証 III 801-900
風雅和歌集 内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 吉田裕「アジア・太平洋戦争」 塩野七生「ローマ人の物語」 岡田英弘「中国文明の歴史」 辺見庸「もの食う人びと」
801 僕ハモーダメニナッテシマッタ,毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ,ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ.手紙ハ一切廃止.ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ.今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク.イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ.近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ.僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー.夫ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ,君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ.若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)画ハガキモ慥カニ受取ッタ.倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ.
不折ハ今巴里ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ.君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ,モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ.
虚子ハ男子ヲ挙ゲタ.僕ガ年尾トツケテヤッタ.
錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ.
僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ.万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテイルダロー.実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ.僕ノ日記ニハ「古曰来曰」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル.
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ.
明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
東京 子規拝
倫敦ニテ
漱石兄 [正岡子規,漱石への最後の手紙.「吾輩は猫である」中編自序に引用]
802 文科に入ったのも友人のすすめだし,教師になったのも人がそう言って呉れたからだし,洋行したのも,帰って来て大学に勤めたのも,「朝日新聞社」に入ったのも,小説を書いたのも,皆そうだ.だから私という者は,一方から言えば,他が造ってくれたようなものである. [夏目漱石「処女作追懐談」末尾]
803 コンピュータ将棋には,面白い歴史があります.今まではいわばロマンチックなやり方で,つまり人間と同じ様な判断が出来るように思考プログラムを洗練させて,将棋を強くしようとしてきたのですが.なかなか思うようにいきませんでした.そして,今最強のボナンザは全部の手を検索するという身も蓋もない力業を採用しています. [羽生善治「頭が良いとはどういうことか」中央公論2007/5 p63]
804 “美人”という基準が追放されて,不美人が公然と闊歩するというのは,価値体系の混乱に乗じて略奪が横行する,というようなもんです. [橋本治「風雅の虎の巻」(ちくま文庫, 2002; 原書1988) p331]
805 藤原定家には歌論書というのが結構一杯あって,そこで色んなことを言ってるンですけれども,その内容と彼自身の歌とはとんでもなく違っているっていうのは昔っから言われていることです.「和歌はわかりやすいのが第一だ」なんて人には言っといて,自分の作る歌は全然そんなもんじゃない,とか.
お分かりでしょう.彼が歌論書を与えた“ 人”っていうのは,新大衆の田舎者ンだったんですよ.そんな相手にホントのことを言ったってしょうがないって分かってて,彼は,“ 大衆相手の分かりやすいハウツー書”を作ってたんですね.
カルチャー・スクールの元祖で家元の最初というのはこういうこと.新旧交代という時代が彼を“ 家元”にして,そして,そこで王朝和歌の時代は終わるんですね. [橋本治「風雅の虎の巻」(ちくま文庫, 2002; 原書1988) p129]
806 戦争は外科手術に似ている.ゆえに手術の技能が優れていることが先決するが,手術後のケアの重要性も優るとも劣らない. [塩野七生「戦争の本質」(文藝春秋2007/5) p92]
807 私が長年勤めるワシントン・ポスト社には,「良質な仕事は経営陣に立ち向かうことでなされる」という格言がある. [Bob Woodward 「ブッシュは神の指示に従った」(文藝春秋2007/5) p313]
808 たしかに,かれは地球を不動とみなして,天体の運動を合理的に説明しようとした.しかしながら,天動説の採用は,たんにその公理にしたがえば,天体運動の幾何学的図形を平易に描きうるという理由からであった.地球を動かしてみることも可能だと,プトレマイオスは考える.ただし,その公理による計算はきわめて煩雑であり,天動説よりも厳密性において劣るとみなしたようである.かれにあっては,地球は人類が居住する価値のたかい天体だから,不動の中心であるといった形而上学は,まったく不在である.ここでは徹底した数学的な合理性の追求が優越していたのである. [樺山紘一「地中海—人と町の肖像」(岩波新書1015, 2006) p71]
809
山あらしにうき行く雲の一とほり日影さながら時雨ふるなり(儀子内親王)
降りすさぶ時雨の空の浮雲に見えぬ夕日の影ぞうつろふ(従三位盛近)
時雨れ行く雲間に弱き冬の日のかげろひあへず暮るゝ空かな(前中納言為相)
吹くとだに知られぬ風は身にしみて影さへとほる霜のうへの月(儀子内親王)
鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕ぐれ(永福門院)
うづもるる草木に風の音はやみて雪しづかなる夕暮の庭(前中納言重資)
ふりつもる色より月のかげに成りて夕暮みえぬ庭の白雪(伏見院御製) [風雅和歌集 巻第八 冬歌]
810 “I feel like I am somehow moving through outer space. A particular idea leads me to a nearby star on which I decide to land. Upon my arrival I realized that somebody already lives there. Am I disappointed? Of course not. The inhabitant and I are cordially welcoming each other, and we are happy about our common discovery.” This was typical of my father; he was never envious. [Hilda Abelin-Schur “A story about father,” in Studies in Memory of Issai Schur (Birkh”auser, 2003) pxli]
811 民主主義から共産主義への移行は簡単です.豊かな人の財産を国が没収すればいい.水槽の魚を鍋に移してスープを作るようなものです.その逆は,スープの中の魚を再び水槽で泳がせるくらい難しい. [レフ・ワレサ,AERA 2007.6.11, p7]
812 お遍路に出ると少しはまともな人間になれたような気がするのは,私の感じでは頭がまともになるからでなはなく,足がまともになるからのようです.そもそも頭なるものは絶対にまともになることはありえないと,私は思っています.頭イコール歪んだものであり,歪んでいるから頭なのです. [大野正義「ほんまもんの四国遍路」(講談社現代新書1879, 2007) p88]
813 バルニバービ王国の首都,ラガードのアカデミーで,国家語の改革案が提起された.ことばとはことの端,ものの記号にすぎない以上,今後は言語の使用を禁じ,現物を提示しあうことが提案されたのである.民衆の猛烈な反対に遭い,改革は挫折する.ガリバー氏は,こう報告している.「いつの世でも,度しがたい学問の敵はまさに俗衆である」.
スウィフトが,「ガリバー旅行記」第三篇第五章にしるした寓話である.もうひとりの奇人バークリーは,一般観念を批判する文脈で,こう書いていた.「なまえはつねにかならず観念をあらわすとはかぎらない」.「知恵の木の実は甘美で,私たちの手のとどくところにあるが,そうした,いともうるわしい知恵の木の実を見るためには,ことばという遮蔽幕(curtain of words) を取りのぞくだけで十分なのである」(「人知原理論」序論二四節). [熊野純彦「西洋哲学史近代から現代へ」(岩波新書1008; 2006) p108]
814 しかしながら,この労苦,またはすでに述べました土地の険しさ,山地,川,そして耐えがたい飢えと窮乏なども,小生のふたつの仕事を妨げるものではありませんでした.ふたつの仕事とは,書くことと,小生の旗と指揮官にまちがいなく従うことであります. [シエサ・デ・レオン「インカ帝国地誌」(岩波文庫, 2007, 増田義郎訳) フェリペ皇太子への献辞p28]
815 近代化とともに食事で摂るものが生命から栄養に変わり,人間は他の生命からミをいただきながら生きているという感覚がなくなったとき,伝統的な食事の作法も崩壊した. [内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007) p20]
816 山村の過疎化がはじまるのは1950 年代後半のことで,それを促進した大きな要素は燃料革命による炭焼の崩壊であった. [内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007)p36]
817 かつての農山村の人々にとっては,経済は暮らしのなかの一側面にすぎなかったのである.自分でつくりだしたものも多かった.それ以上に,人々は経済とは違う尺度でさまざまなものを見,非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持しているという感覚をもっていた.自然の生命に包まれている,神々に包まれている.村の歴史や我が家の歴史に包まれている.いわば,そういうものの全体のなかに,一人一人の人間の生命もあった. [内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007)p38]
818 「自己」があるから自己目的が生じ,それがときに富の増加をめざさせ,ときに自己主張や自己表現を目的意識として生じさせる.
とするとこのような「人間らしさ」は肯定できるのか.
私は「できない」と日本の民衆は考えてきたのではないかと思っている. [内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007) p92]
819 仏教思想にある「一切衆生.悉有仏性」という言葉は「大般涅槃経」に出てくる言葉で,すべての人間は仏性をもっている,だから成仏し,仏になりうるという意味である.ところがこの言葉は日本で変形した.「草木国土,悉皆成仏」,あるいは「山川草木,悉皆成仏」となったのである.
—中略—
この言葉は天台本覚思想としてひろまった.それは草や木の移ろい,つまり草や木の無常のなかに,草や木の「悟り」があらわれているととらえる思想でもあり,現実に展開する現象世界がそのまま仏のさしまわした世界であり,悟りの世界,即身成仏の世界になりうるという思想である.[内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007) p98]
820 我欲なき営みのつもりでおこなわれている行為のなかにも,無意識のうちに我欲が入りこんでいるかもしれない.この関係は,人間が「自己」「我」,「個我」をもっているかぎり,避けられないものであり,そのことに気づいたとき日本の仏教は,日本の自然とともに花開いたといってもよい. [内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書1918, 2007) p104]
821 開戦にともなって,国際法に違反する行為が多発したという事実は,軍事の論理だけが優越したこの戦争の性格を端的に物語っている. [吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p22]
822 日本の戦争プロパガンダを混乱させたもう一つの要因は,政府の掲げる戦争目的自体が分裂していたことである.そもそも政府の戦争目的は,明らかに「あとづけ」の理屈にすぎなかった.41 年11 月2 日,昭和天皇は東条首相に,戦争の「大義名分を如何に考うるや」と下問しているが,東条の奉答は,「目下研究中でありまして何れ奏上致します」というものだった.
—中略—
こうした状況のなかで,実際に戦争が開始されると戦争目的をめぐる迷走が始まる.[吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p26-7]
823 「九軍神」の一人である上田定兵曹長の故郷,広島県千代田町には,定の母さくが,自分の村から軍神が出たことを誇りに思い大変めでたいことだとしてお祝いの挨拶に訪れた村長に対して,「あなたにはおめでたいことかもしれませんが,わたしにとっては大事な息子定を国に捧げたことは全然おめでたいことではありません.あなたには息子を亡くした母親の気持ちはわからんでしょう.もう何も言わないでかえってください」と怒りをあらわにしたという話が今でも語りつがれている. [吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p67]
824 朝鮮人の間でも,「満州ブーム」が起こり,社会的上昇の可能性やビジネスチャンスを求めて,満州に渡った朝鮮人農民や朝鮮人民族資本家も少なくない. [吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p114]
825 「アメリカは,戦時中に生活水準を向上させた唯一の国」となったのである.このことは,アメリカの一般の国民にとっても,戦争が充分「ペイする」ものだったことを意味する.しかし,この時,形成された「よい戦争」という楽観的な戦争観は,広範な国民の生活実感に裏打ちされたものであっただけに,その後,現在に至るまで,アメリカ人の戦争観を呪縛し続けることになる. [吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p123]
826 「勤労」の国家的性格が強調されるなかで,従来,まったく異なる身分階層に属していた職員と現場労働者の身分的差別が薄れ,「従業員」という共通の意識が形成され始めたこと,労働者の生活悪化に対応するため,家族手当などの支給が始まり,能率給よりも生活給が重視されるようになっていったこと,賃金統制が行なわれるなかで,年功序列型賃金が拡大していったこと,等々の事例を挙げることができる [吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書1047, 2007) p164]
827 いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており,環世界自体が主観的現実にほかならない,という結論になる.
主観的現実の存在を否定する者は,自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである. [Jakob von Uexk¨ull 「生物から見た世界—見えない世界の絵本」(岩波文庫,日高敏隆・羽田節子訳,2005)]
828 「梅松論」の記すところによれば,正儀の父正成は建武三年(1336) 二月,足利尊氏軍が西国へ落ちたとき,勝利の喜びに沸きかえる公卿たちをよそに,新田義貞を誅伐して,尊氏と手を結ぶ方が得策だと後醍醐天皇に進言した. [森茂暁「皇子たちの南北朝」(中公文庫933, 2007) p 143]
829 ちなみに,「南方紀伝」には,懐良没後の元中二年に南朝の多くの軍兵が高麗国に渡ってかの国で兵を催したと記されている.いよいよ窮地におちいった南軍が,高麗国の兵を借りようとしたというのであろうが,ありえないことではない. [森茂暁「皇子たちの南北朝」(中公文庫933, 2007) p221]
830 長徳三(997) 年には「源氏物語」はまだ書かれていなかったが,その後作られたこの物語に「栄花物語」の作者は心酔してしまったらしい.このように,作り話の「源氏物語」を使って「源氏物語」成立以前の事実を記すまでに,強く影響されている.そのため「栄花物語」は現実とフィクションをを混同していると低く評価されている.その評価は,客観的史実を尊重する観点から見れば,確かに正しい.ただ私は,これが「源氏物語」のほぼリアルタイムの読者による「源氏物語」理解の一つだという事実に注目したい. [山本淳子「源氏物語の時代—一条天皇と后たちのものがたり」(朝日新聞社2007) p120]
831 私は,定子と桐壺更衣の符合は看過すべきではないと考えている.だがこと「栄花物語」が感じ取ったのは,そうした外部状況の符合ではなかったとも考えている.重要なのは精神の符合の方だ. [山本淳子「源氏物語の時代—一条天皇と后たちのものがたり」(朝日新聞社2007) p120]
832 しかしながらこの「面々の御計なり」と「ちからをよばずさふらふ」の真摯な態度は,異端排除のための「歎異」の方法とはつながってはいない.否,その口調とは決定的に断絶している,と私には思われるのである.
唯円は「歎異抄」という作品において,もしかすると師・親鸞の信心のあり方を裏切っているかもしれないのである. [山折哲雄「親鸞をよむ」(岩波新書1096, 2007) p92]
833 忌といふ字は,己が心と書きたり. [安楽庵策伝「醒睡笑」巻之一祝ひ過ぎるも異なもの,二]
834 As a young man I attended an evening party at the Cold Spring Harbor Laboratory in New York. Max Delbr¨uck approached me and asked what I was interested in. Awed by the unexpected attention from so famous a scientist, I stammered something about genetic variation in natural populations and how, through time, this becomes transformed into morphological and other differences between species. As I began my second sentence, he interrupted to say, “Young man, you are wasting your time,” and abruptly walked away. I brooded on this for a while—quite a while. [D. Hartl, Evolution by Nicholas H. Barton, Derek E. G. Briggs, Jonathan A. Eisen, David B. Goldstein & Nipam H. Patel (Cold Spring Harbor Laboratory Press, 2007) 書評,Nature 451 17 (2008). ]
835 “That which is hateful to you, do not do to your neighbor. That is the whole Torah; the rest is commentary. Go and study it.” [Rabbi Hillel]
836 私が長年考えてきて,いろいろなことをやってみて,一つの結論はこうです.「大きな人間」という存在が,その大きな力を行使して政治や経済,文化の中心をかたちづくる.それに対して「小さな人間」が何をするか.「大きな人間」が.個人の問題としても,制度の問題にしても,必ずしもいいものをつくり出すとは限らない,めちゃくちゃをするということが必ず起こってくる.それに対して「小さな人間」が,デモス・クラトス,自分たちの小さな力を信じて,反対する,抗議する,あるいはやり直しをさせる,是正する,あるいは変更する,それが「小さな人間」のやることです.私はこれがデモクラシーだと思うんです.[小田実「遺稿世直し大観」世界2007/12, p240]
837 (1973 年に) チリで起こった9・11 事件も,希望の扉が閉ざされた歴史の瞬間に数えられます.ただし,事件は私たちにとって,より重大な意味を持っていました.あのときチリでは,第三の道が築かれようとしていました.全体主義的な共産主義でもなく,過激な資本主義でもない,本当の意味での第三の道です.これはアメリカにとって脅威でした.[Naomi Klein「もう一つの可能な世界—弾圧から蘇る希望」(安濃一樹訳, 世界2007/12, p136]
838 これらの者共は死罪にも申しつくべき程の不届に候へども,ヶ様の悪事致し候者共は,器量これなくては相成り申さず候故,その器量を遣ひ候へば,一廉御用にも相立ち候ものに御座候間,御前へ直に召し出だされ,随分面を和らげ遊ばされ,「今度木工へ領分の政道の儀申しつけ候へども,壱人にては万事行届くまじく候間,其方共へ木工が相役を申しつけ候間,木工が差図を受けて,木工と肌を合わせて,万事計らひ申すべき」旨仰せ渡されくださるべし.[笠谷和比古校注「日暮硯] (岩波文庫, 1988) p63-4]
839 私は河の水上というものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている.一つの流れの沿うて次第にそのつめまで登る.そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れ出している,という風な処に出会うと,胸の苦しくなるような歓びを覚えるのが常であった.[若山牧水「みなかみ紀行」(岩波文庫) p113-4]
840 卑しきときは則ち自から実なり.高きときは則ち虚なり.故に学問は卑近を厭うこと無し.卑近を忽にする者は,道を識る者に非ず.道は其れ大地の如きか.天下地より卑しきは莫し.然れども人の蹈む所地に非ずということ莫し. [伊藤仁斎「童子問」第24 章 (岩波文庫) p46]
841 酷薄な独裁指向—.古代の帝王の資質の一つであるそれを嵯峨はまったく欠いていた.従来の見方からすれば,王者失格ともいうべきそのことが,ごくしぜんな形で,新しい時代を拓くのである. [永井路子 「王朝序曲」下 源氏誕生(角川文庫) p235]
842 Sometimes, but not that often, in number theory we get a complete answer to a question we have posed, an answer that finishes the problem. Often something else happens: we manage to find a fine, simple, good approximation to the data or phenomena that interests us perhaps after some major effort and then we discover that yet deeper questions lie hidden in the error term, i.e., in the measure of how badly our approximation misses its mark. [B. Mazur, “Finding meaning in error terms,” Bull. Am. Math. Soc., 45, 185 (2008)]
843 私はかなりよく仕事をしており,またよりよき人になり,よりよき心をもちたい.これらは一つかつ同一の事柄です. [エンゲルマン宛ウィトゲンシュタイン書簡1917/3/31 (MS102 p. 3v 2/11/14)]
844 若年の自己意識はふくらみすぎているし,老年の自己意識はしぼみすぎている.人生最大の幸福は,この自己意識が各生活年代を通してつねに一定の推移を示していることであるかもしれない.
ではどうすればそれが可能か.答えは呆れるほど平凡だ,教養と健康とが水位をほぼ一定のものにしてくれるのである.しかしこの平々凡々たる真理を身に体しうるのは,ひとり非凡人あるのみである. [高橋義孝随筆選「新つれづれ草」思い上がりの効用 (角川文庫, 1975) p17]
845 愚夫の為に指を以て物を指すに愚夫指を観て実義を得ざるが如く是の如く愚夫は言説の指に随って摂受計着して捨てず終に言説の指を離れたる第一実義を得ること能はず. [楞伽経]
846 万葉の「さやけさ」という美のすがたでも,藤原朝の「わび」という美のすがたでも,中世の「すき」という美のすがたでも,町人文化の「いき」という美のすがたでも.そのすべてが,無理な物,無駄な力んだもの,醜い重いものを.ほんとうのものからさらさらとほうり落して,自然さながらなるもの.鍛錬を貫いての裸のものになっていくことの美しさにおいてみな一つなのである.流動して已まないにもかかわらず,常に一貫した日本民族の「美の類型」には,変わらざるものがあるかのようである. [中井正一「美学入門」 長田弘編「中井正一評論集」(岩波文庫, 1995) p276]
847 ユダヤ人ほどではなくても,ローマ人だって迷信深かった.にわとりの餌のついばみ方がよければ,吉兆だと兵士たちは喜んだのだ.しかし,ローマの指導層は,共和政・帝政を問わず常に醒めていた.前日からにわとりにえさをやらないでおくようにと,陰では命じていたのだから. [塩野七生「ローマ人の物語22」危機と克服[中] p118]
848 これら五臓の概念は近代医学で用いられる概念と異なっているが,それはわが国,江戸期に近代医学の翻訳移入に際して,五臓の名称を便宜的に当てはめた結果であって,この混乱の責は和漢診療学の側にはない. [寺澤捷年「症例から学ぶ和漢診療学」第二版(医学書院,1998) p7]
849 もう一つ、私の在学中のこと。音楽家のバーンステインが亡くなる少し前に来日して、テレビでインタビューに答えた。音楽家を志す若い人へのメッセージ。「自分は音楽家になるべきか、と貴方が質問するなら、答えはノーだ。訊ねるなら、ノー。理由は訊ねたから。禅問答みたいだろ」。バーンステインは例のいたずらっ子のような表情を一瞬だけ浮かべた後に、こう続けた。「もし貴方が本当に望むなら、貴方は音楽家だ。誰も止めることはできない」 [九鬼伸夫 http://www.asahi-net.or.jp / MH9N-KK/ishanome33.html ]
850 Comrade Van knew all about the “heart’s reasons that reason knows nothing about,’ though for many years he did not speak readily about that side of the story. However, when van Heijenoort did finally come to talk about the personal forces which shaped his choice, he never omitted the statement: “ I believe in strong feelings. Without that, there is nothing.” [A. B. Feferman, Politics, Logic, and Love — The life of Jean van Heijenoort (A. K. Peters, Ltd., 1993) p 81]
851 子どもは言葉を「教わる」のではなく,自然に覚えるものです.「そのなかにいれば自然にそうなる」という風にしておくと,教えようとするよりも,ずっと吸収力が高くなるのです.オーストラリアの先住民のアボリジニは,二,三日も一緒に車に乗っていると,見ていただけであるていど車の運転ができるようになったといいます.見取り能力がすばらしいのです. [甲野善紀「「古の武術」に学ぶ」NHK 人間講座(2003/10-11)p116]
852 理を理解する人が常にマイノリティである人間世界では,改革を定着させるにはしばしば,手段を選んではいられない. [塩野七生「勝者の混迷(下)」(ローマ人の物語7 p73]
853 プルタルコスという人は,公生活ではストイック.私生活ではエピキュリアンという生き方が,ついに理解できなかった人ではないかと思うが,その彼からすれば,スッラの私生活は糾弾ものであったのも当然だろう. [塩野七生「勝者の混迷(下)」(ローマ人の物語7 p75]
854 〈わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても,そのようなことには心わずらわせたくない.何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは,自らの考えに忠実に生きることである.だから,他の人々も,そうあって当然と思っている〉
これは,人権宣言にも等しい.個人の人権を尊重する考えは,一千八百年後の十八世紀になって起こる,啓蒙主義の専売特許ではないのである.
しかし,他者の人権を認めながらも自分自身に忠実に生きることを貫くのは,実に難事であることも確かだ.右のカエサルの言をスッラが耳にしたら.一笑に付したにちがいない.だが,一笑に付すスッラであったからこそ,タタミの上で死ぬこともできたのであった.[塩野七生「ユリウス・カエサル ルビコン以後」 (ローマ人の物語11) p104]
855 ただ,神にされたおかげで,残念に思うこともあったのではないか.というのは,非凡な人物ではあったがユーモアの才はなかったオクタヴィアヌスが,神となったカエサルにはふさわしくないとして,『ガリア戦記』と『内乱記』以外の著作を廃棄処分にしてしまったからである.青年時代の作といわれる詩文や劇作や,そして多くの手紙,その中には愛人たちに送ったラブレターもふくめたすべてのカエサルの作品が,地上から姿を消してしまうことになったのであった. [塩野七生「ユリウス・カエサル ルビコン以後」(ローマ人の物語13) p129]
856 セヴェルスによる軍団兵の優遇策もまた,善意が必ずしも良き結果につながらないという,古今東西いやというほど見出すことのできる人間社会の真実の例証であると思う.いや,もしかしたら人類の歴史は,悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と,善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で,おおかた埋まっていると言ってよいのかもしれない.善意が有効であるのは,即座に効果の表れる.たとえば慈善,のようなことに限られるのではないか,と. [塩野七生「終わりの始まり[下]」(ローマ人の物語31) p108]
857 ただし,反抗しようとしまいと,ユダヤ教徒に対してのハドリアヌスの感情が冷たかったことは確かだった.ハドリアヌスは,真実は自分たちだけが所有しており,それは唯一無二の自分たちの神のみであるとする彼らの生き方を,多様な人間社会もわきまえない傲慢であるとして嫌ったのだ.そして,それ以外の神々を信仰する他者を軽蔑し憎悪するこの人々に,神を愛するあまりに人間を憎むことになる性癖を見出して,同意できなかったのであった. ギリシア・ローマ文明の子ならば,当然な考え方である.ドグマに安住するのではなく,常に疑いをもつことが,ギリシア哲学の基本であったのだから. [塩野七生「賢者の世紀[下]」(ローマ人の物語26) p102-3]
858 しつこく思われようとも,私は何度でもくり返す.人間にとっての最重要事は安全と食の保証だが,「食」の保証は「安全」が保証されてこそ実現するものであるということを.ゆえに,「平和」(Pax) が最上の価値であることを. [塩野七生「賢者の世紀[下]」(ローマ人の物語26) p180]
859 わが国の女性は,世界の文化に何を寄与したか,この課題について考へるときに,わたくしは世界最古の女流天才紫式部をもつことと,これが精神を近代に展開せしめた女流天才與謝野晶子をもつこととを,何んのはばかりもなく誇りとして主張したいとおもふ.さうしてこの一千年の「時」をへだてた二人の女性が. そろって中流階級の家庭の母であつたといふ點を強調し,現代の同性の謙虚な反省と奮起をもとめたいとおもふ, [池田亀鑑「源氏物語と晶子源氏」角川文庫全訳源氏物語第一巻(1953) p224]
860 one page of Grothendieck for four pages finallized by the pen of Dieudonne, who, with great technical virtuosity and little profundity, did not always understand what he was writing; I am quoting Grothendieck here, because one can be generous and nevertheless render severe judgements... [V. Po´enaru, “Memories of Shourik,” NAMS 55, 964 (2008).]
861 いずれにせよ,夏は東夷のたてた王朝であった.おそらく漢字を最初に使用したのも夏人であろう.長江下流域の江西省清江県の呉城から出土した陶器には,現在まで知られている最古の形をした文字が刻まれている.漢字は東南方で発明され,それが夏人によって洛陽盆地にもちこまれて,つぎの殷王朝で甲骨文字 に発展したものであろう.[岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p44]
862 ここで興味のあることに,「朝」と「市」とは本来,同音の語であって,朝礼が終わると同次に日が昇って市場が開くところからみると,皇帝が犠牲をささげる神々は,市場を護る神々であり,その神々は「祖」と「社」であったのではないか.つまり王宮を囲む塀は.本来は市場の囲いであり,祖と社は市場の入口をはさむ柱であり,王は市場の差配であり,朝礼は市場開きの儀式であったと思われる.そして王宮の塀が発達して,都市を囲む城壁となったのであろう.つまり中国特有の城郭都市は,市場が原型だったのである.
市場に入るさいには,手数料として,商品の十分の一を脱き取られたが,これが「税」の起こりである.—中略—また手数料が,市場の入口の柱に捧げられたところから,「祖」から「租」の語が発生した.もともと「祖」のいみは「阻」で,入場を阻止するものだったからである. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p62-3]
863 あらゆる表意文字の宿命であるが,漢字はもともと,同じ字形にいくつもの意味をあてて,それぞれをタイ系の夏人の言語で読んだのであるが.のちに整理されて,一つの漢字にはただ一通り,それも一音節の語をあてて読むようになった.
—中略—ところがいかにタイ系の言語といえど,あらゆる語が一音節からなるということはありえない. そのため,漢字の音は,意味というより,その字の名前という性格のものになってしまう.
こうなると,漢字のもっとも効果的な使用法は,実際に人々が話す言語の構造とは関係なく,ある簡単な原則にしたがって配列することになる.そうすると,表意文字の体系であるから,言語を異にする人びとのあいだの通信手段として使えることになる.そしてそのように配列された漢字を,それぞれにわりあてられた一音節の音で読むと,まったく新しい,人工的な符号ができあがる.こうしてつくり出された人工的な言語は.日常の言語とはぜんぜんちがう,文字通信専用の「言語」となる.これが「雅言」である.
—中略—ところでこうした漢字で綴られた漢文の特徴としてきわだつことは,そこには名詞や動詞の形式上の区別もなく,接頭辞も接尾辞もかきあらわされていない,ということである.この結果,漢字の組み合わせを順次読み下すことによって成立する,いわゆる「雅言」は,性・数・格も時称もない,ピジン風の言語の様相を呈する.これは夏人の言語をベースにして.多くの言語,狄や戎のアルタイ系,チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語,マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる.
—中略—中国語は,市場で取引にもちいられた片言を基礎とし,それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生み出した言語なのである.[岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p70-3]
864 前213 年の「焚書」においては,秦の政府は,民間の『詩経』,『書経』,『百家の言』を引きあげて焼いたが,「博士の官の職とするところ」,すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし,今後,文字を学ぼうという者は,吏をもって師となす,というのである.これは特定の教団に入信して教徒とならなくても公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって,この漢字という,中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p77]
865 184 年の黄巾の乱とともに,秦の始皇帝の統一ではじまった(第一期) 前期が終わって,後期がはじまる.後期の特徴は,古い漢族の事実上の絶滅と,北アジアからの新しい血液の流入による,新しい漢族の成長である.
黄巾の乱の後,中国の人口は極端に少なくなった.—中略—つまり,黄巾の乱から半世紀の後,中国の人口は,十分の一以下に激減していたわけで,これは事実上.漢族の絶滅である.—中略—中国の分裂は,たった二十年間の晋の統一をはさんで,黄巾の乱から四百年以上も回復できなかったわけだ.
その原因は,人口の過少によって,農業生産の復興がままならず,食糧の余剰がなくて,統一のための戦争の余力に乏しかったことであろう.この人口過少期が中国史の第一期の後期である. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p90-6]
866 後期にける漢語の発達史上,見逃すことのできない現象は,「反切」と「韻書」の出現である.
—中略—
黄巾の乱以後,洛陽が荒廃して無人の地となり,しかも文人官僚の時代が去って軍閥の内戦時代になると,漢字とその読み方の知識は,あやうく難をのがれて地方に亡命した,ごく少数の学者によって後世に伝えられなければならなかった,そこでこれまで師から弟子へと口伝口授によって伝えられるだけだった漢字の伝統的な発音を記録し,知識の亡逸を防ぐために考案されたのが「反切」である.
—中略—
「反切」と「韻書」は,つぎの中国史の第二期の最初になって総合されて『切韻』となるのだが,ここに反映されている漢字音には,きわだった特徴がある.それはまず,これまで頭子音にあらわれていた二重子音が消失したことと,頭子音r がl に変化したことである.これは,アルタイ系の言語では,語頭に二重子音がないことと,r が語頭に立ちえないことを考えれば,アルタイ的な特徴である.これは後期の中国人の言語の基層がアルタイ系であったこと,言い換えれば,この時代の中国人は,すでに秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことを示している. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p97-9]
867 中国では,話しことばの発音は,あくまでも漢字の読み方とは別個の系統のものであって,漢字の読音は,普通の中国人にとっては意味のわからない,まったく人工的なものであった.
それにもかかわらず,科挙の試験とそれを受けるための教育の普及は,本来はあくまでも人工的な記号体系である漢文から,中国人の日常の話しことばへの大きな影響をもたらすことになった.ことにこのプロセスを促進したのは,唐末,九世紀から盛んになった木版印刷術の発達である.これまで巻子本の形式で,筆写によって流通していた書物は,印刷された冊子本となって大量に,したがって廉価に,容易に入手できるようになり,書物を学ぶ階層が一気に拡大した.
それとともに『切韻』音によって音読され,発音をあたえられた漢字の組み合わせが,新たに,借用語となって,中国人の言語生活に大量に侵入しはじめた.
—中略—
文字の世界で特有の論理にもとづいて開発された漢字の組み合わせ,すなわち熟字のきわめて高度の発達は,それを借用する側の話しことばの,ただでさえ未発達な語彙をさらに圧迫して,情緒の方面の語彙の発達を阻害することとなり,その結果,さらに熟字のストレートな借用を促進するという悪循環を招くこととなった.もともと抽象的な表現にむいていない漢字の性質がこれに拍車をかけて,中国人の感情の自由な表現はほとんど不可能になったのである.
こうした現象は,漢字ではなく別の表音文字を採用したり,または漢字を採用してもそれにあわせて表音文字を使用した種族,つまり,モンゴル族,朝鮮人,日本人にはみられず,そこには情緒をきめこまかく表現する大量の語彙が存在する.これに反して中国では,『紅楼夢』のような小説でさえ,感情を表現する文字はほとんどみられず,具体的な事物と行動の描写に終始しているのである. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p106-8]
868 1644 年の清朝の入関とともに.北京の内城に入居した満・蒙・漢の八旗の旗人たちは,彼らの共通語である満州語と山東方言のちゃんぽんの言語を話しつづけた.これが「官話」である.—中略—現代の「中国語」はかっての『切韻』音の系統ですらなく,まったくアルタイ系の諸民族の間に生まれ育ったものなのである. [岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書1761, 2004 年) p235]
869 Leading speakers for higher learning have ceased to defend the very thing they represent. They have forgotten that their institutions do not manufacture artifice so much as understand it. · · · Technology, that is to say artifice, will do well whether or not institutions of higher learning focus on it. Technology powered Rome, whose accomplishments in science and institutions devoted to science are imperceptible. People in Medieval Europe did not neglect innovative technology, even though there were no academic institutions promoting it. So, too, in large measure, is the story of the Industrial Revolution. In the present darkness and uncertainty, as universities turn into trade schools, we need, above all, to build on the model of the Institute for Advanced Study. [L. Peyenson, “In Puris Naturalibus,” Notices AMS 55, p796]
870 私がいた外務省で言えば,外交官は概して努力家型ですが,「努力によって自分の立場を得た,と素朴に信じている人が多い.裏返せば,こういう人達は貧困な人たちのことを「努力が足りないからだ」と考える傾向にあるということです.ただ,それは大いなる間違いですよね.確かに努力してないと何かのめぐり合わせがあったときにその運を掴めないということは言える.でも,九割方は恵まれた生育環境にあった—といった運による部分が大きい.多くの中央官庁の官僚はこうしたことにあまりにも鈍感です.[佐藤優の発言,対談,佐藤優× 雨宮処凛「戦後初めて若者が路上に放り出される時代」中央公論2008.4, p78-9]
871 まずこの理論の歴史について,少し話させて下さい.出発点は,原子が惑星系を小さくしたものであり,ここに天文学の法則を応用してよいだろうという考えでは全くないのです.私はこれらすべてのことを決して文字通りに解釈しているのではありません.それどころか私にとっての出発点は,今日までの物理学の立場からはまったく驚異としか言いようのない物質の安定性ということでした.
私が安定性ということばで言おうとしているのは,いつでも繰り返して,同じ性質を持った同じ元素が現れるということ,同じ構造の結晶が作られるとこと,同じ化学結合が生ずるということ,等々です.このことは外からの作用によってひき起こされた多くの変化ののちでも,鉄の原子はけっきょく,ふたたび正確に同じ性質をもった鉄の原子であるということを意味しています.このことは古典力学では説明のできないことですし,特に原子が惑星系と相似性をもったものとするとなおさらです.
—中略—
これらすべてのことは決して自明のことではありません.それどころか逆にニュートン物理学の根本法則である厳密な因果的な現象の決定論を仮定するならば,つまり現在の状態がすぐその直前の過去の状態によって一義的に決定されるべきであるとするかぎり,このことは理解し得ないことと思います.この矛盾は私をずっと以前から悩ませてきました.[W. ハイゼンベルク「部分と全体」(山崎和夫訳,1974, みすず書房) p64-5;1922 年ゲッチンゲンでボーアがハイゼンベルクに語ったこと “この散歩は,私のそれ以後の学問的生長にとって最も強い影響を与えたものであった.あるいは,むしろ私の学問的生長はこの散歩を機会に,ようやく始まったのだといった方がさらに適当かも知れない.” p63]
872 ユリア・メサに代わって若き皇帝の後見役になったのは,母后でもあるユリア・マメアである.だが,メサが悪人でも賢明な女であったのに対して,その娘のマメアの方は,悪人だが賢明ではない女であるところがちがった.つまり,大悪ではなく小悪なのである.[塩野七生「ローマ人の物語32 迷走する帝国[上]」(新潮文庫2008) 1. p140-1]
873 歴史は,現象としてはくり返さない.だが,この現象に際して露わになる人間心理ならばくり返す.[塩野七生「ローマ人の物語32 迷走する帝国[上]」(新潮文庫2008) 1. p186]
874
山あらしにうき行く雲の一とほり日影さながら時雨ふるなり(儀子内親王)
降りすさぶ時雨の空の浮雲に見えぬ夕日の影そうつろふ(従三位盛親)
時雨れ行雲間に弱き冬の日のかげろひあへず暮るゝ空かな(前中納言為相)
うづもるゝ草木に風の音はやみて雪しづかなる夕暮の庭(前中納言重資)
霜こほる竹の葉分に月さえて庭しづかなる冬のさ夜中(今上)
吹き通す梢の風は身にしみてさゆる霜夜の星きよき空(権大納言公蔭)
霜とくる日影の庭は木の葉ぬれて朽ちにし色ぞ又かはりぬる(後伏見院中納言典侍)
吹くとだに知られぬ風は身にしみて影さへとほる霜のうへの月(儀子内親王)
鐘の音にあくるか空と起きてみれば霜夜の月ぞ庭静かなる(後伏見院)
吹きさゆる嵐のつての二声に又は聞こえぬあかつきの鐘(為兼)
鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕ぐれ(永福門院)
降りおもる軒ばの松は音もせでよそなる谷に雪折のこゑ(従二位兼行)
うづもるゝ草木に風の音はやみて雪しづかなる夕暮の庭(藤原親行朝臣)
ふりつもる色より月のかげに成りて夕暮みえぬ庭の白雪(伏見院)
埋火にすこし春ある心して夜ふかき冬をなぐざむるかな(俊成)
惜しみこし花や紅葉のなごりさへ更におぼゆる年の暮かな(後鳥羽院) [風雅和歌集 巻第八 冬]
875 現実主義者が誤りを犯すのは,相手も現実を直視すれば自分たちと同じように考えるだろうから,それゆえ愚かな行為には出ないにちがいない,と思いこんだときなのである. [塩野七生「ローマ人の物語」32 迷走する帝国(上) p165]
876 ちなみに,ローマ皇帝には戴冠式というものがない.戴冠と言うからには,帝冠であろうが王冠であろうが,誰かが授けるからなりたつ.そして,冠を授けることで,それを頭上にした人の統治権を正当性を公認するところに,戴冠式の意味があった.ローマ帝国ではその「誰か」は,帝国の二大主権者である元老院とローマ市民権所有者であらねばならない.だが,主権者の全員が主権者の一人に統治権を委託するのでは, つまり,人間が別の人間に与えるのでは,わざわざ大げさな式まであげる必要はない.いや,あってはかえってその意義が失われる.一方,東方では委託ではなく授与だから,豪勢な式をあげることで一般庶民にもで印象づける必要が出てくるのだ.
ローマ帝国では.皇帝冠というものすら存在しなかった.通貨や彫像でよく見られる冠は,多くの樫の葉を順にリポンにぬいつけて出来た冠で,市民冠と呼ばれて共和政時代からすでにあり.戦場で同胞を救い出した兵士に与えられていたものである.大の男のうなじのところにリボンの結び目がくるつくりのこの市民冠が皇帝の象徴になったのは.市民の安全を守るのがローマ皇帝の責務の第一とされていたからだった.
—中略—
このように戴冠式とは,人間が別の人間に委託するのではなく,人間を超越した誰かが与えてこそ意味のあるのだが,死ぬことを運命づけられた人間を超越した誰かとなれば,不死とされている神になるしかない. 神が,具体的には神意を呈するということになっている神官や祭司や聖職者が授与することではじめて,権力者も統治の正当性が公認されたことになるのだ.
戴冠とは,ゆえに神と密接に結びついている.そして,この意味の戴冠式が「西方」ではなく「東方」で重要視された事実と,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教徒,一神教のすべてが「東方(オリエント)」で生まれている事実とは無縁ではない. [塩野七生「ローマ人の物語」32 迷走する帝国(上) p167-8]
877 中島: 新自由主義による経済発展は,インドを,よりはっきりとした格差社会にしてしまった.農村と都市との間にたいへんな経済格差ができて,そのことに対する反発として,2004 年の選挙でインド人民党政権は南インドの農村部で票を失って一気に負けることになるのです.
松本: —中略—新自由主義政策の後に待ち受けているのはたいへんな経済格差です.台湾の民進党は,この格差問題を衝かれて,総統選で負けたのです.日本をはじめ.この問題をどの国も解決できていない.[松本
健一,中島岳志対談「中国とインドは「近代の超克」の轍を踏むか」中央公論2008/9 p137-8]
878 I was never the likeliest candidate for this office. We didn’t start with much money or many endorsements. Our campaign was not hatched in the halls of Washington. It began in the backyards of Des Moines and the living rooms of Concord and the front porches of Charleston. It was built by working men and women who dug into what little savings they had to give $5 and $10 and $20 to the cause. It grew strength from the young people who rejected the myth of their generation’s apathy who left their homes and their families for jobs that offered little pay and less sleep. It drew strength from the not-so-young people who braved the bitter cold and scorching heat to knock on doors of perfect strangers, and from the millions of Americans who volunteered and organized and proved that more than two centuries later a government of the people, by the people, and for the people has not perished from the Earth. [Obama Victory Speech, 2008 11/4]
879 Let us remember that, if this financial crisis taught us anything, its that we cannot have a thriving Wall Street while Main Street suffers. [Obama Victory Speech, 2008 11/4]
880 America, we have come so far. We have seen so much. But there is so much more to do. So tonight, let us ask ourselves – if our children should live to see the next century; if my daughters should be so lucky to live as long as Ann Nixon Cooper, what change will they see? What progress will we have made? This is our chance to answer that call. This is our moment. This is our time, to put our people back to work and open doors of opportunity for our kids; to restore prosperity and promote the cause of peace; to reclaim the American dream and reaffirm that fundamental truth, that, out of many, we are one; that while we breathe, we hope. And where we are met with cynicism and doubts and those who tell us that we can’t, we will respond with that timeless creed that sums up the spirit of a people: Yes, we can. [Obama Victory Speech, 2008 11/4]
880
五木: 塩野さん,ぼくたちが歩いているこの石畳の道も,当時の石なの?
塩野: そうよ.
五木: ひとつひとつが見事に大きな石だ.すごいですね.
塩野: この石がすごいのはね,大きな石は表に出ている面積と同じだけの深さがこの下に埋まっていることなんです. [五木寛之,塩野七生「おとな二人の午後」(角川文庫,原書2000) p120-1]
881 塩野: ... でも,こうやってフォロ・ロマーノを眺めていると,キリスト教徒はローマ的なものをよくも徹底して破壊したものだと思う.ローマ史を勉強していると,かなりアンチ・キリスト教になりますよ. [五木寛之,塩野七生「おとな二人の午後」(角川文庫,原書2000) p149]
882 塩野: ... 日本の軍国主義だってあおったのは日本人自体であり,マスコミでもあったわけでしょう.そこを考えていかないかぎり絶対にだめだと思うのね. [五木寛之,塩野七生「おとな二人の午後」(角川文庫,原書2000) p307]
883 This is a presidency that has wobbled between those two poles—overweening arrogance and paralytic incompetence.
—中略—
In the end, though, it will not be the creative paralysis that defines Bush. It will be his intellectual laziness, at home and abroad. Bush never understood, or care about, the delicate balance between freedom and regulation that was necessary to make markets work. He never understood, or care about, the delicate balance between freedom and equity that was necessary to maintain the strong middle class required for both prosperity and democracy. He never considered the complexities of the cultures he was invading. He never understood that faith, unaccompanied by rigorous skepticism, is a recipe for myopia and foolishness. He is less than President now, and that is appropriate. He was never very much of one. [Joe Klein, “The Lamest Duck. Bush’s disappearing act during the economic crisis is a fitting coda to a failed presidency” TIME Dec 8, 2008, p27]
884
いづかたに有明の月のさそふらむ空にうかるゝたびの心を安嘉門院四條
我のみと夜ふかくこゆる深山路にさきだつ人の声ぞ聞ゆる 藤原朝定
分けきつる山又山はふもとにて嶺より峯の奥ぞはるけき 前大僧正道昭
(修行し侍りけるに先達にて侍りける権僧正良宋許へ遣はしける)
目にかけて暮れぬといそぐ山本の松の夕日の色ぞすくなき 前大納言為兼
はるばると行くも止るも老いぬれば又逢ふ事をいかがとそ思ふ 従三位頼政
帰るまでえぞ待つまじき君が行く末はるかなる我が身ならねば 従三位頼政 [風雅和歌集 巻第九 旅歌]
885 文化とはすべて祭祀文化であり,文明とはすべて祭器と祭祀の場を作る文明であった.[伊藤正敏『寺社勢力の中世—無縁・有縁.移民』(ちくま新書, 2008) p009]
886 中世とは,全体社会において国家が占める割合が,最も小さい時代であった. [伊藤正敏『寺社勢力の中世—無縁・有縁.移民』(ちくま新書, 2008) p014]
887 当時の金融業者である土倉は,盗賊に対して自力で戦い,実力による債権取立を行った.—中略—中世国家がこの私的取立てを妨げることは決してない,洋の東西を問わず,中世は自力救済の時代であるといわれる.耳慣れない「自力救済」の内容がこれである.政治権力は政府の安全の脅かす暴力を取り締まるだけで,それ以外の治安問題には「関知しない」のだ.庶民の殺傷事件など事件扱いされない.
—中略—
また,「獄前の死人,訴えなくんば検断なし」という中世の諺があった.警察所の前に死体が転がっていても,訴える人がなければ捜査さえ行われないという意味だ.訴人なき殺人事件は存在しないのと同じだ.中世自力救済社会の現実だ. [伊藤正敏『寺社勢力の中世—無縁・有縁.移民』(ちくま新書, 2008) p037]
888 中世,宮殿を超える前衛空間たる寺院境内には,ありとあらゆる老若男女僧俗貴賤が,中心聖域にまで立入ることが許されていた.東大寺大仏殿・興福寺南円堂などは,それぞれ大仏安置の地,観音霊場として,誰でも立入り可能であった.身分制が厳しかった時代に,これは驚くべきことである.—中略—庶民の立入が,自由に,そして原理的に可能だったのは,無縁所たる寺院境内だけであった.一切衆生,すべての生きとし生けるものに対して門戸を閉ざすことのない仏教思想の果たした役割は大きい.境内は立入りをとがめだてする厳粛で閉鎖的な聖地空間ではないのだ.女人禁制も建前の域を出ない.女人禁制で知られる高野山でも,戦国時代には境内の宿坊に夫婦で参詣人が宿泊している, [伊藤正敏『寺社勢力の中世—無縁・有縁・移民』(ちくま新書, 2008) p090]
889 近代警察制度確立以前,非合法または未公認の武力集団を公認して,警察力として利用するやり方は政府の常套手段であった.いや終戦直後ですら,無警察状態の東京・大阪の警察機能の多くを公的に,あるいは暗黙の委任のもとに代行したのは暴力団であった.いうまでもなく「検断得分」を伴っていた.山口組の田岡一男は,治安維持への貢献により兵庫県警水上署の一日警察署長を務めている(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房). [伊藤正敏『寺社勢力の中世—無縁・有縁.移民』(ちくま新書, 2008) p134-5]
890 ピナトゥボ山中で焼き畑農業に従事していたフィリピン先住民アエタ族の長老格,マガアブ・カバリクは,このところすっかり「ネスカフェ」のファンになってしまったそうだ.
インスタント・コーヒーの会社は喜ぶかもしれないが,当年とって八十歳になるカバリクの口から直接この話を聞いた私にはショックだった.
これは,ひょっとしたら文化人類学上の大事件ではなかろうか.
1991 年のピナトゥボ大噴火で,山の生活を捨て,下界に下りてきたアエタ族は,たぐいまれな野外生活の達人であり,独自の時間感覚や物語,豊かな自然食文化を持つ,心優しい少数民族だ.
ところがほぼ二年間の下界の生活で,彼らの食文化は明らかに混乱をきたした.
「下界の味」を覚えはじめたのである.同時に,失われゆく山の幸の本物の味を,遠くピナトゥボ山を眺めながら,心から懐かしんでいた.
痛ましいほどの味覚の葛藤がそこにあった.[辺見庸「もの食う人びと」(角川文庫, 1998; 原書1994) p30-1]
891 46 年から47 年はじめにかけて,この村(=インタバス村) とその周辺だけで38 人が残留日本兵に殺され,その多くが食べられた.東部などの残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている.しかし日本側は一度として調査団を派遣してきたこともない.
—中略—
戦争を背景にした一つの過誤として,もう忘れたほうがいい.そんな意識もどこかで働いていたためかもしれない.だが,私のすぐ目の前には,肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる. 「食った」歴史さえ知らず,あるいはひたすら忘れたがっている日本との,気の遠くなるような距離.私はただ沈黙するしかなかった. [辺見庸「もの食う人びと」(角川文庫, 1998; 原書1994) p53-4]
892 権力の座にあった時と現在とでは,食べものの味がちがうのではと.ことさら明るい声で尋ねてみた.
「いまのほうが食べものがおいしいでしょう?」
ヤルゼルスキ氏はまた照れて身じろいだ.
ややあって「そう,いまのほうが味わう時間がある.家族といっしょに夕食を食べるという良さも学んでいる」ときまじめに答えた.
「ただ· · · 私は私の罪· · · いや,弱さというものを君に打ち明けなくてはならんのだ」
太い指で茶系のネクタイをいじり,もじもじしている.なにを言いだすのか,私は構えた.
「テレビを見ながらだね,ワッフルであるとか,その,お菓子をだね,食べるようになってしまった」
声が消え入りそうだ. [辺見庸「もの食う人びと」(角川文庫, 1998; 原書1994) p122-3]
893 93 年度分のソマリアの復興・人道援助は一億六千六百万ドル,これに伴う国連の軍事活動には十五億ドル以上かかるという.食糧一ドルにつき,軍事費十ドル.どこかおかしい.
見た目にもそうなのだ.UNOSOMに参加各国軍の装甲車,ヘリの轟音が首都モガディシオを圧し,住民は空きっ腹を抱えて小さくなっている.
アイディード将軍派壊滅にメンツをかけた米国主導の軍事行動が,国連平和維持活動の名を借りて,すべてに優先している.平穏な食はここにない. [辺見庸「もの食う人びと」(角川文庫, 1998; 原書1994) p194-5]
894 僕は講義をしながら自分も少しずつ賢くなっていったような気がする。学生時代以来、とくに熱力学については以前の認識が浅薄に思えてくることがたびたびであった。教育によって一番教育されるのは教師であるというのが大学教師職を卒業した僕の感想です。[中野藤夫 2004/5/1 中野藤生先生インタビュー線形応答理論から半世紀を経て]物性研究
895 宣長は,源氏物語の読み方を変えることで,この物語の主題認識を改めることができると考えたのではなかったか.また,「古代日本人の心」に対する認識が深まれば,日本文化に対する認識も深まる.
世界認識が変われば,世界は実質的に変容する.人間観が変われば,人間も変わる.まさに,「回天」である.源氏物語がその正しい本文と正しい解釈を取り戻せば,世界(国家) も個人も,美しい姿を取り戻せる.
宣長には,それを可能にする学力があった.なぜ,その学力が身に付いたのか.おそらく,『湖月抄』という全身全霊を書けて戦うべき最強の好敵手がいたからだろう.だから,膨大な書き込みをしつつ.『湖月抄』のすべて(本文・傍注・頭注) を批判的に熟読したのだ.[島内景二「源氏物語ものがたり」(新潮新書2008) p181-2]
896 「小林さん,本居さんはね,やはり源氏ですよ」と,折口信夫は言ったという.折口の言う通り,『増注湖月抄』を繙くたびに.「読者の皆さん,私はね,やはり源氏が好きなんですよ.」という宣長の肉声が聞こえてくる. [島内景二「源氏物語ものがたり」(新潮新書2008) p192]
897 正確さという点では,サイデンステッカーの英語訳があるし,近縁はタイラーの英語訳も出現した.だが,今もなおウェイリー訳の存在価値は絶大である.なぜなら,ウェイリー訳は英語で書かれた一流の文学作品として,自立しているからである. [島内景二「源氏物語ものがたり」(新潮新書2008) p196]
898 戦争の時代であれ,平和な時代であれ,一貫して近代日本は源氏物語を冷遇したと言える.
—中略—
明治国家を推進した伊藤博文,山県有朋,大久保利通などという錚々たる政治家の中には,一人の「柳沢吉保」もいなかった.柳沢吉保がいなければ,文化国家想像のプランナーとして,源氏学者が登用されるはずもない. [島内景二「源氏物語ものがたり」(新潮新書 2008) p212]
899 フランス革命では,自由・平等・博愛のイデオロギーとともに,あるいはそれを上まわって,自然の支配と収奪による生産力増大の夢こそが知識人青年をとらえたのではないだろうか.革命後のサン・シモンの産業主義というテクノクラートの夢の登場は必然であった.そしてその夢の実現の鍵と思われたのが, ほかでもない,火力機関(蒸気機関) であった.[山本義隆『熱学思想の史的展開2」(ちくま学芸文庫2009)p187]
900 準静的で可逆な変化という概念,およびサイクルによる考察と逆行サイクルを組み合わせた帰謬法による証明というテクニックは,カルノーの定理それ自体に次ぐ—ならぶ—カルノーの重要な発明品である.事実,その後の熱力学は,今日にいたるまですべてこの道具立てを必須のものとして成り立っている. [山本義隆『熱学思想の史的展開2」(ちくま学芸文庫2009)p244]