.そういう若さを保ちながら.今日まで塩野さんは書きつづけられ,僕は最後まで読むことができた.感無量です. [『ローマ人の
物語』完結記念対談: ローマと日本の神々のご加護で,書き続けられたのかもしれない 塩野七生~ 粕谷一希 波2007(1) p3 粕谷の発言]
766 私がローマに惹かれてどうしても書きたいと思った理由には,自分だけが正しいと思う一神教的な考え方を,私が好きではないということがあります.
─中略─
一神教の弊害は,他の神は認めないところにあります.─中略─イスラム教はルネサンスも啓蒙主義も経験していない.それが今,大きな問題の底辺になっているんです. [『ローマ人の物語』完結記念対談 塩野七生× 粕谷一希 波2007(1) p6 塩野の発言]
767 だんだん年を取っていくわけでしょう.どうしようかと思って,私,健康チェックを受けないことにしました. [『ローマ人の物語』完結記念対談 塩野七生× 粕谷一希 波2007(1) p7 塩野の発言]
768 啓蒙とは,人間が自分の未成年状態から抜け出ることである,ところでこの状態は,人間が自ら招いたものであるから,彼自身に責めがある.未成年とは,他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用しえない状態である.ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある,というのは,この状態にある原因は,悟性が欠けているためではなくて,むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである.それだから「敢えて賢かれ!(Sapere aude∗)」,「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」—これがすなわち啓蒙の標語である.
* Horatius「書翰」にある.[カント「啓蒙とは何か」(Beatwortung der Frage: Was ist Aufkl¨arung in Die Berlinische Monatschrift, Dec., 1784) (岩波文庫) 篠田英雄訳 p7]
769 ところでこのような啓蒙を成就するに必要なものは,実に自由にほかならない.しかもおよそ自由と称せられる限りのもののうちで最も無害な自由—すなわち自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由である.ところが私は,諸方から「君たちは論議するな!」と呼ばわる声を聞くのである.将校は言う,「君たちは論議するな,教練せよ!」.財務官は言う,「君たちは論議するな,納税せよ!」.聖職者は言う,「君たちは論議するな,信ぜよ!」. [カント「啓蒙とは何か」(岩波文庫) 篠田英雄訳 p10]
771 では,「我々が生活している現代は,すでに啓蒙された時代であるか」,という問いが提起されるとしたら,その答えはこうである,—「否,しかし—恐らくは啓蒙の時代であろう」.現在あるがままの世情にかんがみると,国民を全体としてみた場合に, 彼らは宗教上のことがらについて,もはや他人の指導がなくても自分自身の悟性を確実,適切に使用できるか,或いはせめてそうする見込みがあり得るかと言えば,まだなかなかその域には達していないのである . [カント「啓蒙とは何か」(岩波文庫) 篠田英雄訳 p16]
772 先に述べた通り,啓蒙とは,人間がみずから招き,従ってまた自分がその責めを負うべき未成年状態から脱出することであるが.私は上述したところにおいて,啓蒙の重点を主として宗教に関する事柄に置いた,現代の支配者たちは,芸術や学問の分野では敢えて後見人たらんとすることに関心をもたないからでもあるが,しかしまた宗教における未成年状態こそ最も有害であると同時にまた最も恥ずべきものだからである. [カント「啓蒙とは何か」(岩波文庫) 篠田英雄訳 p18]
カントはこの論文で,啓蒙の重点を宗教に置いているが(18),これは当時プロシャの保守的為政家が聖職者と組んで,宗教の固定化した心情や外形的制度を固執していた事情に対するカントの批判であるから,今日の読者はこれを重視するに及ばない.(訳者後記p193 (1974))
773 ところでキリスト教に全たき善を求めて,これになんらかの権威(神的権威) を付加するならば,たとえその意図が善意に充ち.またその目的が事実いかに善であるにせよ.キリスト教の愛すべき性質は消滅するのである.或る人に,何ごとかを為せと命ずるだけでなく,それを喜んで為せと命ずるのは,矛盾だからである. [カント「万物の終り」(岩波文庫) 篠田英雄訳p104]
774 針がありヨモギがあるということと,鍼灸療法を発明するということとのあいだには,技術の経験起源説が仮定するような因果関係はない. [山田慶兒「中国医学はいかにつくられたか」(岩波新書599, 1999)p 25]
775 子産が「博物の君子」(博く物事とその道理に通じている人) と讃えられた挿話がある. [山田慶兒「中国医学はいかにつくられたか」(岩波新書599, 1999) p 28]
776 「陰陽脈死侯」はつづけて健康法を説く.─中略─そしていう,「車に乗り肉を食う者」は心しなければ「脈は爛れて肉は死す」,と. [山田慶兒「中国医学はいかにつくられたか」(岩波新書599, 1999) p 46]
777 あそこにあるあの樹は感性経験的な一つの個物であって,「本質」ではない,といわれるかも知れないけれど,意識の「滑り出し」の方向を規定する点において,そこには既に原初的,第一次的な「本質」把握が,少なくとも前反省的,無自覚的,あるいは気分的了解という形で,なされているのである.意識がX に向かって滑り出して行く,その初動の瞬間において,X はすでに何かである—この場合は,樹である—のだ.そしてX を何かであるものとして把握することは,すなわちX の原初的定義であり,最も素朴な形における「本質」把握以外の何ものでもない. [井筒俊彦「意識と本質—精神的東洋を求めて」(岩波文庫, 1991) p10]
778 コトバの意味作用とは,本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒をつけて事物をつくり出し,それらを個々別々のものとして指示するということだ.老子的な言い方をすれば,無(すなわち「無名」がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」) に転成するということである. [井筒俊彦「意識と本質—精神的東洋を求めて」(岩波文庫, 1991) p11]
779 教養という言葉は反対語を考えてみるとはっきりします.教養の反対語は,まず「無知蒙昧」.しかし,もう一つの反対語がありまして,それは「技術的な知識」です.つまり,「何かの役に立つ知識」「専門化する知識」というのが,じつは教養の反対語なんです. [丸谷才一,山崎正和(司会三浦雅士) 座談会「教養を失った現代人たちへ」中央公論2007.1, p33]
780 民主主義という政治システムのゆえであろう.戦争に踏み切り戦いつづけるためには,国民がその正義を納得せねばならない.そして勝利したあと,いったん掲げた大義の実現を試みずにはいられない.
例えば南北戦争に勝利した北軍は,奴隷の身分から解放された黒人の地位向上を目標とする大規模な南部改革を試みた.
─中略─
しかし戦後改革の試みは,必ずしもうまく行かない.南部改革は南部人の頑強な抵抗を受け,約十年で挫折する.─中略─第二次大戦後,旧枢軸国の民主化にはおおむねうまくいったが,ソ連との冷戦がなければ,アメリカはより厳しい改革を日独にに迫り,もっと強い反発を受けていたかもしれない. [阿川尚之「アメリカが背負う占領の“ 大義”と“ 挫折”中央公論2007.1 p227]
781 よく考えれば大国の中で最も足腰がしっかりしているのは相変わらずアメリカなのだ.その経済は世界を支え,軍事的なパワーは抜きん出ている.何より大事なことには,自分の欠点を見つけて修正する能力をまだ維持している.そしてアメリカは,先進国の中ではこれから唯一,人口が大きく伸びる. [河東哲夫「もうユーラシアで躓かないために」中央公論2007.1 p181-2]
783 「本質」の否定,それを術語的には「無自性」という.「自性なし」の意である.コンテクストによっては「無我」ともいう.「自性」とは,ある物をそのものとして結晶体に保つ,不変不動の実在的中核を意味する.認識的には,われわれが経験的世界において,あるものをそのものとして「· · · の意識」の対象とする志向性の基盤となるものである.そして,こういう意味での自性,すなわち「本質」が本当はにものとして,その実在性を否定されるのは,中観的にいうならば,上に述べた「畢竟平等」すなわち「空」を背景に,あらゆる存在者が縁起によって成立するもの,相関相対的にのみその存在性を保つものと考えられるからである. [井筒俊彦「意識と本質—精神的東洋を求めて」(岩波文庫, 1991) p22]
785 私が日本の世界史の教科書を羅針盤代わりに使っている理由には二つあって,第一が先に述べた,この程度の歴史知識しかない人にむかってどう書くかを探ることだが,理由はもう一つある.それは,歴史上の知識ではこの程度でも,人間としての知力ならば一人前の日本人が私の読者だと言うことを,頭に置く必要もあるからだ.この二つを頭に置いて,書いていくうえでの姿勢を決めていたのだった.
第一に,やさしい語り口で物語らないこと.なにしろ知識では不充分でも,知力では十分すぎるほど充分なのが私の読者なので,子供に語って説き聴かせるような語り口では礼を失する.
第二は,内容の知的水準を下げないこと.水準を下げないでおいて知識は不充分な人にも理解してもらうには,方法は一つしかなかった.明晰に書くことと.それしかなかったのである.
第三は,視覚を活用することだ.─中略─
最後は,歴史の流れを読む人に感じ取ってもらえるように書くことだった.流れを感知できるようになりさえすれば,歴史というものは,半ばはわかったも同然なのである. [塩野七生「世界史が未履修と知って」(日本人へ・45) 文藝春秋 創刊85 周年記念2007/2 月号 p92]
788 80 年代に宮崎駿さんと対談したときに,なぜ宮崎作品では「風の谷のナウシカ」も「となりのトトロ」も女の子が主人公なのかという話になったんです.すると宮崎さんは,現代では女性の方がシリアスな決断をする機会が増えている,結婚したとき,仕事を続けるか,専業主婦になるか,また子供を産むか,仕事をするか,社会進出にともなって決断の機会が増えている,と言うんですね.男の方は,会社を辞めるかとか,定年になったら何をしようかとか,決断といってもせいぜいそのくらいで面白くないんですね. [特別鼎談我らが青春の芥川賞を語ろう,石原慎太郎,村上龍,綿矢りさ(文藝春秋2007.3 月) p127 村上発言]
789 チャーチルは「25 歳のときリベラルでない者は情熱が足りない.35 歳のときコンサーバティブでない者は知恵が足りない」って言った. [池田清彦氏による(AERA 07.4.16 p60]
790 たしかにメソポタミアもかなりギリシャの文化,科学に影響を与えたんだけれども,あくまでも体系的でないんです.なぜかというと,都市国家がいくつもあって,攻防に明け暮れていましたから,それに全体のエネルギーを使っていたんですね.エジプトは,離れていましたから,エネルギーを消耗せずに,3000 年間一貫性をもって,ひとつの考えを消化し,どんどん積み上げていくことができたわけですね.メソポタミアでは煮詰められないんですね.積み木細工みたいなもんです.メソポタミアは一個作って,せっかくいいところまでいくんだけれど,すぐそれがポンと切れるから,いつも積み木崩しみたいな文明ですよね.─中略─
その点エジプトは,積み木をがっちりと積んでいく個性の強い文明.そして,その上に乗っかったのがギリシャ文明.それにメソポタミアの刺激を受け,そしてそれをローマが吸収して,ヨーロッパにもていった,と.こういうふうにしてキリスト教文明というものができた,というわけで,私は今日の西欧文明っていうのは,もとはエジプトから来たんだと思っています. [増田義郎、吉村作治「インカとエジプト」(岩波新書787)p192 吉村]
791 柱の様式はよく,ドーリア式とかプロトドーリア式とか,いろいろ言いますけれど,あの形式はすべてエジプトがもとで,ギリシャより2000 年前にあるんです.─中略─
エジプトが達成したものを,整理して,うまく配置して,のちにつなげたという,たいへんなカルチャー・コーディネーターとしてのギリシャ人の特性はあります.地中海をぐるぐる回りながら,いろいろなものを吸収し,整理して,次につなぐという,そういうギリシャ文明がなければ現代の文明はありえないんだけれども,彼らはオリジナリティはなかったんですね. [増田義郎、吉村作治「インカとエジプト」(岩波新書787)p193 吉村]
792 そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず,人間の目はただ向上とかなんとかいって,空ばかり見ているものだから,我らの性質はむろん相貌の末を識別することすらとうていできぬのは気の毒だ.同類相求むとはむかしからある言葉だそうだがそのとおり,餅屋は餅屋,猫は猫で,猫のことならやはり猫でなくてはわからぬ.いくら人間が発達したってこればかりはだめである. [夏目漱石「吾輩は猫である」二]
793 He (= Cotes) was ahead of his time in several mathematical ideas; for example, in notes in 1714 he observed the identity now known as Euler’s formula:
ln[cos(q) + i sin(q)] = iq.
His contemporaries had respect for his brilliance. Newton is reputed to have given him the epitaph “If he had lived, he would have known something,” [S. Friedlander, “ About the cover: Isaac Newton and Roger Cotes,” BAMS 44, 255 (2007).]
794 「えらいとほめるなら,もう少し博学なところをお目にかけるがね.昔のギリシア人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ.しかるに不思議なことには学者の知識に対してのみはなんらの褒美も与えたという記録がなかったので,今日までじつは大いに怪しんでいたところさ」─中略─「しかるについ両三日前に至って.美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団は一度に氷解,漆桶を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地の至境に達したのさ」─中略─迷亭だけは大得意で弁じつづける.
「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して,暗黒の淵から吾人の疑いを千載のもとに救い出してくれた者はだれだと思う.学問在って以来の学者と称せらるかのギリシアの哲人,逍遙派の元祖アリストートルその人である.彼の説明にいわくさ —おい菓子皿などをたたかんで謹聴しなくちゃいかん.— 彼らギリシア人が競技において得るところの賞与は彼らが演ずる技芸そのものよりも貴重なものである.それゆえ褒美にもなり,奨励の具ともなる.しかし知識そのものに至ってはどうである.もし知識に対する報酬として何物をか与えんとするならば知識以上の価値あるものを与えざるべからず.しかし,知識以上の珍宝が世の中にあろうか.むろんあるはずがない.下手なものをやれば知識の威厳を損するわけになるばかりだ.彼らは知識に対して千両箱をオリンパスの山ほど積み,クリーサスの富みを傾け尽くしても相当の報酬を与えんとしたのであるが,いかに考えてもとうていつり合うはずがないということを観破して,それより以来というものはきれいさっぱりやらないことにしてしまった.黄白青銭が知識の匹敵でないことはこれで十分理解できるだろう. [夏目漱石「吾輩は猫である」四]
795 ネット世界の変化は激しい.大切なのは,今から米大統領選挙が行われる08 年十一月までのほうが,ユーチューブがサービスを開始してから現在に至るに必要とした期間よりも長いということである. [梅田望夫「米大統領選挙を変えるネット空間」(中央公論,2007.4; 時評) p31]
796 ポール・ニューマンから聞いた話だが,成功した人間が人生を振り返るとき,「運がよかった」と言わないやつはウソつきだって. [Larry King, 「ラリー・キングの秘訣」(萩一晶,AERA 2007 4.30-5.7, p42)]
He also said something I've never forgotten. He said it the first time I interviewed him. He said anybody who is successful in life and who doesn't use the word luck is a liar. He thought that luck visited everybody who was successful.
797 ブラジルに行った時,現地に真宗寺院が多いので驚いたことがあります.日曜になるとブラジル人の僧侶がポルトガル語で説教をしていて日本からの移民も数多く来ていました.─中略─蓮如に縁のあった北陸などには,比較的,間引きが少ない.これは,蓮如が子供好きだったことに由来するように思われます.「蓮如さんはやや児が大変お好きだったそうだ.間引きはよくないとおっしゃっていたそうだ」という伝説が.人々の遠い記憶に残っていたのではないかと思うのです.
間引きをしないと貧乏な百姓は子沢山になり,ますます貧乏になります.そこからはみ出した人々が移民する. [五木寛之「私が他力を感じる時」(五木寛之インタヴュー p38) 中央公論2007.3]
800 のんきと見える人々も,心の底をたたいてみると,どこか悲しい音がする.悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ. [夏目漱石「吾輩は猫である」九]
702 優れたリーダーとは,優秀な才能によって人々を率いて行くだけの人間ではない.率いられていく人々に,自分たちがいなくては,と思わせることに成功した人でもある.(ハンニバルを評して) [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 6. 第二次ポエニ戦役終期p286]
704 もしも,スキピオ・アフリカヌスの早い死とカトーの長寿が逆であったとしたならば,そして,同じ時期にギリシアが騒然としていなかったならば,歴史は変わっていたであろうか.私は変わっていたのではないかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語II ハンニバル戦記(新潮社1993) 9. カルタゴ滅亡 p381]
706 「子は.母の胎内で育つだけでなく,母親の取り仕切る食卓の会話でも育つ」と言った女だ.このコルネリア(=スキピオ・アフリカヌスの娘) は,ユリウス・カエサルの母アウレリアと並んで,ローマ人の間では長く,ローマ女の鑑,と讃えられることになる. [塩野七生「ローマ人の物語III 勝者の混迷(新潮社1994)1. グラックス兄弟の時代 p26]
707 兄弟の母のコルネリアはガイウスの死後,ナポリ湾の西端にあるミチェーノに別荘を建てて引退した.引退といっても,引きこもって誰にも会わなくなったわけではない.それどころか,海に面した別荘には訪問客が絶えなかった.オリエントやアフリカの王侯たちも,ローマを訪れるたびに彼女を表敬訪問し,文人や学舎も国籍を問わずの歓迎.コルネリアの食卓は,息子二人が生きていた頃と少しも変わらない,知的サロンでありつづけた.
食卓の話題がなき兄弟におよんだときでも,コルネリアの涙を見た人はいなかった.墓さえつくってやることのできなかった母だが,息子二人を讃える石碑に人々が初物を捧げると聴いたときは.あの子たちは彼らにふさわしい墓をもったのです,と言った.彼女自身も,ローマ人から肖像を捧げられている.現在では台座しか残っていないが,そこには「アフリカヌスの娘,グラックス兄弟の母コルネリア」と刻まれている.女の地位が低かった共和政下のローマでは,これは珍しい例であった. [塩野七生「ローマ人の物語III 勝者の混迷(新潮社1994) 1. グラックス兄弟の時代 p80-1]
708 マリウス,スッラ,そしてポンペイウスもカエサルも.義理人情の重要性を理解した男たちであった.彼らと兵士たちの関係を,近現代のほとんどの研究者たちが「私兵化」であると一刀両断して済むませるのは,その人々が人間関係における義理人情の重要さを解さない,いや解そうともしない欧米のインテリだからである. [塩野七生「ローマ人の物語III 勝者の混迷(新潮社1994) 2. マリウスとスッラの時代 p118]
709 ここでもう一度「西洋芸術音楽」の定義を簡単にまとめておこう.それは「知的エリート階級によって支えられ」,「主として,イタリア・ドイツ・フランスを中心に発達した」,「紙に書かれて設計される」音楽文化のことである. [岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書, 2005) p10-1]
713 マーラーは空ろな眼で横たわっていた.一本の指が掛け布団の上で指揮をしていた.唇に微笑がもれ“ モーツァルト” と二度言った.その眼はとても大きかった. [アルマ・マーラー「グスタフ.マーラー愛と苦悩の回想」(中公文庫, 1987) p362]
714 ユリウス・カエサルの言葉の中で,私が最も好きなのは次の一句である.
「人間ならば誰にでも,現実のすべてが見えるわけではない.多くの人は,見たいと欲する現実しか見ない」
こうは思いながらもカエサルは,指導層の中でも才能に恵まれた人々には,見たいと欲しない現実まで見せようと試みたのではなかったか.「内乱記』を読むだけでも,書き手の品位を損なうような非難の言葉はつかわれていないにもかかわらず,いやそれゆえにかえって,読む者をして,元老院の統治能力の衰えを認めざるをえない想いにさせる.
しかし,このカエサルから後継者に指名されたアウグストゥスは,目標とするところは同じでもそれに達する手段がちがった.なぜか.
第一に,何事にも慎重な彼本来の性格.
第二は,殺されでもすれば大事業も中絶されざるをえないという,カエサル暗殺が与えた教訓.
第三は,演説であれ著作であれ,カエサルに比肩しうる説得力は自分にはないという自覚.
アウグストゥスは,見たいと欲する現実しか見ない人々に,それをそのままで見せるやり方を選んだのである.ただし,彼だけは,見たくない現実までも直視することを心しながら,目標の達成を目指す.
これが,アウグストゥスが生涯を通して闘った,「戦争」ではなかったかと思う.
天才の跡を継いだ天才でない人物が,どうやって,天才が到達できなかった目標に達せたのか.それを,これから物語ってみたい.[塩野七生「ローマ人の物語 VI パックス・ロマーナ(新潮社1997) 読者にp8-9]
717 紀元6 年,ついに相続税が成立した... ─中略─だが,興味深いのはアウグストゥスのやり方だ.足りなくなったら,まず自分が身銭を切る.そして,相続税による財源確立が成ったときに彼がやったのは,一億七千万セステルティウスもの大金の寄付だった.これでは,反対したくてもしにくい. [塩野七生「ローマ人の物語 VI パックス・ロマーナ(新潮社1997) 2. 統治中期p217]
718 南フランスのニームには現代でも,ポン・デュ・ガールが遺っている.長さは370 メートル,高さとなると48 メートルにも成る歩道つきの水道橋で,ニームの住民に水を供給する目的で建てられたものだ.ローマ帝国滅亡後の中世に生きた人々は,ローマ人が残したものであることを忘れ,これほどの建造物を人間がつくれるわけがなく,悪魔がつくったのだと信じて「悪魔橋」の通称が生まれたのだが,つくったのは悪魔どころか人間で,紀元前19 年にアグリッパが建設させたものであった. [塩野七生「ローマ人の物語 VIパックス・ロマーナ(新潮社1997) 2. 統治中期p224]
719 アウグストゥスという人は,政治心理学では極めつきの達人と思うが,なぜか個人の心の動きには無神経な人だった.古代の美的基準では,カエサルに比べれば圧倒的に美男だったが,女にモテたかどうかということになると,さしてモテなかったのではないかと思ったりする.女の感性とて馬鹿にしたものではなく,女とは,権力にも美貌にもそうは簡単には騙されないものなのだ. [塩野七生「ローマ人の物語 VI パックス・ロマーナ(新潮社1997) 2. 統治中期p263]
720 ギリシア人の考えた上等な偽善とは,たとえうわべを装おうとも見せかけであろうとも,それをする目的が公共の利益にあった場合である.ギリシアの哲学者たちは,この種の偽善を,政治家には必要な手段であるとさえ認めたのだ.必要悪,ではない.もっとポジティブな意味を持つ「悪」である.
古代ギリシアでこれを実践した政治家はペリクレス一人でしかなかったのが面白いが,民主政であると見せかけながら三十年間にわたって事実上の独裁をしたペリクレスがこの面でのギリシア側の代表ならば,共和制であると思わせながら四十年間にわたって事実上の帝政を行ったアウグストゥスはローマ側の代表であろう.そしてもっと面白いのは,この二人が他の誰よりも,二千五百年の昔から現代に至るまでの古代の政治家の中では,最も高い評価を得ていることである.人間とは,主権を持っていると思わせてくれさえすればよいので,その主権の行使には,ほんとうのところはさしたる関心をもっていない存在であるのかもしれない.結果が悪と出たときにだけ,苦情の声を上げるというだけで. [塩野七生「ローマ人の物語 VII 悪名高き皇帝たち(新潮社1998) 第一部 皇帝ティベリウスp142]
721 ローマ帝国は,タキトゥスのような共和政シンパがどう批判しようと,カエサルが企画し,アウグストゥスが構築し,ティベリウスが盤石にしたという事実ではまちがいない.
ティベリウスは何一つ新しい政治をやらなかったとして批判する研究者はいるが,新しい政治をやらなかったことが重要なのである.アウグストゥスが見事なまでに構築した帝政も,後を継いだ者のやり方しだいでは,一時期の改革に終わったにちがいないからだ.アウグストゥスの後を継いだティベリウスが,それを堅固にすることにのみ専念したからこそ,帝政ローマは,次に誰が継ごうと盤石たりえたのである.
しかし,このように地味な努力は,人々に評価されにくい. [塩野七生「ローマ人の物語 VII 悪名高き皇帝たち(新潮社1998) 第一部 皇帝ティベリウスp184]
723 十字架上で死なずに黒海あたりに追放になったイエスでは,後のキリスト教拡大の起因にはなりえなかったであろう.ピラトは,この一事だけでも,祖国ローマに害をもたらしたのである. [塩野七生「ローマ人の物語 VII 悪名高き皇帝たち(新潮社1998) 第二部 皇帝カリグラp237]
731 なぜカエサルが女という女からモテ,モテただけでなく恨みを買わなかったのかの解明が,男性独占と言ってもよいのが現状の史家や研究者の考察を追っていてはできず,女の立場に立って初めて可能になったのに似て,なぜ権力もなかった時期のカエサルにあれほども多額の借金が可能であったかの考察も,地方の裕福な知識人プルタルコスや,研究費も大学が負担してくれる現代の研究者等の真面目な考察の範囲に留まっているかぎり,推理も解明も不可能ではないかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p139]
732 借金が少額のうちは債権者が強者で債務者は弱者だが,額が増大するやこの関係は逆転するという点を,カエサルは突いたのであった.─中略─ クラッススとてカエサルには貸しつづけるしかなかった. [塩野七生「ローマ人の物語 IV ユリウス・カエサル—ルビコン以前— (新潮社1995) 第四章 青年後期p140]
739 私も,このエピソードの史実性を否定するつもりはない.クレオパトラの性格を思えば,彼女ならやりそうなことである.また,仕事の面ではストイックでも,私生活ではエピキュリアンであったカエサルである.据膳食わぬは男の恥を踏襲する(マゝ) のに,迷いなど感ずる男ではなかった,それに,緊張つづきの歳月を過ごしてきた五十二歳の勝利者の前に立ったのは,生涯最大の賭に全身が輝いていたにちがいない二十一歳の女である.鼻が少しくらい低かろうと,そのようなことなど気にならない魅力にあふれていたはずだ.それに加えて,この若い女王は,ユーモアのセンスも充分だった.愛を交わすだけで話ができないでは,カエサルの愛人として長つづきしないのである.というわけで.勝負師的性格でもにているこの二人の間が愛人関係に進んだのも,ごく自然な展開であったろう.問題はだから,カエサルのくだした裁定が,クレオパトラの魅力の虜になった結果か否か,である.
─中略─
カエサルのくだした裁定は,先王の遺言を忠実に守ること,であったに過ぎない.
─中略─
要するに,カエサルには,たとえ愛人関係に進まなかったとしても,クレオパトラの軍事上の劣勢を挽回してやる理由は多かったのである.恋愛が介在することで左右できるほど,国際政治は甘くない.また,カエサル自身が,愛しはしても溺れない性格だった.
ただし,クレオパトラのほうがそれを,自分の魅力のためであったと思いこんだとしても無理はなかった.女とは,理(ことわり) によったのではなく,自分の女としての魅力によったと信じる方を好む人種なのである.それに,女にそのように思いこませるなど,カエサルならば朝飯前であったろう.クレオパトラがこの誤認に気がつくのは,カエサルの遺言状が公開された時点になってからではなかったか.その時点での彼女の屈辱感こそが,彼女の後半生を解く鍵になるのではないかと思う. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p191-3]
740 国家は理念でなく実際であり,問題はそれが良く機能するか否かであると考えるカエサルを,キケロでさえも理解していなかったことを示している.この種の人々がしばらくすると,自分が理解していなかったことさえも気がつかず,裏切られた,と言いはじめるのも人間世界の常なのだ.戦場では孤独でなかったカエサルも,政治の場での孤独は避けることはできなかった.
しかし,孤独は,創造を業とする者には,神が創造の才能を与えた代償とでも考えたのかと思うほどに,一生ついてまわる宿命である.それを嘆いていたのでは.創造という作業は遂行できない.ほんとうを言うと,嘆いてなどいる時間的精神的余裕もないのである.というわけでカエサルも,キケロの思惑などには無関係に,やるべきと考えた事柄を実行に移しはじめていた.その最初が暦の改革であったのが,実際家である彼を示して象徴的でさえある. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p267]
742 ローマ人にとって神とは,人間の生き方を律する存在ではなく,生き方を律するのは法律と考えていたからだが,法律によって生き方を自ら律する人間を保護しその努力を助ける存在なのである.こう考えれば当然の帰結だが,ローマ人は行くところどこにも神々を連れて行くことになる.統治や軍事や商用で属州に出向くローマ人は増える一方であり,植民して定着するローマ人も増加の一方であった.カエサルは,その人々のためにも,ローマ人の宗教なるものを明確にする必要があると考える.それで,最高神ユピテルとその妻ユノー,そしてミネルヴァの三神をローマの主神と決め,属州でも,この神々を祭る日は休日にすると決めた.
─中略─
自ら征服したガリアの祭司階級さえも温存したカエサルにすれば,この三神に捧げられた神殿に参る義務は,ギリシア・ローマ宗教を信じない人々にはないのである.ガリアの土着宗教を信ずる人々にとってのユピテル祭日は,ただの休日にすぎなかった.
このカエサルのやり方に,最も熱狂的に反応したのはユダヤ民族である.一神教民族であるだけにユダヤ人には,ローマ人も彼らと同じく自分たちの宗教を唯一無二のものと信じ,それゆえにローマの宗教をユダヤ人にも強制してくるのではないかと恐れていたのだった.カエサル暗殺の報に接して他の誰よりも嘆き悲しんだのは,ユダヤ人であったといわれている. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第六章 壮年後期p296-7]
748 遺体を焼く炎が消えかかる頃になって,今度は激しい雨が降ってきた.カエサルの遺灰は,誰かが集める前に,しのつく雨で流されてしまった.後継者のオクタヴィアヌスがようやく内乱を平定した後で皇帝廟をつくるが,そこに入るべき最初の人であるカエサルを埋葬することができなかったのは,遺灰が流れてしまっていたからである.
ゆえに,カエサルの墓はない.カエサルの遺灰は.ローマの地にしみこんでしまったかもしれないし,完備した下水道を通ってテヴェレ河に流れ,そのまま地中海にとけこんでしまったのかもしれない.しかし,月並な墓などないほうが,カエサルには似つかわしいように思う. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第七章 「三月十五日」p374]
749 しかし,キケロの教養が先見性を欠いていたのに似て,ブルータスの高潔な精神も,ローマ人に進むべき道を指し示す役には立たなかった.イタリアの高校の歴史の教科書ですら,「三月十五日」を次のように言い切る.
〈懐古主義者たちの自己陶酔がもたらした,無益どころか有害でしかなかった悲劇〉「三月十五日」は,カエサルにとっての悲劇であるよりも.ブルータスにとっての悲劇ではなかったか.ただし,時代に受け容れられなかった高潔な人の悲劇ではなく,時代の変化を見ようとしなかった高潔な人の悲劇として. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第七章 「三月十五日」p423]
750 クレオパトラは早くも,アントニウスの性質と才能をよく理解したにちがいない.そして,カエサルに比較したにちがいないから,ひとかどの女ならば生涯に一度は直面する問題に,彼女も直面したのかもしれない.つまり,優れた男は女の意のままにならず,意のままになるのはその次に位置する男でしかない,という問題に直面したのではないか.この問題にどう対処するかで,女の以後の生き方が決まって来る.意のままにならなくてもそれでよしとするか.または,器量才能では第一級とはいかなくても,意のままになる男を採るか.クレオパトラは,後者を選んだ.これで,彼女の以後の生き方も決まった. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第八章 アントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌスp431-2]
751 カエサルならば,同じ休暇でも過ごし方がちがった.『内乱記』を書いたり,ナイル河の水源に興味をもったり,エジプトの国情に注目したり,天文学者や数学者の研究成果に基づいて暦の改革を考えたりと,一言で言えばはなはだ自主的な時間の使い方をする客人であったのだ.美食の探求にはいっさい関心を払わなかったし,豪華なオリエント・スタイルにもさしたる興味を示さなかった.このカエサルに対してクレオパトラが提供できたのは,若くて話し相手の役ならば充分に果たせた自分自身と,ナイルの河遊び用の美しく快適な御用船ぐらいであったろう.
一方,カエサルに比べれば受動的な時間の使い方をするアントニウスに対しては,提供できるものは多かった.
─中略─
酔わない男であったカエサルゆえに意のまますることに失敗したクレオパトラは,アントニウスに対しては,酔わせることにエネルギーのすべてを集中したのだろう.だが,これは,次席の器でしかない者に,主席もやれるという誤信を植えつけただけであったのだが. [塩野七生「ローマ人の物語 V ユリウス・カエサル—ルビコン以後— (新潮社1996) 第八章 アントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌスp432-3]
759 三十九歳で皇位に就いたティトゥスくらい,良き皇帝であろうと努めた人もいなかったのではないかと思う.もしも公僕という表現が存在したとすれば,この人ならばそれを心から信じ,公僕に徹しようと努めたにちがいない.国民が望まないならば,生涯の恋すらあきらめる人であった. [塩野七生「ローマ人の物語 VIII 危機と克服(新潮社1999) 第六章 皇帝ティトゥスp253]
770 教会の伝道者が,教区の信者たちを前にして彼の理性を使用する仕方は.もっぱらその私的使用である,教会の会衆は,いくら大勢であっても所詮は内輪の集まりにすぎないからである.このように理性の私的使用に関して言えば.牧師たる彼は決して自由でない,また他からの委任を果たしているのであるから,自由であることを許されないのである.しかし彼が,著書や論文を通じて,本来の意味での公衆一般,すなわち世界に向かって話す学者としては,従ってまた理性を公的に使用する聖職者としては,自分自身の理性を使用する自由や彼が個人の資格で話す自由は,いささかも制限されないのである. [カント「啓蒙とは何か」(岩波文庫) 篠田英雄訳 p13]
782 絶対無分節の「存在」の前に突然たたされて,彼は狼狽する.仏教的表現を使っていうなら,世俗諦的意識の働きに慣れ,世俗諦的立場に身を置き,世俗諦的にしかものを見ることのできない人は,たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても,そこにただ何か得たいの知れない,ぶよぶよした,淫らな裸の塊しか見ないのである.じつは東洋の哲学的伝統では,そのような次元での「存在」こそ神あるいは神以前のもの,例えば荘子の斉物論の根拠となる「混沌」,華厳の事事無礙・理事無礙の窮極的基盤としての「一真法界」,イスラームの存在一性論のよって立つ「絶対一者」等々であるのだが. [井筒俊彦「意識と本質—精神的東洋を求めて」(岩波文庫, 1991) p15]
784 一切存在者の本当の(勝義的な) あり方とは,それらの絶対的な無自性性なのである. [井筒俊彦「意識と本質—精神的東洋を求めて」(岩波文庫, 1991) p23]
786 たしかに治療の視点からとらえられた経穴脈が神経系となんらかの関係にあるということは十分に考えられる.だがここで大切なのは,経絡とはほんらい血管系ないし循環系を意味する概念であり,経穴脈としての経脈は,それを治療の視点から横すべりさせた派生的な概念だということである.その根本のところをきちんとおさえておかなければ,中国医学は要するにわけのわからぬものとなり,脈論を核とする中国医学の理論は,実在する対象を持たない,たんなる蜃気楼にすぎなくなってしまうだろう. [山田慶兒「中国医学はいかに作られたか」(岩波新書599, 1999) p84]
787 漢代に人体解剖がおこなわれていた間接的な証拠は,「霊枢」の少師派の論文に見られる.そこには発声機構をつくっている器官とその作用が正確に記述されているのだ.
─中略─
おなじく「霊枢」の岐伯派の手に成る一篇は,人体解剖についてこう述べている.そもそも人は天地の間,世界の中に生きているが,この天の高さ知の広さは人力によって計測しつくせるものではない.ところがあの八尺の士ならば,皮と肉がここにあり,外から計測し撫でていって把握することができるし,死ねば解剖して観察することができる.─中略─このようにきっぱりと言明できるのは,実際におこなわれた解剖の成果に通じている人だけであろう.のみならず,「夫の八尺の士」という表現は,人間一般というよりもたれか特定の個人,ひとりの名ある偉丈夫を指しているように見える.
そして事実,新の天鳳三年(16) に,ひとりの男が医学研究のために解剖されたのである.─中略─◯義は前漢末,王莽の帝位簒奪の野望に反逆して兵を挙げた.その参謀格であった兵法家の王孫慶が,長い逃亡生活のすえについに捕らえられとき,王莽は死体を解剖させたのである.
皇帝の命を受け,侍医たちがおこなったのは,骨骼とともに内臓の大きさや重さや容量や充実度を計り,竹ひごで脈の経路や長さなどを調べることであった.このときの記録は,またそれに基づいて書かれたに違いない文章が,「黄帝内経」に収録されている.いずれも伯高派の手になる,「霊枢」の「骨度」・「腸胃」・「平人絶穀」の三篇である.
─中略─
計量解剖学は実際には一回だけの試みに終わった.宋代にふたたび人体解剖の気運が生まれたときには,関心は計測でなく形態の記述と描写に向かい,二度にわたって解剖図が描かれた.そしてその図のひとつはわが梶原性全の「頓医抄」(1302 ごろ) にも収められている.そして人体計量値のほうは,「霊枢」・「難経」に記載されている数値がそのまま,後世まで墨守されていったのだった. [山田慶兒「中国医学はいかに作られたか」(岩波新書599, 1999) p84-89]
798 西洋人のやり方は積極的々々々といって近ごろだいぶはやるが,あれは大なる欠点をもっているよ,第一積極的といったって際限がない話だ.いつまで積極的にやり通したって.満足という域とか完全という域にいけるもんじゃない.向こうに檜があるだろう.あれが目ざわりになるから取り払う.とその向こうの下宿屋がまた邪魔になる.下宿屋を退去させると,その次の家がしゃくにさわる.どこまで行っても際限のない話さ.西洋人のやり口はみんなこれさ.ナポレオンでも,アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もいないんだよ.人が気に食わん,けんかをする,先方が閉口しない,法廷へ訴える,法廷で勝つ,それで落着と思うのは間違いさ.心の落着は死ぬまであせったって片づくことがあるものか.寡人政治がいかんから,代議政体にする.代議政体がいかんから,また何かをしたくなる.川が生意気だって橋をかける,山が気に食わんといってトンネルを掘る.交通が面倒だといって鉄道をしく.それで永久満足ができるものじゃない.さればといって人間だものどこまで積極的に我意を通すことができるものか.西洋の文明は積極的,進取的かもしれないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるものじゃない.西洋と大いに違うところは.根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一大仮定のもとに発達しているのだ.親子の関係がおもしろくないといって欧州人のようにこの関係を改良して落ち着きをとろうとするのではない.親子の関係は在来のままでとうてい動かすことのできんものとして,その関係のもとに安心を求むる手段を講ずるにある.夫婦君臣の間がらもそのとおり,武士町人の区別もそのとおり,自然そのものと見るのもそのとおり.—山があって隣国へ行かれなければ,山をくずすという考えを起こすかわりに隣国へ行かんでも困らないようにくふうする.山を越さなくとも満足だという心持ちを養成するのだ. [夏目漱石「吾輩は猫である」八末尾近く(八木独仙の言葉)]「あんまり人の言うことを真に受けるとばかをみるぜ.いったい君は人の言うことをなんでもかでも正直に受けるからいけない.独仙も口だけは立派なものだがね,いざとなるとお互いとおなじものだよ.云々」(迷亭の言) 九.
799
「無弦の素琴を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「ずうずうしいぜ,おい」
「Do you see the boy か.」 [夏目漱石「吾輩は猫である」九]