証 III 4-100
木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代 橋本治「「わからない」という方法」 三好達治詩集 宮崎市貞「大唐帝国—中国の中世—」 小林秀雄全集 岩佐美佐子「宮廷の春秋」 定家八代集抄
1004 ウォーレスもまた、理論好きの若者であった。1908年7月1日のリンネ協会の自然選択説発表50年祭で主賓として講演したウォーレスは、自然選択説発見を振り返り「そのときの私は、(それ以降もしばしばそうなのですが)“性急な若者” でありました」と述べている。これはずっとかわらぬウォーレスの自己評価であった。 [新妻昭夫「種の起源をもとめて—ウォーレスの「マレー諸島」探検」(ちくま学芸文庫、2001;原著1997)p119]
1005 順治帝の言葉は、問わず語りに、清国が、元来、戦闘と人員・物資の掠奪を生業とする軍事集団を中核とし、これに捕獲人員を配分して、人為的に作り上げられた、国家がただちに社会であるような集団であることを漏らしている。その集団を維持している個々人の意識の基本には、上位者は下位者、特に捕獲された人員に対して、その運命を決める「主人」として、超越的な暴力の行使権をもつという感覚があった。「主・奴」の感覚である。「圏地」にしても、「逃人法」にしても、これが漢人官僚から見て、いかにしても、受け入れがたいものであったのは、まさにこの「主・奴」の感覚が、彼らの心底を逆立てていたからであろう。漢人官僚が身に付けていた儒学の教養が教えているのは、「主・客」の感覚である。皇帝と官僚、皇帝と人民の関係も、それを「主・奴」の関係として把らえるか、「主・客」の関係として把らえるかでは、そこで組み立てられ、誘発されて来る行動の形態が異なり、またある行為を正当とするか否かの判断も基本的に異なる。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p70.]
1006 この「心」(=耿々として没せざる此の心[打ち消し難く我が裡に活きている人としての心])を持つことを、「剃髪」とともに諦めた、そのことを自覚しているこの人の心はどこへ彷徨い行くのだろうか。これは、この人(=黄淳耀)だけではなく、多くの、人としての「こころざし」を持つ、当時の心ある人士の抱えた問題であった。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p81.]
1007 (乾隆)五十三年、六十一歳、蘇州の紫陽書院に招かれ、翌年より、嘉慶九年、七十七歳、その死の年までここで教育活動に当たった。いずれの書院でも、「古学」の講論を行ない、「経・史」の研究を第一とした。文化の先進地帯とされる江南の中心地にあって、科挙のための勉学を超える、古典研究を始とする学問の興隆に多くの人材を育成したのであった。清朝政権からはすでに身を離し、「中華」文明の伝統に心を潜め、江南にあって、その研究と教育に専心した、といい得よう。「剃髪」とともに彷徨い出た、かの「耿耿として没せざるの心」は、ここにひそかに収斂していたと覚しい。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p81-2]
1008 統治規模が人的・技術的な能力を超えているために、人間性の限界を超えて当事者達の思想力に頼らざるを得ず、しかもその状況そのものは解消されずに永続するため、終に彼らの破綻を招いてしまう、という構造は、以後も常に存在した。明朝末期には、この構造の中で、漢代以来実に一千八百年に垂とする年月にわたって振幅を繰り返して来た中国の社会と文明は、この構造自体への回復不可能な疲労感とそれ故の困惑と憤激の中にあったと思われる。王陽明から李贄あるいは黄宗義など、この時代の個性的な人々の思想の営みに、文明自体の行き詰まりと、統治の幻想を補完して来た形而上学としての「経学」への困惑と憤激の様を見ることが出来るのである。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p88]
1009 段玉裁、江蘇省・金壇県の人。雍正十三年(1735) に生まれ、嘉慶二十年(1815) に亡くなる。八十一歳。乾隆二十八年(1763)、二十九歳の春、二度目の会試を受けるために北京に上り、同じく会試のために都に上り、落第に終わった後「新安会館」に滞在していた戴震に出会っている。時に戴震は四十一歳であった。別れて後、段氏は手紙を出し、「弟子」と自称したのであるが、戴震はこれを辞退し、「友」として切磋琢磨する交際を望んだのであった。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p140]
1010 この原稿(=「韵(ただし「土偏」)譜」の初稿)は、学友達の閲読に供されたのであるが、賞賛と同時に、簡略に過ぎてわかりにくいので注釈がなくては叶うまいということであった。原稿段階での回読による学説の精錬という「ネットワーク」がここで働いているのである。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p141]
1011 この時代は、かの「紅楼夢」が現れた時代である。また「憶語体」の作品が現れた時代である。乾隆・嘉慶の時代で言えば、「浮生六記」。—中略— 今紹介した「考証学者」たちの一文も、一種の「憶語体」とも考え得る文章であり、大きくは、この時代の人々の生きることの芯にあった「感情生活」の気息に通じていると思われる。—中略—私には、このひそやかで、犯し難く、しかも多くの人々に共有されていた息づかいの濃やかさが、本書で触れた様々な機縁の交錯する中で一つの成熟を果たし、「清朝考証学」と一般にまとめられる乾隆・嘉慶期の学術の示す「考察の濃やかさ」を顕わしたのだと思われる。 [木下鉄矢「『清朝考証学』とその時代—清代の思想」(創文社、1996)p258-261]
1012 この二つの作品(=源氏釈と無名草子)から見えてくることは、平安末期乃至は平安末期から鎌倉初期にかけて生きてきたこの著者たちには源氏物語に流れる諧謔精神や遊び心が理解されていないということです。後々の古注釈がこれらの著者に何らかの影響を受けているなら、源氏物語の古注釈は必ずしも全面的に信頼に値し得るものではないことになります。 [藤島由子「夕顔の謎を解く」(創樹社, 2001)p241]
1013 「自分はどうわからないのか?」—これを自分の頭に問うことだけが、さまざまの「わからない」でできあがっている迷路を歩くための羅針盤である。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p10]
1014 「くだらない」—だから「どうでもいい」と思って放り投げてしまうのは、それを「わかりきっている」と思うからである。つまりそれは、「わかる」のである。「わかる」は「わからない」を解明するためのヒントである。つまりそれは、「くだらない」とか「どうでもいい」と思われるものには、「わかる」に至るためのヒントが隠されているということである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p11]
1015 「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に書くことなのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p12]
1016 人生に挫折があるのはしょうがない。事の必然でしかない挫折の存在をまず認める。そして、所詮は「挫折」でしかないものを「挫折」に見せないための工夫、あるいは覚悟を持つ—それだけが、人を挫折の苦しみから救うのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p35]
1017 「いろいろなことをやりたい」と思うのは、なにをしてよいのかがわからないでいるからである。「今までとは違う新しいことをしたい」と思うのなら、その時、「今まで」は壁にぶつかっているのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p35]
1018 「二兎を追うものは一兎を得ず」とは言うが、どのウサギを追えばいいのかをはっきり自覚している人間—つまり「明確な目標」を持つ人間は、はじめから欲深にも二羽のウサギなんか追わないのである。—どれを追っていいのかがわからない—つまり「明確な目標」がないから、「二兎を追うものは一兎を得ず」になってしまうのである。だからしょうがない、どのウサギを追っていいのかがわからない時には、とりあえず、十兎くらいのウサギの群を追うしかないのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p38-9]
1019 企画書とは、混乱の中から意味をくみ取ることを面倒くさがる人たちに向けて出されるものであり、許容度の低い人間たちの間で行われる、かなり正確度の低い伝言ゲームの材料でしかないのである。
だから企画書は、ものわかりの悪い上司にもわかるように書かれなければならない。「明快なる方向性を持つ」とは、このことである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p42]1020 しかし、「いかにもわかりやすそうな顔」をしているものが、本当に「わかりやすい」のかどうかはわからない。時としてそれは、生徒を逃がさないための、教える側の手抜きだったりもするからである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p98]
1021 促成ノウハウが要求するのは、「理解」ではなく、「暗記」である。「時間をかけて我が身に刻む」ではない。「さっさと脳に記憶させる」なのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p100]
1022 「かく生きねばならない」も人生を教えることだが、「そう生きる必要はない」とおしえることも、「人生を教える」なのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p128]
1023 「初めはいい加減でもいい。慣れればなんとかなる。ちゃんとする」—このことだけははっきりしている。後は、その「ちゃんとする」ゴールのありどころである。これが揺らぐと、「いい加減」は野放しになる。「初めはいい加減で、その後もいい加減」になってしまう。それを防ぐためには、ゴールの「ちゃんと」がいかなる状態かを明確に規定しなければならない。その規定がないから、「いい加減」が野放しになった。つまり、「日本人はいかに生きるべきか」を曖昧にしてしまった結果、「教育の崩壊」は訪れたということである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p131]
1024 「自分が“わからない” と思うことは、果たして正当なのか、それともトンチンカンなことなのか」と、十分にためらっている。ためらって、その答は出てしまった。だとしたら、その次に来るものは一つ—「わからないまんま突進してみる」である。これを別の言い方にすれば、「自分の直感を信じる」である。それが信じるに値するものかどうかを確認して、直感に従って進む。「進める」ということを確認して、その直感の正しさを再検討する。「“わからない” という方法」とはこれなのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p146]
1025 官僚は尊大で一切を撥ねつけ、女は柔軟でなんでも取り込む—「女の向上心」と「官僚の排他性」を並べてみればわかることだが、女言葉が日本語の中心となってしまったのは、このためなのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p182]
1026 トンネルを掘る行為はどこかで「墓穴を掘る」に似ている。トンネルを墓穴にしないために必要なことは、ただやりとげるだけである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p223]
1027 「自分はするべきことをした」と思っているのだから、私は「知らない」ということを恐れない。知らないのなら、それを改めて知ればいいのだし、それを「知らない」のままにしていたのは、それを知る必要がなかったのだから、別に恥じる必要もない。すべてを「一般教養」的な枠にはめて、「知っておくべきことはカクカクシカジカ」と信じている人達は、時としてそういう実際主義者をバカにするが、そういう一般教養主義者はたいしたことのない人間ばかりだから、べつに恥じる必要もこわがる必要もないのである。恥じるべきことはただ一つ、自分に必要な下地を欠落させていること—それに気づかないでいることだけなのである。 [橋本治「「わからない」という方法」(集英社文庫2001)p234]
1028 現代の一般大衆がより高い教育を受けているという印象は、教育という用語の多義性、もしくは一般教養教育と専門教育という区別のいい加減さから生じた印象にほかならない。 [アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」(The Closing of the American Mind 1987; 菅野盾樹訳、みすず)p53]
1029 リンカーンのような若者が自己教育を目指すとき、すぐ手に入り、学習に役立つとはっきりいえた書物は、聖書であり、シェイクスピアであり、ユークリッドであった。こうした若者は、本当に、現在の学校制度の雑多な専門技術教育のなかで自分の道を見つけようとする若者よりも恵まれていないというのだろうか。現在の学校制度は、市場の需要の原理以外、重要なものと重要ではないものとを区別する手段さえまったくもたないのではないか。 [アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」(The Closing of the American Mind; 菅野盾樹訳、みすず)p53]
1030
乳母車
母よ—
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
燐燐(ただし車偏)と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列も
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知ってゐる
この道は遠く遠くはてしない道 [三好達治「測量船」]
1031 涙
とある朝 一つの花の花心から
昨夜の雨がこぼれるほど
小さきもの
小さきものよ
お前の眼から お前の睫毛の間から
この朝 お前の小さな悲しみから
父の手に
こぼれて落ちる
今この父の手の上に しばしの間温かい
ああこれは これは何か
それは父の手を濡らし
それは父の心を濡らす
それは遠い国からの
それは遠い海からの
それはこのあはれな父の その父の
そのまた父の まぼろしの故郷からの
鳥の歌と花の匂ひと 青空と
はるかにつづいた山川との
—風のたより
なつかしい季節のたより
この朝 この父の手に
新しくとどいた消息 [三好達治「艸千里」]
1032 桃の花さく
桃の花さく裏庭に
あはれもふかく雪はふる
明日をなき日と思はせて
くらき空より雪はふる [三好達治「花筺」]
1033 いにしへの
いにしへの日はなつかしや
すがの根のながき春日を
野にいでてげんげつませし
ははそはの母もその子も
そこばくの夢をゆめみし
ひとの世の暮るるにはやく
もろともにけふの日はかく
つつましく膝をならべて
あともなき夢のうつつを
うつうつとかたるにあかぬ
春の日をひと日旅ゆき
ゆくりなき汽車のまどべゆ
そこここにもゆるげんげ田
くれなゐのいろをあはれと
眼にむかへことにはいへど
もろともにいざおりたちて
その花をつままくときは
とことはにすぎさりにけり
ははそはのははもそのこも
はるののにあそぶあそびを
ふたたびはせず [三好達治「花筺」]
1034 ほんとうは東西両洋の歴史は、それを深く研究すればするほど、おどろくほどの類似性をその根底にもつことを発見するものなのである。歴史の研究は何よりも、従来なおざりにされてきた、この種の平行現象の探求からはじめなければならない。 [宮崎市貞「大唐帝国—中国の中世—」(中公文庫1988)p16.]
1035 不景気で暮らしにくい世の中ほど、家族の団結の必要なことが強調される。
—中略—
そしてそういう際に、いつも犠牲は弱い立場のものの上にしわよせされる。親にたいしては子が、夫にたいしては妻が、献身的に奉仕するように要求されるのであった。そのような基準にかなった男女のために、無数の孝子伝や列女伝が編纂された。
—中略—
「国が乱れて忠臣あらわれ、家が貧しくして孝子が出る」ということわざがあるが、後漢以来の世相がまったくそれであった。[宮崎市貞「大唐帝国—中国の中世—」(中公文庫1988)p42.]
1036 正確で客観的な記録を残すことほど、後世に対する効果的な宣伝はないのではないかと、ヴェネツィアに残る史料を読みながら思うこの頃です。 [塩野七生「レパントの海戦」(読者へ—あとがきにかえて—)]
1037 当時の土地問題は後世とはなはだ異なっていた。それは土地の生産力が十分生かされないところに問題があったので、土地問題はいいかえれば労力の問題、資本の問題であった。後世になるとそれが一変して、少ない土地をいかに公平に分配して人民の労働力を生かし、生活を保証してやるかということが問題になる。そこで中世においてはまず土地を媒介として人間を把握し、人間を通じて生産を支配する。ゆえに政府に必要なものはなによりも戸籍であった。それが後世になると、戸籍よりも必要になるのは地籍であって、魚鱗図というようなものが役所のいちばん大事な台帳になるのである。 [宮崎市貞「大唐帝国—中国の中世—」(中公文庫1988)p264.]
1038 北魏から唐代にいたるまでどれだけ多くの天子が不老長生の薬を飲みそこなって、かえって死期を早めたことだろうか。「永遠の生」ということばは、なるほど人間の最終的な弱点をついたものにはちがいない。しかしほんとうにそんなものがあったなら、ながい歴史のあいだには、幾人かの実例があって今の世まで生きながらえて見せてくれたはずなのだ。だからこの愚かな帝王たちは、実験を信ずるよりも理論を信仰したにちがいない。結局は道教に誤られたことになったのである。 [宮崎市貞「大唐帝国—中国の中世—」(中公文庫1988)p399.]
1039 梁の殷芸の「小説」によると、桓温が蜀を征した時、もと孔明の時の小史(書記)だったという百余歳の老人がなお生存していたという。そこで桓温は老人に問うていった。「諸葛丞相は、今の誰に比すべきであろうか」思うに桓温は、ひそかに自分自身をもって擬したのであろう。しかし老翁は答えていった。「諸葛公の在世中は、少しも他人と異なったところに気がつきませんでした。しかし公が歿せられてからは、これに比すべき人を見たことがありません」 [植村清二「諸葛孔明」(中公文庫1985) p281]
1040 そもそも、すべてを自由競争に委ねるのなら、政治家などは要らない。政治の才能とは、詰まるところ、保護すべき個別利益を探し出し、保護を正当化する弁を振るう才能なのだ。
国益は個別利益の最大のものである。残念ながら、人類全体の利益はだれの個別利益にもならないから、いかなる政治家も守ろうとはしない。 [末永徹「京都議定書と美食の関係」 経済のアペリティフ9, 中央公論2001 年9 月p293]
1041 富の分配のあり方はまったく変わらなくても、機会の平等が正義になるだけで、自分を「弱者」だとする人数はずっと少なくなる。 [佐藤俊樹「そして“弱者” はいなくなった」 中央公論2001 年10 月p94]
1042 悪魔は仮面を脱いで、正体を現したという普通な言葉は、小悪魔にしか当てはまらない。ドストエフスキーはそう見抜いていた。これは深い思想である。 [小林秀雄「考えるヒント」(文春文庫1974)ヒットラーと悪魔p90]
1043 人は恋文の修辞学を検討する事によって己れの恋愛の実現を期するかも知れない、然し斯くして実現した恋愛を恋文研究の成果と信ずるならば彼は馬鹿である。 [小林秀雄「様々なる意匠」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p102]
1044 古来如何なる芸術家が普遍性などという怪物を狙ったか?彼らは例外なく個体を狙ったのである。あらゆる世にあらゆる場所に通ずる真実を語ろうと希つたのではない、ただ個々の真実を出来るだけ誠実に語ろうと希つただけである。 [小林秀雄「様々なる意匠」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p104]
1045 詩人が詩の最後の行を書き了わった時、戦の記念碑が一つ出来るのみである。記念碑は竟に記念碑に過ぎない、かかる死物が永遠に生きるとするなら、それは生きた人が世々を通じてそれに交渉するからに過ぎない。 [小林秀雄「様々なる意匠」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p109-110]
1046 中天にかかった満月は五寸に見える、理論はこの外観の虚偽を明かすが、五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない。人は目覚めて夢の愚を笑う。だが、夢は夢独特の影像をもって真実だ。 [小林秀雄「様々なる意匠」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p111]
1047 宣長にいわせれば、「やまとだましひ」を持った歌人とは、例えば業平の如く、「つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」というような正直な歌が詠める人を言う。 [小林秀雄「考えるヒント」(文春文庫1974)さくらp160]
1048 私など、過去を顧みると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始まったように思うのだが、さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。 [小林秀雄「考えるヒント」(文春文庫1974)青年と老年 p172]
1049 抽象論なんてものはない。唯、論理だけがあるのだ。抽象論などびくびくしている人は、初めから論理なんてものに戯れないがいい。 [小林秀雄「アシルと亀の子(文芸時評)」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p140]
1050 考えると語るとは飽く迄同一事実だからである。人間精神は言葉によってのみ壮大に発展できるのだが、この事実は精神が永遠に言葉の桎梏の下にあることも語るものだ。 [小林秀雄「アシルと亀の子(文芸時評)」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p152]
1051 人は他人に対して意地悪くなる時は当人はそうとは思わなくても、実は心の張りが弛んだ時に限るものだ。 [小林秀雄「マルクスの悟達(文芸時評)」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p202]
1052 奇態な真理を探り当てるのは愚かであり、真理とはもともと凡人にも造作なく口真似が出来る態のものしかない。 [小林秀雄「マルクスの悟達(文芸時評)」小林秀雄全集1巻(新潮社、1957)p206]
1053 いつの時代にも、偏狭、頑固、狂信はある。それがなければ社会が存続しないかも知れぬと思われるほどである。だが、一方、何時の時代にも、寛容な正常な精神というものは在るので、これなくしては、社会は一日も存続できない事も疑いない。後者の精神的秩序の深浅だけが、ヒューマニズムを測る事が出来る。一と口に、寛容な正常な精神と言うが、これは容易な事ではない。何故かというと、ヒューマニズムは、誰にでも解る認識や分析だけで成立するものではないからだ。個性的な味識や感受性が大きく関係する生きた教養のうちに涵養される他はないからである。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)ヒューマニズムp82]
1054 芸術家は、観念論者でも唯物論者でもない。心の自由を自負してもいないし、物の必然に屈してもいない。彼は、細心な行動家であり、ひたすら、こちら側の努力に対する向こう側にある材料の抵抗の強さ、測り難さに苦労している人である。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)還暦p97]
1055 忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)還暦p98-9]
1056 科学は合理的な仕事だが、科学の口真似による知性の自負となれば、非合理的事実に属するのであり、これを趣味の一形式と呼んで少しも差し支えない。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)還暦p103]
1056 福沢という人は、思想の激変期に、物を尋常に考えるには、大才と勇気とを要する事を証してみせた人のようなものだ。彼の思想の力或は現実性は、面倒な意味でのその実証性或は論理性にあるより、むしろ普通の意味で、その率直性にあった、と私は考えている。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)天という言葉p109]
1057 福沢は、西洋文明に心酔し、巧みに時勢に乗じた人であり、彼の実学は世を益したが、思想家としては浅薄を免れないと考える人も多いようであるが、私は採らない。何はともあれ、優れていた人間であった事は確かなら、その優れていた所以を研究すれば、私には足りるようである。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)天という言葉p114]
1058 仁斎に言わせれば、学問の道は、「学ンデ知ル」ところにはなく、自ら「思ツテ得ル」ところにあった。—中略—仁斎の「思ツテ得ル」の思うとは疑うという意味である。彼の学問の方法を言うなら、「積疑」というのがその根本の方法であった。学問では、疑いを積み、問いを重ねるのが大事であって、理解や明答に別して奇特があるものではない、と言う考えであったから、彼には何んでもわかったとする賢者というものが一番油断のならぬ人種となった。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)哲学p121-2]
1059 両皇統の対立、そして南北朝という、なまぐさい、反覆常ない時代のただ中で、対立抗争の激浪に揉まれながら、もしかしたらまたそれ故にこそ、持明院統、京極派の人々は深い友情に結ばれ、信頼と誠実とをもって、未知の新しい歌風を協力して育てあげて行きました。そういう京極派和歌を研究して来て、ほんとうに幸せだったと思います。 [岩佐美佐子「宮廷の春秋—歌がたり女房がたり」(岩波、1998)p155]
1060 弘安九年(1286) 閏一二月十五日は立春でした。いわゆる年内立春。為兼はこの特別の日、自分の心の中に浮かぶ思い、「識」の中にあらわれるあらゆるヴィジョンを、何でもかんでも三十一字の「言葉」にしてみようと試みました。
—中略—
為兼は時々刻々移って行く心の姿を、できるだけ正確に言いとどめようとしています。
鶯もいまだ鳴かぬに今日よりは春ぞと思へどかはる事なし(3)
風の音は昨日にかはる事もなきを春てふからにおどけくや思ふ(40)
思ひとけばいつしかかはる春もなし日数ばかりぞ過ぐるなりけり(71)
さてもさてもかくしつつ過ぐる年の暮春のはじめよ幾返り見つ(78)
歌らしからぬ奇妙な発想、字余りのむやみに多い変わった言葉遣いも、その努力のあらわれです。おことわりしておきますが、為兼は決して下手な歌人ではありません。建治二年(1276) 二十三歳の時、すでに九月十三夜歌会に、
すみのぼる月のあたりは空晴れて山の端遠く残る浮雲(新後撰345)
はかなくぞありし別れの暁もこれを限りと思はざりける(新千載1578)
とその才鋒を示しています。そこまで磨いた技能を一旦御破算にして、こんな変な歌を作り続けるというのは、よほど心中期するものあっての冒険でしょう。 [岩佐美佐子「宮廷の春秋—歌がたり女房がたり」(岩波、1998)p168-71]
1061 一体歌論書というものは、「古来風躰抄」が俊成八十四歳、「詠歌大概」が定家六十歳以後と言うように、歌人がその歌風を大成した晩年、体験から帰納して執筆されるものです。実績もないのに三十代で歌論だけ先に書いてしまい、その理論の正しさを実作で証明するのにあと三十年もかかったというのは、為兼以外にありません。「為兼卿和歌抄」というのは、実にふしぎな歌論書、京極派、「玉葉風雅」という独自の和歌を生み出した、偉大な予言の書と言ってよろしいでしょう。 [岩佐美佐子「宮廷の春秋—歌がたり女房がたり」(岩波、1998)p175-6]
1062 ニュートンという人は、無論、今日の私達の言う理学博士ではないので、実に広大な知識と洞察力とを持った、深く宗教的な人間であった。現代風の学問は、こんな簡単な事実も忘れがちである。「プリンキピア」は、「考える人々を、神への信仰に導く為の原理」という、はっきりした目的で書かれたものだ。従って、彼にとって、一番重要な問題は、人生の意味であったと考えて少しも差し支えない。 [小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫1975)歴史p147]
1063 あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。卒尓にして多年の非をあらたむる事もあり。かりにいまこの文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これ則ち触るる所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定なるべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内證必ず熟す。しひて不信を云ふべからず。仰ぎてこれをたふとむべし。 [吉田兼好「徒然草」第157 段]
1064 芸能・所作のみにあらず。大方のふるまひ・心づかひも、愚かにしてつつしめるは得の本なり。巧みに してほしきままなるは失の本なり。 [吉田兼好「徒然草」第187 段]
1065 “We must confront this phenomenon. We have to do it in a determined manner,” he said in an interview with CNN. “We have to address the root causes of terrorism. We have to find the perpetrators and bring them to justice, and we must fight terrorist bases wherever they are. But again, we have to address the roots as well.” “What kind of anger was created that must have been expressed in that way? So no doubt there must have been some wrong policies that created a kind of hatred that became extreme,” Khatami said. “The people of America should demand” that their government “moderate its policies, to improve and change some of it. And if that happens the situation in the world will also improve.” [Iranian President Mohammad Khatami Sunday expressed his sorrow for the thousands killed in the September 11 terrorist attacks.(Nov 12, 2001 CNN web: NEW YORK (CNN))]
1066
4 み吉野は山も霞て 白雪のふりにし里に春はきにけり(後京極摂政)
5 ほのぼのと春こそ空にきにけらし 天の香具山霞たなびく(院御製)
24 空はなほ霞もやらず 風寒えて雪げにくもる春の夜の月(後京極摂政)
50 梅が香に昔をとへば 春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(藤原家隆朝臣)
51 春の夜は吹きまよふ風の移り香に 木毎に梅と思ひけるかな(崇徳院御製)
53 人はいさ心もしらず 古郷は花ぞむかしの香に匂ひける(貫之)
56 独りのみながめて散りぬ梅の花 知るばかりなる人はとひこず(八条院高倉)
72 水の面にあや織りみだる春雨や 山のみどりをなべて染むらん(伊勢)
78 浅みどり空もひとつに霞みつつ おぼろに見ゆる春の夜の月(菅原孝標女)
85 かへる雁雲居遥かに成りぬなり またこん秋もとほしと思ふに(赤染衛門)
111 花の色に天霧る霞立ちまよひ 空さへにほふ山桜かな(権大納言長家)
121 はかなくて過ぎにし方を数ふれば 花にもの思ふ春ぞへにける(式子内親王)
123 春ごとに花の盛りはありなめど あひ見んことは命なりけり(よみ人しらず)
131 やどりして春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける(貫之)
152 いたづらに過ぐる月日は思ほえで 花みて暮らす春ぞすくなき(藤原興風)
166 花の色は昔ながらに みし人の心のみこそうつろひにけれ(元良親王)
169 桜花散りぬる風の名残には 水なき空に波ぞ立ちける(よみ人しらず)
194 惜しめども春の限りの今日の日の 夕暮れにさへなりにけるかな(業平朝臣) [定家八代集抄 春歌上下]
1067 人間を戯画化しようとする所謂辛辣な眼光というものは、必ず人間の或る真実を見逃す、而も恐らく一番大事な部分を見逃す。 [小林秀雄「逆説というものについて」小林秀雄全集2巻(新潮社、1956)p171]
1068 真の逆説の源には、つねに激しい率直な観察がなければならぬ、割り切れない現実を直覚する鋭敏な智性がなければならぬ。逆説とは弄するものではない、生まれるものだ。動いている現実を動いているがままに誠実に辿る分析家の率直な表現である。 [小林秀雄「逆説というものについて」小林秀雄全集2巻(新潮社、1956)p172]
1069 心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上、必ず実益がある、そういう言葉を、ほんとうの助言というのである。批評はやさしく、助言はむづかしい所以なのだ。 [小林秀雄「作家志願者への助言」小林秀雄全集2巻(新潮社、1956)p174]
1070 世の凡庸小説家が、例外なく、「世間は小説の様には参らぬ」という格言を虎の子にして小説を書いているという事は、注目する価値がある。なぜ知らず識らずそういう事になるかというと、「事実は小説よりも奇だ」というまさしくその点を狙って、通俗に陥らず、悠々と表現するのは、凡手の能くする処ではないからだ。 [小林秀雄「手帖」小林秀雄全集2巻(新潮社、1956)p180]
1071
227 折しもあれ花橘のかをるかな むかしを見つる夢の枕に(左近中将公衛)
228 たれかまた花橘に思ひいでん 我もむかしの人となりなば(皇太后宮大夫俊成)
243 過ぎぬるか夜半の寝覚の時鳥 声は枕にあるここちして(皇太后宮大夫俊成)
248 この里も夕立しけり 浅茅生の露のすがらぬ草の葉ぞなき(俊頼朝臣)
262 いつとても惜しくやはあらぬ 年月を御祓にすつる夏の暮かな(皇太后宮大夫俊成)
265 河風の涼しくもあるか 打ちよする浪とともにや秋は立つらん(紀貫之)
269 この寝ぬる夜の間に秋は来にけらし 朝けの風の昨日にも似ぬ(藤原季通朝臣)
281 秋は来ぬ歳もなかばに過ぎぬとや 荻吹く風のおどろかすらん(寂然法師)
391 川霧のふもとを籠めて立ちぬれば 空にぞ秋の山は見えける(深養父)
407 それながら昔にもあらぬ 秋風にいとどながめをしづの苧環(式子内親王)
535 夕凪にとわたる千鳥 浪間より見ゆる小島の雲に消えぬる(後徳大寺左大臣)
577 いそがれぬ年の暮こそあはれなれ 昔はよそに聞きし春かは(入道左大臣)
579 何事を待つとはなしに明け暮れて 今年も今日に成りにけるかな(権中納言国信) [定家八代集抄 夏歌、秋歌上下、冬歌]
1072
631 笛の音のよろづ代までときこえしを 山も応ふる心地せしかな(後徳大寺左大臣)
647 明日知らぬ我が身と思へど 暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ(貫之)
665 今はただよそのことと思出でて忘るばかりの 憂きこともがな(和泉式部)
668 思ひかね昨日の空をながむれば それかと見ゆる雲だにもなし(藤原頼孝)
670 春の夜の夢のうちにも思ひきや 君なき宿を行きて見んとは(貞信公)
688 時しもあれ秋やは人の別るべき あるを見るだに恋しきものを(忠岑)
697 もろともに有明の月も見しものを いかなる闇に君迷ふらん(藤原有信朝臣)
715 山寺の入相の鐘の声ごとに 今日も暮れぬと聞くぞ悲しき(よみ人しらず)
717 あるはなくなきは数そふ世の中に あはれ何れの日まで嘆かん(小町)
727 乱れずと終わり聞くこそうれしけれ さても別れは慰まねども(寂然法師)
728 この世にてまた逢ふまじき悲しさに すすめし人ぞ心乱れし(西行法師)
741 命だに心にかなふものならばなにか別れの悲しかるべき(遊女白女)
806 君が住む宿の木末をゆくゆくと隠るるまでにかへりみしはや(菅贈太政大臣) [定家八代集抄 賀歌、哀傷歌、別離歌、覊旅歌]
1073 ただ、ひと言いっておきたいのは、どれだけ多くの端役の人々が、本気になって舞台の効果を考えていたことか。今は誰ソレの型を踏襲するだけで、それでもって足れりとしているのは、それがどんなに美しい型であっても魂が抜けている。伝統芸術のむつかしさというものだろう。 [白洲正子「白洲正子自伝」(新潮社, 1994)P121]
1074 小林さんもそのようにして青山さんから骨董を学んだ。そこに、「美しい花がある。花の美しさというものはない」という名言が生まれた。これは一種の悟りである。 [白洲正子「白洲正子自伝」(新潮社, 1994)P223]
1075
843 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは あやなく今日や眺めくらさん(業平朝臣)
844 知る知らぬ何かあやなくわきていはん 思ひのみこそ標なりけれ(よみ人しらず)
845 あな恋し はつかに人を水の泡の 消えかへるともしらせてしがな(清慎公)
866 忘れてはうち嘆かるる夕かな 我のみ知りて過ぐる月日を(式子内親王)
890 夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて(よみ人しらず)
914 年を経て思ふ心のしるしにぞ空もたよりの風は吹きける(藤原高光)
983 嘆余り遂に色にぞ出でぬべき いはぬを人の知らばこそあらめ(よみ人しらず)
994 つつめども隠れぬものは 夏虫の身より余れる思ひなりけり(よみ人しらず)
1037 逢ふ事を待ちし月日の程よりも 今日の暮こそひさしかりけれ(大中臣能宣朝臣)
1061 むば玉の闇の現は 定かなる夢にいくらも勝らざりけり(よみ人しらず)
1072 逢見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり(権中納言敦忠)
1085 たのめぬに君来やと待つ宵の間の 更けゆかでただ明けなましかば(西行法師)
1093 忘れじの行末までは難ければ 今日を限りの命ともがな(儀同三司母)
1111 今はただ思ひたへなんとばかりを 人づてならで言ふよしもがな(左京大夫道雅)
1113 なき名ぞと人には言ひてありぬべし 心の問はばいかが答へん(よみ人しらず)
1118 雲のゐる遠山鳥のよそにても ありとし聞けば侘びつつぞぬる(よみ人しらず)
1131 我がよはひ衰へゆけば 白妙の袖の馴れにし君をしぞ思ふ(よみ人しらず)
1203 よそに有りて雲居に見ゆる妹が家 早く至らん歩め黒駒(人麿)
1214 思ひつつ寝ればや人の見えつらん 夢と知りせば覚めざらましを(小町)
1215 うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみ初めてき(小町)
1217 恋ひわびてうち寝る中に 行通ふ夢の直路はうつつならなん(敏行朝臣)
1222 儚しや枕定めぬうたた寝に ほのかに迷ふ夢の通路(式子内親王)
1249 偽と思ふものから 今更に誰がまことをか我はたのまん(よみ人しらず)
1251 眺めやる山辺はいとど霞つつ おぼつかなさの勝るころかな(藤原清正女)
1260 人の身も恋には代へつ 夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ(和泉式部)
1309 さりともと待ちし月日ぞ うつり行く心の花の色にまかせて(式子内親王)
1358 月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身一つはもとの身にして(業平朝臣)
1362 天の戸をおし明け方の月見れば 憂き人しもぞ恋しかりける(よみ人しらず)
1386 あらざらんこの世の外の思出に 今一度の逢ふこともがな(和泉式部) [定家八代集抄 恋歌1-5]
1076 母親は子供に微笑する、子供は母親に微笑する、ここに機械化はありはしない。二人はただ生きていると言っているだけだ。微笑は何の武器をももっていない。微笑する人には、何の不安もない。そこではただ生命の花が開くだけだ。[小林秀雄「ナンセンス文学」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p38-9]
1077 僕は『様々なる意匠』という感想文を「改造」に発表して以来、あらゆる批評方法は評家のまとった意匠に過ぎぬ、そういう意匠を一切放棄して、まだいう事があったら真の批評はそこからはじまる筈だ、という建前で批評文を書いて来た。 [小林秀雄「中野重治君へ」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p160]
1078 僕はいつも合理的に語ろうと努めている。どうしても合理的に語り難い場合に、或は暗示的に或は心理的に表現するに過ぎぬ。その場合僕の文章が曖昧に見えるというところには、僕の才能の不足か読者の鈍感性か二つの問題しかありはしない。 [小林秀雄「中野重治君へ」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p161]
1079 モオパッサンの小説に見られる様な、通俗性は、小説というものの本来の通俗性なので、一流の小説にはみんなある通俗性なのだ。今日の純文学作家達は、こういう通俗性を低級性と解しがちだし、大衆作家は娯楽性と解しがちなのである。 [小林秀雄「長編小説について」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p167]
1080 科学が発達して、文学者も科学的な探求方法を採用し、科学的観察という様な言葉も流行するが、実は好きなだけの科学という意匠を纏うに過ぎない。計量という言葉は一種の譬喩としてより他に、詩の世界に這入ってこられないからである。 [小林秀雄「思想と実生活」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p180]
1081
1482 老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな(伊豆内親王)
1495 いにしへのしづのをだ巻 賤しきもよきも盛りは有りしものなり(よみ人知らず)
1543 侘びぬれば身をうき草のねを絶えて 誘う水あらばいなんとぞ思ふ(小町)
1588 人知れずもの思ふ事はならひにき 花に別れぬ春し無ければ(和泉式部)
1606 残りなく我が世ふけぬと思ふにも かたぶく月にすむ心かな(待賢門院堀川)
1616 めぐり逢ひて見しや それともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな(紫式部)
1625 思ひきや 別れし秋にめぐり逢ひてまたも此の世の月を見んとは(皇太后宮大夫俊成)
1807 静なる暁ごとに見わたせば まだ深き夜の夢ぞ悲しき(式子内親王)
1809 冥きより冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月(和泉式部) [定家八代集抄 雑歌上中、釈教歌]
1082 わたしはその条理の確実性と明証性のために、とくに数学が好きだったが、まだそのほんとうの用途に気づかなかった。しかし数学がただ単に技術に役立っているにすぎないということを考えると、数学の基礎はあのように確実で堅固であるのに、その上にもっと高い学問が何一つ築かれえなかったということを意外に思った。 [デカルト「方法序説」(小場瀬卓三訳、角川文庫1963)第一部 p15]
1083 哲学についてはわたしは何もいうまい。ただひとつつぎのことだけをいうにとどめる。すなわち哲学は数世紀以来、もっとも卓越したひとびとによって開拓されてきたが、しかもそこにはまだ何ひとつ論争の的になっていないようなものはなく、したがって疑わしくないようなものは何ひとつないのを見て、わたしは、自分がこの方面でほかのひとより成功を収めることを望むだけの自負心を持たなかった。 [デカルト「方法序説」(小場瀬卓三訳、角川文庫1963)第一部 p16]
1084 つぎにほかの学問についていえば、わたしはそれらの学問が哲学から自分の原理を借りているかぎり、このような堅固でない基礎の上には何ひとつ確固としてものが建設されえたはずがないと判断した。 [デカルト「方法序説」(小場瀬卓三訳、角川文庫1963)第一部 p17]
1085 僕が歌舞伎で発見した真理は、たった一つであって、それは人間は形の美しさで十分に感動する事が出来るという事であった。形が何を現しているか、何を意味しているかは問題ではない。最も問題でない際に一番自分は見事に感動する事を確かめたのである。 [小林秀雄「演劇について」小林秀雄全集3巻(新潮社、1956)p213]
1086 イデオロギイほど、直かな観察というものを曇らせるものはない。
—中略—
先日、ヴァレリイのドガに関する文章を読んでいたら、面白い事が書いてあった。ノルデンスキョルドという学者の調査によると、パナマ奥地のキュナ族という土人は、鰐の首の動き方について、十四通りの動詞を持っているそうである。こういう実際の観察に即した言葉を、イデオロギイの堆積の重みで、人間は次第に忘れて行く。立派な思想家や芸術家や科学者だけが、そういう土人の眼を、眼から直かに生れた様な言葉を保持していくのだろうと思われる。 [小林秀雄「イデオロギイの問題」(1939.12) 小林秀雄全集5巻(新潮社、1956)p204-5]
1087 僕は非常時という言葉の濫用を好まぬ。困難な事態を試練と受取るか災難と受取るかが、個人の生活ででも一生の別れ道となろう。 [小林秀雄「事変と文学」(1939) 小林秀雄全集5巻(新潮社、1956)p210]
1088 われわれの頽廃した風儀のなかでは、自分が信じていることをすっかりいおうと思うようなひとは見当たらないばかりではなく、多くのひとは自分自身の信じていることを自分では知らないからである。 [デカルト「方法序説」(小場瀬卓三訳、角川文庫1963)第三部 p35]
1089 太閤のような天才は自ら恃むところも大きかった。従って醸された悲劇も大きかった。これが悲劇というものの定法です。悲劇は足らない人、貧しい人には決して起こりませぬ。 [小林秀雄「事変の新しさ」(1940.8) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p13]
1090 思想の敵が反対の思想にあると考えるのは、お目出たい限りである。思想が闘い鍛えられるのは、現実そのものの矛盾によってである。云いかえれば、思想の真の敵は己自身にあるのである。どの様な思想も安全ではない。 [小林秀雄「維新史」(1940.9) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p22]
1091 非常時の政策はなければならぬだろうが、非常時の思想という様なものがある筈はないと考えます。 [小林秀雄「文学と自分」(1940.11) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p22]
1092 どんな大文学も蟻一疋踏潰す力は持っていない、どんな大思想も、たった一人の人間の空腹を満たすに足りない。この簡単な物の道理が、徹底して合点され、本當に心に堪えたならば、言葉の力に頼って、実際の物の動きを、どうかしようという、文学者の曖昧な感傷的な自惚れは消えてなくなるだろう、僕はそう信じています。 [小林秀雄「文学と自分」(1940.11) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p25]
1093 自分の鼻は見た処確かに胡座を書いているが、実はもっと上等な鼻を何処かにちゃんと持っているのだ、そんな事を言ったらおかしいでしょう。おかしいから鼻に関しては、見られた儘で諦めているが、文章だと諦めない。文章が低級に見えるだけではないかと頑固に主張する。もっとましな自分自身というものが、姿を見せないが、恰も雲の中に流が隠れている様なあんばいに頭の中に隠れていると信じ込んでいる。これは迷信でありまして、本當の彼自身とは浅薄な文章以上でも以下でもない、頑固に主張するその頑固さも明らかに彼の表現だとすれば、浅薄さプラス頑固さが即ち彼自身であって、その他に彼自身などというものはありませぬ。人間は誰でも見えた通りのものであります。孔子様も「人焉ゾ臾(ただしがんだれつき)サン哉」と繰り返しおっしゃった。 [小林秀雄「文学と自分」(1940.11) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p27]
1094 伝統と習慣とは、見たところ大変よく似ているが、つぎの点でまるで異なったものだ。 僕らが無自覚で怠惰でゐる時、習慣の力は最大であるが、伝統の力が最大となるのは、伝統を回復しようとする 僕達の努力と自覚においてである。
—中略—
伝統は、これを日に新に救い出さなければ、ないものである。それは努力を要する仕事なのであり、従って危険や失敗を常に伴った。これからも常にそうだろう。少なくとも、伝統を、そういうものとして考えている人が、伝統について、本當に考えている人なのである。 [小林秀雄「伝統について」(1941.2) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p56]
1095 論語には、よく捻りの利いた辛辣な言葉が沢山見付かる。これは、孔子という人のいつも元気で若々しい性質から直かに来ているように思われる。甚矣吾衰也久矣吾不復夢見周公というような嘆きのあった人は、死ぬまで青年だったに決まっているのだ。 [小林秀雄「匹夫不可奪志」(1941.3) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p65]
1096 浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。 [小林秀雄「林房雄」(1941.3)小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p69]
1097 大工は粗悪な材料から、美しい丈夫な家を建てる事が出来ない。芸術家だって全く同じ事なのである。仕事の性質上、造形美術家はその事をよく知っているが、文学者は、それほどよく知っているとは限らない。屡々知らぬ振りもする。併し無駄である。 [小林秀雄「林房雄」(1941.3) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p71]
1098 衰弱している苛々した神経を鋭敏な神経だと思っている。分裂してバラバラになった感情を豊富な感情と誤る。徒らに細かい概念分析を見て、直覚力のある人だなどと言う。単なる思い付きが独創と見えたり、単なる聯想が想像力と見えたりする。或は、意気地のない不安が、強い懐疑精神に思われたり、考えることを失って退屈しているのが、考え深い人と映ったり、読書かが思想家に映ったり、決断力を紛失したに過ぎぬ男が、複雑な興味ある正確の持主に思われたり、要するに、この種の驚くべき錯覚のうちにいればこそ、現代作家の大多数は心の風俗を描き、剤慮の粗悪さを嘆じないで済んでいるのだ。これが現代文学における心理主義の横行というものの正体である。 [小林秀雄「林房雄」(1941.3) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p72]
1099 現代の歴史家が、封建主義という言葉から理解しているところは、徳川時代の人々には、何の関係もない考えである。彼らは道徳を信じたのであり、封建道徳などというものを信じたのではありませぬ。 [小林秀雄「歴史と文学」(1941.4) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p94]
1100 では、何を頽廃した主観的な態度と言ったのか。これはもう申し上げるまでもない事だ。歴史を見ず、歴史の見方を見て、歴史を見ていると信じている態度であります。 [小林秀雄「歴史と文学」(1941.4) 小林秀雄全集6巻(新潮社、1955)p94]