101 「背教者」と弾劾されることになるユリアヌスの行った反キリスト教会とされる政策だが,それを一言でまとめれば,ローマ帝国民の信教状態を「ミラノ勅令」にもどした,のである.
ユリアヌスによって再び,あらゆる信仰がその存在を公認された.—中略—信仰の完全な自由を保証する以上は,「異教徒」という蔑称も,「異端」という排斥の思いも.あってはならないというのが,直訳すれば「全面的な寛容」の名の許に公表された,皇帝ユリアヌスの勅令であった. [塩野七生「ローマ人の物語」39 キリスト教の勝利[中] p69]
102 コンスタンティヌスが,そして父の意を継いだコンスタンティウスが,半世紀の間に行った.教会建設,聖職者私産と教会資産への非課税,司教区での司教への司法権委託,等々の優遇政策は,「神意」を味方につけることによって帝位世襲の正統性を獲得すること,が目的であったのだ.そして,決めるのは「人間」ではなく「神」となれば,皇帝への反乱も皇帝殺害もなくなり,政局は安定すると踏んだのであろう. [塩野七生「ローマ人の物語」39 キリスト教の勝利[中] p75]
103 ユリアヌスは,哲学の一学徒であった頃から,良く評せば.情熱的に懸命に話す若者であり,意地悪く評せばせっかちで,頭の中で考えていることに言葉がついてこないという感じの話し方をしたと言われている.それは,皇帝になっても少しも変わらなかった.このような話しぶりの人は,何を行うにしてもあせりがちになる. [塩野七生「ローマ人の物語」39 キリスト教の勝利[中] p84]
104 金貨,銀貨,銅貨という,形ならばキリスト教化しない前のローマ帝国の通貨と同じものでキリスト教化して以降のローマ史の表紙を飾ってきたのだが,それも終わりに近づいた今,痛感していることが一つある.
それは,宗教には経済の悪化を変える力まではない,ということである. [塩野七生「ローマ人の物語」40 キリスト教の勝利[下] ]
105 リオの古びた裏通りに,もうほとんど人に忘れられた小さな石の教会がある.ポジティヴィズモの教会だ.—中略—人類教でもっとも大切なものはやさしさであり,エゴイズムの否定であるという.—中略—1881年に創立されたこの教会では,いまも毎日曜の朝,信者が集まって厳粛にショパンのピアノ曲を聴き.交代でコントの遺書の注解をやっている.—中略—
19 世紀フランスの実証主義の哲学者・社会学者オーギュスト・コントは,妻に家出された晩年,夫に捨てられ肺を病む,若く美しいクロティルド・ド・ヴォーとのつかの間の愛から霊感を得て,人類教を創始する.本家のフランスでは,社会学者としてのコントの業績はうけつがれたが,人類教の方はほとんど思想的痕跡をのこさなかった.ところがブラジルの青年将校にこの宗教が飛び火して燃え上がる.奴隷解放後,経済的,社会的に混乱におちいった帝政にとどめを刺す共和制クーデターが,人類教の信奉者ベンジャミン・コンスタン中佐を中心に成功する.そして信者の一人,テイシェラ・メンデスが,現在まで続いている新しい国旗をデザインした.その原図は,この小さな教会に保存されている.国旗には,共和制成立の1889 年11月15日夜のリオの星空が描かれ,そこに帯状にコントの遺書からとったORDEM E PROGRESSO という文字が記されている.—中略—ロンドンも人類教の熱烈な信奉者だった.
—中略—
もと海軍士官だったという,上品な白髪の人類教徒は.教会の地下資料室で自愛の精神について私に語りながら,彼らの作ったブラジル国旗には,暴力,攻撃性を示す赤い色がまったくないことを指摘した.たしかにそこに描かれているのはゆたかな自然を表す緑の地に,黄金に象徴される富を示す黄色の菱形,その中の白い星のちりばめられた青い天球,そして白い帯の文字「秩序と進歩」だ.[川田順造「「悲しき熱帯」の記憶=ストロースから50 年(中公文庫,2010 原著1996) p46-49]
106 紋章学をもちだすまでもなく,私が訪れたナンビクワラ族の男も,女性自身を示すのに,両手の親指と人差指を合わせた菱形をつくってみせ,私もすぐ了解した.いま世界の国旗で,堂々と菱形をとりいれているのは,ブラジルの国旗だけだ.しかも緑の森に囲まれ黄金の蜜をたたえた菱形,その中から生まれる人類愛の球体—図象解釈学的にみても,これほど母性愛をはっきり表している国旗はないだろう.一億火の玉,攻撃性のかたまりのような日章旗が,何だかひどくおぞましいものに思われてくる. [川田順造「「悲しき熱帯」の記憶=ストロースから50 年(中公文庫,2010 原著1996) p50-1]
107 私の説明は,〈なぜかと根本的理由を求める〉できのよい生徒と〈詳しくわかりやすい説明を求める〉できの悪い生徒とだけによくわかる.残念ながら,〈覚えるものはなにか,その箇条書きだけを求める〉ような中間のフワーンとした連中にはわからない.
だから,諸君は,本文を読み進んでゆくうちに,私の説明がわかってくるならば,オレはできがよい,と喜んでいいし,或いは,オレはできが悪いのかも,と疑ってもいい.どちらにしても,結果として漢文がわかってくればそれでよいではないか,ン?[加地伸行「漢文法基礎」はじめにp8]
108 外微分の概念を導入したのはE. Cartan ではないかと思うが,確かでない.なにか定理を証明した人の名は残るが,こういう重要な概念の創始者の名が残らないのは残念である.[志村五郎「数学をいかに使うか」(ちくま学芸文庫. 2010) p049]
109 ここに数学史上の面白い現象がある.Fourier はJacobi よりは三十歳以上年長であって,お互いどんな数学をやっているかは承知していたが,共に,よく理解してはいなかったらしい.F はJacobi やAbel が楕円関数などに興味を持って,Fourier の立場からはより重要な熱伝導のような物理学に有用なFourier 級数を研究しないことを残念に思っていた.一方J は数学の目的はF の言うような実用性にあるのではなく.数学それ自体にあるのであって.いわゆる「人間精神の名誉」のためのものであるとした.Poisson はFourier よりは十歳以上若く,彼らの関係は私はよく知らないが,Fourier がPoisson の結果を知っていたことはまず確実であろう.しかしそれがJacobi のテータの変換公式であることは知らなかったと思われる.一方,そのころJacobi はまだ若くてテータ関数の一般論を構成していなかったであろうが,もし彼がPoisson のテクニクを知ったとしたら,それはJacobi をしてテータ関数の性格に眼を開かしめるものがあったのではないか.そこに歴史の偶然性と皮肉がある.彼らの数学は一つの興味深い公式によって表される点で接していたのであるが,彼等はそのことを知らず,Fourier 級数のPoisson 和公式がJacobi の考えていたようなものを含めた「純粋数学」ではなはだ重要であることを理解したのは次の世代の人たちであった. [志村五郎[数学をいかに使うか」(ちくま学芸文庫. 2010) p122]
110 ともあれ,本書を気楽に読んで,そこに読者がなにか新しいことを発見して,又,それを到達点ではなく出発点とすることを期待するものである. [志村五郎[数学をいかに使うか」(ちくま学芸文庫. 2010) p004]
111 It should be noted that for many terms, a precise definition is not really possible. This sounds exceedingly tiresome, and it is, However, plant variation forms a continuum, and in many cases, all we can do with our terms is to indicate reference points on this continuum. [H. Beetje, {\em The Kew Plant Glossary, an illustrated dictionary of plant terms} (Royal Botanic Garden’s KEW, 2010) p. vi]
112 In October of 1870, just five and a half years after his surrender, Lee suffered a massive stroke and died a few days later, at home in Virginia, surrounded by his family.
In death, as in life, Robert E. Lee divided the nation. The former slave Frederick Douglass spoke for those who were offended by the ``nauseating flatteries of Robert E. Lee'' ... ``It would seem that the soldier who kills the most men in battle, even in a bad cause, is the greatest Christian, and entitled to the highest place in heaven.''
Southern partisans deified their now-fallen commander, placing his memory at the head of a grand and noble Lost Cause. The glory that eluded Lee in life attached itself to him in death, turning him, literally, into a bronzed god, a marble man. [American Experience, ``Robert E. Lee at war with his country ...and himself'' (PBS) http:// www.pbs.org/wgbh/americanexperience/features/transcript/lee-transcript/]
113 ... it is depressing to see Perelman's inspiring achievement and powerful new ideas reduced to psychobabble: ``Speaking of the imaginary four-dimensional space, he referred to things that could and could not occur `in nature'. In essence, he [Perelman] was able to do in mathematics what he had tried to do in life: grasp at once all the possibilities of nature and annihilate everything that fell outside that realm---castrati voices, cars, anti-Semitism, and any other uncomfortable singularity.''
The incoherence and ugliness of such assessments contrast with the clarity and grace of the laudations read at the recent conference in Paris cosponsored by the Clay Mathematics Institute and the Institut Henri Poincar\’{e} celebrating Perelman's proof. Bill Thurston, for example, closes his by remarking that ``in our modern society most of us reflexively and relentlessly pursue wealth, consumer goods, and admiration. We have learned from Perelman's mathematics. Perhaps we should also pause to reflect on ourselves and learn from Perelman's attitude toward life.'' (http:// www.claymath.org/poincare/laudations.html. ) One cannot expect Gessen to understand the mathematics, but one wishes for some sense of her own limitations, some caution, some generosity, and some openness to difference. Her cheeky self-confidence and willingness to trample on what she does not understand, so typical of popular culture, wears thin. Perelman and his work deserve better. So, too, do the discipline and the profession. [D. O'Shea, Book Review ``Perfect Rigor: a genius and the mathematical breakthrough of the century,'' NAMS 58 , 56 (2011) pp58-9.]
114 慶暦 4年(1044年)に西夏との和議がなると、しばらくは現地で勤めていたが、1052年には枢密副史に任命され、都で勤務する。この枢密副史は軍事の副長官に該当する職で、たいていの場合は文官がなるものなので武官上がりの狄青がこれを勤めるのは異例のことであった。しかし、広源州の 儂智高 が 華南 で反乱を起こすと、これの平定のため、再び前線に出ることになる。
このとき、官軍はあまりに士気が低く、どうにもならない状況であった。そこで狄青は「今から銅銭を100枚投げるが、これで全て表が出るようなことがあるなら、これは神のお告げである。必ず官軍は勝つ」と発言した。このような確率的にありえないことが起こるとはとうてい思えなかった部下が狄青を諌めるのであるが、これにかまわず狄青は銅銭を投げる。すると、すべて表を向けて転がった。実は、この銅銭はあらかじめ狄青が用意した銅銭であり、もともと表しかないイカサマのコインだったのだが、そうと知らない兵らは大いに士気を上げ、賊を平定したという。[ http://ja.wikipedia.org/wiki/ 狄青]
116 “My time will come.”
About symphony “I want to put in the whole world.” (At the occasion of the first performance of R. Strauss’ “Salome” to Sibelius; Sibelius said, “I would just like a glass of pure cold water.”
He was the most generous man in so many ways but also as a composer and with his younger colleagues. Think of him standing up to silence people whistling during Schr¨onberg’s Kammersymphonie: “I don’t understand everything this young man is saying, but I really think he is right. You ought to listen.” [From Simon Rattle’s comments after Mahler’s fourth symphony]
117 アリストテレスが,「しかし新生児を捨てるか育てるかということについて言うと、障害のあるものは育ててはならないという法律が定めなければならない」(『政治学』第7 巻第16 章 山本光雄訳,一部改変) といっているように,嬰児遺棄は抵抗感なく行なわれていた.—中略—
新生児を遺棄することは「エクティテミ」,「アポティテミ」といい,「棄て置く」,『野ざらしにする」の意である.遺棄は多くの場合死に直結したにちがいないが,しかし新生児の遺棄は子殺しとは本質的に異なるとみなされていた点に注意する必要がある.[桜井万里子「古代ギリシアの女たち」(中公文庫, 2010; 原書1992)p34]
118 振り返れば,日本人は自信喪失期に日本語を冷遇してきた.敗戦後には表記のローマ字化さえ浮上した.そしていま,英語を公用語にする日本企業が登場している.[天声人語 2011/6/17]
122 王宮や寺院の発掘,さらに木簡の解読により,『日本書紀』の信頼性は揺らぐどころか,かえって回復してきている.これまでの『日本書紀』批判と7 世紀史の再構成は行き過ぎではなかったか—このことは本書でも再三述べることになるだろう.[吉川真司『飛鳥の都」シリーズ日本古代史3 (岩波新書1273, 2011) pvi] cf II 544
123 かっては, この早期段階の具体的内容がつかめなかったために, 縄文伝統とは異なる大陸に由来する文化要素が突如前期初めの板付 I 期に現れるように見えた.早期という段階の内容が明らかになることによっ て, 縄文から弥生への漸進的・連続的に推移する様子が明確となり, それが前期以後の弥生文化が展開する 基礎をなすことが理解されるようになった. [石川日出志「農耕社会の成立」 (岩波新書 1271, 2010) p90]
124 5人の中でも, 特に源順 (したごう 912-983) は当代屈指の学者であり歌人であった. 読めない文字の多さに困りきって, 石山の観音に参詣した. 帰路, 大津の浦で背に荷物を積んだ馬に出会った. 馬を引いていた爺が両手で馬荷を直しながら「までより (両手デ)」と言った. その言葉を耳にして順は, かねてから読みわずらっていた『万葉集』の「左右」という文字をマデと読むことに気づいた.
白波の浜松が枝の手向くさ幾代左右にか年の経ぬらむ (, 34) などと書かれた「左右」の字が助詞「まで」の表記であることを発見したのである. [佐竹昭広『古語雑談』 (岩波新書 350) p143-4]
125 Immediately before his passing, Chern told others that he was going to see the Greek geometers. [S.-T. Yau in “Shiing-Shen Chern (1911-2004.,” Notices AMS 58, 1226 (2011).]
126 ジョブズが、私生児であり、ドロップアウトであり、ヒッピーであり、追放者であったことは事実だ。そして、一方において、彼が真に革命的なソフトウエア設計者であり、前代未聞の経営者であり、情熱的なライフスタイル創造者でり、ある意味現代の聖者であったことも事実だ。 要するに、ジョブズは、東洋的な思想と西洋的な理想を併せ持ち、古代的でもあれば未来的でもあり、マッチョでもあれば女性的でもあったという意味で、非常に多義的な人間だったということだ。 [小田嶋隆「毀誉褒貶の中を生きたジョブズ」(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」世間に転がる意味不明 2011/10/6 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111006/223053/?mlh2&rt=nocnt ]
127 The native speakers I worked with were genuinely surprised to find out that their usage of the relevant verbs reflected a deeper level of lexical knowledge than their introspective intuitions allowed them to discover. As native speakers of the language, they knew more about the meanings of the verbs than they thought they knew. This psycholinguistic phenomenon raises some interesting questions regarding the psychological accessibility of word meanings via introspection. [D. Dor, “From the autonomy of syntax to the autonomy of linguistic semantics, Notes on the correspondence between the transparency problem and the relationship problem,” p344 Pragmatics & Cognition 8, 325-356 (2000).]
128 民主主義の政体に果断さや効率を求めるのは、そもそも無いものねだりだ。 逆に言えば、それら (スピードと効率 ) は、民主主義自体の死と引き換えにでないと、手に入れることができない。
民主主義は、そもそも「豊かさ」の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まだるっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。結局のところ、われわれは、全員が少しずつ我慢するという方法でしか、公正な社会を実現することはできないのだ。
性急な結果を求める人々は、官僚のクビを切ることや、学校教育に競争原理を持ち込むことで、短兵急な改革を実現しようとする。で、持ち出してくるのが、市場原理主義の考え方だ。
若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。それらは、似ているようでいて、まるで違う。ある場面では正反対だ。民主主義の多数決原理は、市場原理における淘汰の過程とよく似ているように見える。が、民主主義は、 少数意見を排除するシステムではない。むしろ、少数意見を反映する機構をその内部に持っていないと機能 しないようにできている。だからこそそれは効率とは縁遠いのだ。[小田嶋 隆「大阪の「維新」とまだるっこしい民主主義」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111201/224762/?mlh2]
129 彼には会社を未来へと導くビジョンがあり、社員の心を1つにまとめる統率力がある。新しい市場を提案するアイデアがあり、自らの間違いを否定する勇気もある。製品のディテールを厳しく磨き上げるアーティストの目を持ち、それが本当に可能かの勘所となる技術の目もある。ポケットマネーで会社をつくる資 金力もあり、業界の大物を動かすのに必要な交渉力もある。そして出来上がった製品を誰よりも愛するハー トがあり、その製品を語って人々を引き込むプレゼンテーションの能力もある。
130 十年前の新自由主義政権もこんにちの左翼政権も, ほぼ同程度に, 本文の最後で述べた「失望と消去法の政治」の産物である. —中略—
そして, 失望と消去法の振り子が左翼側に振れ戻ったその矢先にたまたま経済が好転した. —中略—すでに成立していた「左翼」政権は安定し, それに刺激されて新たにいくつもの「左翼」政権が生まれた. [高橋 均「ラテンアメリカ文明の興亡」(世界の歴史 18, 中公文庫 2009) 文庫版あとがき p566 ]
131 そして同じ先行きの不透明さは実は目下の全世界を覆っている. 前節までに「正解がない」という言葉が何度も出たが, これこそ現状をもっとも正確に表す言葉だろう. 言うまでもなく, 歴史の中で正解は時代とともに変わる. 昔の正解は今の正解と違うからこそ歴史なので ある. しかしもうひとつ突き詰めて問うと, 正解はすべての時代にあるものだろうか. むしろ歴史は正解のある時代とない時代が交替しつつ進んでいくものなのではないか. —中略—
一般化してみよう. (1)すべての正解には賞味期限がある. —中略—必ずそれは来る. (2)ある正解の賞味 期限が切れても, 新しい正解はたいていの場合すぐには見つからない. 新しい正解は古い正解の単なる否定 ではないからである. それは未知の新しいパラダイムであり, あらかじめ知り得ない不可知の諸条件が揃う 不定の未来に不意打ちで到来する. それまではいつ果てるともなく正解なしの端境期が続く. (3)正解ありの時代は伸びしろのありかが誰の目にも明らかだから社会は一方向へつんのめるように突進する. 正解なしの端境期には逆に, 社会は潜在力を蓄えつつも伸びしろがわからないためにもてあます. 正解がないことをアポリアというが, アポリアに対する最善の対処は—中略—辛抱強く次善の策を探すの である. —中略— たとえば, 少し前まで有力だったある歴史観は, 前の時代のアポリアの深化それ自体がとりもなおさず次の時代の正解を生み出すのだと教えていた. これは端境期を認めない立場であり, したがって急ハンドルを推薦するものである. [高橋均「ラテンアメリカ文明の興亡」(世界の歴史 18, 中公文庫 2009) 文庫版あとがき p569-70 ]
132 正解がある時代には, 時代の目標が初めから決まっている, それを達成する方法もまたたちまち狭く絞 られるから, プレーヤー全員が同一のコースを競争することになる. 最初に正解に気づいたプレーヤーが他に先んじて走り出すが, しかしこのリードはふつう長続きせず, 体力と気力で勝るプレーヤーにたちまち追い抜かれる. 体力と気力の勝負だから至極わかりやすいが, そのわかりやすさのゆえにプレーヤーも観客もどんどん頭を使わなくなる. これに対してアポリアに直面すると, 社会の意見は割れ, かつ時とともにぶれる. 個々のプレーヤーは自分の頭で考えるしかなくなる. [高橋均「ラテンアメリカ文明の興亡」(世界の歴史 18, 中公文庫 2009) 文庫版あとがき p570 ]
133 カントールは無限そのものを, 状態としてではなく, 出来上がったものとして取り扱ったのです. これは 何でもないことのようですが, 実は非常に型破りの考え方で, とても恐ろしいことなのです. [高木貞治「数学の自由性」(ちくま学芸文庫, 2011) p015]
134 自由というものの根底には確固とした信念がいります. 偶数全体が自然数全体と同じ数だけあるとか, 直線上の点と正方形の点とが同じ数だけあるなどと断言するには, よほどの勇気がなければなりません. [高木貞治「数学の自由性」(ちくま学芸文庫, 2011) p017]
135 本誌のために何か書けと, N にせがまれ出したのは, 何でも廬溝橋のころであった.「何分, この暑さで はね」で, あっさり撃退したつもりでいたのが, 不覚であった. 逆が必ずしも真でないことを知らぬ顔に,「昨今はだいぶ秋らしくなりました」ことを指摘するNである. 形勢はよろしくない. [高木貞治「数学の自由性」(ちくま学芸文庫, 2011) 微積の体系といったようなこと p041]
136 大体この遊女なるものは水駅に小舟を操っていたり, 神社などのいたむろしていたものであるが. これが大挙して後鳥羽院のサロンに群がっているのである. この月の十日には「白拍子ノ女, 六十余人」をあげたりしている. 定家はこういうものどもを好まない. 定家が個人的にこういうものどもを好まないということもさることながら, 時代がすでに源氏物語風な「色好み」という, 性を含んでの自由かつ遊戯的な男女往来の, 一つの文化形態を失いかけていることを, これらの遊女, 白拍子等の大挙しての宮廷侵入が証明しているであろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」序の期四 (ちくま学芸文庫) p036 ]
137 また式子内親王は, 前斎院, すなわち賀茂社に天皇の名代として奉仕する未婚の内親王であったのであり, 従って潔斎と言うことが至上の条件であった筈であるが, 明月記後年の記によると「穢ヲ忌マレズ」,「惣ジテ御祈ナシ」とあるように, この暗鬱な祈禱だの穢忌み, 方違だのばかりはびこっていた時代にしては, 珍しく解放された性格の女性であったようである. [堀田善衛「定家明月記私抄」治承4年記 (3) (ちくま学芸 文庫) p057 ]
138 画家のドガがステファヌ・マラルメに向かって,「詩を一つ書いてみたいんだ, イデーはあるんだが · · ·」と言ったとき, 詩人マラルメが,「詩は言葉で書くもので, イデーで書くものではない」と言ったという挿話があるが, これも言葉だけの芸なのである. その他の如何なるものもここには干渉して来てはいず, また干渉も出来ない, それは別な意味での, やはりきびしい世界の一つであると言わなければならないであろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」治承 5 年記 (ちくま学芸文庫) p057]
139 しかしいま一度, 天下大乱, 京師餓死スル者, 途ニ満ツという事態と, これらの高踏歌とはどういうかかわりにあるか, その対比はむしろ壮烈と言うべきであり, 美としてはインヒューマンなものでさえあろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」治承 5 年記 (ちくま学芸文庫) p063]
140 政治や社会と, 完璧に断絶したものが, そのままで, そのもとしてまるのままで政治それ自体であるという奇観は, いくら強調してもし切れるものではないのだが, 実のところそれをあまりに強調しすぎると, そういう例が芸術史上に多くないためもあって, 論調がきわめてぎくしゃくして来るのが通常である. [堀田善衛「定家明月記私抄」明月記欠 (ちくま学芸文庫) p068-9]
141 定家は治承4年の正月に従五位上に叙せられ, 父の俊成は二年前の六月はじめて兼実邸に召され, すでに六十五歳になっていたとはいえ, 一家にようやく前途の明るさが見えて来ていたのである. また別には, 当時歌壇第一の実力者と目されていた六条家の清輔が没し, その弟の重家も死に, まだまだ六条家には顕昭, 季経, 経家などの歌人歌学者がいはしたものの, ようやく六条家の支配にかげりが見えて来ていた頃でもあった. それはまた, 親幕派のの右大臣兼実とその子, 良経一統の権力把持とも切り離すことが出来ず, 文学的制覇をして同時に文壇的制覇たらしめたいという野望と政治は表裏一体となっている. [堀田善衛「定家明月 記私抄」西行との出会 寿永元年記 (ちくま学芸文庫) p075-6]
142 この旅での,鎌倉での頼朝との会見, あるいは平泉と険悪な関係にあった頼朝との折衝, 説得に際して 見せた, したたかな, 真に舌を巻きたくなるほどの政治的, また外交的手腕のことなどはすでに著名なこととなっているから事実をあげるだけにしておくが, この重源上人一行七百人の内宮参詣の実現についても, 西行は関与しているようである. それは日本思想史上の大事件であり, この大事件は「前後都合五日之間, 成長 (内宮の禰宜) 海陸之珍膳ヲ調ヘ, 毎日七百余人ヲ饗応ス」という大宴会によって祝われている. [堀田善 衛「定家明月記私抄」西行との出会 寿永元年記 (ちくま学芸文庫) p080]
143 あるいは木曾義仲の死に際して,「木曽と申す武者死に侍りけりな」という詞書きの, 異様なまでの冷酷さ加減は, 当時にあっても例を見ないほどのものである. これに比べては「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」も色褪せて見える. [堀田善衛「定家明月記私抄」西行との出会 寿永元年記 (ちくま学芸文庫) p082]
144 宮廷が流行歌のパトロンとなるということは, 下庶民の芸能を愛し, と解すれば聞こえもよかろうが, それは逆に言えば社会の上層部が精神的に貧しくなり, 文化創造の力がなくなって来ていることを意味することまでを否定し去るものではない. 定家の生きた時代は, そういう一つの文化危機の状況にあったのである. [堀田善衛「定家明月記私抄」後白河法皇死 建久3年記 (ちくま学芸文庫) p098]
145 定家の母は藤原親忠の女, 美福門院とその娘の八条院とに仕え, はじめは加賀, のちには五条局と呼ば れた人であった. 父俊成よりは十歳ほど年少で, 定家を生んだのが三十九歳の頃とされている. この女性は, はじめは大原三寂の一人である藤原為隆 (寂超)の妻となっていて, 歌人であり画家として, 特に肖像画家としては源頼朝, 平重盛の像を描いて,世界美術史中の人とみなすべき, 隆信を生んでいる. 夫の為隆が早く出家してしまったため, ひとりでいたところを俊成から「つれなくのみ見えける女に遣はしける」などと激しく言い寄られたものであった. [堀田善衛「定家明月記私抄」再び明月記欠 (ちくま学芸文庫) p098-9]
146 さて, この母・親忠女なる女性の家は家格はそう高いものではなかったようであるが, 祖父の弟には親重 (出家して僧勝命)という人があり, この人はなかなかの理論家であったらしく,「難千載集」なるものを書いて俊成編の千載集を非難したり, また鴨長明にとっては親しい先輩であり,西行とも親交があったようである. 要するに知的に高度なものをもった家系に属し, 先夫為隆との間の子に画家隆信があることも一つの証しになるであろう. 隆信は母が俊成のもとへ行ってからもその家に出入りして定家とも親しくしていた. またこの母は, 長女であり定家の姉にあたる八条院三条の子である俊成卿女をも養って愛し, この女性が一流歌人となるについても資するところがあったものと思われる. またこの母は, 紫式部供養のために経供養なるものを行ってい, 源氏物語尊重の心のあつかったことを物語ってい, それもまた定家にとっては生涯の重要事となったものである. [堀田善衛「定家明月記私抄」再び 明月記欠 (ちくま学芸文庫) p101]
147 中国の飲食研究で第一人者とされる王仁湘は「飲食与中国文化」という本で宋代の飲食について「質素な飲食を崇拝する社会歴風潮が普遍的に形成されていたが, それは前代未聞のことである. とりわけ, 士大夫階層では, 一時期, 淡白, 質素, 高雅が標準的な態度になったが, それは歴史上のその他の時代にはあまり見られない」と指摘している. [野嶋剛「謎の名画・清明上河図」(勉成出版, 2011) p080]
148 そして, 経済力の低下は人口の減少につながる. まず, やむを得ず結婚できない人が増える. それはイコール, 出生率の低下につながる. これに加えて, 栄養が十分でなければ肉体の抵抗力は減退するから, 病気にもかかりやすくなる. また, 入浴を歓迎しないキリスト教の普及によって肉体を清潔に保つ生活習慣も失われていたので, 蛮族や強盗に殺されなくても病気で死ぬものが増えていた. 農民の地方への回帰現象を計算にいれたとしても, 四世紀末から五世紀にかけての大都市の人口の減少は劇的でさえある. [塩野七生「ローマ人の物語」ローマ世界の終焉 (上) p106]
149 この反幕府クーデタが当事者である, 兼実, 慈円, 良経などにとってのみならず, 定家自身にとっても如何に深刻なものであったかは, 建久7年に百八十六首もあった定家の歌作が, 翌年にはわずかに二首しかないことに明瞭にあらわれているであろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」九条家の人々 (ちくま学芸文庫) p112]
150 兼実と法然の交渉は早く文治5年頃からはじまってい, 前記出家の時の戒師は言うまでもなく法然である. —中略—当時としての新興異端宗教を, 最高位の貴族として先んじてこれを支持するという先駆性を彼はもっていた. そういう, 時代の中での新しいものに対する大胆な受容性は, 鎌倉支持という政治的先駆性ともあいまって. 故後白河法皇流の, すべて陰謀によって事を運ぶ「日本国第一ノ大天狗」式の政治とは相容れない, 倒されてしかるべき理由があったであろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」九条家の人々 (ちくま 学芸文庫) p116]
151 如何に, いわれなき新流行, アタマもシッポもないダルマ歌, と保守的な六条家流によって非難をされても,その新しさに自信をもってしかるべき根拠がこの九条家の雰囲気の中にあったのである. [堀田善衛 「定家明月記私抄」九条家の人々 (ちくま学芸文庫) p116]
152 そうして, たとえそこまでのことをしてみても, 正月の除目にも期待は出来ず, 宗隆という院に隠然たる力をもつ奴がつくばっていて, 事毎に定家の邪魔をするのである. この宗隆なる者の妻が八条院の女房であり, 定家の姉健御前の,大喧嘩の当の相手であった. 具合のわるいことになったものである.「宗隆横惑ノ 余リ, 深ク余ノ辺リ嫉悪ス」という次第である. 定家は「私ニハ覚悟アリ」と言っているが, 諦念に近い感情であろう. 定家窮状を述べて来て, 今日のわれわれが慰めとすべきものは, 歌人としての修業時代, その教養をつむべき時期が俊成のもとにあって—それがたとえ源平騒乱の時期であったとしても—, 幸福なものとして過ごしえていたことである. 貧窮, 病屈はこの先まだまだ続くのであるが, その上に絢爛たる開花もが来るのである. [堀田善衛「定家 明月記私抄」明年革命, 已ニ以テ眼ル在ルカ (ちくま学芸文庫) p134]
153 三世紀, 四世紀と, 帝国の力の衰退とともに北部アフリカの安全保障にも赤信号が激しく点滅してくるように変わるが, それが決定的になるのは, キリスト教の普及によってである. —中略— キリスト教の普及する以前でも, 北アフリカのローマ社会も他の属州同様に, 上と中と下の三層に分かれ ていたのである. とはいえこれも, 帝国の他の地方と同じく, 階層間の流動性は高く, 社会の格差は固定してはいなかった. それがキリスト教の普及後には, 正統であるカトリックと, 異端とされたドナートゥス派に分れ, しかも固定してしまったのだ. そうなっては, 社会の階層間の流動性の原動力であった, 自由競争 のスピリットは失われる. 社会の格差の原因が, 能力や運ではなく, 信仰のちがいに起因するようになったからだ. そして, この信仰と既存の階層との関連ならば,上と中の階層がカトリック, 下層はドナートゥス派, という感じになった. これで固定化してしまったのだから, 反体制運動が頭をもたげてくるのも当然だ. [塩野七生「ローマ人の物語」ローマ世界の終焉 (中) p53-55]
154 一世紀前の五世紀にくり返された蛮族の来襲よりも, 自分たちとは同じカトリックのキリスト教を信ずるビザンチン帝国が始めたゴート戦役のほうが, イタリアとそこに住む人々に与えた打撃は深刻であったのだ. このことは, 近現代の歴史研究者の多くが認める事実である. 人口は激減し, 土地は荒廃し, 再興をリードできる指導層も消滅したのだから. —中略— 皇帝代官ナルセスは, ビザンチン帝国領になったイタリアとシチリアの住民に, すさまじいというしかない重税を課したのである. 人口が激減し, 耕地は荒廃し, 生産も低下した状態での重税である. —中略—イ タリアとシチリアの住民たちは, 18 年の戦争の後になおも, 15 年の圧政に苦しむことになる. 帝国の本国であったイタリアと首都であったローマの息の根を止めたのは, 蛮族ではなく, 同胞であるはずの東ローマ帝国であったのだった.[塩野七生「ローマ人の物語」ローマ世界の終焉 (下) p208-9]
155 そうして俊成定家の側からして見れば,たとえ制 (禁)を踏み破っていたにしても, 愁訴したいことがあるのであるから, 至誠天に通ず, とでも思っていたものであろう. 日本的甘えの典型である. [堀田善衛「定 家明月記私抄」道ノタメ面目幽玄ナリ (ちくま学芸文庫) p152]
156 このときの百首歌についてもう一つだけつけ加えておきたいことは, 作者二十三人のうちに,彼の兄, あるいは従兄の寂蓮もが加わっていることである. 何故このことをつけ加えておきたいかといえば, 寂蓮の子が白昼武士の妻を犯して斬殺されるという不祥事をつい去る三月にひき起こしているにも拘わらず, そのことが何のさし障りにもなっていないからである. 今日であれば, そういう不祥事を起こした子の父が, 光栄ある催し事に加わるなどということはありえないであろう. この個人主義の伝統は, 今日の日本では受けつがれていないのである. [堀田善衛「定家明月記私抄」道ノタメ面目幽玄ナリ (ちくま学芸文庫) p157]
157 日本人の生活史のなかではハーレムを擁していたと言って差支えないほどに, 女に不足していた分けでもないのに, 法皇と摂政が抱き合った男色を行い, 君臣合体ノ儀もあったものではないのであるが, そういう宮廷の荒淫荒亡を尽くした男の晩年の荒廃が, 定家の恐れおののきながらの観察にすでに刻印されているであろう. [堀田善衛「定家明月記私抄」道ノタメ面目幽玄ナリ (ちくま学芸文庫) p158]
158 この一月には定家生涯のこととしてやはり書いておかなければならぬことがあった. 式子内親王の死である. (一月廿五日) 定家は養和の頃に「初参」して以来, 約二十年間にわたって実に頻々とこの孤独な内親王を訪問している. はじめは「薫物馨香芬馥タリ」と大変な香りを漂わせてこの女性は定家を迎え, ときには箏を弾いてきかせてくれたりしてい, その多くは単に「大炊殿ニ参ズ」という簡単な記述しか明月記にはないのであるが, たとえばその死の前年の正治二年には, ざっと私が勘定してみただけでも実に三十六回も訪問しているのである. つまりは十日に一回ということにあり, そのうちには「夜半許リニ退出ス」ということが二度もある. これでは式子内親王定家伝説なるものが生じ, 謡曲『定家』などが出来て来ることも無理はないかもしれない. この内親王は定家より十歳ほど年上であり, 定家には彼女の「穢ヲ忌マレズ」,「惣ジテ御祈ナシ」といった, 陋習にこだわらない性格がいつも気になっていたようである. —中略— 源氏物語に象徴される一文化, あるいは文明の終焉を, この式子内親王の死に見ることもまた可能かもしれない. [堀田善衛「定家明月記私抄」後鳥羽院・大遊戯人間 (ちくま学芸文庫) p159-60]
159 Q: Does the concept of fashion apply to mathematics?
A: Development of mathematics resembles a fast revolution of a wheel: sprinkles of water are flying in all directions. Fashion—it is the stream that leaves the main trajectory in the tangential direction. These streams of epigone works attract the most attention, and they constitute the main mass, but they inevitably disappear after a while because they parted with the wheel. To remain on the wheel, one must apply the effort in the direction perpendicular to the main stream. [Tribute to Vladimir Arnold Arnold in his own words NAMS 59, 378 (2012) p379]
160 M. Faraday, arrived at the conclusion that Lectures which really teach will never be popular; lectures which are popular will never teach. This Faraday effect is easy to explain: according to N. Bohr, clearness and truth are in a quantum complementarity relation.
Hadamard won only the second prize, while the student who had won the first prize also became a mathematician, but a much weaker one! Some Olympiad winners later achieve nothing, and many outstanding mathematicians had no success in Olympiads at all.
Mathematicians differ dramatically by their time scale: some are very good tackling 15-minute problems, some are good with the problems that require an hour, a day, a week, the problems that take a month, a year, decades of thinking. A. N. Kolmogorov considered his ceiling to be two weeks of concentrated thinking.
But mathematical talents can be very diverse: geometrical and intuitive, algebraic and computational, logical and deductive, natural scientific and inductive. And all kinds are useful. It seems to me that ones difficulties with the multiplication table or a formal definition of half-plane should not obstruct ones way to mathematics. An extremely important condition for serious mathematical research is good health. [Tribute to Vladimir Arnold Arnold in his own words NAMS 59, 378 (2012) p379]
161 悪い意味というのは、ひとつには陰謀論を語るメンバーの知的水準が低下したということであり、もうひとつは、その陰謀論を本気にする人たちが大量発生しているということだ。要するに、陰謀論は、それを 語るメンバーの拡散によって質的に低下し、低質化することによって大衆化し、大衆化することによって凶悪化したわけだ。 陰謀論の真骨頂は,「こういうふうに考えたら面白くないか?」「こっちから見るとこんなふうに見えてあらまあびっくりだぞ」 という、見立ての奇天烈さと、その奇橋な見立てを本当らしく見 せる論理の鮮やかさにある。だとすれば, その場で笑って使い捨てにされるのが陰謀論の宿命でもあるし、潔さでもある。 その意味からすると, 本気にされることを期待している21 世紀の陰謀論は, そもそも邪道なのだ。[小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120301/229323/?P=1 ]
162 さて, しかし, 酒も入って, 長明をはじめとしてみながわいわいさわいでいるとして, 定家はどうしているか.彼が苦虫を噛みつぶしているとは私は思わない. けれどもこの大乱世にさして重要な用事も何ももち得ない京貴族としては, 遊び事があまり好きでないとすれば, 家業のほかはすることがないことを意味するであろう. 花見に友人たちとやってきて, 酒杯をとりかわしながらの作歌でも, 歌が遊びになることだけは耐えられない. 謬歌はあくまで謬歌である. つい地がでてしまうのである. [堀田善衛「定家明月記私抄」 定家は左右なきものなり (ちくま学芸文庫) p192]
163 この賀会 (俊成卿九十賀) では, 宴のあとに管弦の遊び, 和歌所一同の詠歌などもあった. いわば日本文 学史上の, 高踏 (パルナソス) の頂点であり, 同じ時期の世界文学を如何様に眺めわたしても, 他に比類のない, いや例外的なまでの現実棄却の文学の祝祭であった. では現実はどこにしるされてあったか, それは同じ賀宴に参加していた鴨長明の方丈記にあり, また定家の明月記にあった. この矛盾といえば矛盾, 撞着といえば撞着の面白さはほとんど底知れずであり, 人をして文学と現実のかかわりについて無限のことを考えさせるものである. [堀田善衛「定家明月記私抄」父俊成 九十の賀 (ちくま学芸文庫) p199]
164 日本のパルナッスはこれらの連続放火の火に映えていた. 一言で言って, これがデカダンスというものなのである. 一つの文化文明がデカダンスにおちいり得るだけの高さに達することが出来るという, 歴史的機会もまた滅多には訪れてくれないものなのである. [堀田善衛「定家明月記私抄」父俊成九十の賀 (ちくま学芸文庫) p200]
165 Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. [K. Okakura The book of Tea 38/903 ]
166 如何に天皇だ上皇だといっても, これはアンマリだと怒り出される読者があるかもしれないが天皇の性行為は皇嗣ををうるための公事, すなわち国事行為なのである. それにしてもこの国事行為のしたい放題, なんと過多であることか. 男色は, しかし, 国事行為ではなく, これはまず趣味, 好みの問題であるべきであ ろうが. [堀田善衛「定家明月記私抄」橋姫の美学 (ちくま学芸文庫) p202]
167 俊成は九十一歳, 雪が食べたいと言い, 定家の家令の文義がこれをさがして来る. 臨終の日, 十一月卅日の日記は漢文のなかに, 父の言葉としての和文が入って来る, 珍しいものである.すでに日本での生活のなかでの漢文の限界というものが明らかに見えて来ているのである. 雪を口にして 「殊令悦喜給, 頻召之. 其詞, めでたき物かな. 猶えもいはぬ物かな. 猶召之. おもしろいものかな. 人々 頗成恐, 取隠之.」
—中略—
「此ノ天明ノ程ニ仰セラレテ云フ, しぬべくおぼゆト. 此ノ御音ヲ聞キ, 忩ギ起キテ御傍ニ参ズ. 申して云フ, 常よりも苦シクオハシマスカト. 頷カシメ給フ. 申して云フ, さらば念仏して極楽にまいらむと思食せト. · · ·.」 [堀田善衛「定家明月記私抄」父, 俊成死 (ちくま学芸文庫) p211-2]
168 六月廿七日には,今度は東隣りで犬の喧嘩から刃傷沙汰に及び, 先の忠綱が院に呼び出されたりしているがこの犬の喧嘩と同じ日につづけて定家が, 鎌倉での畠山重忠誅殺の件を書いているのを見ていると,「犬ノ噛ミ合フ」喧嘩と人間の権力闘争とが同じ階梯のものに見えて来る. そういう隣近所の出来事ではなく, もっと隠微な,明月記にも書いてない事件が一つあった. 吾妻鏡の九 月二日の記によると, 内藤朝親なる武士が「たまたま定家朝臣に属して」歌を学んでい, 新古今にも読人知らずとして撰入されていたが,実朝に新古今集を見たいとの意があることを汲んで,「計略を廻らして書き進らすべき由」という次第で,定家からこの集を手に入れて持参して来た,とある. まだ切継中で披露もすんでいないものを, 定家はひそかに実朝に進呈しているのである. [堀田善衛「定家 明月記私抄」強盗・放火・新邸・元服その他 (ちくま学芸文庫) p222]
169 この頃になると, 歌会と並行して, あるいは歌会, 歌合わせを凌駕して頻々と連歌の会が催されていることである. そうして堂上人だけではなくて,「少年ノ雑人, 連歌ス」(八月五日) などと, いわば彼らから見ての賎民階級にまでそれが及んでいっていることである. —中略— 上層階級に想像力, 従って創造力が欠けて来て, 歌に歌を重ねる自分自身の真似ばかりをするという自動運動をはじめるとき, そこに生ずるものが賎民運動への下降志向である. それはすでに早くから始まってい た.後白河の今様狂い, 梁塵秘抄の編纂がすでにその徴であり, 宮廷の遊びそのものも, 多く浮浪の芸人たちから吸い上げたものであった. 白拍子, 遊女などもこの創造力の衰えた真空地帯へ堂々と入り込んでいる. 小唄, 雑芸, 今様が入り, からかいやおどけ, 茶化すことなどは, 狂歌に不可欠のものであり, それらが生命力に満ちたおどろきを宮廷界隈にすでに与えていたのである. [堀田善衛「定家明月記私抄」「定家・有家にがすな」(ちくま学芸文庫) p235, p237]
170 特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論 は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するもの なのだ。 特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端 に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ 両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。 時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。わかりにくいだけではない。一 般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題—南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。 何十年かたった頃、第一原発の周辺には、原発事故が存在しなかった旨を主張する人々が住んでいるかもしれない。そして、一方には、60 万人の犠牲者が出たと言い張る団体が謝罪と賠償を求めてシュプレヒコールを繰り返している。どちらか一方がウソをついているのではない。両者のいずれもがウソをついている。それも、 真実のために、だ。なんということだろう. [小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」 レッテルとしてのフクシマ http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120322/230156/?mlt]
172 金魚ならいざしらず、そこから先の生き物には「相性」というものがある. 写真で見てわかる部分は、生き物の魂のほんの一部分に過ぎない。 相手が人間でも同じだ。写真から読み取れる程度のことは、 フォトショップでごまかせる程度のことに過ぎない。 やはりナマで見て、会話をして、一緒に食事をする ぐらいのことがないと、本当のところはわからない。もちろん、話しても握手をしても、わからない部分はしょせんわからないわけだが、そこはそれだ。せめて、合コン程度の下調べはしようじゃありませんかということだ。 ん? 合コンなんか参考にならない、と? 大丈夫。ペットは猫をかぶらないから(笑)。 [小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」アマゾンからペットがやってくる日
173 私は以前から,「∼ らしい」と「∼ である」の区別,もっと言えばその間の距離感覚を身につけていることが,「知性ある人」の条件ではないか, とおもっている.[野崎昭弘「不完全性定理」(ちくま学芸文庫, 2006) p013]
174 前に言ったようにある数学的対象物を定義して, それを研究しようというのは, その定義がいかに自然に見えてもよく考え直さなくてはならない. 有限単純群というのが少しも重要な主題でないことを思い起こすべきである. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま学芸文庫 2012) p073]
175 Riemann 予想類似の結果が成り立つような Dirichlet 級数を作ることには Selberg が成功したが, それが本当に意味のある級数であるかどうかは何とも言えない. 本来の Riemann 予想には何の関係もないことは確かである. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま学芸文庫 2012) p074-5]
176 誰にでも合う教科書などというものはないから, いろいろあるのはよいことである. しかし読者が読んで易しくてよくわかったからと言って, その本がよいということにはならない. たとえば Lebesgue 積分につ いては · · · Fubini-Tonelli の定理がきちんと書いてあって証明してあったらまず安心できる. そうでなければ, いくらその本の言うLebesgue 積分が分かっただけの話である. いわばにせ金をつかまされたようなもので, それは広い世間では通用しない. つまり使えないのである. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま 学芸文庫 2012) p076]
177 一般にある数学的対象にある条件を付けて, そういうものをすべて決定する研究は数多くあるが, そのような考え方は自然であるように見えても, 多くの場合あまり大したものは出て来ない. たとえば有限単純群を全部決定しようというのがそれである. 有限群が単純であるという条件は誰にも分かるが, それが重要であるとどうして言えるのか. 全部決定したら何かよいことがあるのか. はなはだ疑問である. 決定できる から決定してしてしまえ. できてしまえば, 誰もやらなくなって, も少しましな問題をやるようになるからそれでよいかも知れない. Painlev ́eの研究はそのたぐいである. 単純群という考えはLie群にもあって, その場合は大いに違う. Lie 群や代数群の場合は reductive という概念があったり, 群をいろいろに分解する考え方があって, それはそうする必要があるからそうするのであるが, 有限群の場合の研究者の発想はそれこそ simplistic で私にはついていけない. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま学芸文庫 2012) p090-1]
178 Painlev ́e 自身は40代頃から政治に興味を持ち, 数学をやめて政治家になってしまった. そしてついにはフランスの総理大臣になったが, 彼の政治家としての能力の評判はよくない. 彼は自分の才能を変な方向に 向けたのかどうか. それが彼の選択であったのだから案外正しい方向であったのではないかと私は思う. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま学芸文庫 2012) p092-3]
179 よく知られて例で7次元多様体としての球面と位相空間としては同じものであるが, 可微分多様体としては球面とは違うものを Milnor が発見した.それが知られた時にはその驚くべき意外性が評判になった. その結果はもちろんつまらないものではなかったが,その結果の意味を歴史的なパースペクティヴにおいて見ると, 簡単にすばらしいとばかり言ってはいられない. それは「単純に可微分構造を調べようとすると変なものが沢山出て来る」ことを示している以上には実質的な物はないと言える. その変な (exotic) 球面は存在するが, その上で何か新しい解析学でも出来ればともかく何にもならないのであった. 当時は「ともかく何でも証明できることは証明しておこう」というやり方で多くの論文が書かれたが, 今となってみれば, 可微分構造を問題にするなどというのはよい方向ではなかったとはっきりと言える. [志村五郎「数学の好きな人のために」(ちくま学芸文庫 2012) p116-7]
180
マックス王: 現在においては, 以前に比してはるかに多く道徳的に優秀な人間が存在すると考えていいだろうか.
ランケ: そういうことを主張することはほとんど出来ないだろう. 道徳においては進歩なるものを仮定することはほとんど不可能である, なぜなら道徳はあまりに密接に人格と結びついているから. しかし人道性 (Humanit ̈at) のごときものにおいてならば進歩を認めることは可能である. すなわち人民の間において, 今 や以前よりは泥酔の風が少なくまたなぐり合うようなこともまれになったなどである. しかし後世になるほど道徳的に一層高次に能力づけられた人間が追々増加するなどということは考えられない. 同じように私は現世紀において前世紀に比し知性のすぐれ人が増加しているとも思わない. [ランケ「世界史—近世史の諸時代」(鈴木成高,相原信作訳, 岩波文庫 1961 改訂) p296 ]
181 あてこすり、ほのめかし、おためごかし—確かな事実は何一つ書かれていないのに、明らかに気分が 表現されている—皇室記事は、日本語という豊かな婉曲表現を持つ言語が到達したひとつの洗練の極みだ。 わたくしどもの国語は、書き手が自らの心の卑しさを隠そうとする時に、最も華麗な表現力を発揮する。なんとも残念な傾向だ。 [小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~ダーウィンはナマケモノを嫌わない
182 現実には、「差別が本意ではない」というタイプの前置きを提示するということはつまり、 「これから差別的な記事を書くからよろしくね」 という前フリだったりする。「自慢じゃないけど」に続く文言がほとんどの場合自慢で、「必ずしも断言はできないが」と断った上で繰り出される言葉が必ずや断言であるのと同じなりゆきだ。この程度のことは、週刊誌を読みこなす上でのリテラシーとして、当然、身に着けておかないといけない。断言はできないが。 [小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~ダーウィンはナマケモノを嫌わない
183 6 月 20 日、政府が現行の障害者自立支援法に代わり今国会に提出していた障害者総合支援法案が、参院本会議で可決、成立している。 注目すべきは、すべての障害者(重度の心身障害者を含む)に原則として一割の負担を求める「応益負担」 が決定したことだ。重度心身障害者に「応益負担」を求めるという理屈は、まったくもって、空恐ろしい考え方だと思う。このことはつまり、心身障害者がお国から受ける支援なり補助を「益」であると見なす人々がいたということを意味している。のみならず、それを踏まえて、この件について「受益者である以上応分の負担を負うべきだ」と単線的に考える議員が国会の中で多数を占めたということでもある。 しかも、この件についての報道が、驚くほど少ない。私は、このことにも、ショックを受けている。元来、 マスメディアは、弱者の味方だった。無論、彼らが半ば反射的に弱者の味方をする習慣の裏には、若干の偽善があずかっている。それ以前に、弱者に寄り添うポーズを取ることは、マスコミにとって、安全策に過ぎ なかったのかもしれない。 とはいえ、偽善を含んでいようが、臆病さのあらわれであろうが、公の場にある人間が弱者の側に立つこ とは、結果として、善をもたらしていた。われわれの世界は、そういうふうにして、弱者をいたわるポーズ をお互いに強要することで、かろうじて弱者を保護する形を整えてきたのである。 ところが、ネットに無遠慮な言論が溢れるようになってからこっち、マスメディアの偽善は、嘲笑の的になることが多くなった。で、その反動として、差別には、俄然甘くなってきている。 [小田嶋隆の「ア・ピー ス・オブ・警句」 ~ダーウィンはナマケモノを嫌わない
184 図4-5 に関して, 二つのことを付け加えます. 一つは, 駅路が条里制という古代農地区画の計画・施工の基準線となったことが窺われる点です. もう一つは中山道の道幅が約 7メートルで, 古代東山道の道幅の半分 ほどに狭まっていることです. 7メートルの道幅は, おそらく織田信長が「3 間半」幅の道を各地に作ったことと関係があると思われますが, いずれにせよ, 古い道の方が直線で広く, 新しい道が曲がりくねって狭いものであった事実は, 人間の営為が単純に発展方向を指して展開するものでないことを教えてくれる点で意味があります. [足利健亮「地図から読む歴史」(講談社学芸文庫 2108 2012 (1998)) p83-4 ]
185 歴史学的アプローチと考古学的アプローチを結び付けようと試みたロウを例外として, これら近年の研究は人類学における文化相対主義的な考え方に強く偏っている. ラテンアメリカの考古学者でさえも, ネオ・ インディヘニスモ的傾向の有無に拘わらず, 文字資料や, エスノヒストリー研究者が示すしばしば矛盾する語りを, “真実” として疑うことなく受け入れる傾向がある (Kaulicke 2005[1])を参照). [ピーター・カウリケ『インカにおける, 生, 死, 祖先崇拝の概念作用』島田泉, 篠田健一編著『インカ帝国,研究のフロンティア』 (東海大学出版会 2012) 第 14 章 p305-6]
[1] P. Kaulicke, “Identidad, etnicida e imperios: algunas reflexions finales” in Identidad y transformasi ́on en el Tawantinsuyu y en los Andes coloniales. Perspectivas arqueol ́ogicas y etnohist ́oricas Tercera Parte (P. Kaulicke, G Uriton and I Farrington eds) Bol. de Arqueologia PUCP 8, 325-327 (2004) (Pontificia Universidad Cat ́olica de Peru ́, Lima)
186 この障子絵は, 全国四十六箇所の名所を四人の絵師に描かせるのだが, 絵師はもとより定家自身も「本ヨリ洛外ヲ見ズ」であって... —中略— 絵師の一人はさすがに, せめて須磨, 明石くらいは遠いところでもなし, 見てきてからにしたい, と定家に相談に来た. 定家はすぐに行けとすすめて「鞭ヲ揚ゲテ其ノ所ニ向フ」と書き, つけ加えて「後代ノ談トナランカ」と言う. この程度のことでも, 後世の美談となるであろうと, すでに意識ずみである. [堀田善衛「定家明月記私抄」「近日, 時儀更ニ測リ難シ」(ちくま学芸文庫) p247-8]
187 芸術が家のものとなったりしたのでは, といった考え方は近世以降のものである. けれども, それが家のものとなったりしたのでは, 爾今独創を欠くものになることは当然自然であり, 存続だけが自己目的化して行く. 縄張文化集団の成立であり, それは日本において, この後に来るあらゆる文化事象を蔽って行くであろう. 誹諧, 連歌, 茶, 能, 花道等々, すべてがこのパターンを取る. 存続だけが自己目的と化することにおいて, 天皇制もまた例外ではない. 鴨長明ならば次のように批判するであろう. 「この国小国にて人の心ばせ愚かなるによりて, もろもろのことを昔に違へじとするにてこそ侍れ.」(無名抄) [堀田善衛「定家明月記私抄」「明月記欠」(ちくま学芸文庫) p269]
188 このことは,詩についてみてもまったく同様である.すなわちこの場合にも,この芸術が真に隆盛をみた二三の瞬間があったにすぎないのであって,時代を経過するにつれて高度がますますたかまっていくというようなことはみられないのである.
—中略—
しかしながらホーマーよりも偉大なる叙事詩人たらんと欲したり,ソフォクレスよりもより偉大なる悲劇作家たらんと欲するがごときは,まさに一笑に付すべきことであろう. [ランケ「世界史—近世史の諸時代」(鈴木成高,相原信作訳,岩波文庫1961 改訂) p36, 39 ]
190 四の五の言うより即実行した方がメリットが大きい状況ではさっさと自腹を切る.特に必要性を説いても理解を得がたい案件については,節約できる無駄な時間と未然に防げるストレス分も自腹価格に含まれている.[ 仕事で自腹の限度額AERA 2012.6.18 p16 アンケートの回答[製造業/40 男性]]
191 八月になると,姉の九条尼の病は危急を加えたのであるが,この姉は実に気丈な人で,水一滴も咽喉を通らなくなっても,「言語正念,聊カノ違乱無シ」で,「我ヲ惜シミテ涕泣スルノ輩,心ヲ得ザレバ,前ニ出ヅベカラザル由,皆追ヒ出サレ了ンヌ」という.泣く奴など見たくない,という次第であり,定家も「誠ニ善人ト謂フベシ」と書いてほとほと感嘆している.さらにこの姉は,「只我ガ事ヲ思フノ人,極楽ニ於テ行キ逢フベキ由,祈念スベシ.更ニ,今生ニハ相見ルベカラズト云々」と言い切るのである. [堀田善衛「定家明月記私抄続篇」「歯取リノ老嫗ヲ喚ビ,歯ヲ取ラシム」(ちくま学芸文庫) p030-1]
192 新だ梅崎春生は屢々,“前代議士というものはあっても,前作家.というものはないからな” と言ったものであった.明月記を読んでいても,作家としての盛期はともかくも,興を失って悶々としているときの定家の姿には,やはり私なども胸を衝かれる思いをすることがある. [堀田善衛「定家明月記私抄続篇」「拾遺愚草完成」(ちくま学芸文庫) p070]
193 とりわけて,「かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ」の一首などは,エロティシズムの抽象化,あるいは抽象性のなかに香を焚きこめるようにしてこめられたエロティシズムとしては,マラルメとともに,世界文学の最高の水準に達したものである.
そうして,こういう歌が建保三年でまだ三十六歳壮年にある後鳥羽院に受け入れられないと言うことも,十分に想像できるのである.はじめの「かきやりし...」の歌は新古今にも入っていたものであったが,後に後鳥羽院は隠岐本で削ってしまったものであった. [堀田善衛「定家明月記私抄続篇」「拾遺愚草完成」(ちくま学芸文庫) p073]
194 私は私のフランス史中に,偉大なる征服者とは同時に文化の伝達者である人々であると言ったが,実にシーザーの卓越していたのはこの点においてであった.彼はガリヤを単に併合せんが為に征服したのではなく,同時にそれをローマ化し,そこに文化を植えつけたのである.あるひとはこれに疑いをもって言うことができよう,ケルト人自身が自ら文化を発展させる可能性が存在したのはなかろうか,と.しかし私はどうしてもこの問に対して肯定をもって答えることができるとは考え難いのである.なぜなら,彼らは従来から,カルタゴその他の文明勢力に取り囲まれて来ておりながら,常にただ略奪者として至りややアジアに侵入し,文化への反撃を続行するのみであったからである.彼らが討伐され終わってはじめて,イタリヤ,ギリシャ,及びオリエントなど各地の文化世界は,そうした蛮族の脅威を免れ得たのである.
その他シーザーはブリタニヤにまでも渡航したが,その後を受けて現れたのがアウグスツスであり,彼はまた彼の行った数々の征服を通じて西欧のために,測り知ることのできないほどの功績を挙げたのであった.
—中略—
とにかく,ローマ人の征服なるものがなかったと仮定すれば,われわれは文化のなんたるかを今日においてもなお解さないままで過ぎたであろう. [ランケ「世界史—近世史の諸時代」(鈴木成高,相原信作訳,岩波文庫1961 改訂) p54, 56 ]
195 この(= 横浜築港) 第一期工事の費用は,二百万円という大きなものであったが幸い明治二十二年,日本政府におもわぬ金がドルで入ってきた.円になおして百三十九万円というものだった.
このお金は,アメリカから来た.
幕末,長州藩は攘夷と称し,馬関海峡を通過する欧米の観戦を沿岸砲によって砲撃し,これによっていわゆる四カ国艦隊(英,米,仏) の報復攻撃をうけた.当時,四カ国は日本政府である幕府に対し,四カ国鵶合わせて三百万ドルという法外な賠償金を要求し,幕府に承知させた.
—中略—
ただ,のちにふしぎなことがあった.四国のうちアメリカだけが,明治二十二年になって,その一部を返還してきたのである.むろん,国際法上,アメリカとしては,返還の義務などいっさいない,とすればどういうつもりだったのだろう.
これよりのち,清朝末の中国にあった義和団という武装排外運動(1898-1890) がおこり.北京が包囲された.結局,八カ国が軍隊を送って居留民を救出し,その始末として各国は賠償金四億五千万両を清朝に支払わせ,わけどりした.アメリカの場合,いったんうけとったものの,国家として私せず,全額を北京図書館の建設その他の文化事業につかった.
十九世紀のアメリカには,たしかにこういう気分があった.一つは少年の持つ正義であり,一つは他の欧州諸国に対し,つねに市場—この場合,中国—の開放をのぞむという姿勢である.[司馬遼太郎「神戸・横浜散歩,芸備の道」(街道をゆく21, 朝日新聞社) p231-3]
196 文章を書く人間は、言葉を並べることはできても、行間を書くことはできない。[小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明物言いは“すべからく” 上品に
197 文楽のような古典芸能だけが、絶滅に瀕しているわけではない。もしかしたら、紙の出版にかかわる技術や編集思想を後世に伝えるのは、あと10 年が勝負なのかもしれない。そう思うと実に心細い. [小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明物言いは“すべからく” 上品に
198 先日、海外で活躍する日本人バレエダンサーが、結婚し、子供を産み、バレエに復帰したら主演から外されていた、というドキュメンタリー取材VTR を見た.
悔しがるダンサーのほうが不思議に見えた。
出産子育てに打ち込む間、同僚たちは日々切磋琢磨している。追いこされないほうが不自然だろう。
野心家だから海外に挑戦したのだろうし、野心家だから多くを手に入れるべく頑張ったのだろう。だが、本当にそれが実現可能なものか。
199 現場の人間は、省力化に抵抗することができない。あまりにも便利過ぎるからだ。たとえばの話、 あらかじめ剥いてあるじゃがいもが厨房に運ばれてくるシステムが整備されると、わざわざ皮を剥く調理人はいなくなる。 皮だけではない。昨今の文化的じゃがいもは、用途別にあらかじめ下処理された状態で入荷してくる。と、下茹でも、裏ごしも、賽の目切りも不要になるわけで、そうこうするうちに、 その種の、板場の見習いの訓練過程として機能していた作業の消滅に伴って、若い板前からは、調理にかかわる基礎技術が失われるに至る。 出版や放送の現場では、これと似たことが起こっている。[小田嶋隆の「ア・ ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明 じゃがいもの皮を剥く暇を与えよ http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20121101/238901/?P=3]
200 Both Hooker’s father, Sir William Jackson Hooker (1785-1865), and his grandfather, Dawson Turner (1775-1858), were amateur naturalists who shared a passion for Britain’s lower plants, such as mosses. However, in these early decades of the century, the word ‘amateur’ was a mark of pride. Far from being a hobbyist or dabbler, an anmateur was one who pursued their study for the purest of reasons: love. By contrast, studying science with a view to earning a living from it was often considered rather distasteful, not least because any hint of financial self-interest would inevitably compromise the disinterestedness that ought to characterise the seeker after knowledge for its own sake.
This gentlemanly ideal of the scientific man was exemplified by Sir Joseph Banks who paid his own way and provided a substantial scientific staff in order to accompany Captain Cook on the Endeavour between 1768 and 1771. [Pat Griggs, Joseph Hooker botanical trailblazer Introduction by Jim Endersby p5-6 (Kew Publishing 2012)]